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2007年1月23日 (火)

トップをねらえ2! & トップをねらえ! 合体劇場版

題名:『トップをねらえ2!』遅効性の毒

 明け方――
 急に頭のなかで何かが化合して、涙がコボれてきた。なんでだかわからなかったが、どうも『トップ2!』のことらしいと、しばらくして気づく。
 そうなんだ。自分で書いてたじゃん。「明るい話かと思ったら、切ない話」って。
 これ、要するにノノのことがメインの話だと思ったら、メインはラルクだったという意味なんだ。劇場版は整理するときに、そこをストレートに出している。
 そしてクライマックス、巨大メカのどつきあい。OVA観たときには正直、滑ってるんじゃないかと思う部分もあった。だけど、でかいものが正しくでかく見えるスクリーンで、きっとスタッフの「マジ」がストレートに飛びこんできて、浴びてしまったんだと思う。
 拒絶することもできず、染みこんでしまった映像体験。それが「毒」。じわじわと効いてくる毒。1と2が「対」になることで効く毒。あ、いけね。このことも自分で書いてるじゃん。オレってバカなのか?

 次なる触媒は、「トップ2!」最終回のサブタイトル。ガイナックスの伝統に従って、それはSF小説からの引用で、「あなたの人生の物語 (テッド・チャン著)」。この「あなた」って、「ラルクはあなた」という意味なんだよね、きっと。
 そしてもっとも気になるのは、未見の方のネタバレになったらゴメンだが、「別離」のシーン。あの静謐さのせいだよね、あとでジワジワ効くのは。
 そういうのが、もろもろ頭の中でひとつになって、「永遠に戻らない人」のいくつかの記憶と結びついて、オレはそういう人たちに対して本気だったのか、真剣だったのかというような悔悟とも結びついて、それでヤラれちゃったんだと思う。
 もちろん「トップ2!」が「泣ける映画」とか言うつもりはない。表現としてはわかりにくいものだろうし、1の方がそこは圧倒的に伝わりやすくできている。でも、「2!」はちょっとぶっ飛んでいたりする点など、拒絶感もあるだけに、「毒」として良く効くものだったんだろうなあ。これ、しばらくやられてしまいそう。

 そんなこんなで「あなた」というキーワードとか再考すると、これってけっこうヤバイよね。だって、「お宅」って本来は「あなた」のよりpoliteな言い方でしょ。でも、その分だけ皮膜を張って他者を拒絶しつつ関係をもつという、そういう二人称を使うのが「オタク」。 それが「あなた」になることが物語の完結になるわけだし。ラルクが、宇宙一のオタクだったかもしれない「ノリコ」に似ていると言われたりしてることも関係があるわけだし。
 そういうわけで「あなたの物語」は、「あ、オレの物語だったのか……」という認識に時間をおいて染みわたり、そのじわじわさ加減に、急に涙が出てきたわけ。
 結局、この「オレの体験」の話も、すごくわかりにくいと思う。でも、それでいいんだと思う。その方が、ジワジワと効くかもしれないからね。いまは、速攻で答えを求めすぎの時代だと思う。でも、それは消費速度を増すことに加担することになるからさ。全部がこうである必要はないけど、じんわりと化合を楽しむこともまた、長い人生、たまには良いんじゃないのかなあ。
 そんな作品を贈ってくれた『トップ2!』スタッフには、すごく感謝してます。いまさらですが、この作品のことをすごく好きになってます。そういうわけで、この話はしばらく表には出さない。この話自体が、なにかひとつの「公式回答」のように思われたら、せっかくジワジワと染みてる途中の毒体験を阻害するかもしれないからね。
【初出:mixi日記を個人誌「ロトさんの本Vol.18」用にリライトしたもの。2006年12月31日発行】

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2007年1月14日 (日)

さよならジュピター

題名:ジュピターが集めた、熱いSF的視線

<リード>
この映画の誕生過程には、当時の世にあった“SFへの情熱”の影が焼きついている。
国産初の本格的SF映画誕生への期待──それは周囲状況と、どう関連していたのだろうか?

