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2006年12月30日 (土)

テレビ東京とアニメの関係

題名不詳

※1997年当時、「デラべっぴん」というアダルト向け雑誌用の原稿です。おそらく読んだことがある方はいないでしょう。「デラべっぴん……にしては詳しすぎる」というところを笑ってもらおうと半分ギャグ、半分マジ予想で書きました。2007年現在の実情とは異なる記述も含まれています。第一、いま「東京ローカル」「12チャン」と言ったら怒られると思いますが(略称は「テレ東」)、まずは昔話であるということで、ご容赦を。
そんなに綿密な調査をしたわけでもないですが、だいたいそれから10年の予測としては途中まで当たってて、「地上波デジタル」に向けて傾向が加速中というところを楽しんでいただければと。歴史的側面にしても、驚くべき超短納期で記憶中心に書いた趣旨の原稿……にしてはけっこう正確なので再読して笑いましたが、そういうとこもギャグです。事実関係にも間違いがある可能性が大ですし、引用や典拠にするには地雷があると覚悟してください。まあ、あまり語られて来なかっただろう歴史の流れがあるんだというご参考に。

<リード>
今やアニメと言ったらテレビ東京。だが、そこに
いたるには長い歴史の積み重ねがあった。20年あ
まりの時間を圧縮して解説しよう!

■東京ローカル局物語

 むかしむかし。20年ちょっとくらい昔。
 テレビ東京は「東京12チャンネル」という名前だった。だから「12チャン」というのは愛称みたいなものだ。
 アニメや特撮のメジャー作品は、主に10以下のチャンネル番号の民放で制作されていた。12チャンはどうだったかというと、海外のアニメのふきかえか、他局の古い作品「ハクション大魔王」なんかにに「新」マークをつけてリピート放映していた。
 「自分のとこで作ってないのに新番組かあ」。子供はそういうところを見逃さない。なんだか他と違って、お金のない、マイナーな雰囲気のところなんだなあ、と思っていた。クラスにもちょっとはみ出していたり、いじめられている子供がいた。12チャンという名前にも、どことなくそういう子供に共通した哀愁が漂っている。
 やがて「東京ローカル」と呼ばれていることを知って、インパクトを受けた。文化の発信地は全部東京だと思っていたからだ。「東京と言っても、いっぱいある都市のひとつで、ローカル局があるんだ」世の中が少しだけ変わって見えるようになった。

■12チャンならではの番組

 12チャン初期のアニメに「ドンチャック物語」という作品がある。75年の放映で、動物が主人公のアニメだ。78年には特撮ヒーロー「UFO大戦争 戦え!レッドタイガー」が放映されている。
 この2つの作品の共通点は何か?
 東京の水道橋には、後楽園という大きな遊園地がある。どちらも、この遊園地が生み出したキャラクターなのだ。「レッドタイガー」は今も生のヒーローがバトルをするアトラクションショーを常設化したことで人気の野外劇場から生まれたヒーロー。ドンチャックは今でも後楽園では現役のミッキーマウス的キャラクターである。
 子供にとって「テレビでやっている」かどうかは、大変な価値の差がある。テレビでやっていないといわゆる「パチモン」の扱いを受けたりする。後楽園の方から、そういった事情をバックにスポンサーから持ち込まれた企画なのではないだろうか。
 70年代後半の12チャンネル作品には、どうもそんな受け皿的作品が多い気がする。
 例えば79年「ピンクレディー物語 栄光の天使たち」というのは、当時人気絶好調だったピンクレディーの二人の伝記だが、当人たちが多忙のためアニメになったという作品だ。声は声優が担当しており、主題歌も作詞・作曲はピンクレディーのヒットを生んだコンビなのに歌は別人だったりしてパチモン臭さを漂わせていた。
 関係者の誰かがから思いついたように出た企画が平気で通り、あとの仕上がりはおかまいなし、という感じの作品が多いのは、12チャンの特徴で、80年に放映された「まんが水戸黄門」などは他局の水戸黄門を30分のアニメにしてしまう珍企画だった。

■保たれた命脈

 12チャンであれば企画から実現までのポテンシャルが低いということは、悪いことばかりではなかった。
 70年代の後半は、「仮面ライダー」「ウルトラシリーズ」が相次いで終了、あまりパッとしてなかった。そんな中12チャン独自ヒーローが誕生していった。
 中でも77年の「快傑ズバット」は傑作だ。予算が少ないため、ズバットの戦う相手は着ぐるみの怪人ではなく、ただの「ヤクザ」だ。スタッフはひとつ間違えれば陳腐になる設定を逆手に取った。「渡り鳥シリーズ」のような気障な主人公に「仮面ライダーV3」の宮内洋を配し、得意技比べなどの工夫を凝らして盛り上げた。数年前にLD化されたときには、かなりのセールスを記録したはずだ。
 78年「スパイダーマン」も重要な作品だ。それまで変形・合体する巨大ロボットはアニメにしか登場せす、変身ヒーローとは別ジャンルになっていたが、初めてこの作品でジョイントが行われた。これが翌年の「バトルフィーバーJ」では戦隊ヒーローと巨大ロボットという夢の共演に結びついて、20年もシリーズが継続。アメリカ版「パワーレンジャー」として大ヒットを飛ばすまでにいたる。 その原点が、12チャンネルにあるということは、忘れられてしまっているかもしれない。
 だが、12チャンネルだからこそ、「え? アメコミのスパイダーマンが、巨大ロボットに乗る? そんなの受けないよ、わはは」と言って企画を突っ返されるようなことが起きなかったのだろう。それがゆえに、他局とはいえ後の特撮ヒーローの命脈が保たれたばかりか、国際的な発展に結びついたかと思うと、少し感慨深いものがある。
 これもまた、アバウトで敷居の低い分だけ自由度が高く、結果として可能性をつぶすようなことのない、12チャンならではの社風のもたらしたものとは言えないだろうか。

■打ち切り事件の波紋

 80年代早々になると、12チャンネルのアニメも本数がかなり増大する。
 「機動戦士ガンダム」の次の富野監督作品「伝説巨神イデオン」も、テレビ版は80年に12チャンネルで放映された。時代はアニメブーム、富野監督は追い風に乗る形で、後に「リアルロボットもの」と呼ばれる路線を展開していた。人々は生な感情をむき出しにして罵り合い、殺しあい、その中でも愛を育み、場合によっては同衾さえも暗示された。
 こんなアダルトな作風に、まだウブだったアニメファンたちは呆然と画面を見ていたものだった。
 ところが、ラスト前5本目で唐突に「その瞬間であった、イデが発動したのは」というナレーションとともに番組が終わってしまった。いわゆる「打ち切り」である。
 このころ、すでにアニメファンはこういう状況を許さないくらいの数にはなっており、打ち切り分はすぐさま劇場映画として公開されることが決まったのである。これがアニメファンの団結力を高めた。「イデオン祭り」と称したキャンペーンが組まれ、いまはオタク評論家として有名な岡田斗司夫や、「パトレイバー」の原作者のゆうきまさみたちもハッピを着て踊っていたのである。
 今なら「続きはビデオを買ってください」であろうが、打ち切りさえもイベントにするパワーがアニメファンにあった。それをもたらしたのも12チャンだった。

■80年代、90年代の12チャンネル

 80年代中盤、テレビ局がこぞって大方針を変えるという大事件があった。
 それまで夕方の6時の枠は子供番組だった。新番組でなくても、再放送をよく行っていた。
 時代が流れ、子供がこの時間に必ずしもテレビを見なくなった。学習塾に通ったり、ファミコンを見たり。ビデオデッキの普及が拡大し、テレビ局の方も考えを改めなければならなくなった。つまりテレビの第一義の機能はリアルタイムな「報道」にある、としたのである。そこで夕方6時台はのきなみニュースで埋め尽くされてしまった。
 ところが、ここでも12チャンは迎合しなかった。予算がなかったのかもしれないが、ずっとアニメを放映し続けたのである。その中にも意外なヒットが生まれた。例えば「ベルサイユのばら」などは、12チャンの再放送で再評価され、中高生を中心に爆発的なヒットになったのである。「元祖天才バカボン」のリピートも12チャンの全番組でナンバーワンといわれるほどの視聴率を取り、赤塚不二夫の再ブームに結びついた。
 やがて90年代も半ばには、月曜日から金曜日まで全部新作アニメで埋まるようにすらなっていった。いつの間にかアニメと言ったら12チャンというほどにまでなっていた。その中の一本が95年の「新世紀エヴァンゲリオン」である。
 継続は力なり。敷居を低くして連綿とアニメを流し続けたことで、ついに経済効果を云々される作品まで12チャンから生まれたのである。もうはみ出した感じは12チャンにはない。

<コラム1>
 テレビ局はもともと新聞社の資本が入っている。その流れを見てテレビ局の特色を見ると面白い。
 日本テレビは読売新聞だ。読売ジャイアンツの放映権は日テレ優先。野球やスポーツに積極的だ。TBSは毎日新聞。三大紙の中ではいまいちマイナーだがドラマに強い。フジテレビは、産経新聞である。いち早くカラー化を打ち出した新聞社傘下らしく、バラエティが得意。かつては、アニメもフジテレビが中心だった。テレビ朝日は朝日新聞。朝日は一種の権威を持つゆえ、報道色が強い。
 ではテレビ東京は、どの新聞の系列だろうか?「社会人になったら日経を」とまで言われた「日経新聞」が正解である。
 日経が他の新聞社とは別の地位を占めているように、テレビ東京は「我が道を行く」が社風なのかも。なにせ、やんごとなき方が亡くなっても、アニメを流し続けたのはテレビ東京ぐらいだから。

<コラム2>

<リード>
テレビ局は時間を切り売りする商売。
アニメは深夜枠の開拓者だ!

 深夜枠は、もともとは絶対視聴者数が少ないため、商売にならないと思われてきた。やけにダイヤモンドのCMが多いのも、水商売の女性ぐらいしか見ていないという意味らしい。
 だが、それをアニメが切り開いた。「スーパーヅガン」「行け!稲中卓球部」といった有名な青年コミックを早くにぶつけたのはフジだったが、どうも印象が泥臭かった。「エルフを狩るモノたち」というアニメ絵のどことなくエッチな作品を放映したのは例によって12チャンだった。ご丁寧に「エルフ」のビデオ版は、女性の胸もとなどが写るように再撮影して商品価値を高めるという。
 12チャンの枠開拓が容赦ないと判ったのは「CLAMP学園探偵団」という作品が放映されたときだ。これは何と土曜日早朝7時台。徹夜で遊んだサラリーマンにはまだまだ深夜という意味だろうか。
 刺激されて他局の深夜アニメも出現しつつある。日テレの「剣風伝奇ベルセルク」、テレ朝の「深海伝説マーメイド」などがこの秋から放映中だ。

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<キャッチ>
97年は、果たしてアニメブームなのか?

<大見出し>
テレ東アニメの進路は?

<リード>
■テレ東アニメ「エヴァンゲリオン」に揺れた97年。
テレビアニメの本数も激増。その両者に潜む「狙い」に迫ってみよう!

■12チャンアニメ増加の理由

 97年12月現在、テレビで放映されているシリーズものアニメは43本、そのうちテレビ東京の放映は13本。実に三分の一である。
 現在の傾向は大きく二方向に分化している。ひとつは「爆走兄弟レッツ&ゴー」「ポケットモンスター」のように、子供たちの人気の中心となっているアニメ。もうひとつは、「少女革命ウテナ」「大運動会」のように、マルチメディア展開と密接に結びついたヤング・アダルト向けアニメ。これは深夜枠を活用して急増しつつある。
 「新世紀エヴァンゲリオン」の放映された95年より少し前から、アニメの状況に関しては変化が見られるようになってきた。
 アニメの制作にはお金がかかる。もともとテレビ局から支払われる制作費ではまかないきれない。従来は作品のキャラクターを使用した商品の売り上げで補填するという方法が取られていた。それが進み、主役のロボットの玩具を売るためのCMとして企画され、その分、作品のストーリー等にはオリジナルでも良しとする流れが発生した。「機動戦士ガンダム」を筆頭とするロボットアニメや「美少女戦士セーラームーン」もその系統だ。
 だが、エヴァは違った。
 初号機のプラモや綾波のフィギュアは何種類も出てよく売れているが、それは結果のことであって第一義の目的ではない。エヴァの目的は、「作品そのもの」の二次使用でペイすることを前提にしていたのだ。したがって、仕掛けたのは玩具メーカーではなく、各種メディアでのソフト配布のキーとなるレコード会社。また、権利関係もクリエイターを擁する制作会社で原作権を獲得したことにより、従来と違う資金の流れができたと想像がつく。
 エヴァが異例のヒットになって業界のポテンシャルが上がった。
 エヴァの経済効果は各誌で熱く報道されたように数百億にのぼる。「ウチもエヴァのように当てたい」と考えている会社は多いだろう。
 現在のアニメ、特にアニメオリジナル作品は、レコード会社、出版社、アニメショップ、テレビ局などなど多岐に渡る会社が資本を出し合い、トータルで商売にしようという流れが主流だ。よく「**制作委員会」といったクレジットを見かけるが、それがそういった各社の総称である場合が多い。「みんなで幸せになろうよ」というコラボレーションの時代を反映したものとも言える。
 企画が持ち込まれたときに、比較的に障壁の少ない局として、12チャンは認識されているのではないだろうか。自ら積極的にアニメを増やし流すほどの主体性を持ってアニメに接しているとは思えず、基本的に持ち込みを受けてるというスタンスに見うけられる。、そうならば増やそうとしているのは持ち込む側で、それはアニメ会社であったり、アニメ作家であったりする。それは吉なのか凶なのか?
 アニメには良いやつも悪いやつもいない。
 「受ける儲けるやつ」と、「受けない損するやつ」の二種類しかいない。
 「質は量によって支えられる」という言葉があるとおり、クオリティ確保、新しいタイプの作品のブレイクスルーは量産によってしか生まれないだろう。
 12チャンアニメは、量によってその底辺を支える役割を果たしているのだ。

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<キャッチ>
12チャンには、未来のアニメ像
が凝縮されている!

<タイトル>
どうなるこれからのアニメ?

■多チャンネル・マルチメディア時代へ

 12チャンアニメが急増している理由。それを追っていくと、これからのアニメの時代がどうなっていくのか判るかもしれない。
 ビデオアニメも、しばらく前から企画としては陰りが見えていた。単品の知名度は低く、どれもこれもギャルが大量に出るだけで似たりよったりでは、一定の数のファンには売れても頭打ちになる。
 だがうまくアレンジしてテレビと連動できるなら話は変わってくる。最初に実現したのはLDCの「天地無用!」だ。ビデオアニメのヒットを手がかりにテレビでも同じキャラクターを使い、設定・ストーリーは新規に展開。その次の「神秘の世界 エル・ハザード」は最初からビデオとテレビの両面で展開することを前提にしていた。
 いずれもテレビ放映はテレビ東京が受け持った。
 いま、空前の多チャンネル時代とも言われている。衛星放送・ケーブルテレビなどメディアは激増の方向だ。廉価版ビデオやDVDの台頭が、追い討ちをかける。だが、流す映像ソフトウェアの量にも質にも限界はある。だから今のうちにソフトを作り溜めしておいた方が、先行投資になる。当然の考え方だ。
 それには、ビデオアニメの6本シリーズよりは、テレビで半年分の26本のパッケージとして持っておいた方が有利である。ビデオとテレビ、両方あれば、なお良い。長く売り上げになる作品はどこだって欲しい。
 出版社も積極的にこういう動きに参入する。テレビ東京でのアニメ化に顕著なのが、たとえば角川書店・富士見書房(角川の子会社)の原作ものだ。雑誌や若年層向け文庫での小説・コミックのヒットとアニメ化を巧みに連動させている。
 声優ブームも、拍車をかける。アニメーションのフィルムとしての出来以前に、どの声優が出演しているかで視聴率や売り上げが決まるとまで言われる時代である。作品は多い方が受け皿も多いし、「声優オリジナルドラマCD」のような番外編パッケージでまた売り上げに貢献するからだ。
 ゲーム業界も黙ってはいない。マルチシナリオ、新キャラクターを配しての展開など、定番のものが増加している。
 これらの中心にあるのは、やはり毎週定期的に無料で視聴できるテレビアニメだ。それが「無料だからこんなもんだろう」という旧態依然のクオリティでは誰も見向きもしない。
 そんな理由で、「今までのテレビアニメよりはちょっとクオリティは良いけれど、ビデオアニメと比べてしまうとちょっと落ちる」という作品が増えているのだろう。それは、ビデオアニメが普及してきたころ、「劇場アニメよりはちょっと落ちる」というような作品が多かったのに似ている。
 時間帯も「夜討ち朝駆け」になっている。それだけひとびとの生活様式が多様になり、価値観も多元化しているということなのだ。アニメの放映される時間は今後はますます隙間を縫うようになっていくし、価値を選ぶためのチャンネルが増えるに従って有料チャンネルふくめて拡散していくだろう。
 この動きは青年層だけにとどまらない。コロコロコミックなどの年齢層でも類似の現象は起きている。ミニ四駆ブームから来た「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」やピカチュウ人気の「ポケットモンスター」などだ。
 多チャンネル・多メディア時代にアニメは様々な分野の要請を受け、再び中心的役割を果たそうとしているのだろうか。

■12チャンアニメの今後は

 このように作品の増加傾向はとどまるところを知らない。さらに来年以降は、富野由悠季や高橋良輔などかつてアニメブームの中心となった巨匠や、かつての若手が中堅に育って指揮をする作品が激増するという。その背景には、13本(12本)・26本という単位でのアニメ制作が、放映局未定でアニメ会社とレコード会社、出版社主導で進められているケースも少なくない。
 地上波は時間枠をいくら縫ったところで限界に近づいている。有料のWOWOWなどが生き残りをかけて人気アニメパッケージを獲得し、ユーザ数拡大の牽引役にする計画もあるらしい。熾烈なアニメ増加と顧客獲得戦が、これから幕を開けようとしているのだ。 この秋から冬に向けての12チャンアニメ増大は、単にその前触れだったのかもしれない。デジタル技術により、セル画工程を省略した作品も目立たない形で投入が始まっており、増加への抵抗を低くするだろう。
 アニメ作品は増える。
 だが、それは本当に「アニメブーム」の到来を意味するのだろうか。
 確かにこれまでは魅力ある作品数に限りがあり、ファンが作品を選んでいるというよりは、作品に選ばれているというような兆候すらあった。その選択肢が広がることは基本的には良いことだ。
 しかし、それぞれ個別の嗜好を持ち、個別のメディアの事情から個々のユーザ層へ特別にアレンジしたような作品が増えるなら、単に既存のパイの食い散らかしになり、求心力を失うのは目に見えている。
 いま必要なのは、新しいパイを焼き上げることと、それを食べたいと思っている新しいお客を呼び込むことだ。それには作り手・受け手ともどもそれぞれの立場で、何が受けて何が受けないのか考えつつ、せっかくめぐってきたチャンスを活用することではないだろうか。
 いまはエヴァに続く「次の時代」を模索する時期。本当の「アニメブーム」になるのは、これからではないか。次世代の作品。それはこの量産の流れを追うことで予見可能かもしれない。
 独特のスタンスで、新タイプのアニメを常に提供してきた12チャンの果たす役割は今後とも大きいだろう。

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《テレビ東京アニメ・特撮代表作年表》

■ダメおやじ(74)
 テレビ東京アニメの第1作目。古谷三敏の代表作のアニメ化。原作の最後の方のホノボノしたところに行く前に終わった。
■忍者キャプター(76)
 テレビ東京特撮の第1作目。7人の現代忍者が悪の忍者と戦う。もう一つの戦隊シリーズのような作品。
■グロイザーX(76)
 テレビ東京最初のロボットアニメ。ゴキブリのようなグロイザーXがファイトアップしてグロイザーロボに変形。ガイラー星人と戦う。
■快傑ズバット(77)
 エヴァの庵野監督もハマっていた人気特撮変身ヒーロー。「チッチッチッ、日本じゃ二番目だな」主役の宮内洋の決めゼリフに痺れる。カッコ良さ、ここに極まれり。LDもヒットした。
■スパイダーマン(78)
 米国マーベルコミックから版権を取得。巨大ロボ・マーベラーの乗ってマシーンベムと戦う。
■ずっこけナイト ドンデラマンチャ(80)
 ほとんどの回は凡庸だが6話「ドンはカウボーイ」が異常にハイテンション。アニメーター金田伊功がコンテ・作画のすべてを担当。暴走アニメの原点となった異色作だ。
■宇宙戦士バルディオス(80)
 ロボットアニメだが、地球が洪水に見舞われ、大津波が画面いっぱいになって「完」となる。壮絶な打ち切り最終回が話題になった。
■銀河旋風ブライガー(81)
 前口上とともに始まる金田伊功作画のオープニングが人気。ルパン調のキャラが評判で、同人誌が大ブレイクした。
■まんが水戸黄門(81)
 他局の人気番組をアニメ化するところが12チャンらしい。助さんのアイテム「力だすき」と地平線からせりあがる葵の御紋は衝撃的。
■ドン・ドラキュラ(82)
 広告代理店倒産により、第4話で終了という史上最短で終わった事実が作品内容より有名。これでも手塚治虫原作のアニメだ。
■魔法のプリンセス ミンキーモモ(82)
 今日に続く新世代の魔法少女アニメの元祖。ミンキーステッキで夢をかなえる職業婦人に変身。三匹のお供を連れた桃太郎が原案。打ち切り後にまた延長となったりもした。
■装甲騎兵ボトムズ(83年)
 題名が主役メカの名前ですらない、ハードボイルド調ロボットアニメ。無骨なメカ、スコープドッグを駆るキリコのクールさが人気。
■マシンロボ クロノスの大逆襲(86年)
 ロボットアニメ冬の時代に好き勝手な作品世界で暴れていた異色作。ヒロイン・レイナが大人気。
■ミスター味っ子(88年)
 「うまいぞーー!」味皇さまの口からまばゆい光が飛び出す。味への感動をあらゆるアニメ的表現を駆使し常識を超えまくった作品だ。
■絶対無敵ライジンオー(91年)
 校舎が変形して秘密基地に。子供の究極の夢をかなえ、生き生きとした18人の子供キャラの性格描写が輝く。高年齢層にも人気の高かったロボットアニメで、ビデオ続編も3本制作された。
■赤ずきんチャチャ(94年)
 音楽に満ちあふれた世界も楽しげな少女アニメ。SMAPを起用しミュージカルにもなった。
■天地無用!(95年)
 ビデオ先行し、テレビ化された初期の作品。年中お祭り騒ぎ、主人公の周囲ヒロイン回転寿司状態の「うる星やつら」的アニメ。
■新世紀エヴァンゲリオン(95年)
 包帯少女綾波レイがブレイク・・と思うまもなく作品そのものが大ヒット。テレビ東京の底力を思い知らされた。
■天空の城エスカフローネ(96年)
 ほとんどビデオアニメの作画の細やかさ、画面に融合したCGの使い方が話題のファンタジー作品。でも作品の本質は「少女らしさ」。
■機動戦艦ナデシコ(96年)
 アニメのパロディも、オタク世代のトラウマも、対人関係のスレ違いも、「すべていまある自分たちらしさ」であるという認識から始めた。メタアニメ論的なSFアニメ。
■エルフを狩るモノたち(96年)
 女性のエルフを脱がして脱がして脱がしまくるという深夜枠ニーズに忠実に応えたアニメ。
■少女革命ウテナ(97年)
 シュール描写とギャグの交錯する果てに突き抜けるものは何か? 今年一番の問題作。
【初出:デラべっぴん(英知出版)1997年12月発売】

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「スター・ウォーズ」と日本の特撮・アニメ

題名不詳:

 スターウォーズが日本の特撮やアニメーション映像にどのような影響を与えたか、それを探るのが本稿の目的である。

◇遅れた本邦公開◇

 米国でスターウォーズ(以下SWと略)がブレイクしてSFXブームが起きた1977年は、日本でも「宇宙戦艦ヤマト」によるアニメブーム元年だった。
「ヤマト」は「鉄腕アトム」などテレビアニメで育った世代がハイティーンになるタイミングでブームになった。アニメになじみ、マンガじみた表現以上のものを潜在的に求めていた観客層を新たに開拓したわけだ。SWも、第二次世界大戦のイメージを踏襲しつつ宇宙空間を舞台にした戦争もので、高度な映像技術を駆使したエフェクト映像で娯楽に徹底して仕上げた作品という点で共通性がある。不思議なシンクロであった。
 しかしSWの日本公開は、1年遅れ78年まで延期されてしまった。当時雑誌媒体では著名人が渡米して見てきたコメントを載せ、事前情報を山のようにフカして回った。結果、SFファンたちの脳裏には膨らみまくったイメージによる華麗なるSW映像ができあがってしまった。ライトセイバーの光る玩具を始めとするグッズ先行販売も拍車をかけ、本物の映画が公開されると各自の中にできあがった「オレSW」よりはどこかしら劣る映像とのギャップに激しく悩んだ人も多かった。

◇日本特撮作品へのインパクト

 SW公開によって宇宙SFブームが起きるに違いない。国産作品への影響は、そんな期待をになってまず特撮作品に現れた。
 トップバッターは、東宝映画の78年お正月映画「惑星大戦争」だ。この題名は、SWの日本公開タイトルに予定されていたものだ。東宝特撮のお家芸は、空間をジグザグに切り裂くイナヅマ光線なのだが、「赤い針をバラまいた」と評されたレーザービームの表現がSWの影響ではないか。全体の作風という点では、「海底軍艦+宇宙戦艦ヤマト」といった要素の方が色濃い映画だった。
 78年春、テレビでは円谷プロ制作「スターウルフ」が始まった。エドモンド・ハミルトンの原作を円谷プロが特撮にするというのも、SWブームのもたらしたものだった。バッカス3世号が画面上方からフレームインする映像や、ウルフアタッカーなど宇宙船のデザインに影響が見られる。本作では、模型を黒子が手持ちで操作し、宇宙空間に合成するという疑似モーション・コントロールで撮影された。
 東映はSW公開直前、「仁義なき戦い」で有名な深作欣二監督による「宇宙からのメッセージ」を製作した。原作は石ノ森章太郎、特撮監督は矢島信男で、「ヒーローの出ない東映特撮ヒーローもの」総決算という内容だった。この作品では、画面いっぱいに迫る宇宙船や、宇宙要塞の溝をすり抜けてのドッグファイトなど、SWを厳密に参考にした画面が登場した。だがそれらは、ネガティブな意味で話題になってしまった。
 「メッセージ」では対象物を接写できるシュノーケル・カメラで撮影が行われた。これが、上下左右を閉ざされた空間を疾駆するドッグファイトというSWもやっていなかった映像も可能にしていた。この要素はSWの3作目に逆フィードバックをかけているのではないか。SWのモーション・コントロール・カメラ技術は、複雑な動きを可能とする反面、どうしても無機質に感じられる。
特別編では、さらにCG画像に差し替えられていることから、SWの方向性が「完全な動きのコントロール」にあることが判る。だが「スターウルフ」や「メッセージ」は、手持ちカメラに近い浮遊感があり、模型じみたチープな感じは否定できないものの、今見ると妙に迫力と味のある映像である。このようにSWに対して別の魅力もあったのだが、無視されてしまったのは残念だった。

