2008年11月21日 (金)

遅効性の毒(劇場版トップをねらえ2!)

●遅効性の毒(2006年10月01日08:12の日記から)

 明け方――
 急に頭のなかで何かが化合して、涙がコボれてきた。
 なんでだかわからなかったが、どうも『トップ2!』のことらしいと、しばらくして気づく。

 そうなんだ。自分で書いてたじゃん。
 「明るい話かと思ったら、切ない話」って。
 これ、要するにノノのことがメインの話だと思ったら、メインはラルクにことだったという意味なんだ。
 劇場版は整理するときに、そこをストレートに出している。

 そしてクライマックス、巨大メカのどつきあい。OVA観たときには正直、滑ってるんじゃないかと思う部分もあった。だけど、でかいものが正しくでかく見えるスクリーンで、きっとスタッフの「マジ」がストレートに飛びこんできて、浴びてしまったんだと思う。
 拒絶することもできず、染みこんでしまった映像体験。
 それが「毒」。
 じわじわと効いてくる毒。
 1と2が「対」になることで効く毒。
 あ、いけね。このことも自分で書いてるじゃん。
 オレってバカなのか?

 次なる触媒は、「トップ2!」最終回のサブタイトル。
 ガイナックスの伝統に従って、それはSF小説からの引用で、「あなたの人生の物語 (テッド・チャン著)」。
 この「あなた」って、「ラルクはあなた」という意味なんだよね、きっと。

 そしてもっとも気になるのは、未見の方のネタバレになったらゴメンだが、「別離」のシーン。あの静謐さのせいだよね、あとでジワジワ効くのは。

 そういうのが、もろもろ頭の中でひとつになって、「永遠に戻らない人」のいくつかの記憶と結びついて、オレはそういう人たちに対して本気だったのか、真剣だったのかというような悔悟とも結びついて、それでヤラれちゃったんだと思う。

 もちろん「トップ2!」が「泣ける映画」とか言うつもりはない。表現としてはわかりにくいものだろうし、1の方がそこは圧倒的に伝わりやすくできている。
 でも、「2!」はちょっとぶっ飛んでいたりする点など、拒絶感もあるだけに、「毒」として良く効くものだったんだろうなあ。これ、しばらくやられてしまいそう。

 そんなこんなで「あなた」というキーワードとか再考すると、これってけっこうヤバイよね。だって、「お宅」って本来は「あなた」のよりpoliteな言い方でしょ。でも、その分だけ皮膜を張って他者を拒絶しつつ関係をもつという、そういう二人称を使うのが「オタク」。
 それが「あなた」になることが物語の完結になるわけだし。ラルクが、宇宙一のオタクだったかもしれない「ノリコ」に似ていると言われたりしてることも関係があるわけだし。

 そういうわけで「あなたの物語」は、「あ、オレの物語だったのか……」という認識に時間をおいて染みわたり、そのじわじわさ加減に、急に涙が出てきたわけ。

 結局、この「オレの体験」の話も、すごくわかりにくいと思う。でも、それでいいんだと思う。
 その方が、やっぱりジワジワと効くかもしれないからね。
 いま、速攻で答えを求めすぎなんだと思う。でも、それは消費速度を増すことに加担することになるからさ。全部がこうである必要はないけど、じんわりとした化合を楽しむこともまた、長い人生、たまには良いんじゃないのかなあ。
 そんな作品を贈ってくれた『トップ2!』スタッフには、すごく感謝してます。いまさらですが、この作品のことをすごく好きになってます。

 そういうわけで、この話はしばらく表には出さない。
 この話自体が、なにかひとつの「公式回答」のように思われたら、せっかくジワジワと染みてる途中の毒体験を阻害するかもしれないからね。

編注:mixiに書いた日記です。後に「ロトさんの本」に再録。

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2007年6月 4日 (月)

夏への扉

新世紀王道秘伝書
巻之弐拾壱「夏への扉」暑い陽射しの少年期


■白い光のイントロダクション

 少年は走る。
 限りなく白に近い夏の陽光。
 光線の中に溶けてしまいそうになりながら、少年は走る。
 誕生の春と収穫の秋にはさまれた夏こそは、輝きに満ちた光のシーズン。暴力的なまでに射す光線と、うだるような熱気の中で、生命を燃やし、新しい形に脱皮する季節。
 青春、思春期と、人生でもの思う季節には「春」が名付けられている。だが、春の終わりは夏のはじまりでもある。
 少年たちの夏。未分化な性が加速する衝動の季節。
 否定と肯定。論理と感情。生と死。男と女。一見、相反するものの中で、もがき苦しむ。
 子供と大人の間に位置し、激しい振幅に揺られる少年たち。
 決闘を止めようと、夏の始まりに戻ろうと、少年は走る。
 それは、夏の終わりの出来事だった。

■ビデオアニメの先駆的作品

 この作品は厳密にはビデオアニメではない。
 家庭用ビデオ向けにアニメが製作されるようになったのは83年のこと。竹宮恵子原作のアニメ『夏への扉』は、先駆け的な作品だ。
 81年8月、『悪魔と姫ぎみ』と併映にて公民館・ホールなどで公開された。既存配給網とは別に上映することを目的に製作されたオフシアター作品である。
 1時間弱の中編であること、性表現や少年愛などテレビに乗せるには困難の感じられる企画であること。全国規模の劇場公開の興業に乗せるにはマイナーに過ぎること。そこに挑戦した作品と言える。
 すなわち、この作品の成立条件は、初期のビデオアニメと同じ志に貫かれているのだ。完成した作品も、題名の通り、夏の熱気に満ちていて、観客を圧倒する。
 では、その「夏」とはどのようなものだったのだろうか?
……18世紀の中頃、フランスのギナジウム(寄宿舎)で暮らす少年たちの中に、「合理党」を名乗る4名の少年たちがいた。リーダーの名はマリオン。彼は知的かつクールな性格で他の3人より、際だっていた。
 少年たちのあこがれは、市長の娘レダニア。彼女は密かにマリオンを慕っていたが、マリオンの方は目もくれない。それが逆に女性たちのマリオン人気を加熱させるような有様だった。
 夏休みに入ったある日、マリオンはレダニアにプロポーズをして争う生徒たちの仲裁に入った。おさまらない上級生ガブリエルと機関車の前に立ち、どちらが逃げずに我慢できるかチキン・ラン式の決闘をするマリオン。
 マリオンは、ついに機関車を止めてまで決闘に勝利した。彼のどんなことにも動じない態度は、ますます評価をあげた。その列車から降り立つ一人の謎めいた婦人がいた。近くの別荘に来たというその女性……サラはやがてマリオンの運命を大きく変える。

■少年時代の揺れる心

 作品の製作は東映動画、製作協力はマッドハウスだ。演出(監督)は虫プロ出身で70年代に『ジロがゆく』など数々の劇画を発表して話題を呼んだ真崎守。出崎統監督、りんたろう監督らと並び、漫画映画的なアニメーションと対極にある大胆な画面構成、色彩配置、ダイナミックな時間感覚に彩られた演出をする監督である。
 少年期特有といえる心の振幅は、竹宮恵子による原作のエッセンスだ。真崎監督は、ガラスのように触れたら壊れそうな危うい少年らしい心のバランスを、フィルム上に定着させた。
 冒頭、オープニングのタイトルバックは、母親の手紙を破るマリオンだ。彼の両親の仲は、すでに破局していた。母親は新しい伴侶を見つけ、バカンスに出かけたりしている。その有様が潔癖たろうとする少年マリオンにはどうにも我慢ならなかったのだ。
 「合理党」を名乗り、理屈に拘泥するマリオンの葛藤の根は、ここにある。両親に求める理想像と現実のギャップが、マリオン自信の存在理由を危うくしていた。だからその均衡を合理主義に求めていたのである。
 この乖離は、必然的にマリオンの異性観をも歪め、きしみをもたらす。マリオンを慕い、ラブレターを出してカフェで一人待つレダニア。だが純粋たろうとするマリオンは、自分の本心を認めきれず、つい傷つける言葉を発してしまう。平手打ちをするレダニア、そして雨の中を駆け出すマリオン。
 彼にとって男女も愛もSEXも、規則にしか過ぎない。愛に絶望したマリオンの絶叫は、彼の心の中の混乱をよく表現している。
 必要最小限の描写と映像でマリオンの心のもつれがよく表現されている。その純粋さは大きくゆさぶりをかけられることになる。

■受け止める愛の形

 雨の中で倒れていたマリオンを助けたのは、サラだった。濡れた衣服を脱がされ、素裸で無防備な状態のマリオン。
 マリオンはうわごとでレダニアの名前を何度も呼んでいた。好きな相手にわざとつらく当たるような青さを微笑ましいと思うサラ。からかうように聞こえ、羞恥の心がさらにマリオンの心に反発を呼び、おびえ、絶叫し、サラを拒絶する。
 自分の生も死も個人の権利で自由だと主張するマリオンに、サラは微笑みで返す。
 生命は自分だけのものではない……。愛は何も奪わない。欲しいと思ったら受け取るだけ。キスひとつ、愛ひとつ。
 サラの言葉の暖かさがマリオンの心の氷を溶かす。その場面が暖炉の前、という演出が秀逸である。サラはマリオンの額にそっと手をあて、涙をキスで受け止める。
 やがてサラは着衣を一つずつ脱ぎ始める。アンダーウェア、さらに包まれていた柔らかく豊満な女性の裸身が次第に出てくるにつれ、マリオンの表情は素直な驚きに満たされていく。そして、二人はベッドの上でゆっくりとひとつになっていった。
 めくるめく初体験シーンは、風景、イラストを交え長時間にわたって美しいスキャット、詩的なモノローグとともに、さまざまな表現で展開される。
 その描写はここではあえて細かく説明しない。直接的な性描写とは違って、さまざまな映像に仮託されたひとつひとつの表現がマリオンの官能に結びつけられ、開放的な感動に結びついていく。
 アニメーション・フィルムならではの初体験、これこそが本作品の白眉なのである。

■破局への変節点

 マリオンはサラに助けられてから一週間、行方不明となっていた。
 心配して訪ねてきたジャックとリンドにの前に現れたマリオンは、人が変わったようだった。
 生まれて初めて自分以外の人間を好きになったマリオンは、父母のことも許し、自分を好きになれたとすら語る。ガキっぽくなったという仲間の批判をよそに、自信をつけたマリオンは人目もはばからず、白昼堂々サラと口づけを交わし、町中の噂になっていた。
 マリオンの心情、この高揚感もまた理解しやすいものである。
 愛を知らず心を閉ざしていた少年の心は、愛を手に入れたことで大人になった、なりきったと思いこむ。その証拠を求め、認知させようと浮かれれば浮かれるほど、周囲のことは眼中になくなり、新たな少年らしい自己中心的な行動を招くのである。
 大人への階段を上り始めたが、大人になりきったわけでもない。それに気づかぬ無邪気さは、周囲とのバランスを大きく崩していく。
 そして、ついに破局を招いてしまう。
 馬小屋で自殺しようと薬を飲んだクロード。偶然通りかかったマリオンは衝撃の告白を聞いた。クロードはマリオンを密かに愛し、少年愛に悩んでいたということを。マリオンが熟女との肉欲に走ったことが、クロードを追いつめたのだろうか。激情に自制を失った彼はマリオンにのしかかっていく。
 マリオンは反射的に暴力をふるってしまい、絶望したクロードはついに手首を切って自殺を完遂した。
 一方、リンドはマリオンに決定的な差をつけようと、サラのパトロンであるグリューニー伯爵に密告をした。だが、伯爵はサラが愛を分かちあっただけだと知っており、紳士らしい態度で穏やかに対応した。その事実を知ったジャックは、リンドを卑怯者呼ばわりし、レダニアへのプロポーズを賭けて決闘を申し込んだ。
 決闘を止めようと、懸命に夏の光の中を駆けるマリオン。それは物語の冒頭のシーンでもあり、様々な愛の終わりでもあった。『夏への扉』は、もの悲しい秋の風景で幕を閉じる。