<本文>

●小松左京とSF映画

 本作で一番重要なのは、実は作品そのものではなく、「なぜあのとき『さよならジュピター』というSF映画が必要とされたか? どうしてあれだけ話題になったのか?」という部分ではないか。それを周囲状況を中心に確認したい。
 そもそも小松左京がSF作家として出発するきっかけにも、SF映画が大きく関係していた。1961年、早川書房の第1回S-Fマガジンコンテストにおいて選外努力賞として『地には平和を』が入選、これがデビューの契機となった。このコンテストには東宝も出資し、選者に『ゴジラ』のプロデューサーとしても知られる田中友幸が名を連ねている。換言すれば、小松左京デビュー作はSF映画のための原案提供として書かれていたことになる。
 1961年の東宝は、円谷英二特技監督が大作映画を発表していた全盛期だ。翌1962年の『妖星ゴラス』は、奇しくも『さよならジュピター』に通じる大作映画であった。地球に大質量の星が接近し、衝突の危機を地球の南極にロケット推進器をつけて軌道変更させて回避する──この大胆かつ破天荒なアイデアのイメージの映画が、小松デビュー時期と重なるのが面白い。
 60年代の東宝における小松左京の映画の仕事には、『日本アパッチ族』がある。岡本喜八監督、クレージーキャッツ主演とまで決まったが製作中止となり、現在の小説版は脚本をもとにしたものだ。70年代、小松左京は『日本沈没』で空前のベストセラー作家となった。この作品は、田中友幸プロデューサーのもと、1973年に東宝で映画化されてやはり大ヒットとなり、TV版も作られた。次いで小松原作の超能力アクション『エスパイ』が映画化され、田中・小松間の関係が続く。
 このように、小松左京とSF映画には、濃密な関係があったわけである。

●ジュピター発進

 1977年8月、その田中・小松の関係は、『さよならジュピター』を機に復活する。発端は、東宝映画社長(当時)の田中友幸が米国でヒット中の『スターウォーズ』への対抗作の相談を小松左京のところに持ち込んだこととされている。
 日本で『スターウォーズ』が公開されるのは、米国に1年遅れて1978年。しかし、1977年8月と言えば、『宇宙戦艦ヤマト』の劇場映画が大ヒットしていたタイミングである。ハイティーン中心に宇宙SF映画が受け入れられる素地ができていたわけで、田中友幸の来訪もヤマトのヒットを受けてのものと推察できる。。
 映画や出版業界では大SFブーム到来が期待されていた。その中で、新しいものに意欲的で行動力もあり、SF映画とも縁の深い小松左京に白羽の矢が立ったのは、歴史的必然であっただろう。
 小松サイドには前年アニメ用に準備した原案があり、すでに『さよならジュピター』という題名と木星太陽化計画という骨子もできていた。だが、そこで原作を渡してお任せにしようと思えばできたのに、小松は安易にGOを出さなかった。1977年9月から1年間、16回にわたってSF作家を集めてブレイン・ストーミングを行い、そこからアイデアをまとめていく方式がとられたのである。
 参加者は、1980年に小説版が週刊サンケイ誌上で連載開始されたとき共作者として名をつらねた豊田有恒・田中光二・山田正紀ら3人を筆頭に、高斎正・野田昌宏・伊藤典夫・鏡明・横田順弥(弥は旧書体)・井口健二・高千穂遙ら。スタジオぬえの高千穂遙は同社のデザイナー宮武一貴を初期からビジュアル化に投入。大きくイメージ固めをしていった。
 小松には、1970年にまとめたSFシンポジウムで、SF界のワーキング・グループ制でイベントを達成した実績と成功経験があり、もっと大きなものに育つという目算があった。