◇SW公開前後のアニメ作品◇

 アニメでのSW影響第1作目、それはテレビから始まった。
 SWのSF界における最大の功績は何だろうか?それは「ライトセイバー」というアイテムの創出だろう。SW以前のSFでは光線銃というアイテムはあっても、「光線剣」は無かった。時代劇にこだわるルーカスが、SFの世界にチャンバラを持ち込みたいと考えたからこそのアイテムだ。
 日本のアニメでも、「光線剣」の導入から影響が始まった。第1号は、78年の富野監督作品「無敵鋼人ダイターン3」。オープニングに光る剣を持つ女性コマンダーが登場している。とにかく「ダイターン3」は、SW影響の最先端を行っていた。悪の首領ドン・ザウサーがコロスという美女に出す指令は、第2話で初登場したときは「あーー、あっ、うーー」という唸り声だった。それが途中の回から急に「しゅーーー、ぱほーー、がーー」という呼吸音になってしまった。SWの日本公開直後の出来事で、当時のアニメファンは「と、トミノさん、見ましたね……」とささやきあったものである。
 「ダイターン」の映像で特筆すべきは、エフェクト・アニメーター金田伊功入魂の作画が冴える「遥かなる黄金の星」という回だ。主人公・波嵐万丈が母から受け取った金塊を乗せ、火星からひとり脱出するまでの回想を描いたエピソードで、衛星フォボスで追撃する宇宙戦闘機を崖の中をくぐり抜け降りきるドッグファイトが、SWを見た直後の金田伊功によって鋭く描写されていた。
当時の筆者は金田の所属していたスタジオZを訪問したとき、作画机の金田が「SWテクニカルマニュアル」と、星野宣之のコミック「巨人たちの伝説」を見ながら鉛筆を動かしていたのを目撃している。完成画面で宇宙船はSWのように光源のきつい宇宙空間ならではの白黒を強調したモノトーンで描かれていた。そのディテールはテレビにしては異様に細かく、担当動画マンは「金田さんに悪いものを見せた、線がメチャメチャ増えてる~」と泣いていた。
 「ダイターン」以前に話題になったのは、「宇宙戦艦ヤマト」の続編「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」だった。1作目のヒットを受けて78年夏公開と決定するや、すぐさまSWとのバッティングが取り沙太された。西崎プロデューサーは、メインスタッフを連れてハワイに遠征した。目的は、日本ではまだ見られなかったSWとスピルバーグ監督「未知との遭遇」の2大SFX映画を研究するためだった。ビデオのない時代を感じさせる。「スターウォーズはただの娯楽映画で(愛をテーマにした)ヤマトにとってはおそるるに足らず」云々。こんな趣旨の談話も雑誌に掲載された。当時いち早く偵察に行った国内映像関係者は、どういうわけかこのようなコメントをあげている。
 「さらば宇宙戦艦ヤマト」が公開されると、きらめく光に包まれた新造戦艦アンドロメダや、ビルを乗せた半球形の都市帝国は「未知との遭遇」、ヤマト艦載機が大軍となって球形の要塞に侵攻し、ワンポイントをくぐって動力炉破壊という展開になっているのは、SWの影響が強く感じ取られた。このドッグファイトもダイターン担当直後の金田伊功の手によるもので、以後、金田は日本におけるアニメのエフェクト専門家として大きく注目を浴びていくようになる。

◇ガンダムへの影響度◇

 SWからインスパイアされ以後の流れを変えた作品として「機動戦士ガンダム」に触れないわけにはいかない。もともとガンダムが普通のヒーローものよりSF的な要素を強化できたのも、SWのヒットあってのことでもあるし。
 ガンダムのビームサーベル。ついに日本の巨大ロボットが、光線剣を使うときがきた。ただ光線剣を使っただけではない。剣をかっこ良く描くには、収容されている「静」の状態、これをいつどう抜いて「動」に転じさせるか、それが重要だ。これこそ日本のオリジナルな発想ではないか。凡庸な作品だと、「刀」は「腰」に装備させるだろう。ガンダムは違った。背中から抜く。おお、佐々木小次郎!場合によっては2本抜く。おお、宮本武蔵!これがカッコ良さを何倍増しにもした。
 ガンダムでは、剣を持つロボットのヒーロー性にも工夫がなされていた。敵側のザクには「ヒートホーク」という「熱で切る」武器を持たせているが、ガンダムのビームサーベルはより進歩した特別なアイテムとして描かれ抜いているのだ。「比較で凄さを描写する」というのも演出の知恵である。ルークの相手は人間だが、ガンダムの敵はロボット。ためらいなくビームサーベルの熱で装甲は貫通し、切断面を溶融し、まっぷたつにするという表現も可能になった。
これもまたヒーローとしてのカタルシスである。
 SWの影響で知られていないものとしては、番組のタイトルロゴがある。筆者がガンダム当時、関係者から聞いた話をもとに説明する。富野監督は作品の細部にまでイメージをこだわる作家で、ガンダムのGが目立つロゴタイプも富野原案らしい。年長向け作品としてサントラが出るならばジャケットはSWみたいに黒地に白抜きでGロゴを使った大人向きのものにしよう、そのために考えたデザインだというのだ。ところが最初のサントラのジャケットはセル画の子供っぽいものになってしまった。富野監督はクレームをあげ、レコード会社もこれではいけないと反省、セカンドアルバム「戦場で」は安彦良和イラストのジャケットにした。これが大ヒットとなり、「ジャケットは単なる包装ではない、作品の一部なんだ」と関係者に認識させ、以後の流れを変えてしまったのである。間接的とはいえ、SWのインパクトであろう。

◇影響度ざまざま◇

 SWの冒頭、画面上方を覆い隠すようにしながらフレームインしてくるスターデストロイヤーの構図は、ひときわインパクトが強いものだった。宇宙船の描き方を一変させたと言って良いだろう。あまりに日本で類似の映像が多く流れたため、宮崎駿もどこかの雑誌に苦言を呈していたはずだ。SW直後、宮崎の担当作品(画面構成)「赤毛のアン」オープニングでは、冒頭に馬車が上空からフレームインしてくるカットがある。これに宮崎が皮肉として「馬の腹が延々と流れる」という演出を提案した、という噂があった。「アン」の高畑監督による「じゃりン子チエ(劇場版)」の冒頭にも、「巨大なゲタ」が上空からズゴゴゴとフレームインするショットがある。どうせフレームインするならこれだよ、という皮肉の発想が高畑・宮崎コンビらしい。
 SWの影響で蔓延した舞台設定には「様々なエイリアンのたむろする酒場」がある。実例は枚挙にいとまがないが、「銀河鉄道999(劇場版)」の美女リューズが弾き語りをする大人のムードでまとめたものや、「レンズマン」のようにディスコでフィーバー(死語)にまとめたものなど、日本流アレンジもさまざまだった。
 SW2作目「帝国の逆襲」は80年の公開。「伝説巨神イデオン」放映のころである。SW2最大の話題は「ダースベイダーはルークの父」というドンデン返しだった。あまりに日本的ウェットな展開に、当時のファンは驚きを隠せなかった。
 ここで妙な符合がある。ダースベイダーは「ドクロ」をモチーフにしたデザインである。もともとSWが企画されたときには、過去のSF映画が多数参考にされ、その中には日本の特撮キャラクターものも含まれていた。「ダースベイダー」のモデルにも諸説あるが、「変身忍者嵐」に登場した血車魔神斎ではないか、というのが有力だ。石ノ森章太郎によるコミック版では「魔神斎は嵐の父だった」という設定があるというところまで押さえて語るのが、この噂話を口伝するときのポイントである。
 81年の「最強ロボ ダイオージャ」は、もともと水戸黄門を原典とする出発点からしてハイブリッド感覚あふれる作品だったが、その最終回にはSWキャラにインスパイアされたとおぼしき3大敵メカが登場する(図参照)。だが、このダースベイダーに似たデースバンダー、顔をよく見ると魔神斎に酷似しているのだ。確か片手も鉤爪になってたはずだ。デザイン担当は出渕裕である。
なかなかシャレが効いたゲストキャラだった。
 「帝国の逆襲」以降は、日本のレベルもかなり向上し、SWを凌駕するような映像も多く見られるようになっていく。「地球へ…」や「ヤマトは永遠に」では金田伊功が高速で宇宙要塞の溝を飛行する宇宙戦闘機を描いた。このころは「とにかく溝があったら、まず入ってみる」という映像にあふれていた。
 メカや戦闘機の飛行速度や軌跡、物体の壊れるときの破片にまでこだわった板野一郎が「伝説巨神イデオン」や「超時空要塞マクロス」で見せたアニメートは、モーション・コントロール映像をスピード感と快感度で超えていた。
「宇宙刑事ギャバン」に始まる宇宙刑事シリーズの「レーザーブレード」も、渡辺宙明の軽快な音楽に乗せて異空間で光線剣が乱舞するというもので、フィニッシュの切れ味は世界のヒーロー像に新しい1ページを加えたといっても過言ではない。いつしか日本のアニメや特撮は、SWの影響を昇華し始めた。

◇スターウオーズの6年◇

 SWの一作目の米国公開された77年、日本では富野アニメ「無敵超人ザンボット3」が放映されていた。三作目「ジェダイの復讐」が公開された83年、どんなアニメがあったか、ご記憶だろうか?
 なんと富野アニメは「聖戦士ダンバイン」だ。俗悪と言われ、玩具主導のロボットが必殺技を連呼するヒーローもの。それに異論を唱える作品が出たら、SW三部作が完結する間にファンタシー世界で人間の情念を描く作品まで行ってしまった。劇画タッチでザンボットを暴れさせていた金田伊功は、「幻魔大戦」で邪念といった抽象的なものをアニメートするにいたっていた。
 この差を振り返って、眩惑感にとらわれないだろうか?
 SWも1作目よりも2作目、3作目と進むにつれてキャラクターの内面を深化させる作風へと変化し、SFX技術は格段に進歩している。だが、あえて言えば改造再生デススターをもう一度破壊させる以上のアイデアは出ていない。
 日本のアニメーションは、星の数ほどの作品が生まれては消えていく中で、技術も進歩し、表現の多様性を獲得していった。その原動力になったのは、前半で述べた「まだ見ぬSW」に対する熱いイメージと、思い入れと、貪欲な研究心だったのではないだろうか。SWの6年を振り返るとき、同時に壮絶な勢いで進化し駆け抜けていった日本の映像クリエイターたちの作品群にも思いをはせていきたいものである。

【初出:「NEWTYPE MK2」(角川書店) 1997年6月発売】

※『スター・ウォーズ』とナカグロ入りが公開用の正しい表記ですが、慣用的にはナカグロなしも許容されているようです。エピソード1公開時に書いたもので、まさか『ガンダムF91』のビーム・シールドが逆流しているとは夢にも思ってませんでした。なお、題名やキャッチ、キャプションの原稿テキストが紛失しているので、いずれキリヌキから復刻して補完します。

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2006年12月26日 (火)

ガンダムエース 2007年2月号

寄稿題名:ガンダムの時代 第52回
機動戦士ガンダムTV版再入門「TV版の中落ちに感じる美味しさ(2)」

 当方の連載は先月の続きです。ガンダムDVD-BOXも店頭に並び、こちらの作業も完了してますので、あとは下巻の上がりも待ちどおしい昨今です。今年はファーストガンダムに捧げた1年だった気がします。

 表紙は安彦ゾック! ということではたして喜んでいいものでしょうか。いや、いいのです。本編中の扱いも、なかなかのものです。「危うく赤くなるところだったのか?」などと思ってみたり。
 福井晴敏さんの新連載小説「機動戦士ガンダムユニコーン」もスタート。そちらにも安彦挿絵が入ってます。あと驚いたのは安田朗さんの「妹ガンダム」のイラスト。今月は、ちょっと濃度が高いです。正月休みにはいいのかも。

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2006年12月25日 (月)

チャイナさんの憂鬱

題名:チャイナさん:アニメの魅力

 鶴田謙二の連作"Spirit of Wonder"の中でも、チャイナさんを主人公とした一連のシリーズは発表当時から人気があった。ビデオアニメ『チャイナさんの憂鬱』も、まだ原作が「知る人ぞ知る」状態にあった1992年に、チャイナさん人気に押される形で製作された作品である。
 原作者の鶴田謙二は、特異なまで絵にこだわりのある作家である。なにしろ、日本のマンガ文化を特徴づけている擬音の描き文字を排除してまで、絵の構図と描きこみで表現しようとしているくらいだ。原作のチャイナさんは、その超絶的な画力によって、紙のコマ上に鮮烈なイメージで焼きつけられていた。笑顔ひとつとっても、感情の機微が存分に刻み込まれている。目を引くのはチャイナさんの若々しい女性特有の身体の線だ。魅惑的かつ煩悩的な曲線描写は、何度読んでも見つめても、飽きがこない。まさしくチャイナさんは、コマの中で生きているのである。
 しかし、それはあくまでマンガ特有の描写と言える。静止した紙の上に一瞬の時間を止めて定着したマンガでは、読者がコマとコマを行ったり来たり、時間の流れもおまかせで、チャイナさんへの注目ポイントも自在だ。ゆえに、この作品をアニメ化する、という行為は予想外の難問だったはずだ。アニメは量産された絵の連続で表現を行う。1枚の絵としての色つやは、セル画の連続した動きに喪われがちで、時間はフィルムが回るとともに決まったたテンポで流れていく。要するに、アニメ化にはマンガとはまったく別ものとしての処理と工夫が必要なのだ。なおかつ原作の味わいを保たなければならないのだから、アニメとしての課題は大きい。
 では、本作品はこの課題をどうクリアして、アニメ版チャイナさんとしての魅力を確立していったのだろうか。
 監督はこの作品の後に『クレヨンしんちゃん』でヒットを飛ばした本郷みつる。キャラクターデザインと作画監督は、柳田義明。制作の亜細亜堂は藤子不二雄原作作品や、魔法少女ものなど、ていねいに描かれた日常生活の中で、繊細な心理の機微と驚きを発信してきたスタジオだ。そこがキーポイントである。各カットで原作の一枚絵としての密度に迫るかわりに、チャイナさんのキャラクターを、フィルムの流れの中で浮き彫りにする。日常描写を積み重ね、最後に大きくワンダー感で打ち上げる。これによって、チャイナさんの女性ならではの感情の推移を、フィルムとして表現した。これがアニメとしての大きな魅力である。
 いわゆる「アニメ絵」に対して、チャイナさんは名前通り大陸系の造作をしており、絵的にも骨格が感じられ、肉づきよく描かれている。それはアニメ版でも、こだわって描かれた部分である。女性らしいフォルム、表情の変化は、日常的の動きの中で、観客の目を存分に楽しませてくれる。
 チャイナさんの「憂鬱」は、日常の中で、ジムが花屋のリリーと会話している光景を目撃するといった、ささやかな不協和音として始まった。それは、チャイナさんが持っているジムに対する密やかな気持ち、女性ならではの心のゆれ動きとして、映像の流れで描写されていく。子供たちと遊び、髪をとかし、料理を作り掃除をし、酒にへべれけになり、二日酔い明けでお茶を入れたりする、多彩な日常映像が展開する中に、チャイナさんの感情は、実にちょっとしたリアクションの変化として隠されている。それは、言葉にしてしまったとたん、はかなく消えてしまうような、デリケートなものなのだからこそ、映像ならではの大きな魅力となっている。
 もうひとつ、本作品の大きな魅力は、平凡な感情と組み合わされたワンダー感覚だ。SFの神髄は「センス・オブ・ワンダー」にあると言われている。日常的な感覚は、目を常識という名のフィルターで曇らせる。SFでは、科学が心を解き放ってポンと超越した驚きに変えてくれる。これが「センス・オブ・ワンダー」というもので、原作の"Spirit of Wonder"の語源ともなっている。本作でも、フィルムの流れ、扱うアイテムの対比の中で、このワンダー感へと観客を誘うジャンプの仕掛けがしっかりと存在しているのが嬉しい。前半の日常描写がしっとりしていればいるほど、後半からラストへのジャンプ率が上がり、ワンダー感が大きくなる。
 静かに始まった恋愛感情の、ささやかな嫉妬によるバランス崩しの原因は、実は他ならぬジムのチャイナさんへの贈り物だった。このトリックが、月というとてつもなく大きな天体をジャンプ台にしたことによって、世界を大きく包みこむように作動し、同時にチャイナさんとジムの感情の深さ大きさを表現している。ここが味わい深い点だ。
 「本物の月」に二人が乗って語り合うクライマックスのデートシーンでは、語るにつけ多様に変化するチャイナさんの表情が絶品だ。チャイナさんが自分の手を現実の月にかざして指輪としてはめてみる見立てのシーンで、やわらかでしなやかな女性の指と、現実には石コロの固まりである月が、ひとつ画面におさめられて、その対比にゾクゾクする。これが本物の「ムーンライト」、月の青い光に照らされる中、田中公平の音楽が雰囲気を盛り上げていく。これこそが、アニメ版ならではのワンダー感なのだ。
 以上述べたような、アニメ版ならではの魅力を追いつつ作品を観ていくと、表面で描かれた以上のものが浮かび上がってきて、より深い味わいが発見できるに違いない。
 折に触れて、再三見返しても新しい発見があって深みのある作品……それこそがアニメ版『チャイナさんの憂鬱』なのだ。
【初出:「チャイナさんの憂鬱」DVD解説 脱稿:2001.02.23】

※BOXの方には続編やサントラ、チャイナさんフィギュアなども同梱されてます。

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2006年12月24日 (日)

マインド・ゲーム

題名:閉塞を吹き飛ばす──
アニメーションの根元的驚異に満ちた作品


 昨年末からの予感どおり二〇〇四年はアニメーション映画にとって大変な節目の年になりつつある。巨匠の大作攻勢、アニメ・マンガ原作の実写化は予定どおりだが、「機械のからだ」を持つアニメ映画『アップルシード』という伏兵の衝撃も覚めやらぬ中、今度はアニメーションの根元的な「おもしろさ」を究める方向からエネルギーに溢れかえった意欲作が登場した。それがスタジオ4℃と湯浅政明監督の『マインド・ゲーム』である。
 まず映像表現が驚きの連続だ。荒々しいタッチと色彩効果で感情表現を支える背景美術。豪快に空間を歪ませまくったレイアウト。ヘタウマ系で感情のおもむくまま表情を崩しまくるフレキシブルなキャラクターは、シリアスになると声を演じる吉本興業の役者たちにいきなり実写変身してしまう。
 こんな風に、画面のテイストがどんどんと変化していくから、初恋の幼なじみ、みょんちゃんに偶然再会した主人公の西が、大阪の横町にある焼き鳥屋に行くという序盤の日常的展開だけでも、充分にワンダーに満ちた空間が拡がっていく。その闊達さは最初はとまどいを感じるほどだが、これに慣れてくると、既存表現の枠組みからの解放感が次第に快感に転じていく。
 重要なのは、表現が単に奇をてらった実験に終わらず、物語に寄りそって常に瑞々しい感情を伝えてくれることだ。相手にフィアンセがいると知りつつ、初恋以来の気持ちをストレートに伝えることのできない西。格好をつけてはみるものの、それは本当は臆病な保身的行為と知っているからこその自己嫌悪と、内心のたぎる思いとの行ったり来たりが、さまざまに変化する映像(花火の表現が秀逸)で描かれ、観ているこちらの鼓動とも共鳴していく。
 静謐なる中で高まる心の内圧は、ヤクザに主人公が最高に格好悪い方法で射殺されてしまうという展開を契機にして、一気にはじけ飛んでしまう。さらに復活後はストーリー展開にもドライブがかかり、カーチェイスや銃撃戦までエスカレートしていくが、勢いづいた驚きの先には、あらゆる予想を越えた巨大な驚きが待っているのだ。
 映画の果たす大事な役割のひとつには、「日常的な閉塞からの解放」がある。本作品は、アニメーションならではの特性をフルに活かしきって、その要求に応えている。その特性とは、実感を抽出して連続した絵の動きの中に塗り込めることだ。湯浅監督は『クレヨンしんちゃん』などでも知られる優れたアニメーターなので、動画技術だけ注目しても、「主人公がひたむきに走る」と画面の時空間全体が「ひたむき化」してしまうほど凄まじいパワーを放っている。本作ではそれに留まらず、ありとあらゆる映像表現を動員して、色彩や抽象化のレベル設定まで微妙に変化させながら、観客の根元的な生理からエネルギーを引き出そうとしているようだ。それが、「人生を前向きに生きるための活力」と直結するところに、快感の源があるのだろう。
 きちんとしたレイアウト、崩れないキャラクター、破綻のないストーリーと、この十年あまりのアニメ作品は「商品としてきれいなもの」を追求してきたようなところがある。それはそれで理由と意味のあることだったが、「もうそろそろ充分じゃないか」「この先には何もなさそうだ」と作り手も観客も思い始めている兆候が顕れ始めている。だから筆者も「大作ラッシュの後は、アニメーションの根元的な手描きの魅力に回帰した作品が出る」と予想していた。だが、「後」ではなく「最中」の登場で、他作品とまったく重ならない角度からの挑戦だったところをとても嬉しく感じた。
 「もっと好きなように暴れたらええやん」という破壊的で未来につながるアニメーション・パワーは国境を越えるのか、ジョエル・シルヴァーによる海外配給も予定されているという。作品外のサプライズも含め、驚異に満ち満ちたアニメーション体験をぜひ『マインド・ゲーム』で感じて欲しい。
【初出:キネマ旬報 脱稿:2004.07.03】

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特撮DVD-BOX特集

●宇宙刑事シャリバン
 赤く輝き、ハイテク感あふれるメタルスーツ。80年代のニュー特撮ヒーロー、それが宇宙刑事だ。第2作のシャリバンは、勇気と優しさを教える男。見どころはJACの面々が身体をはったボディ・アクション。吊り橋や断崖からジャンプしながら全身が光につつまれ、ぐぐっとポーズを決める変身シーンは、まさに特撮の醍醐味だ。勇ましい渡辺宙明の音楽に乗せ、レーザーブレードは敵を切り裂き突き刺す。元祖スターウォーズを越える迫力に、大興奮する。

発売・東映ビデオ/バラ売り 全5巻(第1巻初回には特典BOXつき)/出演・渡 洋史、降矢 由美子、西沢利明、名代杏子ほか/監督・小林義明、田中秀夫、小笠原猛、辻理、小西通雄ほか/1983年東映作品


●帰ってきたウルトラマン
 町がスモッグに煙りだしたあのころ。もう無邪気な子供ではいられない……そんなたそがれた感覚を、僕らは持ち始めていた。本作には、そんな70年代的空気がいっぱいに詰まっている。M78星雲から帰還したウルトラマンにも、傷つき悩み苦闘する人間くささがあふれていた。隊員同士の軋轢や、コンプレックスを抱いた青年など、大人を感じさせるドラマが多いのも特徴。今回は先進のデジタルリマスターにより、驚くべき鮮明さで時代の空気がよみがえる。

発売・パナソニックデジタルコンテンツ/バラ売り 全13巻予定/出演・団 次郎、岸田 森、榊原るみ、池田駿介、西田健ほか/監督・本多猪四郎、筧正典、冨田義治、山際永三、大木淳ほか/1971年円谷プロ作品


●バンパイヤ
 バンパイヤとは、普段は人間の姿なのに、あるきっかけで動物に変身してしまう呪われた種族のことだ。虫プロ商事が、手塚治虫の原作を“実写とアニメの合成”で表現した。主演のトッペイは若き日の水谷豊。月を見ると、トッペイの目は輝き、全身に剛毛が生え、牙が伸びて狼に変身する。米国の特殊メイクに先駆け、リアルな変身ものを驚きの映像で描いた。変身後はセルアニメになってしまうが……。手塚先生も自分自身の役で出演している。

発売・コロムビアミュージックエンタテインメント/BOX(7枚組)/原作・手塚治虫/出演・水谷 豊、山本義明、佐藤博、渡辺文雄、左卜全、手塚治虫/脚本監修。福田義之/監督・真船禎ほか/1968年虫プロ商事作品


●快傑ライオン丸
「風よ、光よ! 忍法獅子変化!」変身を忍法としてとらえた斬新な時代劇ヒーロー、それがライオン丸だ。白い獅子の流れるたてがみ、マントをまとった姿に「心」と書かれたヨロイ。天馬にまたがり、刀を構えるその立ち姿の美しさは感動ものだ。ライバル役のタイガージョーの生き様にも共感たっぷり。最終回、自らを犠牲にして大魔王ゴースンに決死の戦いを挑むライオン丸の毅然とした姿は、主人公獅子丸のまっすぐな気性を反映し、ひたすら涙である。

発売・アミューズソフト販売株式会社/BOX(全2巻)/上巻29,800円(5枚組) 下巻25,800円(4枚組)/原作・うしおそうじ/出演・潮哲也、九条亜希子、梅地徳彦ほか/監督・石黒光一、土屋啓之助ほか/1972年ピープロダクション作品


●仮面ライダーV3
 仮面ライダー人気の絶頂期に登場した続編キャラ、それがV3だ。この作品にはあらゆる点に華がある。特に主人公・風見志郎を演じた宮内洋は、ヒーローを演じるために生まれてきたような男。いたるところで目立ちまくる。爆風の中でよろめきながら、びしっとポーズを決め、「変身、ブイスリャ~!」とフシをつけたかけ声とともに、一気にV3に変身。空中アクションも軽やかに、V3キックでデストロン怪人を粉砕する。このカタルシスは最高だ。

発売・東映ビデオ/BOX(9枚組+特典ディスク)/52,000円/原作・石ノ森正太郎/出演・宮内洋、小野ひずる、川口英樹、山口暁、小林昭二ほか/監督・山田稔、内田一作、奥中惇夫、塚田正煕、田口勝彦ほか/1973年東映作品


●愛の戦士レインボーマン
「黄色いブタをぶっ殺せ!」この作品の敵側は宇宙人でも魔王でもない。日本人を抹殺しようとする白人、ミスターKだ。彼の死ね死ね団は、あの手この手で日本人を苦しめようと社会に挑戦する。対するレインボーマンはインドで修行し仏教の力で七つの化身となる力を会得したヤマトタケシ。独特の世界観は、原作者の川内康範ならではのもの。偽札を使う新興宗教が日本社会を混乱させる前半部は、主役の濃い演技とともに、異様に高いテンションで痺れまくり。

発売・東宝/BOX(全4巻)/各12,000円(各2枚組)/原作・川内康範/出演・水谷邦久、平田昭彦、塩沢とき、曽我町子、石川えり子、井上昭文、藤山律子ほか/監督・山田健、長野卓、砂原博泰、六鹿英雄、児玉進ほか/1972年東宝作品


●仮面ライダーアギト
 アギト、ギルス、G3……バイオとハイテクの仮面ライダーを配し、三人ライダーが誕生した。優しい主人公の加え、野性味あるスポーツマン、職務に実直な警官とバリエーションを持たせ、誰かが好きになれるラインを確立、イケメン特撮ブームを不動のものとした。敵側アンノウンの目的やアギト自身の謎など、ミステリアスな雰囲気で引っ張る作風もおいしい。アニメ畑の出渕裕デザインの怪人も美しく、後半登場のアナザーアギトは今でも大人気である。

発売・東映ビデオ/バラ売り 全12巻/各5,800円/原作・石ノ森正太郎/出演・賀集利樹、要潤、友井雄亮、秋山莉奈、菊地隆則ほか/監督・田崎竜太、長石多可男、六車俊治、石田秀範、鈴村展弘、渡辺勝也金田治ほか/2001年東映作品


●スペクトルマン
 本作は、公害問題真っ盛りの時代に製作され、チープな特撮ながら、圧倒的にダークなパワーがフィルムにみなぎっている。汚染物質をもとに生物を改造して怪獣にして地球支配をたくらむ宇宙猿人ゴリ。対抗するスペクトルマンは、公害Gメンと協力して戦う。DVDのパッケージがかなり話題になった。なんとスペクトルマンの「生首」を再現。実物大のマスクの中に、DVDケースを収納可能となっている。既婚者が持ち帰れば、家庭争議になるかも?