■にがく苦しい青春の味

 愛という字は「受」の中に「心」と書く。
 愛は心を与えるものであって、押しつけるものではない。相手が心で受け止めなければ何にもならないからだ。
 愛は判ろうと受け止めるものであって、求めるものではない。他人が自分に愛を与えてしかるべきだ、と考えるからこそ関係が悪化する。
 サラはとまどい震えている少年に、そっと愛を示した。サラは何かを奪おうと誘惑したわけではなく、自分の心を差し出し、少年が受け止めるかどうかたずねただけだった。続く美しいラブシーンは、開いたマリオンの心が示す歓喜の表現だったのである。
 一方、少年クロードから求愛を受けたマリオンは、必要以上の拒絶をしてしまった。マリオンはクロードを抱きしめられなかった自分を深く後悔した。サラの前にいてすべてを拒んでいた自分と、禁じられた少年への愛に震えていたクロードに本質的な差はないのに。
 そこに気づいたマリオンは、一歩大人に近づいた。だが、それは少年から遠ざかることでもあった。結果、4人の少年は離ればなれになってしまった……。
 青春を表現するときに、「甘酸っぱい」という言葉がある。歓喜と苦渋と諦念と懊悩が入り交じった、振り返ると顔から火の出るほど恥ずかしい季節。だが、人生でこれほど大事な時期も他にない。本作品では現実の肉体を持たないアニメで肉感的、精神的なものを取り混ぜて描くことで、青春のエッセンスを昇華し、フィルムに定着できたとは言えまいか。
 フランス語のナレーションで始まり、FINの字幕で終わりを告げる入魂の青春映画『夏への扉』。新世紀に向けて、暑い夏を謳歌するフィルムが、また回る。
          (資料協力・藤津亮太)

☆ヒロイン・レダニア
 町中の少年たちからプロポーズされる市長の娘レダニア。マリオンに寄せる秘めた想いはマリオン自身の本心とは裏腹に拒絶されてしまう。作中、少年たちによってレダニアは神話の「レダ」になぞらえられる。白鳥となって訪れたゼウスと交わりを持ったレダは、やがて二個の卵を生んだという。このたとえがマリオンに性を連想させ、物語の最後まで二人の心はすれ違ったままの悲劇を招くのだ。なお、原作ではレダニアは別のエンディングを迎えている。興味ある人は確認して欲しい。

☆川尻善昭・入魂の画面構成
 本作品の画面構成(レイアウト)担当者は、後に『妖獣都市』『獣兵衛忍風帳』などを監督する川尻善昭、その人である。今でこそハードボイルド・バイオレンスな作風が定着しているが、かつては本作や『エースをねらえ!』『レディ・ジョージ』など少女マンガ原作のアニメも多数手がけていた。真崎守が絵コンテで決めた大胆かつ細心な構図を極めて緻密に重層化して実画面に展開、全編にスキのない映像空間を創出した。ここでは冒頭の決闘シーンの写真を並べてみた。深紅の花畑にモノクロームで描かれた背中合わせの二人の少年。殺し合いの緊迫感が、単純に見えて無駄のない構図で盛り上がる。止めようともどかしげに走るマリオン。やがてカウントダウンの時が来て、割って入ったマリオンは……という、時間的にも見事な流れを持ったレイアウトなのだ。

☆羽田健太郎の音楽世界
 この作品では羽田健太郎、通称ハネケンの音楽が全編に拡がりと格調を与えている。ピアニストであるハネケンは、演奏者としても『サイボーグ009(新)』や『伝説巨神イデオン』『宇宙戦艦ヤマト(シリーズ)』など多くの作品に参加している。『宝島』でアニメの作曲を開始、やがて『超時空要塞マクロス』で大ヒットとなる。80年代前半アナログ時代末期はアニメ音楽のCD化に関して真空地帯になっていて、ハネケンの名アルバムの数々も未CD化のままである。特にこの『夏への扉』は81年の日本アカデミー音楽賞を受賞しているのに、いま簡単にCDで聴けないのは痛い。『ムーの白鯨』『科学救助隊テクノボイジャー』『怪奇!フランケンシュタイン』などとまとめ、「羽田健太郎の世界」としてCD化を切に希望する。

☆イラストによる心情描写
 演出(監督)の真崎守は虫プロ時代に『佐武と市捕物控』などの作品で「もり・まさき」名義で貸本劇画の流れをくむ先鋭的な映像技法を展開した。70年代では、やはり時代を反映した劇画で活躍。この作品でも、マリオン初体験のエクスタシーをイラスト描写し、自らも筆をとって燃え立つ熱情を活写した。クロードがマリオンを襲うシーンでは、クロッキーの馬を動画で走らせ、激情を押さえられなくなる様子を代弁。セルアニメの限界を超えた映像をつくりだしていた。

DATA

原作/竹宮恵子 掲戟/「花とゆめコミックス」
プロデューサー/秋津ひろき(LDジャケットでは田宮武と表示) 製作担当/おおだ靖夫 設定/丸山正雄
脚本/辻 真先 演出/真崎 守 演出補佐/平田敏夫
画面設定/川尻善昭 作画監督/富沢和雄 美術監督/石川山子 撮影/相磯嘉雄、細田民男 編集/花井正明 音楽/羽田健太郎 製作/東映動画 製作協力/マッドハウス

■CAST
マリオン/水島 裕 ジャック/古谷 徹 レダニア/潘 恵子 クロード/三ツ矢雄二 リンド/古川登志夫 サラ・ヴィーダ/武藤礼子 グリューニー伯爵/柴田秀勝 ナレーション/井上真樹夫 ほか

編注:この回のイントロコラムには、こう書いてありました。

「レンタル店でもお目にかかれない作品の場合、どこまで書くかで、悩むこともしばしばです。家庭から映像を発注し様々な通信で配信するビデオ・オン・デマンドが実現したときこそ、本物の「アニメの古典」が誕生するのかも」

ところがサントラはなんとCD復刻され、この4月からの『地球へ…』のアニメリメイクをきっかけに、旧『地球へ…』ともどもDVD化されることになったのです。という喜びの一方で、6月2日に羽田健太郎さんが亡くなってしまいました。追悼の思いもこめつつ、再掲することにします。合掌。

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2007年5月 8日 (火)

『時をかける少女』と『パプリカ』

題名:虚実の皮膜を突破する筒井SFの快感と、そのアニメ化

 SFは未来を志向する文学として誕生した。科学技術による加工貿易で日本が急成長していった時代にも大きな役割をはたし、アニメが産業として発展するときのバックボーンにもなった。映画自体が産業革命の果てに発展した科学技術の産物なのでSFとは親和性が高いし、黎明期のTVアニメでSF作家が多数動員されている理由もそこにある。
 その一方でSF小説の活字で表現される世界と映像表現には微妙な隔たりがいつもつきまとっていた。そんな事情が大きく変わるのは近年、デジタル映像技術が急成長して表現力が強化され、小説でしか成し得なかったイマジネーションに追いついた結果である。現に日米ともSF小説の古典が続々と映画化されているではないか。
 こうした時代性をふまえたとき、筒井康隆原作のSF小説『時をかける少女』と『パプリカ』が連続して劇場アニメ化されることには、どんな意味が見いだせるのだろうか?
 まず、すでに公開済みの細田守監督の『時をかける少女』は、ジュブナイル(少年少女向け)小説が原作である。女子高生・真琴がタイムリープ(時間跳躍)することで経験する甘酸っぱい感情という小説のエッセンスを凝縮。細田監督ならではの小道具やレイアウトにこだわった日常性の強い映像がベースとなった結果、日常からジャンプするSFの驚きの感覚が高まった傑作である。
 ドラマの核は、思春期の心身とも不安定な時期に少女と男子2名の間に生じる微妙な関係である。これにタイムリープによる時間リセットという非現実性が介在することで、真琴の葛藤はSF的にも圧力を加えられ、驚きの結果を提示する。タイムリープに翻弄されず、むしろ前向きに利用してしまう現代の少女的な描写は、筒井康隆の原作にはもちろんない。だが、リセットでやり直された時間の虚構性と本来の現実の間にある皮膜をタイムリープが突き破るというアレンジの方法論は実にSF的で、より高いレベルで原作の精神を継承する作品になったと言える。
 一方、これから公開される『パプリカ』はどうだろうか? これは精緻な画面構成と作画で知られる今 敏監督の最新作として大きな注目を集め、すでにヴェネチア国際映画祭でも高い評価を受けた劇場映画である。
 『千年女優』や『妄想代理人』など今 敏監督の作歴では、筒井小説にも共通する虚実の境界が曖昧になるような、SF的な仕掛けが使われてきた。『時かけ』と比べると今作品では虚実はジャンプせずに、現実描写からシームレスに夢や虚構世界へと移行し、ディテールに凝った「ホント」と「ウソ」が混淆していく点が違う。観客としては、その虚実入り交じったシチュエーションの幻惑感とともに、ドラマの感情面を楽しむというスタイルになる。その点で『パプリカ』は決定版と呼ぶべき驚異の映像世界を提供している。
 今回は、精神医療の一貫として他人の夢の中へと入っていく女性パプリカが主人公になっているため、虚実のバランスが夢の方に傾いている。手描きを基本とした人肌の感じられる柔らかい作画技法を中心に用いて「夢を夢らしく描く」ことに心血が注がれた結果、盤石と思われるコンクリートや金属はゆらめき、人形や電化製品や鳥居までが練り歩く極彩色のパレードが出現。そのエキセントリックさは、まさに「筒井康隆的映像」のインパクトと同質である。幾重にも散りばめられた筒井作品へのオマージュとともに、映像の虚構性の極致を楽しめる作品に仕上がった。
 このように、『時をかける少女』と『パプリカ』は現実・夢の対極にありながらも、その境界にある皮膜を行き来するという点で共通性を持っている。その皮膜の突破はSFの真髄でもあるが、それはアニメならでは映像表現が可能とした部分が多々存在する。筒井SFという極上の材料に究極の調理法を施した2作品。その共通性と異同から、新たに生まれるテイストを楽しんでいただきたい。
【初出:月刊アニメージュ 2006年11月号 特集用原稿/脱稿:2006.09.22】