●小松左京の意気込みと周囲の期待感

 1978年のブレスト終了当時、新聞記事(報知新聞)では、「アイデア、フィロソフィー、どれ一つとっても外国に負けないSF映画を作ってみようじゃないか」と、小松左京自身がそのモチベーションの根幹を熱っぽく語っている。
 そこで対比されている米国の『2001年宇宙の旅』(1967年)は、SF映画の金字塔と呼ぶべき作品だ。空気も重力もない単一光源の宇宙空間を完璧な精度で模擬した映像と、人が宇宙へ出ていく意味性という思弁を、高い次元で調和させた点に、強いSF性がある。年月が経つにつれ重みの増すようなタイプの映画である。それに比肩しうるSF映画が、日本SF界の叡智を結集してつくられるというニュースそれ自体に、かけがえのない価値があった。
 それは、SFが拡散して、かつてはSF入門として必読だったはずの『アルジャーノンに花束を』がトレンディードラマとして放送されたりする現在は──そんな21世紀が来るとはSF界の誰が予想しただろうか──わかりにくいことかもしれない。だが、後に「オタク」と呼ばれるハイティーン層にとって、「SF」とは通過儀礼であり、価値観の頂点を成すものであった。
 たとえば1977年以前は、アニメ作品や特撮作品を語ったり、サークルを募集する場として、まずSF雑誌が利用された。成人を数年後に控えて、「いつになったら卒業するの」と言われ続けてきた当時のファンたちは、まず「SFとして大人の鑑賞にたえる」という枕詞を必要とした。このころ書かれた文章には、『ウルトラマン』も『宇宙戦艦ヤマト』も、「SFとして評価しよう」という気負いが充満しているはずだ。
 加えて70年代後半はSF界の成熟期でもあった。文庫で内外の名作が容易に入手できるようになり、SF雑誌も増殖し、若手作家も続々と傑作を発表。その中で「センス・オブ・ワンダー」という言葉は輝きを増す一方だった。
 科学的設定を突きつめた舞台で、価値観を相対化したドラマを展開することで、既成の閉塞からジャンプする感覚を得ること──それが筆者なりの「センス・オブ・ワンダー」の定義だ。小説・アニメ・特撮を問わず、幼少のころからつきあってきた作品群の価値を、センス・オブ・ワンダーでひとつに貫けると自覚したファンたちは、「SFマインド」を何より大事と考え始めたわけだ。

●ビジュアル派SFファンの覚えた疎外感

 だが、事態はそう単純で甘くはなかった。
「ビジュアルが引っぱるSF」という新たな価値観をもった新規参入者は、もともと一種の選民意識と被害者意識を表裏一体で持つようなところのある古参のSFファンに反発を招いたのではないだろうか。次第に軋轢や分断が生じ始める。
 アニメや特撮を大人の言葉で語りたくてうずうずしていたビジュアル派は、当初「SF性の発見」さえ行えば先達のSFファンにも認められ、仲間入りができると踏んでいた。だが、SFの世界で待ち受けていたのは「○○はSFではない」という、冷たいリアクションだった。
 たとえば「月刊スターログ」(1980年10月号)の表紙には、「賛否大論争直撃ルポ SFアニメ・ブームを斬る! ヤマト、ガンダム、コナンはSFなのか?」と大書されている。新しく立ち上がったアニメ文化ごときは斬り捨てようという閉鎖的空気がSF界にあった証拠だ。他にも不毛なSF論争は、いくつも存在した。
 さらに不幸なことに、SFに踏みつけられたアニメファンが、今度は特撮を踏みつけるという構図すら発生した。ハイテクを導入した欧米SFX大作と、日本の伝統芸化しつつあった当時の特撮を対置した文章もこのころ多いはずだ。

●集まっていったSF界の熱い視線
 疎外のあった反面、1981年の日本SF大会ダイコン3では、ダイコンフィルム制作のオープニングアニメが拍手大喝采で受け入れられた。既存の国産アニメ・特撮・漫画へのビジュアル的オマージュに満ち満ちた、フュージョン感覚のフィルムである。前述の閉鎖現象とはまったく正反対のベクトルも同時に発生し始めていたのだ。
 このように、SF界と国産ビジュアル(アニメ・特撮)の仲は、引き裂かれながらも、新しいものを求めて引き合い融合するという、次のステージに向かうとき特有の、複雑で不安定な時期を迎えていた。そうした空気の中で、準備段階の『さよならジュピター』が発信するニュースには、SFに興味を持つ者の熱い視線を集めさせるものがあった。純粋なSFマインド、欧米を参考にした撮影技術、アニメ的手法やデザインの導入などなど……これまでの国産映像世界に風穴を開けるのではないかという期待、そして同時に反発も大きかったはずだ。
 大好きなアニメのSF性を否定されて泣いたファンは「そんなに言うなら本物のSF映像をやってみせろよ」と冷淡な目で見つめただろうし、確かに既存作品にはSF性が少ないと不満に思っていたファンは「今度こそ……」という必中の期待に夢をふくらませていたことだろう。