発売・アミューズピクチャーズ株式会社/BOX(10枚組)/56,800円/原作・うしおそうじ/出演・成川哲夫、大平透、上西弘次、遠矢孝信、渡辺高光ほか/監督・土屋啓之助、堺 武夫、石黒光一ほか/1971年ピープロダクション作品


【初出:「週刊spa!」(扶桑社)DVD-BOX特集用原稿 脱稿:2003.02.04】

※DVDのリンクは最新のものにしています。現在入手難のものも含みます。

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90年代的ファン気質

題名:90年代的ファン気質

 90年代のアニメファン気質をキーワードに総括すると、「オタクが語る」ということにつきる。アニメをただ観て楽しむ、あるいは漫然と供給されるままに関連グッズやソフトを集めるという部分から、それについて「語る」ことで、明らかに一歩踏み出た感触がそこにあった。
 「語る」行為が一般化、メジャー化するのを促進した要因は、2つある。ひとつはパソコン通信とインターネットのネットワーク・メディアの発達。もうひとつは、オタクの社会的認知度向上である。
 まずネットの発達に関して、パソコン通信を例に述べる。80年代末期からニフティサーブ(現@nifty)のアニメフォーラムが活況を呈した。開設初期は資源不足からフォーラム内にコミックから特撮までメニューが囲いこまれ、ひとつの会議室で複数作品の話を平行して扱うのも当然とされていた。会員数とモデム速度も貧弱であり、それでも充分なコミュニケーションが取れていた。
 90年代に入ってアニメ・スタッフが自発的に会員として参加することも珍しくなくなった。たとえば『絶対無敵ライジンオー』(91年)では園田英樹さんを中心とする脚本家グループが会議室に参加。会議室を盛り上げるだけでなく、ビデオアニメ化の後押しをした。表だって参加しなくとも、スタッフがROM(リード・オンリー・メンバー)として会議室をウオッチする例が多くなった。
 密度の濃い場に専門的会話な可能なメンバーが集結し、濃い会話が新会員を呼び込むという良いサイクルが90年代初頭に形成された。『美少女戦士セーラームーン』(92年)もネットの発達を促進した作品だ。爆発的な書き込み数を集め、専門会議室が2つ設立された。この成功例をバックに会議室のテーマは細分化され始めた。やがて1作品1会議室が当然になり、果ては声優フォーラムや作品固有フォーラム、アニソン専門フォーラムが独立するにいたった。
 追い風を受けて、『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)テレビ放映にあわせてニフティに初のアニメ制作会社専門フォーラム「GAINAXステーション」が設立される。エヴァ専門会議室には毎週放映終了後に読みきれないほどの発言が殺到、作品中の謎を「邪推」する会議室までできた。前後して、Windows95を起爆剤にパソコンが爆発的に普及、インターネット・ブームが発生した。結果としていちファンがホームページを作成し、情報発信することが容易になった。『エヴァ』が最終回放映を迎えたとき、ネットの温度は沸点に達した。さまざまな論議がニフティ、インターネットで怒濤のように発生し、監督個人を罵倒する発言まで現れた。
 野球鑑賞をするオヤジのように「オレならこうするね」的会話をアニメの話題ですることは、以前からあった。が、それは飲み屋や部室などの密室か、数百人程度のサークル内での出来事だった。初期のネットも、穏やかな交流の場「サロン」の雰囲気があった。
 エヴァとインターネットを触媒として、千人万人……マスコミ的単位の人間を相手に公開の場で山岡士郎(美味しんぼ)のごとくアニメを語る「辛口批評家」がにわかに大量発生した。山岡は批評の代償として一週間後に「ほんものの味」を持ってくるが、ネット発言では切り捨て御免も同然の否定的論評も少なくない。手を汚さずに、多数の人間に「ものを語る」快楽は、否定文で書かれた「言葉の暴力」というダークサイドを解放する魔力も同時に秘めていたのだ。
 ネット論評が実際の作品に反映する現象まで発生した。97年夏の映画『The End of Evangellion』で、作品中に「庵野死ね」というインターネット発言が大写しになったのである。これは明らかに最終回論議で登場した「否定文」の一部だ。同作ではファンの姿が実写で銀幕に映し出され、作品あるいは作者に浸食するネットの意見(悪意)を逆にファンに向かってフィードバックさせる演出意図が強く感じられた。このような演出は前代未聞で、まさにネットとインタラクティブになった90年代的新現象だった。
 もうひとつ「オタク」の社会的認知度向上に関してはどうだろうか。
 これも80年代末期からの現象を引きずっている。幼女連続殺人事件が88年末に発生。容疑者の部屋がマスコミに公開され、「オタク的な部屋」が初めて世間の明るみに出て耳目を集めた。これが、オタク認知のきっかけであることは間違いない。
 この事件は、オタク的な趣味が犯罪の温床になるのではないかという印象を世間に強く与え、絶大なネガティブさで記憶されている。しかし事件の本質とは別に、世の中には「オタク」的な人間が多く、アニメを趣味とすることからずっと「卒業」しない、する必要がないと思っている人々が予想外に多いということも、同時に社会的に広く認知されたのである。
 90年代は二大ヒット作、『美少女戦士セーラームーン』と『新世紀エヴァンゲリオン』によって、新ファン層の他に、第一世代を含めたかつてのアニメファンが「帰ってきた」印象が強くある。これもオタク社会認知の肯定化現象と不可分である。
 「第一世代」というのは、1960年生まれが中心で、70年代後半から80年代前半のアニメブームを支えたファンのことだ。アニメマスコミを開拓したこの世代は、「成人になってもアニメを見ていい」という前人未踏の概念を提示した。この層へのアピールが意味するのは「中年になっても、アニメを楽しんでいい」というさらに新しいパラダイムだった。残されているのは「老人になっても(以下略)」であり、これは間違いなく保証されるだろう。「語る」ブームはそれを見越しての前触れと見ることも可能だ。
 第一世代は90年代には30台である。各企業に散った彼らは、決定権を持つ年齢になった。当然、過去に思い入れのあるキャラや作品を取り込んだリリースを行う。ユーザーとしても、この世代は可分所得が多い。LD-BOXを代表とする高額商品も消費可能で、フィギュアなど高価格でこそ実現可能な高品質の商品化も、市場として成立させることが可能になった。ロボットアニメの総集編ゲーム『スーパーロボット大戦』を牽引役にして、ゲームセンターのプライズ商品を中心に高精度造形塗装済のレトロキャラ立体も蔓延、第一世代的オタク商品は、全世代を貫いて受け入れられるようになった。
 92年に「ウルトラマン研究序説」「磯野家の謎」が出版。写真集やムックでない文字主体の研究本が登場し始めたことも、90年代的現象だ。『エヴァンゲリオン』の大ヒットは通称「エヴァ本」と呼ばれる出版ブームも起こした。多くは版権を取得していない「謎本」スタイルのものだったが、研究・論評は多岐にわたり、アニメ以外の他ジャンルからも識者・ライターが多数参加、さまざまな解釈がなされた。これら「活字主体のアニメ本」は、アニメファンという閉じた存在の裾野を拡大する効果があった。
 「活字アニメ本」の主流フォーマットは、四六版もしくはA5サイズの「別冊宝島スタイル」である。「別冊宝島」は文化や生活、ノウハウなど時代に即した基礎教養を集約した「新書」的なものが編集意図だ。そこに「アニメ」も、世代の共通文化として加えられた、というわけだ。ここでも「オタクの社会認知」が着実に根を下ろしたと言える。そして研究本を通じて「オタクが語る」行為はさらに加熱した。
 レトロ商品と『セーラームーン』『エヴァ』をバックに、「オタク」が本質的に何なのかを自分で「語る」こと……作品の研究にとどまらず、「オタクの自分探し」が発生したことも90年代で重要なことだ。
 その頂点に立つのは、自称オタクの王様「オタキング」こと岡田斗司夫さんだ。岡田さんは非常勤講師として96年に「オタク文化論」を東大で行い、テキストとして単行本「オタク学入門」(太田出版)を上梓。これも『エヴァブーム』の立ち上がり時期と同期して、マスコミに大きく取り上げられ、単行本もヒットした。
 岡田さんは、自己卑下の強いアニメファンに対し、鑑賞眼と見識があればその価値観は世界にも通用すると肯定的にとらえ、「もっとオタクになって楽しもう」と呼びかけるものだった。それに応えるように、いま書店でもコミックマーケットでもインターネットでも、アニメファンが「語る」行為が世をにぎわせている。
 いま新しいミレニアムと00年代を迎え、その「意味」を再考する時期が来ている。
 まず、確認しておきたい。アニメ作品というのは、フィルムだけが独立してあるものでは決してない。必ず受け止める観客がいて、心に何らかのリアクションが起きて初めて「作品になる」のである。同様に歴史は、ただ作品とそれにまつわる事実が羅列されれば、勝手に形成されるものではない。解釈によって流れを包括的にまとめ、「語る」作業があって、初めて「歴史にする」ことができるのである。「文化」も同様だ。
 90年代以前に発表されたアニメ作品の多くは風化し、個人体験の内面世界に閉じかけていた。たとえ作品がビデオグラム化され、再見されても、「消費」という経済的な結果だけが残っては虚しい。ここでファンが「語る」行為が一般化したことは、実は千載一遇のチャンスなのである。
 アニメ作品を軸にして言葉を交わす。作品とインタラクティブに何かを語りたい、言葉をつむいでみたいというのは、極めて自然かつ人間的な欲求である。語った言葉を通じてさらに多くの人と共感を持ち、コミュニケーションを取ることで、アニメファンは「歴史」や「文化」に発展する大きなものが獲得できるに違いない。あるいはグローバルなものに発展し、感動を永遠にすることも可能になるだろう。
 否定文で構成された言葉は、人や作品を傷つけるダークサイドのものだ。その魔力にとらわれず、肯定文でアニメを語っていこう。その先にある輝かしいものを前向きに見つめていきたい。次の10年間を楽しく生き抜くために。
【初出:「月刊アニメージュ」(00年2月号/徳間書店)90年代総括特集 脱稿:1999.12.17】

※通常の敬称略にしていないのは、特集内の統一指示だったように思います。また、「リテラシー」という言葉もまだそんなに流行していなかったし、まだ匿名掲示板も巨大化していない時期ですね。この原稿のことは忘れてましたが、7年ぐらい経ったいま、「ネットというツールにはデスノート的側面がある」と書いてることの根幹にこれがあることを思い出しました。「死の宣告」というのは「他者否定」の最たるものなのですから。

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2006年12月22日 (金)

漫画映画の世界

題名:間口広く奥の深い漫画映画の世界

 実を言うと子どものころ、映画館には連れていってもらえなかった方なので、「漫画映画」の記憶はあまり残っていない。それでも『わんぱく王子の大蛇退治』だけには、特別な思い入れがある。「これこそ漫画映画」という強烈な認識が残っている。初見時に関しては、映画館(たぶんデパート内の劇場、大丸だったのではないか)の緞帳に刺繍されたクジャクの色合いまで記憶しているので、よほどすごく印象深い経験であったのだろう。映像的には、オロチの背びれが山間から見え隠れする巨大感あふれるショットや、ゆっくりと色を変化させるオロチの体色、ハイライトのない目の色などが、心中鮮やかに焼きついてしまった。これは後々の怪獣とアニメまみれの自分の人生にも、けっこう影響が大であるように思う。
 本作は日本神話をベースにスサノオノミコトの国造りを描いたものである。原作たる神話は、さまざまな研究書が示しているように、ある見方をすればおとぎ話ではなく現実の断片である。古代日本、侵略の遠征の結果として、征服者による歴史的記録が記され、それが説話に変化したもので、中には生臭い話が語り部の工夫でメタファー化されてさまざまに散りばめられているという。
 日本神話のように、現実を抽象化、暗喩化してファンタジーにした物語を、さらにもう一度、もう一段階、抽象度を上げてアニメーションとして映像化したのが『わんぱく王子~』ということになる。もしかしたら、この二重の抽象化が漫画映画としての純度を高めているとしたら、どうだろうか。
 スサノオやクシナダのキャラクターのルックは、当時から自分は好みだった。それ以前の東映動画長編作品、たとえば『少年猿飛佐助』や『安寿と厨子王丸』あたりの隈取りを連想させるキャラクターは、怖くて取っつきにくいという印象があった。それとは違うと、当時未就学児童の筆者の目から見ても好感度が高く、感情移入しやすいキャラクターだったことが、記憶に残る部分を強化する。そのデザインは、もりやすじ氏の手によるもので、以後たとえばTVアニメ『ハッスルパンチ』や『宇宙パトロールホッパ』など個人的に好感度高いものが続く。それらが、同じ森氏の手によると知るのは、かなり後のこととなる。
 それにしても、このキャラの抽象化はおもしろい。複雑な面構成を持った人体や顔面を、円筒や卵型のように簡略化されたアブストラクトな形状に置き換え、しかも無機質にならないように留意しつつデザインした、そのバランスが絶妙なのだ。また、動きに関しても、ディズニーなど欧米のアニメーション特有の「スクオッシュ&ストレッチ」(ゴムのような潰しと伸び)も、そんなに全面に出ず、くどさが感じられない。もっと簡潔で要領を得た動きで、その淡泊さが良いのだ。こういう秀逸さは、今なら言葉にも置き換えられるが、当時5歳の子どもではなぜかは理屈ではわからなかった。なのに、その明白な差ははっきりと実感されていたと、改めて思い出す。
 見た目の簡略化で取りつきやすくしたキャラクターは、アニメーション的空間の中に置かれて演技したとき、実感を醸し出して観客の感情移入を誘導する。間口は広く奥は深く、リアリティも十分にあるという、そんな作法が『わんぱく王子~』には貫かれている気がする。事実、空間そのものさえも中盤までは比較的平板に、舞台の書き割りのようなものとして描かれているのだが、スペクタクルシーン、特にクライマックスの対決では、崖や森など地形を利用した空間設計が成されていて、思いっきり立体的になる。その転換が比較的シームレスに、感情の流れに沿って自然に行われているので、気づけば遠いところまで持っていかれたという感覚があり、それが大きなカタルシスにも結びついている。
 この「間口は浅く広く、奥は深く」という作法こそが、日本版漫画映画の特質なのかもしれない。キャラの丸みとかわいさ、抽象性につい心を許すと、深い異世界へと連れられて、ドラマを演じる者たちにも共感を持たされて、気がつくと興奮と涙。清冽なアニメーションとしての個々のモーションの快感と、情動(エモーション)の同期があって、初めて感動がもたらされる。
 そういう観点で考えてみると、「これぞ漫画映画」という実感は、個々の作品に断片があるだけで、この方向性を総合的に極めきった作品は、かなり稀少なのかもしれない。逆に言えば、そこにまだ掘りつくされていない膨大なる鉱脈が眠っているということになるのだろう。そこを目指すアニメーション作家はいないのだろうか。そういえば、ゲーム『ゼルダの伝説 風のタクト』や『ポポロクロイス物語』などのキャラクターは、『わんぱく王子~』系に感じられた。意外にその方向からのアプローチに、次世代の漫画映画のブレイクスルーがあるのかもしれない……。
【初出:「日本漫画映画の全貌」図録(東京都現代美術館) 脱稿:2004.05.21】

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2006年12月19日 (火)

BLAME !

題名:果てしなき迷宮の旅路──BLAME!

 幾多にも階層が折り重なり、果ての見えないほど自己増殖した巨大建造物。誰がつくったかも定かではない人工物だけで構成された環境を、主人公“霧亥”(キリイ)はあてどもなくさまよう。階層が変わるごとに改造生物的な敵が襲いかかり、幾多もの出会いを乗り越え、彼は旅を続ける。目的は……「ネット端末遺伝子」の入手である。
──『BLAME!』という作品を要約すると、およそこういった形になるだろう。しかし、どのように言葉で要約しようとも、作品の本質的な魅力に迫ることは至難である。それは原作者・弐瓶勉のつむぎ出した暴力的なまでにサイバー的なビジュアル・イメージが、言葉以上に圧倒的な存在感と説得力を放っているからだ。
 原作コミック『BLAME!』(講談社アフタヌーンKC)は全10巻を数える長編である。その大半はテクノロジーと生物感の融合した奇怪なビジュアルとアクションに満ちているが、同時に極端に寡黙な作品でもある。ほとんどのシークエンスは、会話よりも、突発的に出現する怪物体や、距離や空間を感じさせる風景の変化で進行する。言葉による説明を排除している分だけに、その連なりは非常に映像的であり感覚的でもある。映画『BLADE2』のギレルモ・デル・トロ監督が本作を絶賛しているという事実も、これが言語の違いを超えて伝わりやすいイメージを芳醇に蓄えた作品である証左である。
 これは謎を追い求めそれを解読するというよりは、現実感を濃厚に持った危険なビジュアルに身をゆだね、感覚を体験し、描かれていない部分を妄想することで、作品世界の奥深くへと参加するタイプの作品だ。原作がこういう性質の作品である以上、映像化にはかなりの困難がともなったであろう。
 アニメ化にあたっては、ヒロインのCiboを主役にして記憶を再生するという趣向を軸にして、原作の壮大なる世界が再構築されている。1話約5分、合計6話分(DVDではさらに1話分を追加)で構成されたこのアニメーションは、原作以上に断片的ではあるが、動き、色彩、カメラワーク、そして音楽と音響というマンガにはない映像作品ならではの要素を加え、体験としての濃厚さを増強し、『BLAME!』の記憶を何倍にも増幅する方向性で制作されている。
 監督の井之川慎太郎とビジュアルデザインの鉄羅紀明はTVアニメ『魂狩 THE SOUL TAKER』で鮮烈なるイメージを発揮した先進のアニメ・クリエイターたち。音楽音響プロデュースには『千と千尋の神隠し』等の宮崎アニメや井上陽水ら高名アーティストのレコーディングで知られる大川正義。新たなるビジュアル+サウンドの衝撃が発動する。
 ディスクを手にして再生をはじめた瞬間から、あなたの『BLAME!』ワールド体験はスタートする。残酷で危険にあふれかえる旅路を、ぜひとも生き抜いて欲しい。
【初出:BLAME! DVDチラシ DVD発売日: 2003/10/24】
※鉄羅紀明氏は『ソウルテイカー』でも注目していましたが、この直後に若くして亡くなったはずです。非常に残念でした。

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2006年12月18日 (月)

ハウルの動く城

題名;生涯を彩る「幸福」の可能性を示した
   アニメーション映画『ハウルの動く城』

 宮崎駿監督の長編映画は本作含め全九本だが、その三分の一にあたる題名に「城」のキーワードが入っている。城塞が登場する作品を加えると、半数を軽く超えるだろう。城は大得意のモチーフなのだ。また、宮崎駿のミリタリー趣味満載の漫画エッセイ「宮崎駿の雑想ノート」(「紅の豚」の原作)では、多砲塔戦車が大暴れする幻のアニメ企画が紹介されている。だから永く付きあって来たファンとしては、宮崎アニメの新作が「ハウルの動く城」という題名な上に予告編で「魔法使いが戦争を遂行する世界」という映像を提示されたら、条件反射的に半球形の砲塔から褐色とオレンジに彩られた爆炎が噴出する様が、脳内にまざまざと浮かぶ。
 というわけで、タイトルロールの城が、まさかただの一発も砲弾を発射しないまま映画が終わってしまうとは夢想だにしなかった。宮崎監督はそうした戦いに、すでに関心をなくしてしまったのかもしれない。それに従来の「宮崎城」とは、縦横に拡がる構造と各種「からくり」を擁して物語のハラハラドキドキ感を紡ぎ出す装置だったはず。ハウル城も縦方向の構造は使ってはいるものの、「高みから見渡す自然が綺麗」とソフィーの幸福感が優先している。城の魅力は、むしろ外部の複合的な建造物がウネウネとうねる生物感の方から放出されている。やはり確実に「なにか」が変節しているのだ。
 だからと言って、これは決して期待はずれな映画ではない。あまりに脱宮崎アニメ的でありながらしっかりと宮崎アニメしているのは確実だ。振り落とされかけた古い観客として、新しいバランスに戸惑っているだけなのだ。ただし、こうした再構築には作り手側にもいくばくか混乱をもたらしたようで、意地悪く見れば劇中でソフィーが城を崩壊させたと思ったら速攻で再建築させる慌てぶりに、バランスの崩れが集約されているようである。
 従来のパターンを逸脱しているといえば、「もののけ姫」以後の宮崎アニメに共通した特徴なのだが、「脱ストーリー的」である。たとえば戦争というタームについて、港に帰還する多砲塔戦艦に群衆が集まるシークエンスでは、晴天の空爆の恐怖感、「敵のビラを拾うな」と憲兵が注意して回る描写の積み重ねだけで、深刻さと厭戦気分が短時間に活写されていた。これに戦局激化で街中が紅蓮の炎に包まれる災禍が加わり、戦争の恐怖イメージが力強く伝わる。だが、その戦争がまさか「あんなかたち」で終わろうとは……。ハリウッド映画的ストーリー文法ではあり得ないことで、正直ラストには非常に驚いた。
 だが、時間の流れの中で「ものの見え方」は微妙に変わるものだし、西洋的論理優先の価値観だけでは成し得ない貴重なことにも見える。しかも、まさに「アニメーション的」なものを示していると思い至って慄然とした。
 そのヒントは、ソフィーのヒロイン描写に示されている。彼女の第一印象は「魔法をかけられる前からお婆さんっぽい」だった。恐らくソフィーは、母親の長所をすべて受け継いだ妹に対するコンプレックスに悩んでいる。それに起因するネガティブな言動も見え隠れする。だが突然九〇歳になったことを契機に、彼女の物事のとらえ方は急速にポジティブに変わる。それはまさに「禍福はあざなえる縄のごとし」という諺のとおりである。
 以後のソフィーの場面ごとの変容にぜひ着目し、意味を類推してほしい。最初は腰は最大限に曲がり、関節はポキポキ鳴って声もしわがれていた彼女は、目的が明確になるたびに姿勢や発声が若返る。最終的には映画冒頭とは容姿の印象まで変貌してしまう。「呪いはかけることはできるが、誰も解くことはできない」という設定が実に象徴的で、呪いは結局は自分で解くしかないということなのだ。
 ソフィーが「人と世界」をどうとらえるか――本来の意味での世界観が、外見を変容させる。メタモルフォーゼはアニメーション独特の得意技とはいえ、この使い方の着想は卓越している。内面変化を外見的変容にシンクロさせつつ、ソフィーという一人の人格と心を統一的に見せる――こうした手業と発想のリンクは、バラバラのポーズを描く中で一連の「動画」に仕立てて人を描くアニメーターならではものだ。その意味において、映画全体から見える「ソフィーの変容」とは、実は壮大なる「アニメーション」なのである。
 この行為は、「生命を吹き込む」という「アニメーション」の語源そのものだ。そしてここで言う「生命」とは、単に生き物の動きをデッドコピーすることではなく、「生きる歓び」のベクトルを示すことと思えてくる。だから、この映画は「宮崎駿の老境」と片づけてしまえるほど簡単なものではない。人類全員、「生まれてから老いて死ぬ」という定めは共通して背負っている。死や老いを呪いと受け取るのも、積極的に生きて人生を歓びでアニメートして全うしようと思うのも、各自の自由。だが、人とは迷うものだ。そんなときの指標が見てとれることこそ、この映画最大の普遍的な価値ではないだろうか。
 人の一生がそれぞれ心のキャンバスに描く「アニメーション」であるとしたら、それをどう幸福色に彩るのか……「ハウルの動く城」には、その根源的な秘密の一端が示されているに違いない。
【初出:キネマ旬報『ハウルの動く城』特集 脱稿:2004.11.22】

※2006年12月現在、特別収録版DVDは50%OFFのバーゲン中のようです。

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2006年12月17日 (日)

修羅之介斬魔劍

題名:「修羅之介斬魔劍」虚無を見据える娯楽時代劇アニメ

■伝統芸能直系の時代劇

 「講談」は日本の伝統芸能である。寄席演芸のひとつで、戦国大名に御伽衆が軍記を語って聞かせたのがルーツと言われている。「修羅場」は、この中で特に合戦の場面のことを指す。
 講談の内容は軍記の他に仇討ち、御家騒動など多岐にわたり、特に義賊など「悪漢」が活躍するものは、浄瑠璃、歌舞伎を含めて江戸時代に人気を集めたという。
 鳴海丈原作による時代劇アニメ『修羅之介斬魔劍』は、日本人に連綿と受け継がれてきた講談文化の直系たる作品である。
 主人公、榊修羅之介は、「死鎌紋」と呼ばれる不吉な家紋を背負い、比類無き剣の達人だ。その名の通り、彼の動くところ修羅の連続となり、血の川が流れる。
 心に深い疵を持つ主人公、姫様の誘拐事件、「銀龍剣」と呼ばれる宝物をめぐる三つどもえの争奪戦という定番の設定を軸にして、喪われた江戸の風景をバックに壮絶な乱闘・死闘が描かれる。もちろんお色気タイムも用意され、娯楽度数はかなり高い。
 この作品は、大人のためのエンターテインメント時代劇なのだ。