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2007年2月 8日 (木)

機甲界ガリアン(解説)

●TVシリーズ解説

『機甲界ガリアン』は、1984年10月5日から1985年3月29日まで、日本テレビ系で全25話にわたって放映されたTVアニメーションである。その後、1986年に全3巻のビデオシリーズが発売された。 
 物語は、古典的とも言える壮大なるイントロダクションから語られ始める。3000年の長き歴史を誇るボーダー王国。その世継ぎたるジョルディが誕生した、まさしくその夜──惨劇は起きた。
 この世界に突如として姿を現した征服王マーダル。彼の率いる機甲軍団の手によって、王国は瞬時に崩壊してしまった。王は殺害され、王妃はマーダルに囚われ幽閉されてしまった。そして、赤子のジョルディは重臣アズベズに救い出され、その孫として育てられ、鍛えられていった。マーダルに対して反攻に出る、その日のために……。
 このある意味ではアナクロとも言える語り口は、鉄の鎧がロボットとして活躍するという設定とも親和性が高く、独特の世界観をつくりあげていった。ガンダムのモビルスーツが人型をした汎用兵器的なイメージが強いのに対し、ガリアンの機甲兵は一体ずつ特徴と役割が明確になっている。それが世界に重層的な厚みをもたらし、個々の機甲兵にも強いキャラクター性を感じる源泉となっている。
 その世界の中で語られるのは、ジョルディ(通称・ジョジョ)の少年らしいまっすぐな気性と、前に向かって進んで行こうという気迫だ。もちろん、その純粋さが局面を打開することもあれば、障害が成就を妨げることもある。その起伏の中で描かれるものとは、言うまでもなくジョジョの成長である。その点では、本作こそは正統派の冒険譚、ビルドゥングスロマンの継承者と言えるだろう。
 だが、この観客の世界への一方的な思いこみは、主人公たちにとっての“宇宙人”なる存在でゆらぎ、終盤で大きく覆されていく。そして、マーダルの究極の目的とは……まさにSFの世界で連綿と語られ続けてきた、科学文明と人間の進化・退化との相関についての大考察なのである。
 マーダルの意図は、社会的・大局的見地からすれば、まさしく一面の“正義”だ。それを知った上でのジョジョが選択するもの、“高度文明連合”が取ろうとする措置、最終的にマーダルの選ぶ行為が絡み合い、幾多の人びとの思いをからめながら終結へとつながっていく。そのとき生まれる感動とは、まさに長編小説を読み終えたときのもの。これぞ25話、約10時間(映画5本分)という長さならではの、凝縮された味わいである。
 今回のDVD化を機に一気にご覧になってはいかがだろうか。この作品だけの持つ、豊饒なるロマンを一気に味わうために。

●ビデオシリーズ解説

 TVシリーズ終結後、本作のビデオシリーズ展開が開始された。初出の発売は、東芝映像ソフト。全三部構成で、最初の2本が総集編、3本目がオリジナルである。
「ACT1 大地の章」は1986年1月21日発売。TVシリーズの前半に相当する第1話から第13話、ジョルディが母のもとへと旅立つまでを再構成したものである。
「ACT2 天空の章」は同年3月21日発売。第14話以降の後半部分を再構成したもので、鉄巨人と機甲兵の戦いが惑星アーストを超えて銀河へと広がる展開を描いた。
 この2編については、過去のLD-BOXには収録されておらず、初出以後は今回が初の再録となる。特に新作に相当する部分はないが、画角を映画風のワイド画面に変化させた部分があり、 本作が映画化されていたら……という気分を味わうことができる貴重なビデオグラムである。
「ACT3 鉄の紋章」は、1986年8月5日に発売されたビデオ用のオリジナル作品である。登場人物も機甲兵も、この小一時間の作品用にTVシリーズから換骨奪胎されている。
 惑星アーストを統一しようと野望に燃えるマーダル王。彼の手によって甦った機甲兵によって、各地は征服されていった。だが、その強大な力の影には恐ろしい邪神の姿があった。そして、その邪神が目覚めるとき、伝説の鉄巨人もまた世を鎮めるため、甦るという……。
 マーダル王のキャラクターはTV版のアズベズに近く、また主人公のジョルディとチュルルはハイティーンにと、大きく設定が変更されている。養子のハイ・シャルタットが邪気にとらわれ、王の殺害のイメージどおりになっていくという展開や、騎馬軍団が各地の部族を襲っていく様子などは、まるで映画の巨匠・黒澤明がシェイクスピア劇にヒントを得て製作した『蜘蛛巣城』、あるいは『影武者』のような戦国時代劇を連想させる。そして、ただ一度だけ復活する鉄巨人は特撮時代劇の『大魔神』に通じるものがある。
 TV版のテンポ良く進む活劇風の作風に対し、ビデオ版ならではの拡がりを持った重々しく大時代的な世界観には、出渕裕の提供した機甲兵の新デザインがよく馴染んでいる。中世風の飾り文様や突き出した棘、甲冑の折り重なりなど、TV版ではアニメ作画のために省略されていたテイストを復活した上に、もう一度プロポーションごと全体を再構成。このメカ群のまとまり感は、出渕裕のファンタジー分野のテイストを確立したと言えるだろう。
 こういった情報密度は、90分以上の映画サイズに充分に耐えうるものである。実際の尺(長さ)は1時間以下とやや短いが、その凝縮感もまた味のうちになっている。
 特に後半、竜巻とともに鉄巨人(ガリアン)が姿を現し、まさしく蛇のように身体をうねらせながら攻撃をしかける邪神兵と刃を交えるクライマックスでは、この作品だけのダークなメカアクションが展開、画面から目が離せない。
【初出:『機甲界ガリアン』DVD-BOX(バンダイビジュアル)解説書 脱稿:2003.02.11】

→関連評論「メカファンタジーの可能性」

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機甲界ガリアン

題名:メカファンタジーの可能性

『機甲界ガリアン』の放映当時、サンライズ製作のロボットアニメは、青年層向けの二本柱があった。ひとつは富野由悠季監督による『疾風ザブングル』から『聖戦士ダンバイン』『重戦機エルガイム』へと続いていくシリーズ。そして、もうひとつが『太陽の牙ダグラム』から『装甲騎兵ボトムズ』を経て本作へとつながっていく高橋良輔監督のシリーズである。
 高橋監督作品の系譜においても、ロボットが強いキャラクター性を持ち、ファンタジー色の強い冒険譚というのはやや異色であった。それまでは、高橋監督作品も、富野監督の『機動戦士ガンダム』が切り開いた路線の上にあったからである。つまり、ロボットをアニメーションのキャラクターではなく、科学と工業技術の産物であり、量産可能なある種無個性な機械と位置づける観点である。
 ガリアンという作品も、実際にはそこからは大きくは逸脱していない。ロボット自体には意志はなく、操縦者を必要とするし、過去に存在した未来的テクノロジーで作られた量産兵器でもある。それにもかかわらず、そこには強いキャラクター性を感じる。これは一種の矛盾であるが、実はその矛盾を超える“トンネル効果”的なポイントにこそ、一方向に進めば閉塞してしまうだけの限界を打破する可能性が秘められているのではないだろうか。
 “ファンタジー”という欧米色の強い要素が、時代とともに日本社会へ受容されたことも、これには作用している。
 ファミコンゲームの『ドラゴンクエスト』の発売は1986年5月、ガリアン放映終了直後のこと。『指輪物語』に代表される本格的ファンタジーは、「剣と魔法」という世界観で、それをテーブルトークRPGからコンピューターRPGを経て、日本の大衆向けに一般化して受け入れられたのが『ドラクエ』である。それとガリアンやダンバイン等の出現が歩調を合わせているのが、歴史的には面白い。
 ドラクエ以前の『ダンバイン』では、魔法を「オーラ」と言い換え、生体が放つ気に近く、人によって優劣のあるものとした上に、魔法(オーラ)の受け皿となるロボットのデザインを生体方向に強く色づけ、そのリンケージを明確にしていた。このように世界を構成する要素の、何が「あり」で何が「なし」かのサジ加減をかなりうまく配分しないと、単に勝手なことが夢のように展開する方向性へ流れてしまう。
 一方で『ガリアン』の方法論は、魔法抜きである。鋼鉄メカによる剣技だけで、ほとんど勝敗・優劣の決まる世界で、これは中世の騎士物語や日本の時代劇が持っていた世界観やドラマと親和性の高いものである。それは、ビデオ版ガリアンの『鉄の紋章』が証明済みである。
 現状、ロボットアニメというとガンダム的な兵器的世界観のものか、スーパーロボットという呼び名のヒーロー要素の強いものが主体である。それぞれが、おそらくはロボットの兵器的リアリティとキャラクター性が両立せず、苦労していることだろう。
 だが、こういった“メカファンタジー作品”とでも呼べる分野には、兵器とキャラクターの矛盾を飛び越えることのできる“可能性の鉱脈”が眠っているのではないか。その矛盾を超えられるのは、まさに無生物に生命を吹き込む矛盾を内包したアニメだけなのである。
【初出:『機甲界ガリアン』DVD-BOX(バンダイビジュアル)解説書 脱稿:2003.02.11】

→関連評論「機甲界ガリアン(解説)」

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2007年1月23日 (火)

トップをねらえ2! & トップをねらえ! 合体劇場版

題名:『トップをねらえ2!』遅効性の毒

 明け方――
 急に頭のなかで何かが化合して、涙がコボれてきた。なんでだかわからなかったが、どうも『トップ2!』のことらしいと、しばらくして気づく。
 そうなんだ。自分で書いてたじゃん。「明るい話かと思ったら、切ない話」って。
 これ、要するにノノのことがメインの話だと思ったら、メインはラルクだったという意味なんだ。劇場版は整理するときに、そこをストレートに出している。
 そしてクライマックス、巨大メカのどつきあい。OVA観たときには正直、滑ってるんじゃないかと思う部分もあった。だけど、でかいものが正しくでかく見えるスクリーンで、きっとスタッフの「マジ」がストレートに飛びこんできて、浴びてしまったんだと思う。
 拒絶することもできず、染みこんでしまった映像体験。それが「毒」。じわじわと効いてくる毒。1と2が「対」になることで効く毒。あ、いけね。このことも自分で書いてるじゃん。オレってバカなのか?