●ジュピターが担っていた明日への意味

 周囲のテンションが高まれば高まるほど、無数のファンをSFの世界へと誘ってきた巨人・小松左京は、前人未踏のプロジェクト達成に燃えたのではないか。2003年ではデーターベースソフトで映画を管理するのも一般化しつつある。だが、小松左京はそれを1980年代初頭に実行していた。当時先進のOA(この言葉もそろそろ死語)を、まるで21世紀からやってきた未来人のように予見的に導入し、さまざまな手法を駆使して準備を進めていた。
 クリエイターやボランティアの労働力を束ね、入念すぎるほどのプリ・プロダクションを積み重ね、大勢のSF界のリソースを引っぱっていった小松左京の原動力とは、未来(つまり21世紀のいま現在だ)におけるビジュアル全盛時代への予感と先行投資だったのかもしれない。だとすれば、それは時代の空気とその流れに敏感で、1970年大阪万博以後、常に未来を志向して活動してきた小松にしかできなかった総決算的な仕事と言える。
 以上述べたように、SF界のビジュアル新世代への入り口に起きた、坩堝か闇鍋のようなグツグツした、温度だけは異様に高い状況は、確かに存在した。それは肯定するにせよ、否定するにせよ、日本のSFとSF映像の未来を真剣に思いやった熱の発散であった。その情熱の温度を念頭におかないと、『さよならジュピター』の完成フィルムに対して、なぜあれほどまでに、みんなが一喜一憂したのかがわかりにくくなってしまうだろう。
 もちろん、フィルムは独立したひとつの映像作品で、状況と切り離されてその時代時代の基準で鑑賞されるべきではある。だが、『さよならジュピター』という題名を聞いただけでも脳内をめぐる往時の熱い記憶もまた、ある世代にとってはかけがえのない「自分の一部」ではないか。
 想いの熱さを、いままた共有できるかは不明だ。だが、こういった流れを時代の記憶として再見の前に確認するのも無駄ではないと信じている。
 そうすることで、この映画の「明日への意味」がまたひとつ見つかれば幸いである。
【初出:「さよならジュピター」DVDデラックスエディション解説書 脱稿:2003.02.07】


●2011年7月29日付記 26日に亡くなった小松左京さんのご冥福を謹んでお祈りします。



なお、同作のスタジオぬえによるデザイン画は以下の本に10ページほど掲載されています。

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2007年1月 4日 (木)

バブルガムクライシス8

新世紀王道秘伝書
巻之拾九「バブルガムクライシス8」小さな波紋の大切さ

■新世紀への新展開
 本連載もおかげさまで第4部。
 この原稿が読まれているということは、無事に「1999年7の月」は乗り切ったということになる。そこで、題名も一新し、あらたな世紀に向けて、これからの「王道」探求の旅を続けてみたい。
 第4部は従来と毛色を変え、ビデオアニメを中心に取り上げる。
 オリジナルビデオアニメはアニメ作品そのものが商品だ。それゆえ、時代の転換となったような作品、作家性の強い作品というものが歴史的にも語られやすい。
 この第4部ではどちらかというと見た目派手な作品ではなく、マイナー系と言っては失礼にあたるかもしれないが、有名でなくてもどこか心に残るような作品、「ちょっとイイ話」と筆者が思ったような作品を取り上げてみたい。
 そこから、次の世紀の新しい「王道」が探れるかもしれない期待をこめて……。
 第4部第1回目は『バブルガムクライシス8』を取り上げる。