■氷の視線を持つ美剣士

 原作の『修羅之介斬魔劍』は、1990年から長編ノベルズとして5巻が刊行された。現在では徳間文庫で読むことができる。
 最初の刊行時(カドカワノベルズ版)では、イラストをアニメーターの杉野昭夫が担当。1990年末に小説版刊行間もなく同じく杉野昭夫のキャラクターデザインと、出崎統監督によってアニメ化された。脚色は原作者の鳴海丈自らが行い、50分という短い時間の中で多くのイベントを手際良くまとめている。
……寛永十二年、徳川家光将軍の治める江戸の世に半鐘の音が響き渡った。見せ物小屋から逃亡した白虎が町に出て、凶暴な牙で人々を食い荒らしていったのだ。捕方たちも次々と倒され、白虎が江戸城へと歩みを進めたそのとき……烈風の中をひとりの浪人者が白虎の進路に現れた。
 浪人は冷ややかな視線を白虎に向けると、一刀のもとに獣の体躯を両断した。浪人は奉行たちの感謝をよそに名も告げず、その場を去るのだった。
 彼がこの物語の主人公、榊修羅之介である。
 修羅之介は長髪、美形の剣士であり、その腕は天下無双。感情を乱すことなく、目の前の障害を淡々と退ける。
 白虎に対峙したときも、風に乱れる髪を気にもせず、ただ見据えるだけだ。この時期、出崎統監督は「眼光」の演出に凝っていた。このとき放った視線にも冷たく青白くほのめく光が重ねられ、赤く殺意に燃える白虎の視線と交錯していた。
 この後のシーンでも、何度か修羅之介の視線に光が重ねられている。修羅之介自身の表情は滅多に変化することがないが、目の光芒はさまざまな彩りを見せる。
 虚無をベースとする修羅之介のヒーロー像に、この視線の変化は独特の味つけをもたらしているのだ。

■アニメによる江戸の描写

 『修羅之介斬魔劍』は、50分の作品にしては空前と言って良い密度のアニメである。バトル、濡れ場などイベントだけでも軽く10以上はある。人物も次から次への登場で、乱戦の結果死んでしまう人物も少なくなく、テンポがよい一方で、あっという間に通り過ぎる印象もある。解説的な部分は切り捨られ、ストーリー的にも未完のまま幕を閉じる。
 パッケージには書いていないが、本編ラストには「VOL1」とあって、小説の展開にあわせてシリーズ化が予定されていたことが判る。1本のアニメとしては、バランスは崩れているかもしれない。物語に「体験」ではなく「説明」を求める者には「結局、なんだったんだ」という感想しかもたらさないかもしれない。しかし、そう簡単に切り捨ててしまうにはいかない魅力がこのフィルムにはあふれているのだ。
……白虎の襲撃はある種の陽動作戦だった。江戸の警備がそちらに集中したとき、怪忍者の一群が南倉藩の屋敷を襲撃し、真夕姫を誘拐した。彼ら世鬼一族の狙いは、伝説の銀龍剣。南倉藩は白虎を退けた修羅之介の腕に着目し、真夕姫奪還の使者として選んだ。
 修羅之介を待ち伏せ、腕試しをする展開は迫力である。神社の境内で6人の武士に囲まれる修羅之介。警告を無視して斬りかかった全員があっという間に骸をさらしていく。最後に残った剣客、田代軍兵衛は、名乗りを上げて立ち向かった。静かな木漏れ日の中でにらみあいが続き、アゲハ蝶がひらひらと舞う。裂帛の気合いとともに真剣が交錯、修羅之介の秘技「無神流・魔滅死」がきらめくと、蝶はまっぷたつに斬り裂かれ、軍兵衛の首は胴体から離れていくのだった。
 一般論的には、アニメ化には向き不向きがある。時代劇は、どちらかと言うと、向いていないジャンルに属している。セル画はどうしても存在感に乏しい素材であり、和服の着こなしひとつ取ってもセル表現にはハードルが高いからだ。ましてや時代考証を追求するのは、SF設定をひと山つくるのとは比較にならないほど大変だ。
 だが、この作品は「アニメで時代劇」という表現に挑戦し、エンターテインメントとしての一線を勝ち取ったのである。
 まだアスファルトも電気もないころ。風が吹けば砂煙が道に舞い上がり、夜ともなれば深い闇を提灯を頼りに歩かねばならなかった。それだけ人工のものとは縁が遠く、まわりすべてが自然の生と死に満ちていた時代……そんな雰囲気をこの作品は全身で放っている。先の決闘シーンも、夏の暑い日差しに周囲は蝉時雨の音、それがあってこそ剣劇の気迫が高まる。
 夏祭りの雑踏、見せ物小屋のおどろおどろしい書き文字、笛や太鼓の和楽器による懐かしい音楽……。
 修羅之介の住まいは荒れ寺。たそがれ時の柔らかなオレンジ光の中、羽虫の音が聞こえ、夜ともなると蒼い闇があたりを包み、墓場には蛍が死者の魂のように舞う。
 凄惨な剣劇の前後に散りばめられた、こうした一見なんでもない光景は、現代ではほとんど省みられない過去のものである。修羅之介が虚無を背負うように、これらが現存しないというのもひとつの虚無である。
 このアニメでは、そこに哀切をこめるかのように存在感豊かに描いている。その表現は、アニメだからこそ逆に可能となったものだと言える。そして、静かで豊かな情景描写があるからこそ、剣が舞うたびに腕が飛び、臓腑が舞い散り、頭蓋が割れるといった生理的なショックがより効果的になり、死の一瞬が鮮やかに浮き立つのである。
 血しぶきのほとんどは、この作品では黒く潰されて描かれている。いたずらに血の色による刺激に頼ってはならないという、出崎統監督なりの節度と、対比へのこだわりがここにこそ見える。

■虚無を見据えるキャラクター

 修羅之介は無敵の剣の腕前を持つヒーローである。成長とは無縁の、ある種完成されかけたキャラクターだとも言える。それがゆえに虚無をたゆたえているのかもしれない。
 彼は決して正義の味方でもなければ完全無欠でもない。物語が進むにつれて、そこはかとなく修羅之介の心のひだが見えてくる。そこが大きな魅力である。
 裏の世界に住む修羅之介は、決してストイックではない。酒も飲めば、女も抱く。女掏摸のお蓮が恥をかかされた恨みで殺しに来れば、裏に潜む慕情をくみ取り極楽に送ってやる。南倉藩の依頼を引き受けた動機も、大金の受領が前提である。
 彼の剣はときとして心の翳りを映し出すことがある。姫と剣の引き替えに出向いた修羅之介は、船着場の一家惨殺光景を目撃した。世鬼一族が口封じのために行ったことだ。
 子供までも手にかける非道さに、修羅之介の目が輝き、囲む忍者たちに向かって剣がきらめいた。
「あ……兄上……」
 その瞬間、黒い画面にこの声がインサートされる。かつて修羅之介は自分の両親と実の弟を自らの手にかけた過去を持っていた。詳しい顛末まではわからないが、彼がこの一件で深い喪失感を抱きながら生きていることは了解できる。
 子細不明で充分ではないか。しょせん、人は他人になりかわることなどできない。人生を完全に共有することなどは、不可能なのだ。しかし、人を理解することはできる。人となりを想像することもできる。
 黒い画面に息も絶えそうな少年の声……それに重なるような激しい剣の動きと血しぶき。この積み重ねがかきたてる妄想に近い想像力こそが、修羅之介のキャラクター造形をぐっと深いものにしているのである。

■はかなき朝露の恋

 さらに修羅之介の人となりをいっそう深めるものがある。それは純粋無垢なる者、真夕姫を前にしたときに明らかになる。
 救助に来た修羅之介を前にして、世鬼一族の大頭、獰頑は真夕姫の喉元に刃を突きつけ、恫喝する。
 この窮地に真夕姫はまったく動ぜず、自らの命を絶つよう告げた上で、修羅之介に問いかけた。
「恋……恋とはなに? 私は知らずにこの世を去ります」
 修羅之介も全霊をこめてそれに応える。
「されば恋は朝露なり。この世にとどまるは一時。もともとこの世にはなきものと思われよ」
 姫はこの回答に満足し、やがてこの無頼の浪人に心ひかれていくようになる。それは、人も世界もそして恋さえも、この世にはなき幻と知る修羅之介の虚無を観たからだ。それを知ってもかつ戦う心の深さに触れたからだ。
 「人に夢」と書いて「はかない(儚い)」と読む。「はかなきは人の命」これが田代軍兵衛に対して秘技「魔滅死」を放ったときの修羅之介の言葉である。彼が剣をふるうとき、人の命を奪うとき、どう考えているか端的に表した言葉ではないか。
 かつて確かにこの世界の過去として存在した江戸の世界。うつろいながら夢のように消えていった風景、建物、文化、生物たち……。
 そこにも確実な生と死が存在したのだ。
 いまよりも深い闇とほのかな光の中に、もっと深刻でかつ豊かな振幅の大きな死生観があったのだ。
 『修羅之介斬魔劍』の荒削りで駆け足の映像の流れの中で、虚無とはかなさを知る主人公が、死をまき散らしながらも生の真実に到達しようとする。
 アニメが「生命をふきこむもの」を自認するならば、このように喪われた死生観を追求するのもひとつのあり方なのではないか。
 修羅之介のもつ一見虚無のような視線の彼方に、こんなことがかいま見える。

《以下はコラム》

●江戸の灯り様々

 現代日本では夜に蛍光灯をつけ、まるで昼間のような明るさを欲する。だが、欧米家庭では白熱電球の柔らかく黄色い光を間接照明にするのが一般的で、ロウソクやランプの趣がいまも残っている。本作品でも、ナイトシーンは行灯などの光源、色を非常に意識して画面がつくりこまれている。水面に映る送り火の光、障子によぎる室内の人影、提灯に照らし出された不敵な笑顔など、古風な江戸の光がこれから起こるドラマを盛り上げているのだ。

●多士済々のキャラクターたち

 本作品は50分のビデオアニメとは思えぬ壮絶な人数のキャラクターが登場する。鬼子母神の彫り物を背負った女懐中師という定番のキャラから、出雲の阿国という実在の人物、そして金で殺しを請け負う柔術使いの魔狼次まで、それぞれの生き様を背負って活躍するのである。悪役の世鬼一族の登場人物たちも、なかなかのフリークスぞろいだ。大鎌や棘の鞭、行灯の火などを使う比較的ノーマルな忍者から、果ては蜘蛛の巣をはり糸を吐くもの、湖底に沈んで全身に吸盤を持つ蛸忍者など、ショッカー怪人なみのやつまで登場する。当然、すべて修羅之介にやられてしまうのだが……。圧巻は世鬼一族の大頭「不死の獰頑」。その名の通り、刀で全身を串刺しにされても、その破片をへし折り、筋力で排出してよみがえってしまうのである。

●死生観のこもった風景

 榊修羅之介が住まう荒れ寺は、通称「投げこみ寺」という。行き倒れや天涯孤独な人の死など、無縁仏が捨てられていったところからそう呼ばれる。夜になって蛍が密集するそのほのかな美しさに注目だ。人質交換は上野は不忍池の中にある小島。そこには蓮が密生しているが、本編の中でも言われているとおり、極楽浄土を思わせる光景だ。こんな風景の積み重ねは、フィルム全体に確実にあるテイストをもたらしているのである。

●江戸の路傍描写

 冒頭、暗い闇から始まる江戸の風景。木造建築で作られた街は、物語の中で、さまざまな顔を見せる。白虎が逃げ出した見せ物小屋を中心に、出雲の阿国一座、女懐中師と主要人物を手際よく集めている。のぼりと看板で派手に飾られた道を人混みがゆっくり動くのも風情のうちだ。魔狼次が殺しを実行する川辺の風景も、倉がたて並んでいて、実に江戸らしかった。ラスト、修羅之介と魔狼次がすれ違う路も用水桶や暖簾などが配置され、実に良い雰囲気を出していた。

《DATA》

原作・脚本/鳴海丈 監督・絵コンテ/出崎統
キャラクターデザイン・作画監督/杉野昭夫
企画/伊藤源郎 プロデューサー/高橋尚子、田宮武、出崎哲、池田憲章 演出/松園公 美術監督/阿部行夫 撮影監督/高橋宏固 音響監督/浦上靖夫 音楽監督/鈴木清司 音楽/渡辺俊幸 協力/角川書店 制作協力/マジックバス、デュウ 製作/プロミス、東映ビデオ
■CAST
修羅之介/井上和彦 真夕姫/佐久間レイ 魔狼次/玄田哲章 大善/岸野一彦 信右衛門/稲葉実 忠澄/亀井三郎 お蓮/佐々木るん 阿国/藤田淑子 澪/水谷優子 積雲/藤本譲 天海/渡部猛 お園/一城みゆ希 軍兵衛/菅原正志 流閃/広瀬正志 ナレーション/小林清志 ほか

【初出:月刊アニメージュ連載「世紀末王道秘伝書」巻之弐拾六 脱稿:2000.04.19】

※2008年10月にDVD化されました。改訂します。

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AIR(出崎統監督)

題名:映像の詩人・出崎統が掘り当てる「感動の鉱脈」

 2004年に『エースをねらえ!』が上戸彩主演の実写ドラマでリメイク、オンエアされて反響を呼んだ。原作は山本鈴美香のマンガであるが、本当の原作はTVアニメ版(1973年製作)と言うことができる。特にテニス試合でスマッシュを打ち込まれた驚愕の時間感覚が一瞬だけスローで表現されたり、流れるようなカメラワークで感情のリズムを組み立ててドラマを盛りあげる様は、アニメ版を強く意識した実写への移植のように思えた。
 そのオリジナルにあたる『エースをねらえ!』を演出した監督が、日本の多くの映像作家に影響を与え、数々の傑作アニメフィルムをものにしてきた出崎統(ルビ:でざき・おさむ)である。
 今回、美少女ゲーム『AIR』を原作に映画化すると聞いて驚いた方も多いというが、私としては「これはかなりの傑作になるのではないか」と、期待に身が引き締まった。ここでは出崎統監督の足跡を紹介しつつ、なぜ傑作の予感がするのか、理由につながる要素をあぶり出してみたい。
 出崎統監督の歴史的な功績を広く一般的に紹介する言葉としては“『あしたのジョー』の梶原一騎(高森朝雄)・ちばてつやに続く三人目の作者”というのが簡潔にして適切だろう。原作マンガ『あしたのジョー』は超ロングセラーとなって、現在でも新たな若いファンを獲得している歴史的名作だが、「これがジョーだ」という世間のイメージには、実はアニメ版の影響が大きく作用している。
 ぎらつく白い光線で染め抜かれた背景。モノトーンに色彩を抑えられ、ザラザラとした斜線(タッチ)で描かれた荒々しいキャラクターが、凄まじいスピードで猛然とダッシュ。汗が糸を引き、二匹の野獣が激突した後は、鋭いパンチを受けたボクサーがスローでダウンしていく。リングに沈んだ体躯には上方から七色の光が差し込む……。これこそが出崎統監督によってアニメ化された『あしたのジョー』『あしたのジョー2』の演出で、もしかすると原作の印象を上書きした可能性のある「ジョー像」なのだ。
 ただし、単に原作マンガからアニメへの変換テクニックがうまいという表層的なことが言いたいわけではない。確かに出崎統監督の映像は、テクニカル面で日本のアニメーション全般に計り知れぬ大きな影響を与えている。たとえば感極まった瞬間に画面が静止してイラストタッチに変化するハーモニー(描き画)処理や、ショッキングな瞬間に同じカメラワークが3回繰り返される撮影技法の原点は、出崎統作品にある。その最たるものが細く差し込むキラキラした「入射光」で、今では様々なアニメで使うこの光は、出崎統監督のイメージに応えるべく開発された撮影技法なのだ。他にも日本独自の「アニメ的」と感じる作法には、出崎アニメとその成功が定番化させたものが多く、「テレビアニメの文法を確立させた」という評価さえある。
 こうしたバックグラウンドのためか「技法の人」「職人」という誤解も少なくないのだが、実態はまったく逆だ。これほどエモーショナルにフィルムを演出できる映像クリエイターも、他にはいないと断言できる。むしろ「映像の詩人」とでも呼ぶべき鋭い感性を持ち、本質としては「情の人」というのが私見である。だからこそ、出崎統フィルムには血が通っていると感じられるし、観た者を圧倒するオーラがそこに輝いて見えるのである。
 ある超ベテラン声優に取材をしたとき、こういう意見を聞いた。「出崎統監督の作品ほど役者にとってやりやすいフィルムはありません。台本どおりにセリフを読んでさえいれば、自分の自然な生理と感情が画面と合っていくのです。優しいときにはゆっくり静かに、怒っているときには早く激しく。呼吸に狂いがなく、ピタリとマッチするんです」
 これは出崎統監督作品に共通して感じる、観客と登場人物との気持ちのシンクロを見事に裏づけた証言である。人間は生物だから、理屈よりもこうしたリズムや呼吸といった生理に基づくものを優先的に取り入れる。ことに驚いたり悲しんだり喜んだりといった情緒面においては、言葉そのものよりも視覚・聴覚の印象の律動の方が大きく作用する。
 そうした原則を熟知している出崎統監督は、原作の読み方や解釈もまず感情ありきだし、アニメの演出技法も感情を優先したものになっている。たとえば、情動を優先すれば主観的にこういう画の流れに見えるはずだということが徹底されて、それが独自のスタイルをつむぎ出している。出崎統フィルムでは、何の前触れもなくポンと画面内にものが大写しになったりする。それから改めて、なぜそんなものが見えたのかドラマが展開するが、説明のないことも多々ある。そこに理屈はないからだ。観客が登場人物の心に同期したとき、「ほら、これが見える!」という情動が発生して、その結果として映像が呼び込まれるわけだ。こうしたリズムがうまくハマったとき、キャラクターとフィルムと観客が溶け合ってひとつになった至福の瞬間が生まれる。
 このようなエモーショナルな感覚が積み重なってリズムを織りなし、集約して温度が上昇した結果、ほとばしる情熱にまで高まって感極まらせ、時には一生分ではないかというほと大量の涙を流れさせてくれるのが、出崎統監督のフィルムなのである。
 そんな出崎統監督の代表作を列挙すると、『元祖天才バカボン』、『ベルサイユのばら』、『コブラ』、『ゴルゴ13』、『ブラックジャック』(ビデオ版・劇場版)、『とっとこハム太郎』(劇場版)とメガヒットのマンガ原作がズラリと並ぶ。児童文学をアニメ化した作品では『ガンバの冒険』(冒険者たち)、『家なき子』、『宝島』とこれも錚々たるタイトルだ。これほどポピュラリティの高い原作ものを多数手がけたアニメ監督は、他にはいないだろう。
 つまり、出崎統監督はギャグ、青春ものから人生経験を集約した超大作まで、オールラウンドに対応可能な、希代の演出家なのだ。しかも必ず原作の「本質」とでも言うべき鉱脈をズバリ探りあてるような手腕を発揮する。観客は再構成された原作の味わいをフィルムとして吸収しなおし、あらためてその感動を「経験」しなおす。すでに業界で40年以上ものキャリアを積みながらも、出崎統監督のフィルムは永遠に瑞々しい。それは情熱と冒険心を持ち続けている証左に他ならない。
 以上のような出崎統監督の特質を知るがゆえに、『AIR』劇場アニメ化への期待は高まるばかりである。反射神経やパズル性や重視したゲームと違い、感情を重視し「経験」としての味わいをもつようなゲーム原作は、それだけで「出崎統フィルム」と親和性が高いと思うからだ。
 もちろん、出崎統監督ならではの独特の美意識は、設定や性格、作劇展開といった諸要素に対してフィルムにするための大幅な変換をかけてくるだろう。これまでの多くの原作に対峙してきたときのように。しかし、一見して「違うもの」に思えるアニメとゲーム、ふたつの作品の中から、突如として響きあうような大きな感動が浮き彫りになってくることは、すでに約束されたようなものなのだ。
 ぜひとも出崎統監督が掘り当てた「感動の鉱脈」を共有して欲しい。そして、そうした共鳴の奇跡に興味を持ったら、「出崎統」の名前を覚えて他の作品も味わっていただきたい。それは間違いなく、あなたの人生を豊かにしてくれる至宝なのだから……。
【初出:劇場版「AIR」パンフレット 脱稿:2005.01.15】

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2006年12月16日 (土)

宝島

題名:ジムとシルバー、二人の宝

 『宝島』は1978年10月8日から1979年4月1日まで、全26回にわたって日本テレビ系で全国放映されたTVアニメである。前番組『家なき子』に続き、出崎統監督(クレジット表記は演出)、杉野昭夫作画監督以下メインスタッフもほぼそのまま移行している。
 同時期のアニメ作品は、劇場では『ルパン三世[マモー編]』、TVでは『闘将ダイモス』、『無敵鋼人ダイターン3』、『宇宙戦艦ヤマト2』、『新・エースをねらえ!』、『赤毛のアン』、『キャプテンフューチャー』など。時間枠は日曜の夜6時30分、つまり『サザエさん』の裏側で、視聴率的には苦戦したものの、多くの熱狂的なファンを獲得した。当時は月刊アニメージュが創刊されて間もない頃で、何度か特集も組まれている。この作品のジョン・シルバーという名キャラクターと出崎オリジナルの最終回で、いわゆる「出崎・杉野コンビ」のファンになった人間も多く、その点でも出崎作品を代表作する傑作と言えるのではないだろうか。
 原作は、英国スコットランドの小説家ロバート・ルイス・スティーブンスン(1850-1894)による同名の海洋冒険小説で、初版単行本は1883年に発行されている。以後、100年以上にわたって、この小説は各国で翻訳され、ディズニー映画(実写)はじめ過去に何度か映像化もされた。日本でも手塚治虫のマンガ『新宝島』や東映動画の長編アニメ『どうぶつ宝島』(1971)などの翻案作品があり、雑誌・出版社の名前にも使われるほど「宝島」という名前はポピュラーなもので、「冒険」の代名詞とも言える存在である。
 児童文学を材に取ったこの『宝島』では、少年のきらめく冒険心が物語を引っ張っている点が、出崎統監督が作品を越えて追い続けるモチーフにぴったりと適合していた。海賊シルバーという存在は、ジム少年のすこしだけ先を行き、彼を導くものとして位置づけられている。出崎作品の多くに共通する『あしたのジョー』の矢吹丈対力石徹と同じ構図が、この作品でも輝かしく描かれているのだ。
 本作では、物語の求心力となる「宝探し」を中心にして、ジムとシルバーの関係が全編を通じてダイナミックに描かれている。ジムはシルバーと立場の違いから敵対し、裏切られたと思って反発する一方で、シルバーのことを男の中の男と認め、強くひかれていく。対するシルバーもジムに何度もじゃまをされながら、その中でジムのことを特別に思うようになっていく。この微妙に矛盾を抱えた関係が、ドラマを生み出すもとになって、強く観客を引きつけるのである。
 シルバーの人間としての魅力は、実に奥深いものがある。人間に関する出崎統監督の深い洞察に基づく描写が、いたるところにちりばめてある。
 遠眼鏡屋の「肉焼きおやじ」としてジムの前に現れたシルバーは、ジムの疑いを晴らすために黒犬という海賊をたたきのめした。戦いで松葉杖を失って、身体を左右に揺らしながらおどけた格好で帰る、その飾り気のない姿をきっかけに、ジムは心を開いていく。乗船後のシルバーは、ジムに明るく気さくで親しみあふれる態度をもって接する。それだけではない。毅然と亡霊に立ち向かい、神も悪魔も信じず、ただおのれのみを信じるシルバーの態度は、ジムの目には「理想の船乗り」いや「理想の男」として映るようになっていく。
 シルバーはジムを何度もだましている。裏切りや、逆らう仲間を無情に殺す行動など、それだけを取れば海賊シルバーは、紛れもない「悪」を実行していることになる。ところが、実はシルバーの行動原理は終始一貫しているのである。目的を達成するため、強固な意志で挑戦を行い、つまらない理由で自分の行く手を妨害する者を排除している。それもユーモアをたたえながら……。彼の信念に基づく行動が、ある基準で「悪」と規定されているだけなのである。
 シルバーに対して何度か手下が逆らうが、返り討ちにあってしまう。ジムも刃向かって行くが、シルバーはジムに対しては荒っぽいことをしない。その理由をシルバーが口にすることはない。第20話では、ジムをかばいだてしすぎたため、ジョージが反乱を起こし、シルバーは磔にまでなってしまう。だが、シルバーは人としての器量の差だけで騒動を鎮めてしまった。そのシルバーをあこがれの目で見るジム……。
 続く第21話では、宝を前にして不自由な足で、どんな荒くれ男よりも早く進むシルバーに、ジムは感心する。シルバーはここで明言する。
 「男はな……ジム。いったんやろうと決めたことがあればな、一本の脚だって、二本、三本になるもんだぜ。自分でいったん決めたことは、とことん最後までやる! いいも悪いもねえんだ。それがオレの流儀さ」
 この描写で、シルバーがジムになぜ好意を持っているかが、はっきりする。
 ジムは自分の頭で考え判断をして、シルバーに挑戦をしている。そこが刃向かってくる手下と違うのである。ジムの発言には「誰々がこう言っているから」とか「誰々が気に入らないから」ということはない。「ぼくがこう思うから」ということしかない。さらに「負けるかもしれないけど」という考えもないのである。
 つまり、ジムの行動とは、「信念」がともなった「挑戦」なのだ。人はそれを「冒険」と呼ぶのではないか。そういうジムだからこそ、冒険者としてのシルバーにあこがれるわけである。シルバーもそんなジムの中にかつて冒険をしようと初めて旅に出た自分の姿を見ているのだろう。だから、果敢に向かってくるときには、もっと厚い壁になろうとするし、周囲の状況がジムにとって絶対の不利になるときにはシルバー自身を危うくしても、さらにもうひとつ大きい力でおさめ、ジムの未来を守ろうとするのである。こういう関係こそが、真の意味で「信頼」と呼べるものだ。それは敵味方をも超越してしまう、人間と人間の関係なのだ。
 こういった部分に着目してジムとシルバーの関係を追っていき、最終回のラストシーンまでたどりつけば、この作品が追い求める「宝」なるものが、本当は何を意味するのかが、おのずから明らかになっていくだろう。そして一番大事なことは、ジムとシルバーにあこがれが持てる観客ひとりひとりの中にも、「本当の宝」が確かに存在する、という事実なのである。
 さて本作品には、テレビ放映が終わってから製作された作品として、総集編映画と続編があり、DVDBOXの下巻に収録予定である。
 総集編映画は、劇場興業ではなくホール・公民館用の上映のために作られたもので、1987年5月9日に共同映画全国系列会議配給で公開された。構成・監督はTV版で約半数の回でディレクター(各話演出)をつとめた竹内啓雄が担当し、全26話を1時間30分に圧縮しておさめている。メインキャストはシルバーが若山弦蔵から羽佐間道夫に、ジムが清水マリから野沢雅子に変更されており、印象が少し異なったフィルムになっているが、物語的に大きく変更されたところはない。ビリー・ボーンズがベンボー亭に現れてから宝島での争奪戦、最終回の後日談的部分にいたるまで、ストーリーのエッセンスとなるところを手際よくまとめた映画となっている。今回が初のビデオグラム化となる。
 続編『夕凪と呼ばれた男』は、1992年にケイエスエスからLDBOX『宝島メモリアルBOX』が発売されたときに、新作映像特典として制作されたものである。わずか10分の短編であるが、出崎統監督によるオリジナル・ストーリー、杉野昭夫の新キャラクターが用意され、ファンの間で話題を呼んだ。ことにTV版最終回におけるラストシーンできれいにまとまった作品に、さらに新作をどう展開するかが興味の的になったが、出崎統監督は見事に期待に応えてくれた。
 宝島の冒険から10数年後、一等航海士となったジム・ホーキンスは、立ち寄った港町ではぐれ鯨と戦う一本脚の男の話を耳にする……。『白鯨』にあこがれをいだく出崎統ならではの後日談であり、未来に向かって開かれた「宝探し」を予感させる作品である。
 『宝島』は、疲れているときにこそ見て欲しい作品である。現実世界はいつも荒海で、われわれは嵐にもまれながら航海を続けている。だが、私たちも宝を求めて冒険の船出をしたはずなのだ。宝のイメージ、つまり地図は、疲れてくると見失われがちである。
 宝の地図が、このアニメを見ることでふたたびはっきりと目の前に浮かんでくる……そう信じて、また冒険の旅を続けようではないか。
【初出:宝島DVD-BOX用解説原稿 脱稿:2001.06.10】
※旧DVD-BOX上巻用の原稿です。現在では以下のBOXが入手可能です。