 次なる触媒は、「トップ2!」最終回のサブタイトル。ガイナックスの伝統に従って、それはSF小説からの引用で、「あなたの人生の物語 (テッド・チャン著)」。この「あなた」って、「ラルクはあなた」という意味なんだよね、きっと。
 そしてもっとも気になるのは、未見の方のネタバレになったらゴメンだが、「別離」のシーン。あの静謐さのせいだよね、あとでジワジワ効くのは。
 そういうのが、もろもろ頭の中でひとつになって、「永遠に戻らない人」のいくつかの記憶と結びついて、オレはそういう人たちに対して本気だったのか、真剣だったのかというような悔悟とも結びついて、それでヤラれちゃったんだと思う。
 もちろん「トップ2!」が「泣ける映画」とか言うつもりはない。表現としてはわかりにくいものだろうし、1の方がそこは圧倒的に伝わりやすくできている。でも、「2!」はちょっとぶっ飛んでいたりする点など、拒絶感もあるだけに、「毒」として良く効くものだったんだろうなあ。これ、しばらくやられてしまいそう。

 そんなこんなで「あなた」というキーワードとか再考すると、これってけっこうヤバイよね。だって、「お宅」って本来は「あなた」のよりpoliteな言い方でしょ。でも、その分だけ皮膜を張って他者を拒絶しつつ関係をもつという、そういう二人称を使うのが「オタク」。 それが「あなた」になることが物語の完結になるわけだし。ラルクが、宇宙一のオタクだったかもしれない「ノリコ」に似ていると言われたりしてることも関係があるわけだし。
 そういうわけで「あなたの物語」は、「あ、オレの物語だったのか……」という認識に時間をおいて染みわたり、そのじわじわさ加減に、急に涙が出てきたわけ。
 結局、この「オレの体験」の話も、すごくわかりにくいと思う。でも、それでいいんだと思う。その方が、ジワジワと効くかもしれないからね。いまは、速攻で答えを求めすぎの時代だと思う。でも、それは消費速度を増すことに加担することになるからさ。全部がこうである必要はないけど、じんわりと化合を楽しむこともまた、長い人生、たまには良いんじゃないのかなあ。
 そんな作品を贈ってくれた『トップ2!』スタッフには、すごく感謝してます。いまさらですが、この作品のことをすごく好きになってます。そういうわけで、この話はしばらく表には出さない。この話自体が、なにかひとつの「公式回答」のように思われたら、せっかくジワジワと染みてる途中の毒体験を阻害するかもしれないからね。
【初出:mixi日記を個人誌「ロトさんの本Vol.18」用にリライトしたもの。2006年12月31日発行】

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2007年1月 4日 (木)

バブルガムクライシス8

新世紀王道秘伝書
巻之拾九「バブルガムクライシス8」小さな波紋の大切さ

■新世紀への新展開
 本連載もおかげさまで第4部。
 この原稿が読まれているということは、無事に「1999年7の月」は乗り切ったということになる。そこで、題名も一新し、あらたな世紀に向けて、これからの「王道」探求の旅を続けてみたい。
 第4部は従来と毛色を変え、ビデオアニメを中心に取り上げる。
 オリジナルビデオアニメはアニメ作品そのものが商品だ。それゆえ、時代の転換となったような作品、作家性の強い作品というものが歴史的にも語られやすい。
 この第4部ではどちらかというと見た目派手な作品ではなく、マイナー系と言っては失礼にあたるかもしれないが、有名でなくてもどこか心に残るような作品、「ちょっとイイ話」と筆者が思ったような作品を取り上げてみたい。
 そこから、次の世紀の新しい「王道」が探れるかもしれない期待をこめて……。
 第4部第1回目は『バブルガムクライシス8』を取り上げる。

■『バブルガムクライシス』とは?
『バブルガムクライシス』は1987年からスタートした連続シリーズのビデオアニメである。アートミックの企画によりアニメ制作はAICが担当。製作はユーメックスで、ビデオ・CDメーカーが本格参入して権利も持った初期の作品である。
 全8巻で完結した後、メーカーとアニメ制作を変えて続編的な『バブルガムクラッシュ』全3本がリリース。ごく最近、設定とキャラクターを一新してテレビアニメとしてリメイクされたなかば古典的な作品でもある。
 最初のビデオシリーズ後半では、積極的に大張正己、うるし原智志ら注目株の若手を起用し、その才能を伸ばしていったシリーズでもある。
 舞台は近未来、2030年代のTOKYO。ある計画によって作り出された亜人間ブーマは軍事戦闘用に改造され、破壊活動や犯罪を頻発させていた。ブーマ対策として設置されたADポリスの活動も万全ではなく、人々はブーマに恐怖を覚えて暮らしていた。
 そんな中でブーマ退治の活動を行う一団がいた。闇の仕置き人、その名はナイトセイバーズ。シリア・プリス・リンナ・ネネの4人の女性たちはハードスーツで身を包み、人々の依頼を受けて、ブーマと闘ってこれを撃滅していた。彼女たちは昼間は別の職業を持ち、その正体は人々には秘密にされている……。
 今回の『バブルガムクライシス8 SCOOP CHASE』(1991年作品)では、それまで作画監督を担当していた合田浩章が監督を担当。繊細な描写の積み重ねで後の『ああっ女神さまっ』につながる新境地を切り拓いていった。

■スクープをねらう少女
 8作目にあたるこの作品は、それまであまりスポットの当たらなかったネネの活躍が中心に描かれている。ネネはADポリスの婦警でありながら、そのハッキング能力を買われて夜はナイトセイバーズの一員として活動していた。
 ナイトセイバーズの正体をスクープしたい。そう願ってカメラを持ち追い回す少女リサは、ADポリス署長の姪だった。ADポリス見学と称してやってきたリサ。署長はそのお目付役に、こともあろうにネネを指名した。行動力と自己主張にみなぎるリサに、ネネもたじろぐ。
 ブーマを生産するゲノム系列会社のミリアム所長は、自己の技術を過信して改造ブーマを作り、実力アピールのため次々と街へ放ち、破壊活動をさせていた。ネネは改造ブーマといつものように戦闘する。だが、その戦いの中でブーマはネネのハードスーツ頭部を破壊。バイザーが割れた瞬間、リサはシャッターを押していた……。
 主人公がその正体を隠して戦う、というのはヒーロー(ヒロイン)ものの王道。そして、その正体が何らかの理由でバレそうになってハラハラドキドキのサスペンスあり、というのも定番の物語構造である。『SCOOP CHASE』も、その基本に忠実な骨子だ。
 このエピソードはそれにしては妙に心に残るものを持っている。それはなぜだろうか。

■細やかな日常描写とプロ意識
 この回では、スクープを狙ってADポリスに潜り込んだリサが、追っかけているナイトセイバーズその人たるネネと行動をともにする。これもクラーク・ケントすなわちスーパーマンの側にいるロイス・レーンのように古典的な展開である。しかし、いまどき「あ、正体がバレてしまう!」というだけでドキドキする観客も少ないだろう。
 ところが、この展開こそが今回のキーポイントになっているのである。
 リサがスクープを狙ってネネを密着して追いかけることで、ネネの行動が細やかに注目される。結果として、それまであまり描かれていなかったネネの日常の掘り下げがなされ、それがキャラクターの深みと厚みを増し、リサの心情にも影響を与えていくのだ。
 ナイトセイバーズの中では身長も低め、コンピュータやネットワーク技術に強く、古典的キャラクター・シフトで言えば天才的「メガネくん」のような扱いだったネネ。婦警としての彼女は仕事熱心で、プロ意識も明解に持っている。それでいて、体重を気にもすれば、悪ふざけで脅かされると泣きもする等身大の女性として描かれている。そこがこの作品の魅力的なところだ。
 オープニングでは、毎朝の風景、白い朝の光の中でネネが寝過ごして母親にモーニングコール(映像つき)を受け、スクーターで出勤するところがサイレントで描かれている。リサとともに高速をパトロール中、スピード違反を発見したら仲間のプリスだったというシーンでは、ネネは見逃さず毅然として切符を切って取り締まる。これらは軽いギャグとして設けられているシチュエーションでもあるが、その中でネネは多彩な表情の変化を見せ、飽きさせない。
 仕事を溜めてネネが残業をするシーンではどうか。夜がふけていき、リサに手伝わせることもなく、強烈な速度でひとつひとつのジョブを処理していくネネ。同僚のナオ子が先に帰るね、と手を振ると、机に向かったままそれに応える。リサを待たせた埋め合わせにと、展望レストランで食事をリサにふるまうネネ……。
 どうということのないシーン? ごく普通のよくあるシーン?
 確かにそうだ。しかし、SFアニメで職業を持った女性がこのように、自己の責任意識と他人への気配りのバランスをもち、プロとしての仕事をこなすというノーマルなシーンが、きちんと描かれた作品はどれぐらいあるのだろうか? しかもこのネネの描写はドラマにからみつき、意味を放つようになっていくのである。

■クライマックスのブーマ急襲
 リサがナイトセイバーズの正体に肉迫してたころ、ついにミリアムは自信作のブーマを使い、ADポリスへ直接攻撃を仕かけてきた。
 メインコンピュータと融合したブーマは署内ビルの全機能を支配下においた。ネネは侵入してきた攻撃用ブーマと戦い、間一髪のところをマッキーのパワードスーツに助けられた。ハードスーツを身にまとったネネのもうひとつの戦いが始まった。サブコントロール室でハードスーツのコネクタを接続、ネットワークに侵入し、コンピュータ室のブーマとアクセス権の争奪を行う。
 それと同時に、閉じこめられたリサに指示を与え、無事なエリアとルートを選んで音声で誘導しようとするネネ。ついにサブコントロール室にたどりついたリサは、そこにハードスーツ姿のネネと対面してしまう……。
 この後、ハッキングしたブーマの自爆のカウントダウンが始まり、一人危険なビルに残り、それを阻止成功するネネが描かれる。そして後日談として、リサの犯人逮捕のスクープ掲載と、正体を収録した映像情報すべてを渡してネネと別れるところで、エンディングとなる。
 ここの部分はオチのためのオチのようなものを感じさせず、さわやかな印象となっている。リサがネネのことをはっきりとナイトセイバーズと認識して、それをどう思っているかは具体的なセリフで描かれていない。なのに、なぜさわやかな印象があるのだろうか。

■交わる心の機微のドラマ
 それは、リサの表情の変化で何を考えているか、映像から容易に想像がつくからである。映像で描かれた言うに言われぬ心情の交錯、機微こそがこのドラマの醍醐味なのだ。
 冒頭から中盤、ネネがナイトセイバーズではないかと疑っていたとき、リサはいたずら猫のような表情をして、その証拠となるようなものを狙っていた。ふざけているようでもあり、軽い緊張感があった。
 はっきり正体を知ったときはどうか。驚きの表情はある。しかし、それは「やった!」という収穫のものではない。リサを死なせまいと極限状態の中で必死で誘導し、ブーマのハッキングと戦っていたネネ。ひとりのプロフェッショナルとして、他人を思いやり生命を護り仕事を完遂させようとする真摯な人間として取ってきたネネの行動と心情は、その声からわかっていた。それとナイトセイバーズの姿が重なって見えたとき、彼女の闘い、そのすべてがリサには一瞬にしてわかったのだ。
 正体を暴くことがスクープになるわけでは決してない。それではただの覗き見趣味である。本当のスクープとは、プロのジャーナリズムとは何か。そこまでリサが考え決意をしたかどうかまで、このドラマの中ではわからない。でも、それでいいのだ。
 リサという少女が等身大のひとりのプロと出会い、その信念と行動に触れ、明るい表情で第一歩を踏み出せたということが見えれば、それで充分なのである。
 決して派手な見せ場はない。でも、ふとしたことで交わったささいな感情。その交流こそが、このビデオでは確かなカタルシスとして存在している。
 ビデオアニメという入れものは「テレビアニメ以上、劇場アニメ未満」とよく言われる。実はそんな中途半端なポジションではなく、「ささやかだけど大事な気持ちの交歓」を描くのに適したものだったのか、とこのビデオを見ると考える。
 『バブルガム8』でリサの起こした小さな波紋は、とても大きなものに結びついているのだ。
(編注:オープニング表記では『MEGA TOKYO 2032 THE STORY OF KNIGHT SABERS BUBBLE GUM CRISIS 8 SCOOP CHASE LISA』となっていますが、本稿ではLDBOXの表記に従いました)