■『バブルガムクライシス』とは?
『バブルガムクライシス』は1987年からスタートした連続シリーズのビデオアニメである。アートミックの企画によりアニメ制作はAICが担当。製作はユーメックスで、ビデオ・CDメーカーが本格参入して権利も持った初期の作品である。
 全8巻で完結した後、メーカーとアニメ制作を変えて続編的な『バブルガムクラッシュ』全3本がリリース。ごく最近、設定とキャラクターを一新してテレビアニメとしてリメイクされたなかば古典的な作品でもある。
 最初のビデオシリーズ後半では、積極的に大張正己、うるし原智志ら注目株の若手を起用し、その才能を伸ばしていったシリーズでもある。
 舞台は近未来、2030年代のTOKYO。ある計画によって作り出された亜人間ブーマは軍事戦闘用に改造され、破壊活動や犯罪を頻発させていた。ブーマ対策として設置されたADポリスの活動も万全ではなく、人々はブーマに恐怖を覚えて暮らしていた。
 そんな中でブーマ退治の活動を行う一団がいた。闇の仕置き人、その名はナイトセイバーズ。シリア・プリス・リンナ・ネネの4人の女性たちはハードスーツで身を包み、人々の依頼を受けて、ブーマと闘ってこれを撃滅していた。彼女たちは昼間は別の職業を持ち、その正体は人々には秘密にされている……。
 今回の『バブルガムクライシス8 SCOOP CHASE』(1991年作品)では、それまで作画監督を担当していた合田浩章が監督を担当。繊細な描写の積み重ねで後の『ああっ女神さまっ』につながる新境地を切り拓いていった。

■スクープをねらう少女
 8作目にあたるこの作品は、それまであまりスポットの当たらなかったネネの活躍が中心に描かれている。ネネはADポリスの婦警でありながら、そのハッキング能力を買われて夜はナイトセイバーズの一員として活動していた。
 ナイトセイバーズの正体をスクープしたい。そう願ってカメラを持ち追い回す少女リサは、ADポリス署長の姪だった。ADポリス見学と称してやってきたリサ。署長はそのお目付役に、こともあろうにネネを指名した。行動力と自己主張にみなぎるリサに、ネネもたじろぐ。
 ブーマを生産するゲノム系列会社のミリアム所長は、自己の技術を過信して改造ブーマを作り、実力アピールのため次々と街へ放ち、破壊活動をさせていた。ネネは改造ブーマといつものように戦闘する。だが、その戦いの中でブーマはネネのハードスーツ頭部を破壊。バイザーが割れた瞬間、リサはシャッターを押していた……。
 主人公がその正体を隠して戦う、というのはヒーロー(ヒロイン)ものの王道。そして、その正体が何らかの理由でバレそうになってハラハラドキドキのサスペンスあり、というのも定番の物語構造である。『SCOOP CHASE』も、その基本に忠実な骨子だ。
 このエピソードはそれにしては妙に心に残るものを持っている。それはなぜだろうか。

■細やかな日常描写とプロ意識
 この回では、スクープを狙ってADポリスに潜り込んだリサが、追っかけているナイトセイバーズその人たるネネと行動をともにする。これもクラーク・ケントすなわちスーパーマンの側にいるロイス・レーンのように古典的な展開である。しかし、いまどき「あ、正体がバレてしまう!」というだけでドキドキする観客も少ないだろう。
 ところが、この展開こそが今回のキーポイントになっているのである。
 リサがスクープを狙ってネネを密着して追いかけることで、ネネの行動が細やかに注目される。結果として、それまであまり描かれていなかったネネの日常の掘り下げがなされ、それがキャラクターの深みと厚みを増し、リサの心情にも影響を与えていくのだ。
 ナイトセイバーズの中では身長も低め、コンピュータやネットワーク技術に強く、古典的キャラクター・シフトで言えば天才的「メガネくん」のような扱いだったネネ。婦警としての彼女は仕事熱心で、プロ意識も明解に持っている。それでいて、体重を気にもすれば、悪ふざけで脅かされると泣きもする等身大の女性として描かれている。そこがこの作品の魅力的なところだ。
 オープニングでは、毎朝の風景、白い朝の光の中でネネが寝過ごして母親にモーニングコール(映像つき)を受け、スクーターで出勤するところがサイレントで描かれている。リサとともに高速をパトロール中、スピード違反を発見したら仲間のプリスだったというシーンでは、ネネは見逃さず毅然として切符を切って取り締まる。これらは軽いギャグとして設けられているシチュエーションでもあるが、その中でネネは多彩な表情の変化を見せ、飽きさせない。
 仕事を溜めてネネが残業をするシーンではどうか。夜がふけていき、リサに手伝わせることもなく、強烈な速度でひとつひとつのジョブを処理していくネネ。同僚のナオ子が先に帰るね、と手を振ると、机に向かったままそれに応える。リサを待たせた埋め合わせにと、展望レストランで食事をリサにふるまうネネ……。
 どうということのないシーン? ごく普通のよくあるシーン?
 確かにそうだ。しかし、SFアニメで職業を持った女性がこのように、自己の責任意識と他人への気配りのバランスをもち、プロとしての仕事をこなすというノーマルなシーンが、きちんと描かれた作品はどれぐらいあるのだろうか? しかもこのネネの描写はドラマにからみつき、意味を放つようになっていくのである。