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2006年12月12日 (火)

鉄人28号(2004年版)

題名:21世紀の鉄人伝説

 本作『鉄人28号』は、通算4回目のTVアニメ化にあたる。しかし、2004年……21世紀初頭に放映されたこの作品は、過去のいずれとも違ったテイストをもつ異色のアニメ作品となった。それはなぜなのだろうか。
 原作者は故・横山光輝(本作の放映中に事故死された)。漫画掲載は光文社の月刊誌「少年」(現在休刊)で、昭和31年7月号から連載されるや手塚治虫作「鉄腕アトム」と並ぶ人気作となった。日本独自の文化たる巨大ロボットもの系譜も、ここからスタートしている。
 今回のアニメ化は、ある意味原作にいちばん忠実と言える。物語の「時制」を連載されていた「昭和30年代初頭」においているからだ。しかし、別の意味ではいちばん遠いとも言える。当時の時代性をなるべく排除した原作漫画に対し、本作では舞台となる町並みや事件のディテールをリアルな視線で拾い上げ、21世紀の現実から振り返ったことを最大の特徴としているからだ。いわば原作掲載時点が舞台の「時代劇」として描いているのだ。
 その理由とは、「鉄人の正体」を考えればある程度は自明である。
 もともと鉄人28号自体は、太平洋戦争時に秘密裏に開発された「兵器」と設定されていた。これは戦後11年の連載開始時点で、巨大な人型機械にリアリティをもたせるための措置だった。だが、直後に日本は高度成長期に入り、わずか7~8年にして最初のTVアニメ化時点(昭和38年/1963年)では、時代の風は科学による未来志向となり、戦争は懐古すべき遠いものとなりかけていた。
 しかし、太平洋戦争とは日本人だけで300万人以上を死に追いやり、大きな爪痕を残した災禍だ。そして降伏・占領後にアメリカと結んだ関係は、今なお世界情勢における日本の立場を支配し続けている。その反面、NHKのドキュメンタリー『プロジェクトX』で描かれたように、終戦直後という時代だけが成し得たエネルギッシュな出来事も多い。
 そうした混沌の時代だけがもつ独特の空気の中に、誰もが知っているあの鋼鉄の巨人が戦争の空気をまとって立ったら……という「IFの世界」が、21世紀の『鉄人28号』が目ざしたものなのだ。
 こうした企画の外枠が決まった上で、監督は今川泰宏が担当することによって、本作のドラマはさらなる深化を遂げる。今川監督は90年代に『ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日 -』というビデオアニメの傑作を発表している。これは横山光輝のさまざまな漫画の名キャラクターを配役し、総登場させた野球のオールスター戦のような作品であり、少年漫画の基本に立ち返った激しいドラマのエスカレーションが話題を呼んだ。
 これと相似形の手法が本作『鉄人』にも採用されている。原作鉄人に登場する有名キャラクターとロボットを総ざらいし、昭和30年前後の戦後の混乱期に発生した謎めく事件をからめ、さらには昭和の空想特撮映画のテイストまで空気感に取りいれ、濃密なる情念が漂う独特の世界観を作りあげていった。
 ゲストキャラクターの声のキャストは、TV時代の黎明期から活躍している超ベテランで占められ、重厚な画面にさらなる重みを加えて聞き応えあるものとされた。映像で特筆すべきは独特の色づかいと美術だ。アニメーション作品は子ども向けで派手な色彩というイメージが強いが、本作ではあえて彩度と明度を抑え気味のカラー設計がなされている。褐色や濃緑色をベースにした色味は、木造家屋や路面電車の目立つ美術背景とマッチし、レトロとは違った戦後昭和の世界観を体現している。DVDでは画角が16:9ワイドとTV放映より拡がっているので、昭和30年代初頭の世界もよりリアルに見えることだろう。
 こうした物語世界の底に流れるのは、今川監督の得意とする「父と子のドラマ」である。男子として乗り越えるべき父親像は、正太郎にとってはあらかじめ喪われていた。しかもその父は鉄人に「正太郎」という同じ名前をつけた上に、戦争という大きな災厄の中核さえも封じこめていた。そんな後半の「バギューム=太陽爆弾」をめぐる連続活劇は、往年の作品がもっていた逆転また逆転のハラハラドキドキ感を復権させた上に、父の世代と戦争の精算のひとつのあり方を提示する。
 あらゆる子どもが親から生まれ育ったものであるように、いかなる現在も過去なしでは成立しない。未来は勝手にやって来るものではなく、過去と現在を結んだ線の上に意志をもって作りあげていくものだ。21世紀初頭の今、『鉄人』が必要とされる理由も、そこにある。戦争という過去の経験をもとに21世紀を見上げた昭和30年代の人の想いが、未来の見えにくい今この時期にこそ必要だから、鉄人を呼んだということなのだ。新たな世代に伝説を語り継ぐために……。
 この作品からそうした綿々とつながる「想いの連鎖」を感じ取りつつ、全26話を一気に楽しんでいただければ幸いである。
【初出:「鉄人28号」DVD-BOX(キングレコード) 脱稿:2005.01.31】

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2006年12月11日 (月)

鉄人28号(映像進化論)

題名:「鉄人映像進化論」

●同じ原作から
 4回アニメ化された作品

 筆者は昭和33年生まれ。『鉄人28号』は実写版には間に合わず、マンガを読み始めたときは月刊誌の時代の残滓はあったが、テレビアニメの影響で『鉄人』を知った世代である。
 以後40年余りアニメを観続けてきた経験の中で、都合四回にも及ぶ『鉄人28号』のアニメ化に関して「それぞれの違い」に深い興味をもっている。実を言うと最初のモノクロ版『鉄人28号』(TCJ/現:エイケン)だけは、夜8時から放送という“オトナの時間”だったため、オープニングだけしか見せてもらえず時間帯移動後と再放送でフォローしたのだが、おおむねリアルタイムで4つの作品を楽しんできた。
 アニメ研究という立場からすると、同じ原作からアニメ化された同じ作品が時期に応じて諸々変化し、「時代の痕跡」が刻まれているのがサンプルとして貴重だ。中でも内容以前にアニメ表現自体が変遷していくのが、非常に興味深い。
 そこで本稿では、「鉄人らしさを体現するアニメ表現」とはいったい何か……そこに着目して論を進めてみたい。まずは昭和30年代末の鉄人原体験をおさらいした上で、そのときの価値基準をベースに各時期のアニメ作品から、それぞれ時代に属する表現を浮き彫りにし、それがいかに鉄人を描き分けてきたか、軌跡を追うこととしたい。

●鉄人とアトムの間に潜む
 現実との地続き感の有無

 最初のモノクロアニメ版『鉄人28号』は1963年10月に放送スタートした。虫プロダクションによる国産初の30分連続テレビアニメ『鉄腕アトム』は同年1月の開始で、これが爆発的人気を博したことから即時立ち上げられた数作のうちの目玉であった。
 当時、横山光輝の原作はまだ月刊誌「少年」に連載中で、手塚治虫の『鉄腕アトム』と人気を二分していた。「少年」は筆者の記憶では暗いムードが漂った雑誌で、特に『アトム』の方は毒ガス風船で人が死ぬという陰惨な話などをやっていて、就学前後の子どもには怖くて買えず、明らかに「お兄さんたちの雑誌」だと思えた。
 だからアトムも鉄人も、原作に接したのは後に出たB5判単行本のカッパコミクス版である。同様に当時の子どもはアトムと鉄人に平行して接したから、当然のように「比べっこ」が始まる。同時の筆者としては、鉄人の方への興味がはるかに勝っていた。その判断基準は実に簡単。アトムが「ウソの存在」なのが、どうにも解せなかったのだ。たとえば「空を飛ぶ」能力ひとつとっても、鉄人はロケットをアタッチメントとして装備しているから科学的に根拠があるが、アトムは長靴が消えて飛行するし、腕がなくなって焔を噴射したりすることさえあって、絵としてごまかしがある。
 この違いは子どもにとって大きい。鉄人がマジンガーZ、ガンダムと後継を生んでいるのに対し、アトムがワン・アンド・オンリーとなっている理由がもしあるとすれば、こうした部分に意外に本質がありそうだと、今でも思っている。

●金属の質感を連想させる
 映り込みの表現

 鉄人の方が好きになった理由の中にはもっと決定的なものがあり、それと本稿の「アニメ表現」にも密接な関係がある。絵を描いたとき「似るか似ないか」という、子どもにとっては実に切実な命題に関わる記号である。
 当時、父親は会社(重工業系)からトレーシングペーパーをみやげによく持ち帰ってくれた。そのころのコピーは「青焼き」という湿式だったため、書類も図面もすべて透過を前提にした薄紙が基本だった。方眼罫のついた半透明の紙をマンガの上に乗せて鉛筆で写しとる。そうすると、鉄人は(子どもの目には)そっくりと思われる絵がそこに出現してくれた。だが、アトムの方は似て非なるものになり、哀しい気持ちにさせられてしまった。この気持ちがアトムと現実の距離感をを加速させ、自分と縁遠い「ウソ」が描かれている思いを強くさせていった。作品の善し悪しの定義は人により違うだろうが、自分という内面を介してもう一度外に出したいという欲望に根ざした部分は大きいはずだ。その出し入れがアトムではかなえられなかったのだ。
 鉄人の絵を写して手を動かし観察していく中で、決定的なことに気づく。それは鉄人の表面に沿って描かれている「黒い縞模様」の存在である。これがあるだけで表面が金属に見えて絵が似てくることが、6~7歳の自分には不思議で不思議で仕方がなかった。いったいこれは何なのか?
 一般的には「映りこみ」と呼ばれているようだが、かなり後になって高校生のころ、これを説明した名表現に出逢って膝を叩く。それは『ルパン三世』の車のキャラクターシートに大塚康生さんが書いた注記だった。「圧縮された風景の投影」……なんと簡潔にして本質に迫り、納得できる文言だろうか。

●平面と立体の差に
 起因する印象の違い

 鉄人の金属感は、当時の魔法瓶の記憶とも密着している。フタを指で引っかけ開閉するポットタイプのもので、去年『ウルトラQ dark fantasy』の「カネゴンヌの光る径」で久々に目撃して涙した。この頭部と鉄人が酷似していると感じていた。頭部だけでなく、円筒形のボディも鉄人の寸胴と似てると思っていたし、のぞき込むと保温のための鏡面処理がしてある内部に「例の黒い縞」が出現して、見飽きなかった。こういう実例と暮らしをともにしているからこそ、「鉄人の方がリアル」という皮膚感は頑強になった。
 鉄人の関節の黒い部分は、エッジが薄く白く描かれている。これは金属が反射した光が集中して輝く「ハイライト」の表現だ。これも「鉄」の表現の根幹である。黒い縞模様と白いハイライトのセットは鉄人の金属としてのアイデンティティを主張し、現実世界と橋渡しする上で欠かせないものだった。モノクロアニメ版もそこは忠実に再現していた。
 ちなみにアトムの存在感はどうだったか。実は好きだったのはアトムや作品はなく、明治製菓のマーブルチョコレートのオマケ「マジックプリント」だった。その転写式のシールは、表面がツルツルしている。つまり「アニメのセル」を質感ごと複製したものと、子ども心にとらえていた。これも「最初からこの世にいないものだからセル画を模擬するしかない」というアトムの非実在感を裏づけるものと思っていた。アトムの髪の毛のトンガリがどの角度から観ても重ならないのが何より平面的で非現実なことを象徴する。対する鉄人は、「あり得るものを、たまたまマンガという形式で写しとっている」「もしかしたら、(いつかは)実在するかもしれない」という、現実との地続き感が魅力だった。
 そう考えていくと、当時の鉄人グッズの中で一番人気はグリコ(キャラメル)のおまけ、つまり現世に実在する「立体物」であったことにも得心がいく。平面のマジックプリントと好対照を成していたからだ。こうしたグッズがリアル・バーチャルという点で子どもの心をどうとらえていたか、より深い検証が必要であろう。
 以上のように「アトムと鉄人」の間には、平面と立体、「ウソとして紙の中に閉じているもの」と「現実と往還可能なもの(を一時的に紙にしたもの)」という決定的な印象の差がある。それは当時の子ども(筆者)にも見抜かれていたのである。もちろんそこに優劣があるわけではないし、鉄人にも絵によるウソは山ほどある。だが、こうした本質の印象の差を浮き彫りにする論考は、もっと重ねられて良いように思う。

●ハンドトレスの線が
 シャープなモノクロアニメ

 さて、このように就学前後から絵の表現や作品ごとの区別にうるさかった(しかも40年以上経ってもいまだに同じようなことにこだわってる)筆者にとって、『鉄人28号』のアニメ表現がどう変遷していったか、話題を移していこう。
 まず、モノクロ版の『鉄人28号』については、ここまで述べて来たように金属の映りこみとハイライトを質感として記号的にセルへ移植したものだった。当時のアニメ用セル画は「ハンドトレス」と言って仕上げの部門にペインターとは別にトレーサーという職種が主線を描いたものだった。動画は鉛筆で描かれるが、その線をペンでセルへ引き写す。これによって、筆致が均質でなめらかになる。パソコンソフトの"Illustrator"でベジェ曲線によって描かれたシャープな線に近い。
 アニメ版でも決めポーズではペンの美しく細い線が、鉄人の表面の「映りこみの黒」と「ハイライトの白」を鋭利に見せて、金属っぽい感じをマンガ版より強調するかのように魅力的に見せていた。
 ただし、モノクロ版の『鉄人28号』をアニメーションとして評価しようとすると、黎明期という事情を差し引いても、かなり厳しい。動きが何より稚拙なのだ。『アトム』が劇場アニメーションのようにフルアニメーション(1コマ、2コマ打ち)というスムースな手法をやめて3コマ打ち(秒間8枚)を基本としたことは有名だが、鉄人がロボットの動きに6コマ打ちや8コマ打ちを用いたのはあまり知られていないのではないか。
 巨大なメカニズムを重々しく動かすという命題は、この時期のアニメ技術にはあまりにも荷が重かったのだ。物理法則を考えると、巨大な物体はゆっくりと動いて見えるから、特撮作品でも巨大なものはスローモーション撮影される。だがアニメは錯視・錯覚の世界だから、緻密にゆっくり動かすのは自殺行為だ。せめてコマのタイミングをあけることで動きをゆったり見せる作戦と推察するが、鉄人が短距離連続ワープをしているようにも見えてしまう。
 そんな鉄人がひときわ印象に残る瞬間は、なんと言ってもファイティングポーズ。正太郎くんのリモコン操縦の電波を受けて、「バンガオー!」と怪音を発する瞬間だ。リモコン電波の「クピーーピュギッギッ」という音との相乗効果で、そこにリアリティが発生する。白と黒の火花をパカパカと置き換えているだけの鉄人のバックは、強烈な輝きに見えた。この鉄人の機械効果音は実在感の大きな根拠になった。だが、後年の作品では怪獣の鳴き声(しかもテレスドン等、固有名詞がわかるもの)に差し変わって残念であった。

●80年代によみがえった
 「太陽の使者」

 『鉄人28号』がブラウン管に復活するのは、1980年のこと。単なる作品の復活ではなく、レトロヒーローの大量復活に載ってのできごとであった。『鉄腕アトム』や『あしたのジョー2』も同じ読売系列で同時期にオンエアされているし、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』も前後して復活している。70年代初頭にも『のらくろ』や『月光仮面』がアニメ化されたこともあり、世代の循環期がまた来たということだった。
 ただし、このときのリメイクは懐かしさを誘うためのものではなく、その時代の子どもにロボットのシンプルさを商品として訴求するためのものだった。メーカー主導で鉄人本体デザインをシェイプアップし、「重合金」という鋼鉄の重々しさを金属の装甲パーツで再現する玩具が発売された。もっとも衝撃的な違いは「目玉」がなくなったことで、それが時代の差であろう。この作品と鉄人は「太陽の使者版」として人気を博した。
 さて、アニメ化ではどのような表現がとられたのか?
 画面を見ればすぐわかる通り、金属の質感とアクション表現がモノクロアニメ時代とはまったく違ったものとなっている。この時期は1977年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のヒットによるアニメブームのまっただ中だった。そんな機運の中で、1979年の劇場版『銀河鉄道999』の戦闘シーンを手がけたアニメーター金田伊功が、アニメ雑誌等で脚光を浴びた。これが折からのSF映画ブームの追い風もあって、メカニズムやエフェクト(焔や光、煙、爆発など)の表現にもスター性があるというパラダイム転換につながる。
 この流れの中で「太陽の使者版」の前作にあたる『ムーの白鯨』で画期的なことが起きていた。第1話のエンディングに金田伊功が「メカ修正」としてクレジットされたのだ。「修正」とは本来は作画監督の作業だから、実戦闘機がスクランブル発進し交戦、ビームに貫かれて爆破四散するというメカ戦闘シーンを金田が通常の作画監督作業と分業して担当したわけだ。この明言化は画期的な出来事だった。
 以後、この分業は「メカ作画監督」という専業化へ発展する。21世紀の現在では現実世界が舞台のギャルゲーム原作作品まで「メカ作監」が立っているくらいだが(医療器担当らしい)、80年代初頭では大事件だ。実写映画でいえば本編監督の他に「特技監督(特撮監督)」が立ち、ミニチュアや合成などを取り仕切る。ついにアニメにもそういう専門職が発生したということだから、後世への影響は大きい。
 「太陽の勇者版鉄人」は、ちょうどメカやエフェクトがアニメの集客の求心力に即応する変化の時期に現れた作品なのだ。

●メカ作画監督制度の勃興と
 鉄人のアニメ表現

 『ムーの白鯨』第2話以後、メカ修正は金田作画の流れをくむ亀垣一と本橋秀一のコンビにバトンタッチされ、そのままの布陣で制作に入ったのが「太陽の勇者版」だった。
 メカ描写で特徴的なこととしては、やはり金属的質感をもった表面処理が真っ先に浮かぶ。金田伊功のメカ描写の特徴のひとつに、独特のカゲ・ハイライトのつけ方がある。自家用車や新幹線など身近な大型メカの表面を観察してみれば、光沢や反射した風景は曲面に沿ってはいるが均質でなく、鉄板の微妙な成形の歪みにそってうねりをもっていることが見てとれる。
 前述の“圧縮された風景の投影”指定もこのうねりを意識していたが、金田伊功による処理はもっと大胆に、波打ったような光とカゲを塗り分けで指定したものだった。少し後に金田モドキと言われるデッドコピーが業界に蔓延したとき、「ワカメが貼りついたようだ」と批判も集めたが、この時点では平板でセルの実寸にしか見えないことも多いアニメメカを、立体的かつ巨大に見せる手法のひとつとして、充分な効果を生んでいた。
 その流れで、独特のうねりと複雑なシェイプを持った光沢とカゲを駆使し、ロボットパーツの円柱や球面をベースにした体躯にそって金属感と立体感を表現したのが、「太陽の勇者」版鉄人のアニメ表現と言える。
 本作はアクション表現にも見る部分が多く、金田伊功や友永和秀、はては宮崎駿まで作画に参加して、鋼鉄のロボットが格闘するネイティブな魅力にあふれている。語るべきところも満載だが、紙数の関係でここでは割愛させていただく。

●90年代に、鉄人は
 レトロから二世代へ……

 数えてみると鉄人がアニメで復活するのは十数年周期である。
 次の作品は1993年の『鉄人28号FX』。「太陽の勇者版」がアニメ新技術で原点回帰を目ざしたリファイン作品だったとすると、これは「二世代アニメ」を志した作品と言えるだろう。
 それも時代の要請であった。90年代初頭はアニメ業界の世代が一巡した後を感じさせる企画が数多く出た時期でもある。ロボットアニメでは「勇者シリーズ」や「エルドランシリーズ」、スーパーデフォルメ的な作品など児童層中心の作品が増加し、『美少女戦士セーラームーン』で女玩(女子向け玩具)がブームにもなっていた。
 そこに登場した「FX」は、驚きの人物設定で話題を呼んだ。かつて半ズボンで拳銃を撃っていた少年探偵・金田正太郎が中年になって登場、主人公はその息子・金田正人という、ある意味正統なる「続編」としてスタートしたのである。これもまた現実世界の反映だった。モノクロ版鉄人を楽しんだ世代は、金田正太郎と同じく当時30代となっていたからだ。鉄人を観るとしても親子2世代というケースの方が多い。
 結果として本作では、中年となった金田正太郎も初代鉄人を操縦し、親子で鉄人をコントロールする二世代共闘が描かれている。それが本作でもっとも興味深いことだ。
 「超電導ロボ」として誕生したFXは、「武器を内蔵・携行しない」という鉄人の原則を忠実に守ってデザインされた。ただしプロポーションは逆三角形のマッチョに大幅変更され、装飾的な凹凸に充ちたディテールも増加した。肩アーマーが張り出し、各部ユニットが複合ブロックのように噛み合った構造的なボディは、明らかに『機動戦士ガンダム』以後のリアル系、プラモデル系のデザインラインの流れにある。そのためか、初代鉄人と並んだFXは悪役にも見えてしまうときがある……。同時代の複雑なロボットを見慣れている子どもには、あれで良かったのかもしれないが。本作のブラックオックスも複雑なデザインとなり、変形を行うようになった。FX自身も飛行のために変形鳥型メカを背中に装着、変形合体のプレイバリューを鉄人原則ギリギリで備えた機体であった。
 作画表現的には、金田アクション系が一巡して作法となった時期のもので、ときどきハッとするようなシーンも少なくなく、見どころも多い。
 金属の質感表現的には、「太陽の勇者」でも行われていた三段階での塗り分けが、必ずと言って良いほど入るようになり、画としての情報密度が高まっている。驚くべきことに、初代鉄人の表面処理も変更されているのだ。かつての黒いベタカゲが普通のカゲ(2号落ち、つまり絵の具の明度を2段階落としたもの)になった上に、ハイライト(白ではなく表面色の系列のもっとも明るい色)が入るようになった。そして全体の色が原作カラー画稿を参考に、ブルー系の暗い方に指定されたため、その分モノクロ時代よりも押し出しが減ってしまった。これは脇役になったことも合わせ考えると正しい措置かもしれない。
 FXの方は、身体全体にディテールが多くなった分だけ、金属板装甲の感じが減じている。むしろディテールのエッジに沿った面的カゲの積み重ねがボリューム感を醸し出すという表現になっていて、これもまた90年代前半という時代を象徴したものかと思う。

●最新作、デジタルが
 可能にした色味による質感表現

 さて、最後は最新作。まだ記憶に新しい2004年の『鉄人28号』についてだ。
 すでに語られているとおり、本作の最大の特徴は原作の発表年代である昭和30年代初頭の風景を再現し、一種の「時代劇」として見せることにある。そして、戦後の混迷期を抜けだし、高度成長へと到る熱い時代の原風景を確認するという、『プロジェクトX』と通底する意図があった。
 原作に登場する名ロボットたちは、忠実なデザインで画面に登場。作風には最初の鉄人世代が働き盛りを超えつつある年代の感慨をこめたものがが漂い、リファインとも二世代とも違う、2004年という時代性を射程に入れたリメイクとなった。
 アニメ表現という観点からすると、『FX』と約十年しか離れていないのに抜本から変わってしまったことがある。それは、2000年代初頭からアニメーションがセルとフィムの使用を止めてコンピュータを使ったデジタル制作に移行したことである。現在では100%近くがコンピュータ処理した画面でアニメ映像が制作されるようになった。
 デジタル化は、鉄人の質感表現を従来の「カゲとハイライト」という記号的なパキっとしたものから解き放つ方向に作用した。もちろんセルアニメの伝統に基づく表現も併用されてはいるが、色数がデジタル化によって絵の具の制約を離れて無限に近くなったことが、色調の渋さに大きく貢献している。さらに光と陰影の実写で言う照明効果が容易になったことも加わり、これまでの「アニメといえばカラフル」というイメージを離れ、彩度・明度を落とした渋く錆びたように古び、しかし確実にかつて存在したという手応えあふれる昭和30年の世界観が表現されている。
 鉄人も、かつてのヒーロー性から離れて兵器としての本質的意味あいを問いかけられ、その渋さと一体化するかのように物語の中心で存在感を放っていた。ロボットアクションとしての快楽は残念ながら減じていたが、モノクロ版から40年が過ぎて、こういうかたちでの現実感ある鉄人が観られ、良い意味での意外さがあった。
 2005年予定の劇場映画版では、この成果に続く新たな表現の鉄人が登場するに違いない。このように40年以上にもわたり、鉄人の存在感は継承され、連鎖していく。その様子を、この先も見届けていきたいものである。
【初出:鉄人28号論(出版社: ぴあ) 脱稿:2005.01.15】

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2006年12月10日 (日)

アニメーション表現の歴史《実例集》

題名:アニメーション表現の歴史《実例集》

ひとつ前の原稿とセットになった技法の実例集です。
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《画面構成》
 画面構成は特に重要なテクニックだ。SFアニメでは現実に存在しないアイテムや光景が登場する。観客にリアルだと納得させるのは、構図や視点、仮想的なレンズの選び方次第なのだ。

  プロジェクト
●「冥王計画ゼオライマー」('88年)より

 一般の民家やビルの間に突然巨大な戦闘ロボットが侵入する。光線を発射して迎撃するゼオライマーの足元に逃げ惑うひとびと…。
 古典的なロボットアニメのひとこまだが、平板な表現を避け、現実の建造物のロケハンを行い、明解なライティングを意識して、リアル極まりない戦闘空間を描き出した。

●「機動警察パトレイバー(劇場版)」('89年)より

 風化し失われつつある東京の生活風景と、取って代わるビル群。その間に答を求めてさまよう刑事二人を陽炎が包む…という映画全体で象徴的な光景をワンショットに封じ込めた名場面。ともすれば陳腐化する危険性を専門に置かれたレイアウトマンの画面構成力で押え込んだ。

●「ヤマトよ永遠に」('80年)より
 アニメーター金田伊功の画面構成はパースペクティブが誇張されていて、極めてユニークだ。カタパルトに乗ったコスモタイガーは手前をグッと張り出すように大きくデフォルメされて迫力満点だ。ミサイル発射シーンも、メカの手前と背面がとても同じメカとは思えないほど誇張されていているが、これがカッコ良い。コクピットの中では人物よりトリガーを握る手の方が大きく、発射を強調している。金田パースのついた画面構成は、多くの亜流を生み出した。