<コラム>

■ネネよ銃を取れ!
 本シリーズは全体に外国のアクション映画からの影響が強い。この回も、ADポリスに侵入したブーマを迎撃するネネの描写がやけに細かくて嬉しい。緊急事態用と思われる武器庫を鍵で開け、大口径の銃を装備。弾倉をベルトにいくつもねじこむネネ。天井をぶち破って急襲されたとき、ネネはとっさのことで片手で一発目を撃ってしまう。反動で跳ね上がる銃。ネネはすぐさま両手持ちに変えて姿勢を落とすのだ。この体勢の変化は一瞬なので見逃せない。連射するが、やがて弾丸が……というのも、装弾描写がリアルだからこそ高まる緊迫感なのだ。

■ハードスーツを装着せよ!
 ハードスーツの装着シーンは男性ターゲット作品らしく、ちゃんと「必然があれば脱ぎます」(死語)の着替えシーンとして用意されている。この回では、婦警の制服というかワイシャツ・ネクタイからネネが着替えるシーンは、この回のドラマ展開ともあいまって、妙に印象的である。特にネクタイをゆるめてからシュッとはずす動作や、運んできたパワードスーツにマッキー(男性)が乗っているのでメインカメラにワイシャツをかけて見られないようにするところとか、アンダーウェアをたくし上げるとことか、異様に凝っている。色気を感じるべきは、何も直接的な描写だけではないのだ。

■体重計にご用心
 リサがネネを追っているさなか、アジトの中では新ハードスーツの開発がなされていた。そのテストの一環の描写に、さすが女性同士というかで体重の話題が出てくるのが、ほのぼのしていて笑える。プリスが(たぶん違反切符への恨みもこめて)ネネのおなかの脂肪をつまみ上げるシーンは大爆笑だ。この後、ネネは自室でシャワー(お約束)を浴びてから冷蔵庫にしまっておいたケーキを出し、苦悶することになる。その葛藤がどうなったかは、ビデオでぜひ確認して欲しい。

■エレベーターの死刑台
 ブーマに占拠されたADポリス。階段を破壊されてしまったため、ネネはリサをエレベーター・ホールへと誘導する。だがそれを察知したブーマは、電源配線を改変してリサを圧死させるべくエレベーターを始動させる……。エレベーターや通風口を使ったアクションは洋画では定番だが、それをハッキングと結びつけたサスペンスが短いながら気がきいていて良かった。このシーンでのリサの表情の崩れっぷりもまた、アニメならではのお楽しみである。

■STAFF
制作/藤田純二 企画・原作/鈴木敏充 ストーリー原案/合田浩章・松原秀典 脚本/吉田英俊 ストーリーボード/合田浩章 キャラクターデザイン/園田健一 プロダクションデザイン/山根公利・荒牧伸志・夢野れい・園田健一 作画監督/松原秀典・岸田隆宏 美術監督/平城徳治 撮影監督/小西一席 音響監督/松浦典良 音楽/馬飼野康二 原画/梶島正樹・石倉敏一・松原秀典・竹内敦志・岩田幸大(スタジオゑびす)・鶴巻和哉・本田 雄・今掛勇・橋本敬史・合田浩章・伊藤浩二・大張正己・石田敦子・中山兵洋・小沢尚子・野口木ノ実・渡辺すみお・大河原晴男・岡崎武士・吉田英俊・恩田尚之・菅沼栄治・岸田隆宏 制作プロデユーサー/八重垣孝典 音楽プロデューサー/藤田純二 宣伝プロデューサー/岡村英二 プロデューサー/小泉 聡・田崎 廣
監督/合田浩章 制作協力/DARTS 制作/ARTMIC/AIC 製作/ユーメックス

■CAS
シリア/榊原良子 プリス/大森絹子 リンナ/富沢美智恵 ネネ/平松晶子 レオン /古川登志夫 デーリー/掘内賢雄 ADP部長/佐藤正治 ファーゴ/山寺宏一 マッキー/佐々木望 リサ/久川 綾 ミリアム/二又一成
【初出:月刊アニメージュ(徳間書店) 1999年9月号】

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2006年12月30日 (土)

テレビ東京とアニメの関係

題名不詳

※1997年当時、「デラべっぴん」というアダルト向け雑誌用の原稿です。おそらく読んだことがある方はいないでしょう。「デラべっぴん……にしては詳しすぎる」というところを笑ってもらおうと半分ギャグ、半分マジ予想で書きました。2007年現在の実情とは異なる記述も含まれています。第一、いま「東京ローカル」「12チャン」と言ったら怒られると思いますが(略称は「テレ東」)、まずは昔話であるということで、ご容赦を。
そんなに綿密な調査をしたわけでもないですが、だいたいそれから10年の予測としては途中まで当たってて、「地上波デジタル」に向けて傾向が加速中というところを楽しんでいただければと。歴史的側面にしても、驚くべき超短納期で記憶中心に書いた趣旨の原稿……にしてはけっこう正確なので再読して笑いましたが、そういうとこもギャグです。事実関係にも間違いがある可能性が大ですし、引用や典拠にするには地雷があると覚悟してください。まあ、あまり語られて来なかっただろう歴史の流れがあるんだというご参考に。

<リード>
今やアニメと言ったらテレビ東京。だが、そこに
いたるには長い歴史の積み重ねがあった。20年あ
まりの時間を圧縮して解説しよう!

■東京ローカル局物語

 むかしむかし。20年ちょっとくらい昔。
 テレビ東京は「東京12チャンネル」という名前だった。だから「12チャン」というのは愛称みたいなものだ。
 アニメや特撮のメジャー作品は、主に10以下のチャンネル番号の民放で制作されていた。12チャンはどうだったかというと、海外のアニメのふきかえか、他局の古い作品「ハクション大魔王」なんかにに「新」マークをつけてリピート放映していた。
 「自分のとこで作ってないのに新番組かあ」。子供はそういうところを見逃さない。なんだか他と違って、お金のない、マイナーな雰囲気のところなんだなあ、と思っていた。クラスにもちょっとはみ出していたり、いじめられている子供がいた。12チャンという名前にも、どことなくそういう子供に共通した哀愁が漂っている。
 やがて「東京ローカル」と呼ばれていることを知って、インパクトを受けた。文化の発信地は全部東京だと思っていたからだ。「東京と言っても、いっぱいある都市のひとつで、ローカル局があるんだ」世の中が少しだけ変わって見えるようになった。

■12チャンならではの番組

 12チャン初期のアニメに「ドンチャック物語」という作品がある。75年の放映で、動物が主人公のアニメだ。78年には特撮ヒーロー「UFO大戦争 戦え!レッドタイガー」が放映されている。
 この2つの作品の共通点は何か?
 東京の水道橋には、後楽園という大きな遊園地がある。どちらも、この遊園地が生み出したキャラクターなのだ。「レッドタイガー」は今も生のヒーローがバトルをするアトラクションショーを常設化したことで人気の野外劇場から生まれたヒーロー。ドンチャックは今でも後楽園では現役のミッキーマウス的キャラクターである。
 子供にとって「テレビでやっている」かどうかは、大変な価値の差がある。テレビでやっていないといわゆる「パチモン」の扱いを受けたりする。後楽園の方から、そういった事情をバックにスポンサーから持ち込まれた企画なのではないだろうか。
 70年代後半の12チャンネル作品には、どうもそんな受け皿的作品が多い気がする。
 例えば79年「ピンクレディー物語 栄光の天使たち」というのは、当時人気絶好調だったピンクレディーの二人の伝記だが、当人たちが多忙のためアニメになったという作品だ。声は声優が担当しており、主題歌も作詞・作曲はピンクレディーのヒットを生んだコンビなのに歌は別人だったりしてパチモン臭さを漂わせていた。
 関係者の誰かがから思いついたように出た企画が平気で通り、あとの仕上がりはおかまいなし、という感じの作品が多いのは、12チャンの特徴で、80年に放映された「まんが水戸黄門」などは他局の水戸黄門を30分のアニメにしてしまう珍企画だった。

■保たれた命脈

 12チャンであれば企画から実現までのポテンシャルが低いということは、悪いことばかりではなかった。
 70年代の後半は、「仮面ライダー」「ウルトラシリーズ」が相次いで終了、あまりパッとしてなかった。そんな中12チャン独自ヒーローが誕生していった。
 中でも77年の「快傑ズバット」は傑作だ。予算が少ないため、ズバットの戦う相手は着ぐるみの怪人ではなく、ただの「ヤクザ」だ。スタッフはひとつ間違えれば陳腐になる設定を逆手に取った。「渡り鳥シリーズ」のような気障な主人公に「仮面ライダーV3」の宮内洋を配し、得意技比べなどの工夫を凝らして盛り上げた。数年前にLD化されたときには、かなりのセールスを記録したはずだ。
 78年「スパイダーマン」も重要な作品だ。それまで変形・合体する巨大ロボットはアニメにしか登場せす、変身ヒーローとは別ジャンルになっていたが、初めてこの作品でジョイントが行われた。これが翌年の「バトルフィーバーJ」では戦隊ヒーローと巨大ロボットという夢の共演に結びついて、20年もシリーズが継続。アメリカ版「パワーレンジャー」として大ヒットを飛ばすまでにいたる。 その原点が、12チャンネルにあるということは、忘れられてしまっているかもしれない。
 だが、12チャンネルだからこそ、「え? アメコミのスパイダーマンが、巨大ロボットに乗る? そんなの受けないよ、わはは」と言って企画を突っ返されるようなことが起きなかったのだろう。それがゆえに、他局とはいえ後の特撮ヒーローの命脈が保たれたばかりか、国際的な発展に結びついたかと思うと、少し感慨深いものがある。
 これもまた、アバウトで敷居の低い分だけ自由度が高く、結果として可能性をつぶすようなことのない、12チャンならではの社風のもたらしたものとは言えないだろうか。