■クライマックスのブーマ急襲
 リサがナイトセイバーズの正体に肉迫してたころ、ついにミリアムは自信作のブーマを使い、ADポリスへ直接攻撃を仕かけてきた。
 メインコンピュータと融合したブーマは署内ビルの全機能を支配下においた。ネネは侵入してきた攻撃用ブーマと戦い、間一髪のところをマッキーのパワードスーツに助けられた。ハードスーツを身にまとったネネのもうひとつの戦いが始まった。サブコントロール室でハードスーツのコネクタを接続、ネットワークに侵入し、コンピュータ室のブーマとアクセス権の争奪を行う。
 それと同時に、閉じこめられたリサに指示を与え、無事なエリアとルートを選んで音声で誘導しようとするネネ。ついにサブコントロール室にたどりついたリサは、そこにハードスーツ姿のネネと対面してしまう……。
 この後、ハッキングしたブーマの自爆のカウントダウンが始まり、一人危険なビルに残り、それを阻止成功するネネが描かれる。そして後日談として、リサの犯人逮捕のスクープ掲載と、正体を収録した映像情報すべてを渡してネネと別れるところで、エンディングとなる。
 ここの部分はオチのためのオチのようなものを感じさせず、さわやかな印象となっている。リサがネネのことをはっきりとナイトセイバーズと認識して、それをどう思っているかは具体的なセリフで描かれていない。なのに、なぜさわやかな印象があるのだろうか。

■交わる心の機微のドラマ
 それは、リサの表情の変化で何を考えているか、映像から容易に想像がつくからである。映像で描かれた言うに言われぬ心情の交錯、機微こそがこのドラマの醍醐味なのだ。
 冒頭から中盤、ネネがナイトセイバーズではないかと疑っていたとき、リサはいたずら猫のような表情をして、その証拠となるようなものを狙っていた。ふざけているようでもあり、軽い緊張感があった。
 はっきり正体を知ったときはどうか。驚きの表情はある。しかし、それは「やった!」という収穫のものではない。リサを死なせまいと極限状態の中で必死で誘導し、ブーマのハッキングと戦っていたネネ。ひとりのプロフェッショナルとして、他人を思いやり生命を護り仕事を完遂させようとする真摯な人間として取ってきたネネの行動と心情は、その声からわかっていた。それとナイトセイバーズの姿が重なって見えたとき、彼女の闘い、そのすべてがリサには一瞬にしてわかったのだ。
 正体を暴くことがスクープになるわけでは決してない。それではただの覗き見趣味である。本当のスクープとは、プロのジャーナリズムとは何か。そこまでリサが考え決意をしたかどうかまで、このドラマの中ではわからない。でも、それでいいのだ。
 リサという少女が等身大のひとりのプロと出会い、その信念と行動に触れ、明るい表情で第一歩を踏み出せたということが見えれば、それで充分なのである。
 決して派手な見せ場はない。でも、ふとしたことで交わったささいな感情。その交流こそが、このビデオでは確かなカタルシスとして存在している。
 ビデオアニメという入れものは「テレビアニメ以上、劇場アニメ未満」とよく言われる。実はそんな中途半端なポジションではなく、「ささやかだけど大事な気持ちの交歓」を描くのに適したものだったのか、とこのビデオを見ると考える。
 『バブルガム8』でリサの起こした小さな波紋は、とても大きなものに結びついているのだ。
(編注:オープニング表記では『MEGA TOKYO 2032 THE STORY OF KNIGHT SABERS BUBBLE GUM CRISIS 8 SCOOP CHASE LISA』となっていますが、本稿ではLDBOXの表記に従いました)