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《演出》
 最終的な画面効果を決めるのは、演出の力だ。どんなSF設定も動きも、良い演出がされてなければ映像の流れから浮いてしまう。対象を選び、適切にカットを割って視点を変え、観客が興味をひくように誘導する。それが演出の役目だ。

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《光線》
 SFの定番アイテムにレーザーを代表とした光線がある。光線銃は、21世紀が近づいてもさっぱり実用化しそうにないが、アニメの光線が空間を切り裂く感覚、画面から浮き出る輝きは現実を忘れさせる魅力満載だ。アニメの中では光線も生命を与えられ、個性的に動き出すのだ。

●「AKIRA」('88年)より
 リアルな世界観を持つAKIRAワールドでは、レーザー光線は現実と同じく直進し、物体を切断する。その光線を鉄雄の周囲で歪曲させた画作りで、超能力の現実離れした威力を表現しているのだ。

●「銀河旋風ブライガー」('81年)より
 金田伊功の描く光線はアニメならではのものだ。まず発射光が膨れる。続いてパワーをタメるように光が広がり、収束して直線状に飛ぶ。最後に崩れるコマを入れることで光線の勢いを表現しているのだ。

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《爆発》
 SFアニメの見せ場は戦闘。中でも”爆発”はもっとも注目を集める派手なものだ。実写特撮でも、ひところは大きなミニチュアを作り、多くの火薬を仕込み、どれだけ派手な炎と煙が吹き出るかを競っていた。自然現象をリアルに描くのは本来アニメは苦手とするところだ。だがアニメの爆発は人間の手でデフォルメされ、画面全体を吹き飛ばし快感を呼ぶようになった。アニメはまた新しい見せ場を手に入れたのだ。

●「マクロスプラス」('95年)より
 爆発のアニメートは基本的に以下のように進行する。まず爆心が超高温で光り、球形の炎が高速で形状を大きくする。続いて温度の下がった空気が燃焼後の煙となって全体にゆっくりと広がる。その中から、破片が尾をひいて枝のように何本もわき出して来る。
 爆発そのものの仕上げも時代によって変化している。かつては1枚のセルにエアブラシ、筆やスポンジで細かい階調をつけたりタッチをつけることで迫力を増していた。
 近年は透過光で爆心を描き、爆発そのものはタイミングとフォルムで見せてあまり細かく仕上げないのが流行のようだ。その分、細部の描写には凝るようになった。このバルキリーも爆発をよけるため、瞬間的にバリアを張っていることが判る。

●「ヤマトよ永遠に」('80年)より
 金田伊功の爆発は特徴があった。フォルムやアクションに独自の工夫があって、画面全体を吹き飛ばすような爽快感にあふれ、爆発それ自体を見せ場にするだけの魅力を持っていた。
 緩急自在の金田爆発アクションは、りんたろう監督の「銀河鉄道999」でブレイクした。金田はさまざまな大作アニメ映画に招かれ、70年代後半から80年代前半のアニメシーンに華を添えた。
 左の写真を例に取ってみよう。
 ミサイルがあたった敵戦艦は、一度被弾して炎を吹き上げる。生き物の触手のようにヌッと炎や煙が出たりする。ところがこれで終わらない。動力炉か爆薬庫に火が回ったのか、戦艦は大爆発する。中心から画面に入りきらないほどの火球が湧き出す。戦艦は、その
強烈な光に砕けながらシルエットになる。そして画面全体が光に包まれ、溶けた金属が飛散する。
 これだけ複雑なことがわずか数秒のカットの中で、コマ単位でのメリハリをつけながら、しかもアニメならではのデフォルメたっぷりに描かれているのだ。
 この映画では中間補給基地の爆撃シーン全体が金田伊功の作画でまとめられた。舞うように踊るように飛翔するコスモタイガーにより敵戦艦が爆発炎上していくさまは、SFアニメ史に残る華麗さであった。

●「超時空要塞マクロス」('82年)より
 庵野秀明のデビュー作画面である。庵野はアニメの映像に実写記録フィルムのテイストを持ち込んで注目を集めた。
 写真の例では、核爆発の記録フィルムが参考になっている。第一波として、熱風が押し寄せ、戦車を溶かす。しばらく間があき、衝撃波が到来。背後の建造物は瓦解し、細かく破片をまき散らす。その中で戦車も耐え切れず爆発して行くのだ。
 庵野が後に描いた爆発シーンでは、この間のあく部分で、熱風がひいた後の揺り戻しの風まで追加され、リアリティを増していた。

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《ミサイル》
 「超時空要塞マクロス」の映像は衝撃的だった。リアルでありながら高速でめまぐるしく対象と視点が入り乱れるように動いていく。本放送当時のアニメ雑誌は、この映像をクリエイトしたアニメーター板野一郎の名前を取って、こう命名した。「板野サーカス」と。
 代表格として挙げられるのが、ミサイルの一斉発射だ。ミサイルが噴射煙を糸をひくように飛跡を残しながら空間を切り裂いて飛ぶさまは一度見たら忘れられない。
 ミサイルや噴射の煙も、アニメーターが生命を与え演技する役者なのだ。マクロスの映像はそれを立証した。

●「超時空要塞マクロス」('82年)より
 スーパーバルキリーのミサイル一斉発射シーン。遠くで発射されているときは、ゆっくりと動作をタメるように小さくうごめくミサイル。一本一本が煙の軌跡をひきながら手前に来ると、数コマで突然巨大になり、画面からフレームアウトして行く。緩急の強調で遠近感を表現している。最後の写真のようにミサイルの炎しか写っていないコマもあり、フラッシュをたいたような衝撃を画面に与えている。さらにバルキリーの機体もひねるように回転し、ミサイルの軌跡も十本以上が同時に展開していくため、画面全体が放射状に広がって行くような解放感すら感じる名場面だ。

●「マクロスプラス」('95年)より
 近年の作品でも板野サーカスは健在だ。クライマックスのバルキリー同士の戦闘で、お互い持てるミサイルをすべて発射しつくすように撃ちまくる場面のひとこまがこれだ。
 いっせいに発射されたミサイルは、個々に姿勢制御を行い、急角度で弾道を変化させたりする。単に放射状に広がるだけでなく、意志を持つようにまとまって飛んでいく無数のミサイル。
 観客はただただそのエキサイティングな軌跡に見とれるだけである。優れたアニメートは、破壊の化身たるミサイルにも美をもたらすのだ。
 名匠の花火大会のような爽快感すら感じる名エフェクトだ。

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《透過光とCG》
 セルアニメの質感には限界がある。ベタでペイントされたセルを反射光で撮影するため、印象が平板になり、存在感が乏しくなりがちなのだ。それをカバーするため、演出家は透過光技術で映像に厚みをつけてきた。SFアニメといえば透過光という感すらある。
 近年ではデジタル技術とセルアニメの組み合わせで従来の光の表現技法の限界を超え、新しい映像を生み出そうという動きもあるのだ。

●「新世紀エヴァンゲリオン」('95年)より
 SFっぽいディスプレイも今や日本語表示の時代である。エヴァの活動限界表示は、パソコンでフォントにパースをつけ、出力したものを透過光撮影しているのだ。
【初出:SFアニメがおもしろい(アスペクト) 1997年1月】

※すいません、演出の実例などに一部ヌケがあるようなので、いつかきちんと改訂します。

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アニメーション表現の歴史

題名:アニメーション表現の歴史
   ANIMATION EFFECTS

(1)SFアニメのエフェクト

 吹き上げる爆発、ほとばしる光線、激しいドッグファイト、引き裂かれる大地。SFアニメに欠かせないスペクタクル映像。そこには日本製アニメ独特の表現様式がある。
 70年代末期、米国で「スターウォーズ」を筆頭にSFX(スペシャルエフェクツ)映画が大ヒットした。コンピュータの導入で新しいスペクタクル表現が可能になり、SFX技術が新たな主役として観客を呼び込み、映画界を活性化させたのだ。
 日本の映画・テレビ界では同じ70年代末期にアニメ映画がブームになり、活性化の役割を果たした。子供向けと思われていたアニメが青年層にアピールすることが判り、観客層を広げたのだ。
 米国のSFXに相当する推進役は、70年代末期に立ち上がった「エフェクト」だ。狭い意味では光線や爆発などの作画技法のことだが、ここでは意味をSFX相当のスペクタクル映像と広く取り、エフェクト進化の歴史を簡単に追ってみたい。

(2)エフェクト創始者ディズニー

 エフェクトという呼び方そのものは、ディズニープロが始めたものだ。クレジットでもCharacter AnimatorsとEffects Animatorsが分かれている。
 本来アニメーターは、画面で動くものすべてに等しく技量が求められる。しかし、キャラクターと自然現象とでは勝手が違い、後者を動かすには別の才能が必要だ。ディズニーは早くからそれに気づいていた。そこで専門家によるエフェクト班が設けられたのがエフェクト史の始まりだ。
 彼らは実験と観察と想像力を武器に、試行錯誤を重ねてリアルな映像を生み出していった。だが、その考え方はなかなか日本には導入されなかった。

(3)第一世代・東映動画のエフェクト

 60年代初頭まで、国産のアニメは東映動画の長編漫画映画しかなかった。
 教育的見地から題材は古典名作中心で、スペクタクルな映像では円谷英二の東宝特撮映画に一歩譲っており、エフェクトが主役とは言えなかった。
 しかし、特撮映画顔負けのエフェクトを見せてくれた作品もある。「わんぱく王子の大蛇退治」(64年)では、ヤマタノオロチは単純なデザインなのに画面から飛び出してくるような迫力があった。
 「空とぶゆうれい船」(69年)では、国民を守るべき戦車が、渋滞中の車を潰しながら登場するという衝撃的なシーンがあった。前者の担当は大塚康生で、後者を描いたのはアニメーター時代の宮崎駿だ。大塚と宮崎は、東映動画を代表するアニメーターで、エフェクトも大得意としていたのだ。専門ではないとはいえ、第一世代のエフェクトアニメーターと言えよう。彼らの描いた緻密なスペクタクルシーンは、後進に大きく影響を与える。

(4)テレビアニメ時代の栄枯盛衰

 日本最初のテレビアニメは「鉄腕アトム」(63年)だ。以後SFアニメブームが起きるが、テレビでアニメを放映すること自体が不可能とされた時代のことで、エフェクトも見ごたえが不足していた。
 66年にテレビに円谷特撮を持ち込んだ「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、英国からの輸入人形劇「サンダーバード」が放映されると、SFアニメはマイナーになってしまった。怪獣やメカニズムのリアルな特撮映像に、黎明期のエフェクトは技術的にかなわず敗退したのだ。
 60年代末期には劇画の時代を迎え、特撮もスポ根ブームに取って代わられる。スポ根時代のアニメには技術革新が訪れた。トレスマシンが導入されたことで、汚しや劇画タッチの入ったリアルな動画がそのままセル画に複写することが可能になった。
 描線がリアルになるのに呼応して、演出もこの時期に進歩した。長浜忠夫演出による「巨人の星」(68年)ではボール一球を投げ終わるまでの主人公の動作や感情を細かく追い、魔球が投げられるや背景が異世界のようになるなど大胆な盛り上げ方をしていた。
 出崎統演出による「あしたのジョー」(70年)では、スローモーションや逆光、ハイコントラストなど当時としては画期的な映像技法が多用された。テレビアニメ風エフェクトを支える演出の基礎が、この時期に確立されたのだ。

(5)70年代・テレビアニメのブレイク

 劇画ブームに乗って青年誌連載の「ルパン三世」(71年)すらテレビアニメ化された。ワルサーP38やベンツSSKなど実在の銃器・車が種類の分かるように細かく描かれ、それまでのマンガめいた単純な表現から脱皮した。
 タツノコプロのアニメンタリー「決断」(71年)は、リアルなメカ表現の戦記ドキュメンタリーだ。ここで試されたアニメ爆発のセルワーク、透過光による機銃のエフェクトは翌年の「科学忍者隊ガッチャマン」(72年)でSFヒーローものという場を得てふんだんに使われ、実写合成にも挑戦。色彩感覚豊かでハイレベルなエフェクトのメカ戦闘シーンは視聴者を驚かせ、大ヒットとなった。

(6)SF映像の頂点「宇宙戦艦ヤマト」

 オイルショックの余波から終末ブームの起きた74年。ついに「宇宙戦艦ヤマト」が登場する。演出の石黒昇はエフェクト表現に優れており、松本零士の世界を臨場感あふれるSF映像に仕立て上げた。
 石黒は、宇宙空間の無重力を表現するために放射状に拡散し、破片が落下しない爆発シーンを作画させた。遊星爆弾による滅亡のイメージシーンでは、岩の破片を一枚一枚ていねいに動かし、破壊シーンなのに美しく描き出した。波動砲を撃つときも、全艦の電源を止めてエネルギーを蓄積するプロセスを大事にした。線の多い複雑なデザインのヤマトをアニメ風に略さず、ゆっくりと動かすことで重量感を出した。
 テレビのスケールを超えた画面作りに、青年層はSFマインドを感じて喝采を送った。ヤマトの主役はエフェクトだったのだ。

(7)第二世代、金田伊功の登場

 「宇宙戦艦ヤマト」によってめざめたアニメファンの中には、スタッフやクリエイターに興味を持つ者も現れた。アクションとエフェクトでファンの注目を浴びた原画マン、それが金田伊功だ。金田は、円谷英二の東宝特撮映画と東映動画の長編アニメにあこがれてアニメ界入りした第二世代のアニメーターだ。同世代には「宇宙戦艦ヤマト」で戦艦大和の回想シーン、「ルパン三世カリオストロの城」(79年)でカーチェイスを作画し、影響を与えあった友永和秀がいる。
 東映動画の「ゲッターロボG」(75年)、「大空魔竜ガイキング」(76年)で、金田の担当した画面作りは極めてユニークだった。金田は手前にあるものを極端に大きく描いてパースをつけたり、人物を斜めに立てたりした。ポーズも背中を丸めたりガニマタになったり、手首を異様な角度に曲げたりしてデフォルメして描いている。ジグザグに空間を乱れ飛ぶ光線。球になってはじけとぶ爆発。その動きには、メリハリがついていて快感だった。異様な遠近感に大胆なアクション。これこそが金田伊功のエフェクトだ。
 アニメにおける表現は自然に見えるように描くのが基本である。「ヤマト」の方法論もその延長にある。だが、金田アニメは彼自身のイメージとセンスが生み出した独特の空間と運動法則にもとづいたもので、世界で金田しか描けないと言って良いようなオリジナル世界を内包しているのだ。
 サンライズ作品を手がけるようになった金田は「無敵超人ザンボット3」(77年)、「無敵鋼人ダイターン3」で、さらに磨きのかかったロボットアクションを繰り出し、着実にファンを増やしていった。

(8)エフェクトの巨匠・金田伊功

 77年、ファンの熱意で、打ち切られた「宇宙戦艦ヤマト」が再編集映画として劇場公開され、空前のアニメブームが起きた。ブームに乗って青年層向けの劇場アニメが何本も公開された。金田は力量を買われて、劇場アニメのエフェクトを続々と担当した。中でも東映の劇場映画として公開された「銀河鉄道999」(79年)では、クライマックスの惑星メーテル崩壊シーンで金田ならではのエフェクト博覧会のような作画をくり出し、大評判となった。凝りに凝った光線のアクションや炎のフォルム、1コマ毎に激しく明滅する爆発、激しく変わる視点の戦闘シーン。ファンタジックな音楽に凄まじい迫力のエフェクト画面が不思議とマッチし、金田の評価をアニメ界に轟かせた。
 ついには「メカニック作画監督」や「スペシャルアニメーション」など特別な役職が金田のために設けられ、ファンもまたそれを楽しみにするようになった。こうして金田伊功はエフェクトスターとしての地位を築き、巨匠として頂点に立った。

(9)金田モドキの時代

 金田伊功のアニメ技術はアニメ雑誌で徹底分析され、話題を呼んだ。80年代に入り、ビデオデッキが普及すると、コマ送りなど特殊再生機能を使ってアニメ技術を分析することが誰にでもできるようになった。金田にあこがれる若きアニメーターたちは、金田エフェクトを詳細に分析し、自分なりに模倣するようになった。金田の弟子筋にあたるアニメーターたちが、再び増加したSFアニメの中で金田と同じエフェクト専門で活躍するようになったのもこの時期である。
 こうして「金田モドキ」と呼ばれる作画法がアニメ界に流布していった。80年代前半のアニメには、ロボットやメカにいきなりパースや濃い影がついて異様なタイミングで暴れまくる、そんなシーンが満載だ。日本のアニメがエフェクトを専門化すると同時に、それは金田モドキという形で広がっていったのだ。
 やがてモドキの中からオリジナルのエフェクト感覚を獲得する者も現れた。

(10)第三世代・エフェクトアニメーターたち

 金田の影響を受けた第三世代のエフェクトアニメーターたち。鍋島修・亀垣一・越智一裕ら金田の弟子筋は「六神合体ゴッドマーズ」(81年)で迫力あるロボット戦を見せた。
 弟子筋の中でも山下将仁は金田モドキを「うる星やつら」(81年)に持ち込み、メカアニメ以外にも金田モドキを広めた。大張正巳は「戦え!イクサー1」(86年)で注目されたアクション派で、現在も格闘アニメの旗手の地位を確立している。
 なかむらたかしは「ゴールドライタン」(81年)で火山噴火や地割れ、怪獣を劇場作品並みの重量感で描き、「AKIRA」(88年)の作画監督で正統的なエフェクトの頂点を極めた。
 板野一郎は、通称<板野サーカス>と呼ばれる新世代のエフェクトを開発した。代表作「超時空要塞マクロス」(82年)では、ミサイルの弾道を煙で精緻に表現し、板金がひしゃげ破片をまき散らすクラッシュシーンなどアメリカのSFXに一歩もひけを取らない迫真の映像を提供した。
 その「マクロス」で原画デビューした庵野秀明は、「風の谷のナウシカ」(84年)のクライマックスで巨神兵が腐って溶け落ちるシーン、核爆発のようなキノコ雲のシーンで高い評価を受け、後の監督作品「新世紀エヴァンゲリオン」(95年)でもエフェクトを重視した作品づくりを行っている。

(11)そして今日…

 第三世代は、エフェクト技術を自分なりに消化して研鑚し、先進の映像を生み出した。
 影響を受けてより優れたエフェクトを磨くアニメーターも増えていく。このサイクルが繰り返され、全体の作画の質が底上げされる。日本製アニメのエフェクト・クオリティは、こうして培われた。今日、エフェクトで高品質を獲得した日本製アニメが、表現の可能性をさらに広げるCG技術をどう取り込んで新しい映像を生み出すのか。
 それが今後の課題だろう。金田の例をあげるまでもなく、まずクリエイターの表現すべき独特のイメージ、センスありきだ。これが忘れられない限り、まだまだ楽しみは続くに違いない。
【初出:SFアニメがおもしろい(アスペクト) 1997年1月】

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2006年12月 9日 (土)

金田伊功GREAT

題名:金田伊功はアニメ界の円谷英二だ

 昨年来、縁あってひさびさに執筆活動をさせていただく機会を持つことができた。
その中では意図的に一貫して「金田伊功」というキーワードにこだわってみた。
 その本音としてはこういうことがある。
 日本製のアニメーションが今日世界でも独特のスタイルを築くにいたったのは、映画の本来の出発点であるスペクタクル、すなわち「見世物」としての映像……エフェクトアニメーションを積極的に展開し、それが観客に対して求心力を発揮したことが大きな要因となっている。
 日本の特撮の歴史を語るときに、「特撮の神様」と呼ばれる「円谷英二」に触れないわけにはいかないだろう。
 だが。
 アニメに「円谷英二」に相当する人物として記憶されている作家はいるのだろうか?
 ここで自分にはエフェクトの流れでもっとも重要な人物としてかつて一世を風靡したはずの「金田伊功」という名前が浮かぶ。
だが、自分にとって当然のビッグネームが、若い世代にほとんど通じなくなっていることを知り、大ショックを受けた。
 これはアニメーションの歴史的な流れがほとんど整理も分類もされていないままに、作品そのものだけがパッケージングされて流通していることのもたらした惨状である。
一方でたとえば現役の大学生たちが、こういった「歴史」に無関心かというと、決してそういうことはないのである。これだけあふれかえったソフトパッケージのどこをどういう順番で見れば、どんな意味がどう見出せるか、ちゃんと追って見せて語ると、とても面白がってくれるのである。
 こんな流れの中で、もし若い世代が迷っているなら、それは本来自分でやるべきなのにできなかった作業に対する「ツケ」のようなものではないか、とさえ考えるようになっていった。だから、機会があるんだからもう一度ちゃんと言わなければいけない、と思った。
 アニメにも、「トクサツ」があるんだよ、と。そして円谷英二に相当する偉大なトクサツの神様は、「金田伊功」と言うんだ。
もう忘れちゃいけないよ、と。
 もう少し「円谷英二と金田伊功」について語ってみよう。
 円谷も金田もその評価は「技術」に対して与えられることが大半である。
 しかし。
 「技術」そのもの、それが本当に一番重要なマターなのだろうか?
 円谷英二はキャメラマン出身だ。戦前の映画ではそれまでディテールをあいまいにし、濃淡のないようにきれいに照明を当てて撮影するのが基本だった。
円谷英二は、そこにディテールを明解にした撮影方法を持ち込んだ。それは反発をもって迎えられたようだ。やがて円谷は戦後の「ゴジラ」でその地位を決定的にする。その「技術」は、今日でもミニチュアワークや着ぐるみの特撮に継承されている。
 だが、円谷英二自身の演出によるフィルムと他人のそれを比較したとき、リアルに見えるかどうかの技術以前に圧倒的な差を感じて慄然とする。それはフレームを通して見える円谷英二のイマジネーションの大きさの差である。それこそが技術以上に本質的に感動の源泉となっているようにおもえるのだ。
 円谷は、常に内心で高みにあるイメージを追い求め続け、その片鱗をフィルムに定着させようとしてその生涯を過ごしたのではないだろうか。
 「こんな絵でいいのか? 自分の見たいものはこれか? 本当は違うのではないのか?」
 心の中の映像。それは見ようとして見えないようなものだ。
 自分の中でもおぼろに現われ隠れ、必死に追い求めようとしないと像を結ぼうとしないイマジネーションの結晶。それを対象である被写体に投影し、肉薄し、キャメラという刃で切り取ろうとする。
 この姿勢、スタンスが先に立つのであれば、技術は「必要な手段」としてイメージに駆り立てられる形で生み出されていく、という関係にある。それには「当たり前」とされていることをそう思わない心眼が必要とされるだろう。だから人物の撮影法も普通ではなかったのではないか。
 映画の観客が本当に感動するのは、こういった作家の「魂」が見えるからだ。
 金田伊功はどうだろうか。
 映像としてのスペクタクル性。集客力を持つ卓越したエフェクト映像。多くの後継者を生んだアニメ界での影響力。こういった点にも円谷との共通点がある。しかし、一見技術だけが話題になりながら、実は内面のイマジネーションが先にあってテクニックは手段として後追いをしているという点にこそ、真の共通点を見るべきではないか。
 もう少し具体的な話をしよう。
 金田の画面構成は、ご存知のように「パース」が強調されている。
 手前にあるものは顕微鏡で拡大したように強烈に大きく、遠くにあるものは天体望遠鏡でのぞいたように小さく描かれている。
 だが、これを「遠近感を強調した方がカッコよい」という具合に、見栄えを良くするための「技術」という風にとらえてしまって良いものだろうか?
 金田自身は、いくつかのインタビューで「そんなに意識して描いてるわけではない」「計算なんてない」というようなことを語っている。「金田調」として真似をして、単純な「技術」にまで落として描いている者はいざ知らず、金田本人は単に感じるままに描くとああいった強遠近法空間になってしまう、と自己認識しているのである。
 パースがついちゃう理由?
 そんなものを言葉にできるものであれば、絵なんて描かないよ……とは、もちろん謙虚な金田は言わない。どうやっても言葉になどできない……だけど「こうなんだよね! 判るよね!」とでも言いたげな、インタビューの行間からにじみ出てくるアルチザン的ムードがたまらなく良い。
 金田は本能のおもむくままに筆を動かすのだろう。
 これはこっちにあるからこう置いて、いっぺんにこの手前のこいつも見せたいよな、近くにあるから大きいよな。迫ってくるときには、ドバッ! グワッ!
 こうだもんな。サッ、サッ。
 いや本当にそうやっているのかは本人でないから判らないし、こちらは観客なのだから本質的な問題ではない。
 大切なのは、作業をしているときには金田にしか見えないイメージ、金田にしか所有されていない情動がひとつの画面の中でせめぎあって形になる、その結果として画面がひずんでしまうことだってあり得るんじゃないか、ということだ。歪んでしまったかもしれない画面の向こうから「こりゃスゲエんだ!」という金田の魂の息吹が伝わるからこそ、他のひとの描いた映像と違うワン・アンド・オンリーのテイストを感じ、シンクロし感動する、ということだ。
 「表現」にいたる内心の葛藤の結果として「パースがついてしまう」のであって、最初から「パースをつけてやろう」と作っているのではない、というのは重要だけど気づきにくいことだ。
 絵というのは不思議なもので、人間の心のなかにしかないものを明瞭に再現してしまうものだ。単に空間を切り取った映像としてのイメージというだけではなく、エモーションのゆらぎのようなものまで忠実に反映してしまう。観客の目にもその情動は明白に伝わり、染み入り、共鳴を及ぼす。
だからこそ感動するのである。
 フィルムになるまで金田にしか見えない感じられない、イマジネーションの彼方にあるもの。それこそ我々が自分だけでは見られないからこそ、映画を追い求めて見る動機になっているものではないだろうか。
 その原点を観客としても大事にしていきたいし、語っていきたい。
 だから金田のもつ筆がたとえマウスかタブレットに変わろうとも、全然心配なんぞはしていないのである。
 だって、金田伊功は「アニメ界の円谷英二」なんだから。そのイマジネーションの源泉を信じているから。

 シャカイガクやシンリガクがどんなにエライものなのかは私には判らないし、世の中がどうなっていくのか、なんてことはアニメを見て考えても仕方ない。
そんなことより、もっとアニメを見てるときに大事なコトがあったんじゃないのか。
 それは、観客を楽しませる映像を作ったクリエイターたちがいて、その「夢見る力」があるからこそ、観客も共感し、イマジネーションのタガが解放されて快感を得る。
だからアニメを見るんだという、ごく当たり前のことだ。
 その当たり前に気づかせてくれる金田映像は、やっぱりたまらなく好きだし、これからもこだわって追っかけて行きたいと思う次第である(敬称略)。