■打ち切り事件の波紋

 80年代早々になると、12チャンネルのアニメも本数がかなり増大する。
 「機動戦士ガンダム」の次の富野監督作品「伝説巨神イデオン」も、テレビ版は80年に12チャンネルで放映された。時代はアニメブーム、富野監督は追い風に乗る形で、後に「リアルロボットもの」と呼ばれる路線を展開していた。人々は生な感情をむき出しにして罵り合い、殺しあい、その中でも愛を育み、場合によっては同衾さえも暗示された。
 こんなアダルトな作風に、まだウブだったアニメファンたちは呆然と画面を見ていたものだった。
 ところが、ラスト前5本目で唐突に「その瞬間であった、イデが発動したのは」というナレーションとともに番組が終わってしまった。いわゆる「打ち切り」である。
 このころ、すでにアニメファンはこういう状況を許さないくらいの数にはなっており、打ち切り分はすぐさま劇場映画として公開されることが決まったのである。これがアニメファンの団結力を高めた。「イデオン祭り」と称したキャンペーンが組まれ、いまはオタク評論家として有名な岡田斗司夫や、「パトレイバー」の原作者のゆうきまさみたちもハッピを着て踊っていたのである。
 今なら「続きはビデオを買ってください」であろうが、打ち切りさえもイベントにするパワーがアニメファンにあった。それをもたらしたのも12チャンだった。

■80年代、90年代の12チャンネル

 80年代中盤、テレビ局がこぞって大方針を変えるという大事件があった。
 それまで夕方の6時の枠は子供番組だった。新番組でなくても、再放送をよく行っていた。
 時代が流れ、子供がこの時間に必ずしもテレビを見なくなった。学習塾に通ったり、ファミコンを見たり。ビデオデッキの普及が拡大し、テレビ局の方も考えを改めなければならなくなった。つまりテレビの第一義の機能はリアルタイムな「報道」にある、としたのである。そこで夕方6時台はのきなみニュースで埋め尽くされてしまった。
 ところが、ここでも12チャンは迎合しなかった。予算がなかったのかもしれないが、ずっとアニメを放映し続けたのである。その中にも意外なヒットが生まれた。例えば「ベルサイユのばら」などは、12チャンの再放送で再評価され、中高生を中心に爆発的なヒットになったのである。「元祖天才バカボン」のリピートも12チャンの全番組でナンバーワンといわれるほどの視聴率を取り、赤塚不二夫の再ブームに結びついた。
 やがて90年代も半ばには、月曜日から金曜日まで全部新作アニメで埋まるようにすらなっていった。いつの間にかアニメと言ったら12チャンというほどにまでなっていた。その中の一本が95年の「新世紀エヴァンゲリオン」である。
 継続は力なり。敷居を低くして連綿とアニメを流し続けたことで、ついに経済効果を云々される作品まで12チャンから生まれたのである。もうはみ出した感じは12チャンにはない。

<コラム1>
 テレビ局はもともと新聞社の資本が入っている。その流れを見てテレビ局の特色を見ると面白い。
 日本テレビは読売新聞だ。読売ジャイアンツの放映権は日テレ優先。野球やスポーツに積極的だ。TBSは毎日新聞。三大紙の中ではいまいちマイナーだがドラマに強い。フジテレビは、産経新聞である。いち早くカラー化を打ち出した新聞社傘下らしく、バラエティが得意。かつては、アニメもフジテレビが中心だった。テレビ朝日は朝日新聞。朝日は一種の権威を持つゆえ、報道色が強い。
 ではテレビ東京は、どの新聞の系列だろうか?「社会人になったら日経を」とまで言われた「日経新聞」が正解である。
 日経が他の新聞社とは別の地位を占めているように、テレビ東京は「我が道を行く」が社風なのかも。なにせ、やんごとなき方が亡くなっても、アニメを流し続けたのはテレビ東京ぐらいだから。

<コラム2>

<リード>
テレビ局は時間を切り売りする商売。
アニメは深夜枠の開拓者だ!

 深夜枠は、もともとは絶対視聴者数が少ないため、商売にならないと思われてきた。やけにダイヤモンドのCMが多いのも、水商売の女性ぐらいしか見ていないという意味らしい。
 だが、それをアニメが切り開いた。「スーパーヅガン」「行け!稲中卓球部」といった有名な青年コミックを早くにぶつけたのはフジだったが、どうも印象が泥臭かった。「エルフを狩るモノたち」というアニメ絵のどことなくエッチな作品を放映したのは例によって12チャンだった。ご丁寧に「エルフ」のビデオ版は、女性の胸もとなどが写るように再撮影して商品価値を高めるという。
 12チャンの枠開拓が容赦ないと判ったのは「CLAMP学園探偵団」という作品が放映されたときだ。これは何と土曜日早朝7時台。徹夜で遊んだサラリーマンにはまだまだ深夜という意味だろうか。
 刺激されて他局の深夜アニメも出現しつつある。日テレの「剣風伝奇ベルセルク」、テレ朝の「深海伝説マーメイド」などがこの秋から放映中だ。

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<キャッチ>
97年は、果たしてアニメブームなのか?

<大見出し>
テレ東アニメの進路は?

<リード>
■テレ東アニメ「エヴァンゲリオン」に揺れた97年。
テレビアニメの本数も激増。その両者に潜む「狙い」に迫ってみよう!

■12チャンアニメ増加の理由

 97年12月現在、テレビで放映されているシリーズものアニメは43本、そのうちテレビ東京の放映は13本。実に三分の一である。
 現在の傾向は大きく二方向に分化している。ひとつは「爆走兄弟レッツ&ゴー」「ポケットモンスター」のように、子供たちの人気の中心となっているアニメ。もうひとつは、「少女革命ウテナ」「大運動会」のように、マルチメディア展開と密接に結びついたヤング・アダルト向けアニメ。これは深夜枠を活用して急増しつつある。
 「新世紀エヴァンゲリオン」の放映された95年より少し前から、アニメの状況に関しては変化が見られるようになってきた。
 アニメの制作にはお金がかかる。もともとテレビ局から支払われる制作費ではまかないきれない。従来は作品のキャラクターを使用した商品の売り上げで補填するという方法が取られていた。それが進み、主役のロボットの玩具を売るためのCMとして企画され、その分、作品のストーリー等にはオリジナルでも良しとする流れが発生した。「機動戦士ガンダム」を筆頭とするロボットアニメや「美少女戦士セーラームーン」もその系統だ。
 だが、エヴァは違った。
 初号機のプラモや綾波のフィギュアは何種類も出てよく売れているが、それは結果のことであって第一義の目的ではない。エヴァの目的は、「作品そのもの」の二次使用でペイすることを前提にしていたのだ。したがって、仕掛けたのは玩具メーカーではなく、各種メディアでのソフト配布のキーとなるレコード会社。また、権利関係もクリエイターを擁する制作会社で原作権を獲得したことにより、従来と違う資金の流れができたと想像がつく。
 エヴァが異例のヒットになって業界のポテンシャルが上がった。
 エヴァの経済効果は各誌で熱く報道されたように数百億にのぼる。「ウチもエヴァのように当てたい」と考えている会社は多いだろう。
 現在のアニメ、特にアニメオリジナル作品は、レコード会社、出版社、アニメショップ、テレビ局などなど多岐に渡る会社が資本を出し合い、トータルで商売にしようという流れが主流だ。よく「**制作委員会」といったクレジットを見かけるが、それがそういった各社の総称である場合が多い。「みんなで幸せになろうよ」というコラボレーションの時代を反映したものとも言える。
 企画が持ち込まれたときに、比較的に障壁の少ない局として、12チャンは認識されているのではないだろうか。自ら積極的にアニメを増やし流すほどの主体性を持ってアニメに接しているとは思えず、基本的に持ち込みを受けてるというスタンスに見うけられる。、そうならば増やそうとしているのは持ち込む側で、それはアニメ会社であったり、アニメ作家であったりする。それは吉なのか凶なのか?
 アニメには良いやつも悪いやつもいない。
 「受ける儲けるやつ」と、「受けない損するやつ」の二種類しかいない。
 「質は量によって支えられる」という言葉があるとおり、クオリティ確保、新しいタイプの作品のブレイクスルーは量産によってしか生まれないだろう。
 12チャンアニメは、量によってその底辺を支える役割を果たしているのだ。

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<キャッチ>
12チャンには、未来のアニメ像
が凝縮されている!

<タイトル>
どうなるこれからのアニメ?

■多チャンネル・マルチメディア時代へ

 12チャンアニメが急増している理由。それを追っていくと、これからのアニメの時代がどうなっていくのか判るかもしれない。
 ビデオアニメも、しばらく前から企画としては陰りが見えていた。単品の知名度は低く、どれもこれもギャルが大量に出るだけで似たりよったりでは、一定の数のファンには売れても頭打ちになる。
 だがうまくアレンジしてテレビと連動できるなら話は変わってくる。最初に実現したのはLDCの「天地無用!」だ。ビデオアニメのヒットを手がかりにテレビでも同じキャラクターを使い、設定・ストーリーは新規に展開。その次の「神秘の世界 エル・ハザード」は最初からビデオとテレビの両面で展開することを前提にしていた。
 いずれもテレビ放映はテレビ東京が受け持った。
 いま、空前の多チャンネル時代とも言われている。衛星放送・ケーブルテレビなどメディアは激増の方向だ。廉価版ビデオやDVDの台頭が、追い討ちをかける。だが、流す映像ソフトウェアの量にも質にも限界はある。だから今のうちにソフトを作り溜めしておいた方が、先行投資になる。当然の考え方だ。
 それには、ビデオアニメの6本シリーズよりは、テレビで半年分の26本のパッケージとして持っておいた方が有利である。ビデオとテレビ、両方あれば、なお良い。長く売り上げになる作品はどこだって欲しい。
 出版社も積極的にこういう動きに参入する。テレビ東京でのアニメ化に顕著なのが、たとえば角川書店・富士見書房(角川の子会社)の原作ものだ。雑誌や若年層向け文庫での小説・コミックのヒットとアニメ化を巧みに連動させている。
 声優ブームも、拍車をかける。アニメーションのフィルムとしての出来以前に、どの声優が出演しているかで視聴率や売り上げが決まるとまで言われる時代である。作品は多い方が受け皿も多いし、「声優オリジナルドラマCD」のような番外編パッケージでまた売り上げに貢献するからだ。
 ゲーム業界も黙ってはいない。マルチシナリオ、新キャラクターを配しての展開など、定番のものが増加している。
 これらの中心にあるのは、やはり毎週定期的に無料で視聴できるテレビアニメだ。それが「無料だからこんなもんだろう」という旧態依然のクオリティでは誰も見向きもしない。
 そんな理由で、「今までのテレビアニメよりはちょっとクオリティは良いけれど、ビデオアニメと比べてしまうとちょっと落ちる」という作品が増えているのだろう。それは、ビデオアニメが普及してきたころ、「劇場アニメよりはちょっと落ちる」というような作品が多かったのに似ている。
 時間帯も「夜討ち朝駆け」になっている。それだけひとびとの生活様式が多様になり、価値観も多元化しているということなのだ。アニメの放映される時間は今後はますます隙間を縫うようになっていくし、価値を選ぶためのチャンネルが増えるに従って有料チャンネルふくめて拡散していくだろう。
 この動きは青年層だけにとどまらない。コロコロコミックなどの年齢層でも類似の現象は起きている。ミニ四駆ブームから来た「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」やピカチュウ人気の「ポケットモンスター」などだ。
 多チャンネル・多メディア時代にアニメは様々な分野の要請を受け、再び中心的役割を果たそうとしているのだろうか。