<コラム>

■ネネよ銃を取れ!
 本シリーズは全体に外国のアクション映画からの影響が強い。この回も、ADポリスに侵入したブーマを迎撃するネネの描写がやけに細かくて嬉しい。緊急事態用と思われる武器庫を鍵で開け、大口径の銃を装備。弾倉をベルトにいくつもねじこむネネ。天井をぶち破って急襲されたとき、ネネはとっさのことで片手で一発目を撃ってしまう。反動で跳ね上がる銃。ネネはすぐさま両手持ちに変えて姿勢を落とすのだ。この体勢の変化は一瞬なので見逃せない。連射するが、やがて弾丸が……というのも、装弾描写がリアルだからこそ高まる緊迫感なのだ。

■ハードスーツを装着せよ!
 ハードスーツの装着シーンは男性ターゲット作品らしく、ちゃんと「必然があれば脱ぎます」(死語)の着替えシーンとして用意されている。この回では、婦警の制服というかワイシャツ・ネクタイからネネが着替えるシーンは、この回のドラマ展開ともあいまって、妙に印象的である。特にネクタイをゆるめてからシュッとはずす動作や、運んできたパワードスーツにマッキー(男性)が乗っているのでメインカメラにワイシャツをかけて見られないようにするところとか、アンダーウェアをたくし上げるとことか、異様に凝っている。色気を感じるべきは、何も直接的な描写だけではないのだ。

■体重計にご用心
 リサがネネを追っているさなか、アジトの中では新ハードスーツの開発がなされていた。そのテストの一環の描写に、さすが女性同士というかで体重の話題が出てくるのが、ほのぼのしていて笑える。プリスが(たぶん違反切符への恨みもこめて)ネネのおなかの脂肪をつまみ上げるシーンは大爆笑だ。この後、ネネは自室でシャワー(お約束)を浴びてから冷蔵庫にしまっておいたケーキを出し、苦悶することになる。その葛藤がどうなったかは、ビデオでぜひ確認して欲しい。

■エレベーターの死刑台
 ブーマに占拠されたADポリス。階段を破壊されてしまったため、ネネはリサをエレベーター・ホールへと誘導する。だがそれを察知したブーマは、電源配線を改変してリサを圧死させるべくエレベーターを始動させる……。エレベーターや通風口を使ったアクションは洋画では定番だが、それをハッキングと結びつけたサスペンスが短いながら気がきいていて良かった。このシーンでのリサの表情の崩れっぷりもまた、アニメならではのお楽しみである。

■STAFF
制作/藤田純二 企画・原作/鈴木敏充 ストーリー原案/合田浩章・松原秀典 脚本/吉田英俊 ストーリーボード/合田浩章 キャラクターデザイン/園田健一 プロダクションデザイン/山根公利・荒牧伸志・夢野れい・園田健一 作画監督/松原秀典・岸田隆宏 美術監督/平城徳治 撮影監督/小西一席 音響監督/松浦典良 音楽/馬飼野康二 原画/梶島正樹・石倉敏一・松原秀典・竹内敦志・岩田幸大(スタジオゑびす)・鶴巻和哉・本田 雄・今掛勇・橋本敬史・合田浩章・伊藤浩二・大張正己・石田敦子・中山兵洋・小沢尚子・野口木ノ実・渡辺すみお・大河原晴男・岡崎武士・吉田英俊・恩田尚之・菅沼栄治・岸田隆宏 制作プロデユーサー/八重垣孝典 音楽プロデューサー/藤田純二 宣伝プロデューサー/岡村英二 プロデューサー/小泉 聡・田崎 廣
監督/合田浩章 制作協力/DARTS 制作/ARTMIC/AIC 製作/ユーメックス

■CAS
シリア/榊原良子 プリス/大森絹子 リンナ/富沢美智恵 ネネ/平松晶子 レオン /古川登志夫 デーリー/掘内賢雄 ADP部長/佐藤正治 ファーゴ/山寺宏一 マッキー/佐々木望 リサ/久川 綾 ミリアム/二又一成
【初出:月刊アニメージュ(徳間書店) 1999年9月号】

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