<後記>
代表作:著書「20年目のザンボット3」(太田出版)
    ※金田さんの原画掲載、ありがとうございました。おかげさま
     で好評でした。
    「ランデブー 6号 スタジオZインタビュー」(みのり書房)
    ※金田さんへの日本初のインタビューです。ケダマン氏と共同
     で取りました。20年前のできごとなのは信じられません。
    「動画王・第1号 金田伊功インタビュー」(キネマ旬報)
    ※たぶん金田さんへの最新インタビューです。最古から最新ま
     でやらせていただけたのは光栄です。かなりページ増やして
     いただいたのですが、渡辺宙明先生の音楽の話など、もれた
     話もあって少々残念です。
    「SFアニメが面白い」(アスペクト)
    ※使える写真に制約があって残念でしたが、必死で金田色を強
     めた記憶があります。
    「東大オタク学講座 岡田斗司夫著」(講談社)
    ※東大生のために金田アクション名場面を編集するというのは、
     面白い作業でした。

【初出:同人誌「金田伊功GREAT」 1997年12月発売】

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2006年12月 5日 (火)

勇者王ガオガイガーFINAL

題名:逆転の構図とドラマの関係
(同人誌用原稿)

 まず、『ガオガイガーFINAL』全八話の完結、これはスタッフもファンの方も大変だったと思います。全部で五年間になるのでしょうか。その時間の重みというのは大きいです。セルアニメとして始まって、途中でデジタルの時代に変わってますもんね。
 その間のテンションの持続と、この密度の映像でやり遂げたということそれ自体が、すごいことだと思います。
 お客はどん欲なので、待たせれば待たせるほど期待をふくらませるはずですから、それに応えていくのが、どんなに大変なことかは身に染みてよくわかります。私自身は完結を待ってから一気に観たので、各巻とその前でどれくらい間が開いたか、実はよく知らないんですが、待たせただけの甲斐のあるものだったであろうことは、画面からほとばしる熱気でよくわかりました。
 特に、最終シークエンスで「勝利」の文字がそろって出るところとか、大仕掛けが作動して巨大ハンマーが出現するところ、「やっちゃえ!」とか、あの辺は良かったですね。ラストも、あの傷ついた人びとは、起こしたことの大きさを背負って、時が来るまでさまよい続けるだろう、という部分は渋くていいと思います。

 ただ、「本当にこれでいいのかな……」と考え込んでしまった部分も、楽しさの反面に多々あったことは事実です。それはファンのための本で言うべきことなのかどうか、ずっと迷っていまして、ばっくれてしまおうかとすら思ったんですが……。
 編集の方々とメールをやり取りしていく中で、逆に好きな方が集まる場だからこそ、そういう部分にもちゃんと光をあてた方が、良い締めくくりになるのではないかという風に思い始めました。
 なので、なるべく自分の感覚に正直に展開していきたいと思います。

 話を絞り込んで言えば、この作品については「逆転劇」と「エスカレーションの構造」に違和感を感じました。そしてこれは、「ストーリーとドラマの関係」ということにも密接にリンクしています。
 観終わった方はもう充分にご存じのとおり、このビデオアニメは他に類を見ないほど「逆転逆転また逆転」の繰り返しで物語が進んでいきます。いや、「クライシスと逆転だけで」と言った方が、より正確でしょうか。
 勝ったと思ったら「ふっふふ、バカめ! 実は!」で逆転……したと思ったら「この手があるぞ!」……かと思ったら「我らにはこれが!」……かなあと思ったら「俺の力は○○だ!」……え~、何の話なんだっけこれは、と途中でふと思っちゃったりするわけです(苦笑)。
 これは邪推の類ですが、三十分ずつポツリポツリと発売されるのを待ち続けるファンのテンションを上げておくための仕掛けだったのかな、と思ってしまうほどでした。そうなると、リリース形式とドラマツルギーが不可分ということになりまして、突きつめていけば、これはそもそもTVシリーズのファンが心待ちにして観るもので、門外漢が一気に観るものじゃない、という話になりかねません。そうなら、以下述べることは本当に無粋なことにしか過ぎなくなります。
 そんな疑いが出るくらい、「さあ、また新たなクライシスだ」「おっと、○○で逆転!」ばかりが際だってしまう作品なわけで、そこにはあまり異論はないでしょう。
 それは映画が連続活劇だった時代の「クリフハンガー」(主人公が崖からぶら下がって危機を盛り上げて次につなぐ形式の映画)の系譜だということもできます。もともと連続シリーズのテンションの上げ方は、逆転とエスカレーションをもって王道と成すわけですから、そこだけを取り上げて「逆転するから良くない」などと野暮なことを言いたいわけではないのです。
 問題は、「何のための逆転なのか」という目的意識(観客がシンクロすべき意識)や「逆転をしたことで全体の流れや登場人物のドラマはどうなるのか」という物語の骨子みたいなところが、ふとぼやけてしまうように感じるところにあると思うのです。

 逆転劇の中で、一番最初に「ええっ?」と思ったのは、“ルネの危機に現れたその影は、なんと! 護だった!”という展開です。
 いや、だって……地球に反旗をひるがえしてまで完遂せねばならなかった今回のこの壮大なる旅、それは「護を助けに行く」のが目的のひとつだったわけじゃないですか。
「ある人間を助けに行った先で、そいつがどうして助けに来るのよ」って、これは後にアカデミー賞を取った『千と千尋の神隠し』を観たときにも言った言葉ですが(ハクのことですね)、こういうのは物語を進める上で、本来は禁じ手というかバグに近いものではないかと思うんです。
 なぜなら、話を前に転がすモーメントというのは割と物理学的にできていて、不可逆な性質があるからです。
 この場合、誰か大事な人が弱っているということが、物語の進行方向にぶら下がると、向こうの方がへこんだ傾斜みたいなものができて、それが主人公の走り出す運動エネルギーのもとになるわけです。その走るという運動が燃料のように作用して、そのへこみを回復させて元に戻す……いや元に戻ったのではなく、以前に比べて「より良き状態」に「変わった」ということが、普遍的なお話の構造なんです。
 それはパターンだ、お約束だということではありません。もともと人生というものは、普遍的にそういう風にできている部分があるからです。だから、物語の重要な役割として、構造の中へ観客が首を突っ込んだ果てに、どんな変化、発展があるのかないのか、ということが、結局は「魂が響き合う」とか「お話が糧になる」ということに結びつくのだと思うんです。
 ドラマの持つ感動の原理とは、そうしたものでしょう。
 ところが、坂道を汗水たらして下っていったら、「それは上り坂でした」と言われたりすると、目が回るわけです(笑)。というか、走っている立場の人だったら「ああ良かった」じゃなくて、怒ると思うんです。
 たとえば、もし自分の伴侶(妻)が病気になって、それを助けるためにベルリンとかどこか遠くに行かなければならなくなったとします。とてつもない苦労して苦労して、異国の地にたどりついたところへ、自分が車に轢かれそうになるとか、病気とは全然関係もないし、レベルも違うクライシスが起きたとき、奥さんがぱっと現れて助けたりしたら、どうなるでしょうか。
「なんでお前がここにいるんだ!」と、それまでの苦難の道程を否定されたみたいに感じて、とりあえず怒ったりするんじゃないでしょうか。愛情の深さと、こういう矛盾に対する怒りの心のメカニズムは、まったく関係ないわけです。
 余談ですが、宮崎アニメのすごいところは、そういう原理原則に反しても、観客には気づかせずに、「良かったなあ」と感動させてしまうところですが、その話は略します。

 『ガオガイガーFINAL』の逆転劇というのは、どことなくそういう本末転倒的な雰囲気が漂っている上に、話の道筋を見えにくくしている部分が大きいと思うのです。
 これは繰り返しになりますが、まとめて観たせいかもしれません。ともかくいろんなクライシスやら設定やらが、逆転劇のあるたびに次第にダンゴになっていき、頭の中が泥沼になって来た感覚が鮮烈に残っています。
 さらに話をややこしくしているのが、続編特有とも言える「エスカレーション」です。これは名著「サルでも描けるマンガ教室」で明解に表現された例だと、最初は校内の番長と戦っていたのが、となり町の番長、となりの市の、県の……とやってるうちにエスカレートしていって、しまいには「宇宙番長」と戦わなければならなくなるという、アレのことですね。
 これは歴代の長期連載マンガでも、作者みんなが苦しんでいるものでして、『ドラゴンボール』が典型です。あれの途中でも、“強さを数値化する”道具として「スカウター」というものが登場します。そういうものを出さざるを得ないこと自体、すでに作者と編集者&読者の間で「強さのエスカレーション」が通常の描写ではまかなえなくなり、数字にしないと混乱する域に達したということを意味していました。
 それぐらいエスカレーションというのは、エンドレスにならないよう慎重にやらなければならないのですが、慎重にやり過ぎるとエスカレーションにならなくなるという困った性質を持っています。後先考えずにノリでやった方が人気稼業的には良い結果が出るというものなので、全否定できないものです。
 『ガオガイガーFINAL』も、逆転によって敵と味方の優位性が激しく入れ替わる、少年ジャンプ的な構造を取っています。それを続けている限り、エスカレーションは常に強い方向へと上昇が可能です。しかし、そのすべてを「逆転」でつないでしまうとどうなったかというと……。
 結果は、誰は誰よりどれくらい強いのか、強さの根拠はどこにあるのか、そもそも誰が何の目的でどうしようとしているのか、対立の本質はどこにあるのか(たとえば複製とはそもそも良いのか悪いのか)、そういうことがどんどんわからなくなっていったのではないでしょうか。
 それは文章表現の上で、「しかし」をひとつの段落に2回以上使うと、何が言いたいかわからなくなってしまうのと似た現象だと思います。逆転が多すぎた結果、シンプルであるべきストーリーラインがぼけて来たのかもしれません。
 最終巻が近づくにつれて、「これで本当に終わるのかなあ」と思った方は少なくないと思いますが、それは敵側が圧倒的に強いから「勝てるのかなあ」という思いもあるでしょうが、「この話はどんなゴールに向かってるのかなあ」に関して不安に思ったことも一因だったのではないでしょうか。

 個人的に特に一番困ったこととしては、敵側であるソール11遊星主が、なぜここまで悪とされているのか、絶対悪とされるほどどのような悪い「行為」をしたのか、GGGに比べて本当に強いのかどうかが、途中で全然理解できなくなってしまったことが挙げられます。
 たとえば、ソール11遊星主の攻撃方法として「勇者チームの複製を作って攻めて来た!」という展開がありますが、これが理解のつまづきの代表例でした。
 遊星主の方が明らかに強いわけですよね? だったら、遊星主の複製でいいわけです(最後には事実そうなる)。取るにたらぬ奴らだというポーズを取ってるなら、捨て駒だとしても、勇者チームを攻めに使うのはよくわからないわけです。
 でもまあ、それは置いておいて、「味方自身に復讐されるというクライシスが見せ場になるんだろうなあ」と思って取りあえずその見せ場を心待ちにして観たわけです。そうすると、「複製でも魂は勇者だ!」というオチがついて、反逆されてしまって……その期待は、受け皿がなく霧散してしまいました。
 結局、それは「洗脳が足りていなかった」ということになってしまうのですが……こういうのは“イディオット・プロット”と呼ばれて、あまりほめられたものではありません。イディオット・プロットを自分流に定義し直せば、「登場人物の間抜けな行為や落ち度によって話が転がるもの」ということになりまして、他にも「ウィルスを送り込んだら書き換えられて送り返された」という展開がありますが、そんなことも予見できなかったのかという風に、作劇上あまり良いことではないわけです。
 ここで「逆転」が多用されることで、イディオット以外にも重要な問題が発生してきます。
 それは「価値観の混乱」です。
 先の例では、洗脳を解いた複製勇者チームの自己犠牲が悲劇につながって、物語を盛り上げるものとして使われています。するとその瞬間、「複製だとしても、魂のある者は尊い」という価値観がここに発生するわけです。
 であるならば、敵の複製行為もあながち悪くはない、という疑念が生まれます。死んだパピヨンの復活の件も、これに絡んで来るのか……この「価値観のせめぎあい」がドラマの核になることを、思わず期待してしまいます。
 価値観自体が途中でシフトすること自体は悪いことではありません。新たなる価値観のステージが発生して、その上で次の段階の物語をつむげば良いわけですから。このことを認識したGGGが新たなドラマを発生させれば良いわけです。
……と思うと、この件はここで終わりで、何にもおとがめなし(笑)。「価値観のせめぎあい」は発生せずに、そういうところは「棚上げ」になってしまうわけです。
 「ウィルス逆流」にも、似たような「価値観の混乱」があると思います。相手にウィルスを送り込むのは、正しいものを変質させていびつにする行為ですから、応分に「汚い手」です。ところが、そのウィルスを自分に従うように書き換えて送り返すのは、いくら「目には目を」的反撃だとしても、汚いと言っている敵と同じレベルに落ちてしまう行為に思えて、どうにもスカッとしませんでした。
 こういった悪役的行為と、ジェネシック・ガオガイガーが悪魔的体躯をしているのと何か関係があるのかとも期待しましたが、これもはぐらかされてしまったように感じましたし……。
 何か重大な思い違いをしているのかと、何度も不安になりました。

 先に「棚上げになる」という言葉を使いましたが、この感覚も本当にあちこちにありまして、これは私が不注意だとかいう問題ではないだろう、と思う一因となっています。
 一例をあげれば、「悪い子になっちゃいなさい」ってどうなったんだろうとか……。ルネがケロっとしているので、てっきりこれから澄ました顔で破壊工作を始めるのかと思ったら、単に見逃されて解放されただけらしいと知って、腰が砕けました。これは、私の見間違いですか? それならその方が良いと思うくらいです。
 その一方で、前振りが足りていないから突然ことが起きる、という感覚もつきまといます。みんないきなり平和ボケになるとか、最初に惑星についたとき、ちょっとした予兆、前振りがあれば良さそうなことが、なされていないんです。
 ネタが多すぎて、消化に追われていたのかもしれませんが、全八巻、三時間以上ある割には唐突にことが起きてブッチンと終わることが、あまりに多すぎて、それがまとめて観たときの疲れを誘発した印象が強くあります。
 とにかくある事件が起きるには起きるのですが、事件を経たことで何らかのある結論なり価値観の変化や確認があって、その変化が次の展開に作用する……そういう有機的な結合が足りていないのだと思います。
 要は、ひと固まりになった「長編の構造」になっていないのだということです。

 それが一番良くない形で出るのが、本来は映画を最大に盛り上げるべきクライマックス「地球壊滅の危機」です。
 これも、具体的な映像としては画面に出てくるものの、肝心の凱とGGGたちがそれを知っているのかいないのか、認識しているとしたらどういう状態だと思っているのか、ほとんど描かれていなかったと思います。地球から最後の応援になるものが来るとか、そういう連携もありませんし、画面からは地球滅亡の緊迫を背負って戦う雰囲気がにじみ出ていないように思えました。
 設定上、地球の映像を送れるわけはないのですが、だとすれば、あそこで流れた地球の危機の映像は誰が観るためのものなのでしょうか。「誰」とは、「観客」でしょうか。
 物語の中には存在しない「観客」が、2つの別の空間で起きている事象を結びつけて「これはピンチだ」と認識して欲しいと、期待の目くばせをされたみたいで、ちょっと変に思いました。
 どんな手を使ってでも、物語の中に出て来る登場人物がなんとか「ピンチだ」と自ら認識する必要があると思うのです。アリガチな手として、敵側が「ふはは、貴様らの同朋が散っていくのを見るが良い」と、急になぜか親切モードになって映像見せるとか、いろいろあるじゃないですか。
 その認識の上で何らかの行動を起こすから、観客の心が震えて感情移入がなされ、フィルムの中へと飛び込んでいくことができて、そこで初めて映像にも意味が出て来るのです。こういう順番でなければならないと思うのです、「映像ありき」ではなく……。だから、あれは個々のシークエンスやギミックの持つカタルシスとしては良かったけど、長編のクライマックスとしては、不満の残るものだったと思います。

 もうひとつ、最終最後まで疑念が残ったのは、「価値観の混乱」の果てにあった「敵側の問題」です。
 凱が敵のことを「(凱とGGGを)怖れていた」と決めつける場面がありますよね。一方的に決めつけるのもどうかと思いますが、その瞬間、敵側は弱者になりガオガイガー側は強者になります。それがこの壮大な物語の出しゆく結論です。少なくとも主人公サイドの。
 であるなら、強者が弱者をぶっとばし、滅ぼしてしまう行為は「勇気」たり得るのだろうか? ということが、最大級の疑念になってきます。
 ここで問われることは決算ですから、ここまで描いて来たことの積み重ねがものを言います。
 敵を根絶してしまうからには、根絶しなければならないだけの害悪が描かれているか、譲れない一線みたいなものを踏みにじり続けた、ということが必要なわけです。あるいは、こちら側が絶対弱者であるなら、それもレジスタンスとして理にかなうことになります。
 しかし、ソール11遊星主はみんな格好つけてニヤニヤしているだけで、全然そんな大それた風には見えないんです。せめて父親の複製とかが許せない者として作動するのかと思ったら、これも格好だけで終わったみたいだし……。
 その上、出た結論が「複製テクノロジーに寄りかかって心根が弱くなってしまった人びと」ということなら、主人公サイドがそれを理解したのなら、どうして「暴力」が解決になるのでしょうか。
 そういうことが語られている映像自体も「新宿ビル破壊の激闘」でして、これも良くなかったですね。ロボットアニメ道的には観客が一番見たい映像ですが、「無人の複製だからノークレームでお願いします」という仕掛けなわけですよね。複製の誤魔化しで心根が弱いって、誰のことだろうか……なんぞと意地悪く思ったりして、かなり気合いが抜けました。せっかく好きな映像なのにね。
 逆転でひっくり返し続けて、何が良しで何がNGなのか、価値観が混乱した果てには、たぶんこういうことも起こり得ると思います。

 そもそもこれはファン・ムービーの一種でしょうから、もしかしたら作り手とファンの間には混乱しない盤石の信念、価値観があって、それを理解していないとノレない部分もあったのかもしれません。
 ですが、自分はスカッと一発、壮快な長編ロボットアニメをと思って見始めたわけです。それにしては、スカッとしようとすると「何かがズレてきて邪魔する」ことの繰り返しが多く感じられました。それが、せっかくスカッとした部分をスポイルしたみたいで、残念だということなんです。

 考えたのは、この作品でいう「ドラマ」とは、どういう部分にあったのだろうか、それが見えにくかったのはなぜか、ということです。
「ストーリー」の方は、「新たな敵が出て来て、勇気と団結でそれを排除して、地球を救いました」ということで良いと思います。ブレがあったとしても。
 結局、個々のプロットを「逆転とエスカレーション」でつないで行ったがゆえに、より大事な「ドラマ」の行方が霞んでしまったようだなあ、というのが、最終巻の余韻の中で考えたことです。
 「ドラマ」と「ストーリー」の関係については、ここのところ自分なりに考える機会があったので、理解したことを補足的に述べておきます。
 たとえば『仮面ライダー』を例に挙げましょう。
 「ストーリー」とは、こういうものです。
「改造人間を使って世界征服をたくらむショッカーという組織が現れた。青年・本郷猛はショッカーにさわられて改造されるが、脳改造の寸前に脱出した。本郷は、仮面ライダーと名乗って、改造された身体を駆使してショッカーと戦う。ついに仮面ライダーはショッカーを追いつめ、壊滅させた」
 これに対するドラマとは、どういうものになるか。
「本郷猛は将来を嘱望されたレーサーだった。だが、改造手術によって彼は通常の人間とは違う能力を得た」
→「葛藤(コンフリクト)の発生」
→「改造人間vs通常の人間」
 ここでこの対立な構図ができたことが、コンフリクトに2つの側面をもたらします。
「A:改造人間の能力は戦闘に使える(優位性)」
「B:改造人間は通常の人間と幸せに暮らすことはできない(コンプレックス)」
 このAとBを往還することが、各話のドラマになります。
 ですが、ドラマの帰結というものは、「本郷猛はショッカーとも通常の人間とも違う、正義の改造人間という新しい存在として自己を確立した」ということになるわけです。つまり、対立状況を相克した結果、前とは違った状態に到達したという「変化」が描かれた、ということが、すなわち「ドラマ」になるわけなんです。
 こういったことは、弁証法的で言うところのアウフヘーベンに結びつけられて説明されています。そうすると本郷猛のドラマは実は第1話で終わっていることになったりして(笑)、あとは果てしないルーチンになってしまうのも、ゆえあることだったわけです。
 ただ、ルーチンの果てにも、シリーズ全体の物語が終わるときには、「自分の改造された身体が必要とされない喜び」みたいなものが新たな変化の状態になり、そのドラマの帰結が観客の腑に落ちると「そう、そうだよな」と共感のカタルシスになるわけです。
 類似の作品でラストで人間に戻っちゃったりしてブーイング、みたいな事例も過去に数多くありますが、それはもちろん「ご都合主義」にも問題はあるのですが、こうした人生の鉄則たる「不可逆反応」の果てに「変化」があって、ささやかかもしれないけど、ちょっと昨日とは違う明日がある、だから生きて行こうよ、みたいな姿勢に反することだからなのでしょうね。
 結局、ドラマというのは、こういった感情の問題と変化に帰結するものなのです。逆転を前提にした対立構造がいっぱい描かれているから、コンフリクトがいっぱい発生してドラマになる、ということは決してないのですね。

 それで、そういう観点で『ガオガイガーFINAL』を回顧すると、「凱と命」の行く末と「変化」って、どういうことなのだろうという点に、やっぱり物足りなさがあります。
 個別のエピソード、キャラクターに絞れば、この作品は良いものをたくさん持っていると思います。命が昏倒したままとか、パピヨンが安易に残らないとか、護がいくら願ってもGGGは帰らない、というあたりはGOODだと感じました。
 でも、全体をざっくり見たときには、感情にひとつの流れと脈絡をもたらし、最後に「ああ、こうなるのか」と落とすドラマの構成が弱かったと思います。それよりも、逆転逆転のプロット(ストーリー運びのための展開方法)で、次はどんな手で驚かしてやろうかという方向に、明らかに精力が注ぎ込まれているように感じます。
 個々がよく出来ているがゆえに、その全体を貫くドラマの流れと帰結の不足がすごく残念だった、もったいなかったなあというのが、率直な総括的感想になります。
 もっともっと「そうか、凱と命はこう変化したのか、ルネはこうなるのか、レギュラーの面々は……」みたいな点描が全体にあってラストに収斂し、作品全部が響き合うハーモニーを形成して、「なるほどなあ、ガオガイガーで言っている“勇気”という言葉は、具体的にこういう“行為”を指すんだ、こういう“感情”を指すんだ、だからみんなこうなるんだ」という風になっていく。「そういや敵側にはこういうこと、ああいうことが欠けてるんだよな、だから倒されるのも当然なんだよなあ」と、すっと納得できるように幕を引いていく。
 そんなラストもあり得た、自分は本当はそういうものが観たかったなあ、と思いました。

   ×   ×   ×

 この作品が心より好きな人には、本当によけいなことだったかもしれません。
 ですが、あまり商業誌とかでは話をしない筋向きのことでもありますので、せめて今後の何らかのご参考になればと思います。

 かくいう私も、どこかでもう一度見返すチャンスがあれば、ころっと感想が変わってしまうかもしれないです。よくできているかどうかで言えば、よくできていると思いますし、好みで言えば好きな作品です。
 作画的なゴージャス感、根性の入れ方は間違っていないだろうし、燃えるものはもちろんあるんです。三段空母がロボットになるとか、そういう描写には私も喜んだりする世代ですしね。
 逆に、感動された方々がどういうところに注目されたのか、それは自分の楽しみの幅を拡げる上でも聞いてみたいので、「こう観れば良かったんだ」と、目からウロコが落ちる経験を期して、この本のできあがりを楽しみにしています。

<近況欄>

氷川竜介/アニメ・特撮文筆業者。貧乏暇なしの生活が続く中、『ガオガイガーFINAL』はストレス解消になりました。ただ、同時にいろんなことを考えこんで抱え込んでしまったのも事実で。もうちょっと素直に楽しめるよう、心根をチューンしたいと思います。今回の文章は、これはこれで何かのお役に立てば幸いです。

【初出:「勇者王ガオガイガー」同人誌用原稿 脱稿:2003.07.15】
※以下に紹介するのは、TV放送用に再編集された別バージョンなので、内容が異なります。

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ガッチャマンと0テスター

題名:ガッチャマンと0テスター
 --巨大ロボットの出ない巨大ロボットアニメ--

◆ルーツサーチ◆

 巨大ロボットアニメは、永井豪原作・東映動画製作「マジンガーZ」(72年)の登場で70年代にブームとなり、今日まで連綿と続く一大ジャンルを形成した。これは常識だろう。だが、巨大ロボットアニメの基本フォーマットもすべて「マジンガーZ」が登場することで生み出されたものなのだろうか?
 本文では「科学忍者隊ガッチャマン」「0テスター」と2本の作品を取り上げる。巨大ロボットが主役ではないのに巨大ロボットアニメのオーラを強く感じる作品だ。これを分析することで、「巨大ロボットアニメらしさとは何なのか」「それはどこからきたのか」という素朴な疑問に、従来とは別の視点からアプローチが取れるだろう。
 まず、ここで言う巨大ロボットアニメらしさ、70年代中盤に定着したとおぼしきその基本フォーマットとは何だろうか?確認のため、ここで「王道」とも言われるその要素を箇条書きで挙げてみよう。

◆巨大ロボットアニメのフォーマット◆

(囲みでレイアウトした方が良いか?)
 1.悪の組織
  (1)首領は実体がなく、声だけで指令を下す謎の存在
  (2)首領の下に幹部がいるが、必然的に失敗続きで首領に怒られてばかりいる
  (3)幹部は毎週、巨大なメカ怪獣を作り送り込んでくる。「○○獣」というネーミングがされている。
  (4)メカ怪獣は動植物をモチーフにしている。例えばアリが巨大化したメカ怪獣。
  (5)仮面と制服の無表情な戦闘員が幹部の配下にいる。無個性であり、いくら倒しても続々と出てくる。

 2.味方のキャラクター
  (1)すべてを統括する博士がいる。メガネかヒゲをたくわえてスーツか白衣を着用
  (2)主人公は熱血漢。後先を考えないで行動する。
  (3)斜に構えた二枚目がいる。主人公に批判的。
  (4)太って体のデカイやつがいる。失敗しがちだが憎めない。
  (5)小さい子供のようなキャラ。頭脳明晰で小回りがきく。
  (6)紅一点がいる。活動的で男勝り、密かに主人公を心憎からず思っている。
  (7)以上の5人がチームの主要メンバーである。彼らは制服に身を包んでいて、役割ごとに色分けされている。

 3.基本プロット
  (1)敵のアジトで、首領に指示を受ける幹部。
  (2)怪獣メカは動植物の特性を反映した武器を使って大暴れする。例えばアリのメカ怪獣なら蟻酸をはくなど。
  (3)博士が密かに作り上げた巨大な基地がある。メカは奥深い格納庫に収納され、エレベーターで移動するなどややこしい手順で発進する。
  (4)出撃したメカは分離状態でも攻撃力があるが、合体し、パワーアップして主役メカになる。
  (5)主役メカは敵のメカ怪獣と何戦か交える。お互いの技をじっくりと見せたあと、フィニッシュとしてひときわ派手な必殺技でトドメを刺し、爆発させる。
  (6)メカ怪獣が破壊されると、乗り込んでいた幹部は「おのれ、またしても」などと捨てぜりふを残して脱出カプセルで去る。
  (7)自分のアジトに帰った幹部は首領に叱責される。
  (8)主人公たちが基地に集まって会話し、「もうアリはコリゴリだよ」などと言って一同笑い、でエンド。