■12チャンアニメの今後は

 このように作品の増加傾向はとどまるところを知らない。さらに来年以降は、富野由悠季や高橋良輔などかつてアニメブームの中心となった巨匠や、かつての若手が中堅に育って指揮をする作品が激増するという。その背景には、13本(12本)・26本という単位でのアニメ制作が、放映局未定でアニメ会社とレコード会社、出版社主導で進められているケースも少なくない。
 地上波は時間枠をいくら縫ったところで限界に近づいている。有料のWOWOWなどが生き残りをかけて人気アニメパッケージを獲得し、ユーザ数拡大の牽引役にする計画もあるらしい。熾烈なアニメ増加と顧客獲得戦が、これから幕を開けようとしているのだ。 この秋から冬に向けての12チャンアニメ増大は、単にその前触れだったのかもしれない。デジタル技術により、セル画工程を省略した作品も目立たない形で投入が始まっており、増加への抵抗を低くするだろう。
 アニメ作品は増える。
 だが、それは本当に「アニメブーム」の到来を意味するのだろうか。
 確かにこれまでは魅力ある作品数に限りがあり、ファンが作品を選んでいるというよりは、作品に選ばれているというような兆候すらあった。その選択肢が広がることは基本的には良いことだ。
 しかし、それぞれ個別の嗜好を持ち、個別のメディアの事情から個々のユーザ層へ特別にアレンジしたような作品が増えるなら、単に既存のパイの食い散らかしになり、求心力を失うのは目に見えている。
 いま必要なのは、新しいパイを焼き上げることと、それを食べたいと思っている新しいお客を呼び込むことだ。それには作り手・受け手ともどもそれぞれの立場で、何が受けて何が受けないのか考えつつ、せっかくめぐってきたチャンスを活用することではないだろうか。
 いまはエヴァに続く「次の時代」を模索する時期。本当の「アニメブーム」になるのは、これからではないか。次世代の作品。それはこの量産の流れを追うことで予見可能かもしれない。
 独特のスタンスで、新タイプのアニメを常に提供してきた12チャンの果たす役割は今後とも大きいだろう。

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《テレビ東京アニメ・特撮代表作年表》

■ダメおやじ(74)
 テレビ東京アニメの第1作目。古谷三敏の代表作のアニメ化。原作の最後の方のホノボノしたところに行く前に終わった。
■忍者キャプター(76)
 テレビ東京特撮の第1作目。7人の現代忍者が悪の忍者と戦う。もう一つの戦隊シリーズのような作品。
■グロイザーX(76)
 テレビ東京最初のロボットアニメ。ゴキブリのようなグロイザーXがファイトアップしてグロイザーロボに変形。ガイラー星人と戦う。
■快傑ズバット(77)
 エヴァの庵野監督もハマっていた人気特撮変身ヒーロー。「チッチッチッ、日本じゃ二番目だな」主役の宮内洋の決めゼリフに痺れる。カッコ良さ、ここに極まれり。LDもヒットした。
■スパイダーマン(78)
 米国マーベルコミックから版権を取得。巨大ロボ・マーベラーの乗ってマシーンベムと戦う。
■ずっこけナイト ドンデラマンチャ(80)
 ほとんどの回は凡庸だが6話「ドンはカウボーイ」が異常にハイテンション。アニメーター金田伊功がコンテ・作画のすべてを担当。暴走アニメの原点となった異色作だ。
■宇宙戦士バルディオス(80)
 ロボットアニメだが、地球が洪水に見舞われ、大津波が画面いっぱいになって「完」となる。壮絶な打ち切り最終回が話題になった。
■銀河旋風ブライガー(81)
 前口上とともに始まる金田伊功作画のオープニングが人気。ルパン調のキャラが評判で、同人誌が大ブレイクした。
■まんが水戸黄門(81)
 他局の人気番組をアニメ化するところが12チャンらしい。助さんのアイテム「力だすき」と地平線からせりあがる葵の御紋は衝撃的。
■ドン・ドラキュラ(82)
 広告代理店倒産により、第4話で終了という史上最短で終わった事実が作品内容より有名。これでも手塚治虫原作のアニメだ。
■魔法のプリンセス ミンキーモモ(82)
 今日に続く新世代の魔法少女アニメの元祖。ミンキーステッキで夢をかなえる職業婦人に変身。三匹のお供を連れた桃太郎が原案。打ち切り後にまた延長となったりもした。
■装甲騎兵ボトムズ(83年)
 題名が主役メカの名前ですらない、ハードボイルド調ロボットアニメ。無骨なメカ、スコープドッグを駆るキリコのクールさが人気。
■マシンロボ クロノスの大逆襲(86年)
 ロボットアニメ冬の時代に好き勝手な作品世界で暴れていた異色作。ヒロイン・レイナが大人気。
■ミスター味っ子(88年)
 「うまいぞーー!」味皇さまの口からまばゆい光が飛び出す。味への感動をあらゆるアニメ的表現を駆使し常識を超えまくった作品だ。
■絶対無敵ライジンオー(91年)
 校舎が変形して秘密基地に。子供の究極の夢をかなえ、生き生きとした18人の子供キャラの性格描写が輝く。高年齢層にも人気の高かったロボットアニメで、ビデオ続編も3本制作された。
■赤ずきんチャチャ(94年)
 音楽に満ちあふれた世界も楽しげな少女アニメ。SMAPを起用しミュージカルにもなった。
■天地無用!(95年)
 ビデオ先行し、テレビ化された初期の作品。年中お祭り騒ぎ、主人公の周囲ヒロイン回転寿司状態の「うる星やつら」的アニメ。
■新世紀エヴァンゲリオン(95年)
 包帯少女綾波レイがブレイク・・と思うまもなく作品そのものが大ヒット。テレビ東京の底力を思い知らされた。
■天空の城エスカフローネ(96年)
 ほとんどビデオアニメの作画の細やかさ、画面に融合したCGの使い方が話題のファンタジー作品。でも作品の本質は「少女らしさ」。
■機動戦艦ナデシコ(96年)
 アニメのパロディも、オタク世代のトラウマも、対人関係のスレ違いも、「すべていまある自分たちらしさ」であるという認識から始めた。メタアニメ論的なSFアニメ。
■エルフを狩るモノたち(96年)
 女性のエルフを脱がして脱がして脱がしまくるという深夜枠ニーズに忠実に応えたアニメ。
■少女革命ウテナ(97年)
 シュール描写とギャグの交錯する果てに突き抜けるものは何か? 今年一番の問題作。
【初出:デラべっぴん(英知出版)1997年12月発売】

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「スター・ウォーズ」と日本の特撮・アニメ

題名不詳:

 スターウォーズが日本の特撮やアニメーション映像にどのような影響を与えたか、それを探るのが本稿の目的である。

◇遅れた本邦公開◇

 米国でスターウォーズ(以下SWと略)がブレイクしてSFXブームが起きた1977年は、日本でも「宇宙戦艦ヤマト」によるアニメブーム元年だった。
「ヤマト」は「鉄腕アトム」などテレビアニメで育った世代がハイティーンになるタイミングでブームになった。アニメになじみ、マンガじみた表現以上のものを潜在的に求めていた観客層を新たに開拓したわけだ。SWも、第二次世界大戦のイメージを踏襲しつつ宇宙空間を舞台にした戦争もので、高度な映像技術を駆使したエフェクト映像で娯楽に徹底して仕上げた作品という点で共通性がある。不思議なシンクロであった。
 しかしSWの日本公開は、1年遅れ78年まで延期されてしまった。当時雑誌媒体では著名人が渡米して見てきたコメントを載せ、事前情報を山のようにフカして回った。結果、SFファンたちの脳裏には膨らみまくったイメージによる華麗なるSW映像ができあがってしまった。ライトセイバーの光る玩具を始めとするグッズ先行販売も拍車をかけ、本物の映画が公開されると各自の中にできあがった「オレSW」よりはどこかしら劣る映像とのギャップに激しく悩んだ人も多かった。

◇日本特撮作品へのインパクト

 SW公開によって宇宙SFブームが起きるに違いない。国産作品への影響は、そんな期待をになってまず特撮作品に現れた。
 トップバッターは、東宝映画の78年お正月映画「惑星大戦争」だ。この題名は、SWの日本公開タイトルに予定されていたものだ。東宝特撮のお家芸は、空間をジグザグに切り裂くイナヅマ光線なのだが、「赤い針をバラまいた」と評されたレーザービームの表現がSWの影響ではないか。全体の作風という点では、「海底軍艦+宇宙戦艦ヤマト」といった要素の方が色濃い映画だった。
 78年春、テレビでは円谷プロ制作「スターウルフ」が始まった。エドモンド・ハミルトンの原作を円谷プロが特撮にするというのも、SWブームのもたらしたものだった。バッカス3世号が画面上方からフレームインする映像や、ウルフアタッカーなど宇宙船のデザインに影響が見られる。本作では、模型を黒子が手持ちで操作し、宇宙空間に合成するという疑似モーション・コントロールで撮影された。
 東映はSW公開直前、「仁義なき戦い」で有名な深作欣二監督による「宇宙からのメッセージ」を製作した。原作は石ノ森章太郎、特撮監督は矢島信男で、「ヒーローの出ない東映特撮ヒーローもの」総決算という内容だった。この作品では、画面いっぱいに迫る宇宙船や、宇宙要塞の溝をすり抜けてのドッグファイトなど、SWを厳密に参考にした画面が登場した。だがそれらは、ネガティブな意味で話題になってしまった。
 「メッセージ」では対象物を接写できるシュノーケル・カメラで撮影が行われた。これが、上下左右を閉ざされた空間を疾駆するドッグファイトというSWもやっていなかった映像も可能にしていた。この要素はSWの3作目に逆フィードバックをかけているのではないか。SWのモーション・コントロール・カメラ技術は、複雑な動きを可能とする反面、どうしても無機質に感じられる。
特別編では、さらにCG画像に差し替えられていることから、SWの方向性が「完全な動きのコントロール」にあることが判る。だが「スターウルフ」や「メッセージ」は、手持ちカメラに近い浮遊感があり、模型じみたチープな感じは否定できないものの、今見ると妙に迫力と味のある映像である。このようにSWに対して別の魅力もあったのだが、無視されてしまったのは残念だった。

◇SW公開前後のアニメ作品◇

 アニメでのSW影響第1作目、それはテレビから始まった。
 SWのSF界における最大の功績は何だろうか?それは「ライトセイバー」というアイテムの創出だろう。SW以前のSFでは光線銃というアイテムはあっても、「光線剣」は無かった。時代劇にこだわるルーカスが、SFの世界にチャンバラを持ち込みたいと考えたからこそのアイテムだ。
 日本のアニメでも、「光線剣」の導入から影響が始まった。第1号は、78年の富野監督作品「無敵鋼人ダイターン3」。オープニングに光る剣を持つ女性コマンダーが登場している。とにかく「ダイターン3」は、SW影響の最先端を行っていた。悪の首領ドン・ザウサーがコロスという美女に出す指令は、第2話で初登場したときは「あーー、あっ、うーー」という唸り声だった。それが途中の回から急に「しゅーーー、ぱほーー、がーー」という呼吸音になってしまった。SWの日本公開直後の出来事で、当時のアニメファンは「と、トミノさん、見ましたね……」とささやきあったものである。
 「ダイターン」の映像で特筆すべきは、エフェクト・アニメーター金田伊功入魂の作画が冴える「遥かなる黄金の星」という回だ。主人公・波嵐万丈が母から受け取った金塊を乗せ、火星からひとり脱出するまでの回想を描いたエピソードで、衛星フォボスで追撃する宇宙戦闘機を崖の中をくぐり抜け降りきるドッグファイトが、SWを見た直後の金田伊功によって鋭く描写されていた。
当時の筆者は金田の所属していたスタジオZを訪問したとき、作画机の金田が「SWテクニカルマニュアル」と、星野宣之のコミック「巨人たちの伝説」を見ながら鉛筆を動かしていたのを目撃している。完成画面で宇宙船はSWのように光源のきつい宇宙空間ならではの白黒を強調したモノトーンで描かれていた。そのディテールはテレビにしては異様に細かく、担当動画マンは「金田さんに悪いものを見せた、線がメチャメチャ増えてる~」と泣いていた。
 「ダイターン」以前に話題になったのは、「宇宙戦艦ヤマト」の続編「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」だった。1作目のヒットを受けて78年夏公開と決定するや、すぐさまSWとのバッティングが取り沙太された。西崎プロデューサーは、メインスタッフを連れてハワイに遠征した。目的は、日本ではまだ見られなかったSWとスピルバーグ監督「未知との遭遇」の2大SFX映画を研究するためだった。ビデオのない時代を感じさせる。「スターウォーズはただの娯楽映画で(愛をテーマにした)ヤマトにとってはおそるるに足らず」云々。こんな趣旨の談話も雑誌に掲載された。当時いち早く偵察に行った国内映像関係者は、どういうわけかこのようなコメントをあげている。
 「さらば宇宙戦艦ヤマト」が公開されると、きらめく光に包まれた新造戦艦アンドロメダや、ビルを乗せた半球形の都市帝国は「未知との遭遇」、ヤマト艦載機が大軍となって球形の要塞に侵攻し、ワンポイントをくぐって動力炉破壊という展開になっているのは、SWの影響が強く感じ取られた。このドッグファイトもダイターン担当直後の金田伊功の手によるもので、以後、金田は日本におけるアニメのエフェクト専門家として大きく注目を浴びていくようになる。

◇ガンダムへの影響度◇

 SWからインスパイアされ以後の流れを変えた作品として「機動戦士ガンダム」に触れないわけにはいかない。もともとガンダムが普通のヒーローものよりSF的な要素を強化できたのも、SWのヒットあってのことでもあるし。
 ガンダムのビームサーベル。ついに日本の巨大ロボットが、光線剣を使うときがきた。ただ光線剣を使っただけではない。剣をかっこ良く描くには、収容されている「静」の状態、これをいつどう抜いて「動」に転じさせるか、それが重要だ。これこそ日本のオリジナルな発想ではないか。凡庸な作品だと、「刀」は「腰」に装備させるだろう。ガンダムは違った。背中から抜く。おお、佐々木小次郎!場合によっては2本抜く。おお、宮本武蔵!これがカッコ良さを何倍増しにもした。
 ガンダムでは、剣を持つロボットのヒーロー性にも工夫がなされていた。敵側のザクには「ヒートホーク」という「熱で切る」武器を持たせているが、ガンダムのビームサーベルはより進歩した特別なアイテムとして描かれ抜いているのだ。「比較で凄さを描写する」というのも演出の知恵である。ルークの相手は人間だが、ガンダムの敵はロボット。ためらいなくビームサーベルの熱で装甲は貫通し、切断面を溶融し、まっぷたつにするという表現も可能になった。
これもまたヒーローとしてのカタルシスである。
 SWの影響で知られていないものとしては、番組のタイトルロゴがある。筆者がガンダム当時、関係者から聞いた話をもとに説明する。富野監督は作品の細部にまでイメージをこだわる作家で、ガンダムのGが目立つロゴタイプも富野原案らしい。年長向け作品としてサントラが出るならばジャケットはSWみたいに黒地に白抜きでGロゴを使った大人向きのものにしよう、そのために考えたデザインだというのだ。ところが最初のサントラのジャケットはセル画の子供っぽいものになってしまった。富野監督はクレームをあげ、レコード会社もこれではいけないと反省、セカンドアルバム「戦場で」は安彦良和イラストのジャケットにした。これが大ヒットとなり、「ジャケットは単なる包装ではない、作品の一部なんだ」と関係者に認識させ、以後の流れを変えてしまったのである。間接的とはいえ、SWのインパクトであろう。

◇影響度ざまざま◇

 SWの冒頭、画面上方を覆い隠すようにしながらフレームインしてくるスターデストロイヤーの構図は、ひときわインパクトが強いものだった。宇宙船の描き方を一変させたと言って良いだろう。あまりに日本で類似の映像が多く流れたため、宮崎駿もどこかの雑誌に苦言を呈していたはずだ。SW直後、宮崎の担当作品(画面構成)「赤毛のアン」オープニングでは、冒頭に馬車が上空からフレームインしてくるカットがある。これに宮崎が皮肉として「馬の腹が延々と流れる」という演出を提案した、という噂があった。「アン」の高畑監督による「じゃりン子チエ(劇場版)」の冒頭にも、「巨大なゲタ」が上空からズゴゴゴとフレームインするショットがある。どうせフレームインするならこれだよ、という皮肉の発想が高畑・宮崎コンビらしい。
 SWの影響で蔓延した舞台設定には「様々なエイリアンのたむろする酒場」がある。実例は枚挙にいとまがないが、「銀河鉄道999(劇場版)」の美女リューズが弾き語りをする大人のムードでまとめたものや、「レンズマン」のようにディスコでフィーバー(死語)にまとめたものなど、日本流アレンジもさまざまだった。
 SW2作目「帝国の逆襲」は80年の公開。「伝説巨神イデオン」放映のころである。SW2最大の話題は「ダースベイダーはルークの父」というドンデン返しだった。あまりに日本的ウェットな展開に、当時のファンは驚きを隠せなかった。
 ここで妙な符合がある。ダースベイダーは「ドクロ」をモチーフにしたデザインである。もともとSWが企画されたときには、過去のSF映画が多数参考にされ、その中には日本の特撮キャラクターものも含まれていた。「ダースベイダー」のモデルにも諸説あるが、「変身忍者嵐」に登場した血車魔神斎ではないか、というのが有力だ。石ノ森章太郎によるコミック版では「魔神斎は嵐の父だった」という設定があるというところまで押さえて語るのが、この噂話を口伝するときのポイントである。
 81年の「最強ロボ ダイオージャ」は、もともと水戸黄門を原典とする出発点からしてハイブリッド感覚あふれる作品だったが、その最終回にはSWキャラにインスパイアされたとおぼしき3大敵メカが登場する(図参照)。だが、このダースベイダーに似たデースバンダー、顔をよく見ると魔神斎に酷似しているのだ。確か片手も鉤爪になってたはずだ。デザイン担当は出渕裕である。
なかなかシャレが効いたゲストキャラだった。
 「帝国の逆襲」以降は、日本のレベルもかなり向上し、SWを凌駕するような映像も多く見られるようになっていく。「地球へ…」や「ヤマトは永遠に」では金田伊功が高速で宇宙要塞の溝を飛行する宇宙戦闘機を描いた。このころは「とにかく溝があったら、まず入ってみる」という映像にあふれていた。
 メカや戦闘機の飛行速度や軌跡、物体の壊れるときの破片にまでこだわった板野一郎が「伝説巨神イデオン」や「超時空要塞マクロス」で見せたアニメートは、モーション・コントロール映像をスピード感と快感度で超えていた。
「宇宙刑事ギャバン」に始まる宇宙刑事シリーズの「レーザーブレード」も、渡辺宙明の軽快な音楽に乗せて異空間で光線剣が乱舞するというもので、フィニッシュの切れ味は世界のヒーロー像に新しい1ページを加えたといっても過言ではない。いつしか日本のアニメや特撮は、SWの影響を昇華し始めた。

◇スターウオーズの6年◇

 SWの一作目の米国公開された77年、日本では富野アニメ「無敵超人ザンボット3」が放映されていた。三作目「ジェダイの復讐」が公開された83年、どんなアニメがあったか、ご記憶だろうか?
 なんと富野アニメは「聖戦士ダンバイン」だ。俗悪と言われ、玩具主導のロボットが必殺技を連呼するヒーローもの。それに異論を唱える作品が出たら、SW三部作が完結する間にファンタシー世界で人間の情念を描く作品まで行ってしまった。劇画タッチでザンボットを暴れさせていた金田伊功は、「幻魔大戦」で邪念といった抽象的なものをアニメートするにいたっていた。
 この差を振り返って、眩惑感にとらわれないだろうか?
 SWも1作目よりも2作目、3作目と進むにつれてキャラクターの内面を深化させる作風へと変化し、SFX技術は格段に進歩している。だが、あえて言えば改造再生デススターをもう一度破壊させる以上のアイデアは出ていない。
 日本のアニメーションは、星の数ほどの作品が生まれては消えていく中で、技術も進歩し、表現の多様性を獲得していった。その原動力になったのは、前半で述べた「まだ見ぬSW」に対する熱いイメージと、思い入れと、貪欲な研究心だったのではないだろうか。SWの6年を振り返るとき、同時に壮絶な勢いで進化し駆け抜けていった日本の映像クリエイターたちの作品群にも思いをはせていきたいものである。

【初出:「NEWTYPE MK2」(角川書店) 1997年6月発売】

※『スター・ウォーズ』とナカグロ入りが公開用の正しい表記ですが、慣用的にはナカグロなしも許容されているようです。エピソード1公開時に書いたもので、まさか『ガンダムF91』のビーム・シールドが逆流しているとは夢にも思ってませんでした。なお、題名やキャッチ、キャプションの原稿テキストが紛失しているので、いずれキリヌキから復刻して補完します。

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2006年12月26日 (火)

ガンダムエース 2007年2月号

寄稿題名:ガンダムの時代 第52回
機動戦士ガンダムTV版再入門「TV版の中落ちに感じる美味しさ(2)」

 当方の連載は先月の続きです。ガンダムDVD-BOXも店頭に並び、こちらの作業も完了してますので、あとは下巻の上がりも待ちどおしい昨今です。今年はファーストガンダムに捧げた1年だった気がします。

 表紙は安彦ゾック! ということではたして喜んでいいものでしょうか。いや、いいのです。本編中の扱いも、なかなかのものです。「危うく赤くなるところだったのか?」などと思ってみたり。
 福井晴敏さんの新連載小説「機動戦士ガンダムユニコーン」もスタート。そちらにも安彦挿絵が入ってます。あと驚いたのは安田朗さんの「妹ガンダム」のイラスト。今月は、ちょっと濃度が高いです。正月休みにはいいのかも。

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