◆その名はガッチャマン◆

 70年代のアニメを見渡したとき、この基本フォーマットに一番近い作品は何だろうか?それは巨大ロボットアニメブームを起こした「マジンガーZ」ではなく、「科学忍者隊ガッチャマン」なのである。
 「ガッチャマン」には巨大ロボットは敵のメカ鉄獣しか登場しない。主役メカはゴッドフェニックスという万能戦闘機だが、本当の主役は5人の特殊チーム科学忍者隊だ。先のフォーマットに照らし合わせてみよう。ギャラクターの総裁Xはスクリーンに映る不気味な姿だ。最高幹部ベルクカッツェは毎週ムカデラーや電子レンジラーといったメカ鉄獣で攻めて来る。ゴッドフェニックスの必殺武器バードミサイルまたは科学忍法火の鳥に敗退し、捨てぜりふを残して去る。科学忍者隊のコスチュームと性格づけも、このフォーマットに忠実で、子供のキャラが天才メガネ君だったら完璧だったかもしれない。科学忍者隊と無数にいるギャラクター戦闘員の立ち回りは、G3号白鳥のジュンのパンチラを差し引いても見ごたえがあったし、何かとカッコを付けたがる南部博士はメガネとヒゲの二刀流装備でバッチリだ。
 なぜ、こんな風に巨大ロボットの集大成のような作風になっているのだろうか?
 まず、時間的な関係をおさらいしてみよう。
 「ガッチャマン」は「マジンガーZ」と同じ72年にスタート。前者は10月、後者は12月と、二ヶ月のタイムラグはあるが同期の作品だ。「マジンガーZ」は少年ジャンプに先行して連載されており、世に出たのは「マジンガー」の方が多少早い。
 キー局CX(フジテレビ)では、「ガッチャマン」と「マジンガーZ」の放映日は同じ日曜日。「サザエさん」をはさんで、6時と7時の共同戦線だ。いずれも高視聴率をはじき出し、2年間続いて同じ74年の秋に終了を迎えている。このタイミングで、「マジンガーZ」は続編「グレートマジンガー」に移行。「ガッチャマン」の後枠は川崎のぼる原作のファミリー路線「てんとう虫のうた」だ。これは「ガッチャマン」の前が同じ川崎原作の生活ギャグアニメ「いなかっぺ大将」ということを考えると、そう違和感のない選択だ。だが、ロボットの出ないSFアニメとして、王道的要素を薄めてさらに本格的な作品「宇宙戦艦ヤマト」(よみうりテレビ)が「ガッチャマン」と入れ替わるようにしてスタートした。これも偶然とはいえ象徴的だ。

◆導入された共通要素のルーツ◆

 時間的な位置づけを念頭において、「ガッチャマン」「マジンガーZ」の共通要素、あるいは当初は「ガッチャマン」にのみ現れ、後に影響を与えた要素を分析することで、我々の考える「巨大ロボットアニメらしさ」がどんなルーツを持つのか、探ることができるだろう。
 「メカ怪獣と戦うヒーロー」という要素はルーツを探れば、第一次怪獣ブームにさかのぼる。円谷プロによる「ウルトラQ」(66年)で怪獣ブームが起き、それは続編「ウルトラマン」(66年)で大爆発となった。「ウルトラマン」では毎回毎回新しい怪獣が登場した。正義のヒーロー・ウルトラマンがどうやって新怪獣と戦い、いつ必殺技のスペシウム光線で止めを刺すかが見所だった。特に子供の関心は「怪獣」に集中した。番組が終わっても怪獣アイテムをそろえたり図鑑で再整理せずにはいられなかった。
 「ウルトラマンパターン」とでも言うフォーマットが、後の子供向け番組の作り方に決定的な影響を与えている。巨大ロボットアニメも、その延長線にある。
 児童番組のコンセプトの源流は、忍術もの、少年探偵もの、秘境冒険ものに見ることができる。シリーズを安定させるために敵を決まった組織とすることは、その時代から一般的に行われてきた。「○○団」「○○党」というようなネーミングで。だが、悪が怪獣を送り込むという複合技のルーツは「ウルトラマン」と同時期のピープロ特撮「マグマ大使」(66年)だろう。この作品では悪の支配者ゴアが次々と怪獣を送り込んで来た。
 映画の時代に悪の側に固定した組織を置いた児童作品を数多く手がけてきた東映は、任侠もので屋台骨を支えている関係か、首領-幹部-(怪獣/怪人/妖怪)-戦闘員といった組織のラインを描くことが得意だった。そのノウハウが顕著に出たのが、特撮もので巨大ロボットが毎回怪獣と戦う初の作品「ジャイアントロボ」(67年)だ。この作品ではBF団という戦闘員を擁した組織とともに、恐い容貌だがどこか憎めず魅力あるレギュラー幹部が登場した。幹部と悪の帝王とのかけあいによる会話で作戦を説明する、といったパターンも確立した。作戦に失敗し、帝王に叱責される幹部、というシーンももちろんある。これは第二次怪獣ブームをリードした同じ東映の「仮面ライダー」(71年)ではより顕著に現れ、時代劇と同様に下っぱの戦闘員との立ち回りがまずあって真打との対決、というパターンにつながっている。
 つまり巨大ロボットアニメの「怪獣をあやつる悪の組織の幹部」という要素は、第一次第二次両怪獣ブームの総決算であり遺産なのだ。

◆ガッチャマンのみの要素◆

 今度は「マジンガーZ」に出てこない要素を見てみよう。
 悪の頂点に位置する首領。これが不定形で実体を見せない、というのは先の「仮面ライダー」だ。原作者・石ノ森章太郎の代表作「サイボーグ009」のブラックゴーストの首領がやはり正体不明で、人類の内包する悪そのものだった、という設定の援用だろう。さらにルーツをたどれば、ジェームス・ボンド007シリーズだ。悪の首領であるブロフェルドをカメラは決して正面から写さず、「見せてしまえばそれだけのものにしか見えない」という映画ならではの逆説的な演出法で悪の大きさを出していた。これをさらに正体不明にすることで「悪意」という抽象的なものを描くことに成功した。
 巨大な秘密基地からメカが複雑な手順で発進し、合体する。これは英国の人形劇「サンダーバード」の影響だ。日本では「ウルトラマン」と同時期にNHKで全国放映され、大ブームとなった作品だ。主人公たちが秘密基地のエレベーターに乗って乗り込むプロセスを細かく追ってメカの本物らしさを強調した演出がポイントだった。円谷プロが続いて制作した「ウルトラセブン」(67年)では、「ウルトラマン」には見られない細かい出撃プロセスが描かれ、リアルタイムな影響が明らかに見られる。
 「サンダーバード」ではメカ同士は3号5号のドッキングを除けば合体パワーアップしたりしないが、1号の可変翼は変形メカのはしりだし、2号の取り外し可能なコンテナには合体のルーツと言える。劇場版に登場したゼロエックスはズバリ合体メカだ。サンダーバードメカの影響で、東映特撮「キャプテンウルトラ」(67年)のシュピーゲル号、円谷プロ「ウルトラセブン」のウルトラホーク1号は合体分離メカになった。
 「マジンガーZ」にも出撃シーン、パイルダーやスクランダーの合体シーンはあるのだが、どうしてもマジンガー単体のヒーロー性が際立っており、作品が進むにつれて強調したり、取り入れていったものという印象がある。
 味方側のキャラクターシフト。特に主人公格5人の性格と特長づけは、「忍者部隊月光」(64年)の5人がベストな組み合わせだろう。「月光」の原作は吉田竜夫、そうタツノコプロの創始者だ。「ガッチャマン」直系のご先祖なのだ。

◆ガッチャマンの正体◆

 以上のように、怪獣ブーム・サンダーバードショックにおいて、主として特撮作品で開拓され普遍化した王道要素を積極的に取り入れ集大成したもの。それこそがタツノコプロの「科学忍者隊ガッチャマン」の正体であり、「巨大ロボットアニメらしさ」のルーツなのだ。60年代のSFアニメと70年代のSFアニメの間には大きなミッシングリンクがあるように見えるが、それは実は怪獣ブームの頃の特撮作品が間をつないでいたというわけだ。
 傍証を挙げておこう。怪獣ブームをリードし、子供たちのバイブルだったケイブンシャの「原色怪獣怪人大百科」には、「ガッチャマン」のページもあったのだ。イラストはエンディングにのみ登場する恐いメカ鉄獣ダイネッコ。当時の出版社と子供たちが「怪獣もののアニメ版」という位置づけで見ていたのはこの本によく現れている。

◆タツノコプロの挑戦◆

 「ガッチャマン」と同時期にスタートした作品に「アストロガンガー」(72年)がある。「マジンガーZ」より二ヶ月早くスタートした巨大ロボットアニメだが、ヒットせず、歴史の表舞台から消え、あたかも「マジンガーZ」が突然変異的に登場したかのような錯覚すらある。
 形態学的に見ると、瞳と鼻がない点が画期的なデザインだったウルトラマンに対して人間的なマグマ大使がいるように、黒目のない初のロボット・マジンガーZに対して人面むき出しのアストロガンガーはデザイン的に古風すぎた。設定やキャラクターも手塚治虫の「魔神ガロン」のようで、60年代SFアニメ丸出し。しかし、それ以上に画面におけるエフェクトのレベル差が大きすぎたのではないだろうか。
 タツノコプロは「ガッチャマン」の前年にアニメンタリー「決断」(71年)を発表している。アニメンタリーとは「アニメ+ドキュメンタリー」のことだ。劇画ブームに呼応して導入されたトレスマシンがアニメの画風をリアルにした。その頂点が戦記をアニメで描くことすら可能にした「決断」だ。もともと「マッハGOGOGO」「紅三四郎」などタツノコの画風はリアルだが、それを究極まで進め、ドキュメンタリーまで描けるという自信をつけたものだ。第二次世界大戦の実体験者も多く生き残っているころに、アニメでもウソだと思われないようにするだけのアニメ技術が登場したということなのだ。タツノコプロのチャレンジ魂の成果だ。
 具体的な技術を挙げてみよう。動画を鉛筆で汚すように塗って鋼鉄のザラザラの質感を出し、それをそのままセルにトレスする。筆で描いたような肉太の描線、影の塗りわけも3段階に細かく、爆発や煙もブラシやタッチで熱を感じさせる質感に仕上げる。戦闘機の機銃は透過光で曳光弾の軌跡を描く。セル画に背景の質感を与えるハーモニー作画。こうした後の基礎技術となるようなエフェクトが「決断」では実験もかねて積極的に導入されていった。
 「決断」では、いまではなじみのある「キャラクターデザイン」「メカニックデザイン」というクレジットが日本のアニメ史上で初めて出現した。この一点を取ってもタツノコプロの意気込みが判ろうというものである。
 この流れを受けた「科学忍者隊ガッチャマン」第1話放映では、視聴者は映像的に大ショックを受けた。アニメの技術進歩は誰の目にも明らかだった。メカ鉄獣タートルキングが持つ鋼鉄の重量感、貯蔵庫を破るレーザー光線の輝き、目に焼き付く鮮やかな爆発。高度なSFテクノロジーが高度で見ごたえのあるアニメ技術で表現されぬいている。「決断」で実験的に導入されたアニメ技術が、SFアニメという飛躍した設定を得て、新しい花を咲かせ、さらに大きく実を結んだ瞬間だ。
 華麗な映像表現、実写合成まで行う実験精神。これを支えるために用意された頑丈な受け皿が、時代とともに様々な作品に受け継がれることで強固になった王道要素だったのではないか。それが「ガッチャマンパターン」のもうひとつの見方だ。

◆ガッチャマンのインパクト◆

 こうして完成した「ガッチャマンパターン」は、完成度が高いだけに周囲にあたえたインパクトも大きかった。
 その影響度を知るため、「マジンガーZ」に続く東映動画のロボットアニメ第二作「ゲッターロボ」を見てみよう。合体メカに乗る主人公は「マジンガー」の単独操縦から3人のチームに進化している。もちろん3体のゲットマシンが合体して3種のロボットになるのが最大の見せ場だ。敵の首領は影のような大魔人ユラー。こういったマジンガーにはない要素がすでに現れている。いや、そのマジンガーですら続編「グレートマジンガー」では人間だったドクター・ヘルに代わって不定形のミケーネ闇の帝王になってるのだ。おそるべし、ガッチャマンパターン。
 完璧なる「ガッチャマンパターン」を継承した巨大ロボットアニメは東映+サンライズの「超電磁ロボ コン・バトラーV」(76年)まで待たねばならない。「コンV」は後の作品に新たな影響を多々与えることになるが、これももしかしたらガッチャマンパターンの安定度の御利益かもしれない。そして、特撮でもガッチャマンパターンの「秘密戦隊ゴレンジャー」(75年)が始まる。戦隊シリーズのカラフルな5人の集団ヒーロー。石ノ森原作なのに9人でなく5人である点は、ギャラの兼ね合いもあるのだろうが、要チェックだ。戦隊シリーズは、やがて巨大ロボットを取り入れるようになるが、これもアニメからのフィードバックと見て間違いないだろう。

◆0テスター登場◆

 この時期、もう一作「巨大ロボットの出ない巨大ロボットアニメ」がある。それは「0テスター」(74年)だ。アニメ制作にあたったのは、東北新社の子会社・創映社サンライズスタジオ。現在のサンライズの母体だ。つまり、後にロボットアニメの覇者となるサンライズの出発点とも言える作品というわけだ。
 生命維持度ゼロの限界に挑戦するテストパイロット、それが「0テスター」の名前の由来である。実際には3人の主人公たちが知恵とSF的な武器でアーマノイド星人の侵略から地球を守るという、やはりヒーローものを意識したメインプロットだった。主役メカは、テスター1号から4号。1号機は3体に合体分離可能である。
 この作品は「ガッチャマンパターン」を感じるものの、どこか中途半端だ。中には「少年ロボット ユウキの秘密」のような傑作も生まれたが、どちらかというと「アストロガンガー」のように60年代のSFアニメの尻尾を残したような作風だった。
 つい先日ビデオソフト化された最終回。後にサンライズのロボットアニメをリードする富野由悠季(当時は喜幸)演出によるものだが、とにかく凄いインパクトだ。アーマノイドの本星が地球に直接乗り込んでくる。彼らは科学が進歩しすぎて脳髄だけとなった生命体で、地球人の肉体を欲していたのだ。地上に爆弾がふりそそぎ、人類は危機に陥る。0テスターたちは地球を死守するため、極秘裏に地球上の核爆弾ずべてを月面に配置し、テスター一号機のシグマゼロビームでいっせいに爆破。その衝撃で月をアーマノイド本星にぶつけて破壊する。ここまでは、どっかで聞いたような話だが、良しとしよう。しかし、ラストのメインキャラたちの会話で、突然この作品はトンデモになるのである。
 「あのお月さんは大丈夫ですか?」「軌道が少し遠くなったが、まぁ大丈夫だろう」(一同笑)。
 「大丈夫じゃないわいっ!」とみんなツッコミを入れること請け合いである。「ぶつけておいて何を言う!」という富野ゼリフでも可。

◆0テスターの新機軸◆

 「0テスター」ではメカアニメの後の方向性を生み出すいくつかの新要素が生まれている。まず「0テスター」の企画は「サンダーバード」の日本代理店である東北新社がサンダーバード的メカブームの再来を起こそうとして立てられたものだ。
 「マジンガーZ」はマンガ家・永井豪がデザインした。「ガッチャマン」のゴッドフェニックスはアニメ美術の中村光毅のデザインだ。ゴッドフェニックスは実際には合体というよりは各メカを収容しているだけである。「0テスター」テスター1号機のデザインは、スポンサーサイドからの意見が取り入れられ、画面どおり合体できることを考慮した最初のものではないだろうか。
 デザインの実務を行ったデザイナー集団クリスタル・アート・スタジオは、後にスタジオぬえとなる。「宇宙戦艦ヤマト」で松本零士メカを見事な設定資料に仕立て上げていたのとほぼ同時期のことだ。SFデザインを専門に手がけるスタッフによるものという点も、この作品の大きな特長だろう。
 サンライズのスタッフはもともと虫プロ系で、「ヤマト」も虫プロスタッフが中核になっている関係で、「0テスター」と「ヤマト」の間には共通点も多い。しかし、その後のたどった道は大きく分かれている。
 パターンを抑制した「ヤマト」は視聴率的に苦戦し、一度は敗退するものの、後に劇場版でヒットし、アニメブームを巻き起こす。
 「0テスター」は放映途中で何度か路線変更になりながらも1年続いた。おそらくスポンサーサイドのテコ入れだろう。サンダーバード秘密基地のような「人工島」が登場したり、「0テスター地球を守れ!」と改題されたり、ガロス7人衆という巨大な敵サイボーグが続々と攻めてきたり、ゼロボットという四足歩行メカが登場したり。そんな展開の多い作品だ。それだけ作品全体の印象もふらついている。
 放映終了後は、同じ代理店・スポンサー・制作会社で、マジンガー以後、東映動画以外では初の巨大ロボットとなる「勇者ライディーン」が作られた。これが大ヒットしてアニメファンの支持も受け、今に続く「ロボットもののサンライズ」の地位を固めることになる。「サンダーバード」の血を直系でひく作品「0テスター」は、アニメのメカとしては画期的な工夫があったが、それだけではヒーロー性に乏しく、「ライディーン」という巨大ロボットアニメに変容を余儀なくされた。それが結果的にはこのジャンルの存続につながったということである。
 歴史に「もし」は禁物だが、「0テスター」が大ヒットしていれば、巨大ロボットアニメの代わりに「合体メカアニメ」というジャンルができていたのだろうか。いや、そうではないだろう。そのジャンルは「巨大ロボットアニメ」の部分集合で作れるからだ。それだけ様々な要素を加えて強靭になったジャンルだということなのだ。

◆最後に……◆

 恐竜が進化するにつれて環境の変化に追従できず、滅亡に瀕し、鳥類へと進化することで新たな覇権を得たという学説がある。
 巨大ロボットアニメとは怪獣もの変身ものメカものなど特撮作品が世代がわりするときに生んだ新しい進化の形態で、様々な「受け」の要素を複合したジャンルである。環境の変化に応じて、その時代時代で特撮・アニメのどちらが主流が決まるように見えるが、それは表層的な錯覚だ。作品は単独では成立し得ず、アニメ・特撮と互いに二重螺旋を描くように影響を与えあって進化するもので、根は同じものなのだ。
 「ガッチャマン」はビジュアルエフェクトの進歩という新しい翼を得て、特撮作品の王道要素の骨格を継承した巨大ロボットアニメの先駆けだ。さらに「マジンガーZ」の要素と合体した「ゲッターロボ」で巨大ロボットアニメの基本フォーマトは完成する。
 「サンダーバード」や60年代SFアニメ感覚を引きずっていた「0テスター」は、進化の主流とはなれなかったが、「ライディーン」で巨大ロボットものとして再生し、新たな流れの源を作った。
 同じメカものであっても松本零士なる新鮮なビジュアルイメージクリエイターを得た「宇宙戦艦ヤマト」は、青年層にも見ごたえのある世界観と設定という点で、新しい観客を開拓し、さらに新たな種となった。「ヤマト」の血を得て、巨大ロボットアニメが「機動戦士ガンダム」というさらなる進化にいたるには、「ライディーン」以降の富野・長浜両監督の活躍があるのだが、それはまた別の話である。
 「マジンガーZ」が巨大ロボットアニメの礎であることには異論を唱えるものではないが、我々の考える「巨大ロボットアニメらしさ」の真の潮流に一歩でも迫れたのなら、これに優る喜びはない。
【初出:動画王(キネマ旬報社)第1号 1996年11月脱稿】

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2006年12月 3日 (日)

獣人雪男

(未発表原稿)

 『ゴジラ』に続く昭和30年(1960年)の作品。都市破壊から一転して雪山の秘境を舞台に選び、ゴジラと同じ香山滋の原作によって等身大モンスターを登場させた作品である。ヒマラヤでイエティの足跡が発見されたと報じられて大きな話題になっていた。新キャラクター雪男は表情を持ち、ゴジラよりも人間に近い感情を持った存在として画面に登場した。
 タイトルバックは雪山の全画で、手前の岸壁が引くと、カメラはゆっくりと左へPANを始めて雪山へ観客を誘う。クレジットの「特殊技術」は円谷英二を筆頭に、ひとり分空けて、渡辺明、向山宏、城田正雄の三人が表記されている。
 降りしきる雨の夜、日本アルプス登山口の小さな駅で、山を降りてきた東亜大山岳部の飯島高志(宝田明)が新聞記者に語った事件とは……。半年前、飯島と恋人・道子(河内桃子)がスキー合宿に行った時、道子の兄・武野と梶は別れて山小屋に泊まった。やがて天候は悪化し、雪崩が発生した。飯島たちにかかってきた電話の向こうからは、悲鳴と叫び声、銃声が聞こえてきた。翌朝、警官と飯島が見たものは、つぶされた山小屋と巨大な足跡だった。武野だけが行方不明のまま、捜索は春の雪解けまで中止となった。
 半年後、人類学者小泉博士を加えて、残雪の雪山をめざしてパーティーは進んでいく。やがて、がらん谷にさしかかり、一同は何者かに殺された熊の死骸を発見した。そのとき落石が発生した。このシーンはミニチュアセットで撮影され、何十という石が重層的にゆっくりと砂煙をあげて崖を落ちていく。それぞれ複雑な運動をしながら回転する石はハイスピード撮影で重々しく迫力がある。
 ある夜、キャンプに眠る道子の顔を不気味な半人半獣の手がそっと触った。後を追った飯島は、雪男を見世物にしようとする自称「日本一の動物ブローカー」大場の一行に遭遇した。格闘の末に飯島は崖下に突き落されてしまった。飯島を助けたのは、前にヒュッテで出あった娘チカ(根岸明美)だった。そこは雪男を「主」とあがめ、守り神とするがらん谷の集落だった。男たちはチカが出ていったすきに、飯島を縛り上げてしまった。断崖に吊された飯島は、実際の役者をロングで合成したものだ。彼の死を待って、猛禽類と思われる鳥たちが集まってくる。この鳥は主にグラスワークによるもので、勢いよく飯島を襲う鳥は、操演によるものと思われる。獣の死骸を背負った雪男が飯島に気づき、軽々と引き上げて助け、立ち去って行った。
 一方、大場は偶然出合ったチカをだまして雪男の住みかを聞き出した。大場は麻酔薬で雪男を眠らせて捕獲に成功した。雪男を檻に入れ、移動するトラックを崖下からとらえたカットは、ゼンマイで自走するミニチュアを四倍速で撮ったものである。親を取り戻そうと、子どもの獣人は樹の上で待ち伏せし、檻に取りついて鍵を空けようとする。気づく密猟者の後続車。乱闘部分は、雪男、檻の上の子ども、後続車の正面など、ほとんどがスクリーンプロセスで背景に山あいの移動シーンを合成している。雪男やその子どもをとらえたフレームは固定されておらず、カメラがトラックアップやPANを自在に行って違和感を減じている。雪男は運転手の首をしめて殺害、追突した後続車は崖下に転落していく。落下する車と人間はミニチュアである。
 苦し紛れに大場が撃った銃弾が獣人の子どもを殺害してしまった。怒り狂った雪男が力まかせにトラックを持ち上げるカットは、画面手前に置かれたトラックが合成で、雪男の動きにあわせて、ひねるように回転して落下する。続くカットでは、崖を落下するトラックと檻がこなごなに砕ける様子を丹念にミニチュアで描いている。
 雪男は続いて興行師の大場の身体を軽々と掲げる。トラックと同じく移動マスク(実際には写真の切り抜きだったらしい)で恐怖におびえる人間の表情とポーズを変化させながら持ち上げるまでを描いたことで、不思議な迫力が生まれた。続くカットは、やはり崖を人形が落ちるミニチュアワークで、崖下を流れる渓流に向かって転落していくカットを積み重ねている。
 怒りの収まらない雪男は、がらん谷を襲撃して片っ端から家屋を引っ張って倒壊させていく。やがて火がつき大火災となるが、燃えさかる火事をバックに雪男は家を破壊し続ける。この場面にもスクリーンプロセスを用いているが、画面の手前にも炎を燃やしているため違和感がない。炎を使った大火事シーンはこの映画で一番派手な場面だが、締めくくりに「滅亡を迎えた村」という情景を、夜の山あいの全画に、ほんのり明るく火事の部分を合成して描くことで、全体が寂寞を感じるものとなっている。
 チカに案内され、雪男の潜む洞窟に向かった飯島たちは、おびただしい雪男の骨を発見した。雪男一族は毒性の強いベニテングダケを食したためにふたりを残し全滅してしまったのだ。孤独に耐えられなくなった親の雪男は、仲間を求めていたのではないか。その証拠に、武野の残した遺書にも、雪男が助けようとしたことがつづられていた。
 雪男は道子をさらって逃走する。急傾斜をあがる雪男は、人形をコマ撮りしたアニメである。他に雪原を歩く雪男もロケ地でオープンによる人形アニメで撮影されたが、太陽光の移動に気づかずNGになった。雪男が昇るにつれ角度が変化し、見上げる追っ手と切り返しの場面で洞窟の上半分が鍾乳石で覆われるようになり、マット画が用いられた。
 チカは飯島のためと思い、必死でナイフで雪男に切りかかっていった。ついに雪男とチカはともに崖下に落下し、たぎる熱湯の中へと消えていった。この場面もディテール豊かなミニチュアで描かれ、集落と雪男、それぞれ滅亡を体現した者たちの悲劇を締めくくるのだった。
【初出:「円谷英二の映像世界」用原稿(未発表) 脱稿:2001.04.01】

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2006年12月 1日 (金)

UFO戦士ダイアポロン

題名:UFO戦士ダイアポロン(未発表版)

<リード>
'76年4月6日~9月28日 全26話 TBS系放映エイケンが巨大ロボットブーム時に制作した唯一の巨大ロボットアニメ。孤児院あおぞら園で育ったタケシは、16歳の誕生日に自分がダザーン星に滅ぼされたアポロン星の王子で、体内に宇宙エネルギーを解放するキーエナルジーが埋め込まれていることを知らされる。タケシはキーエナルジーの力でダイアポロンに合身する能力をさずかり、あおぞら園の仲間とUFO少年団を結成。地球をねらうダザーン軍団と戦うのだ。原作は、雁屋哲。後に「男組」や「美咲しんぼ」でヒットを飛ばす作者が「少年キング」に連載したSFマンガ「銀河戦士アポロン」が元になっている。

ビデオ:東映ビデオより「エイケンTVアニメグラフィティ」の1本として発売されていたが、現在は廃盤

◆ロボットアニメの当たり年◆

 ダイアポロンの放映された76年に制作されたロボットアニメは全部で7本。ちょっとした当たり年だった。
 春からスタートした4本のうち「大空魔竜ガイキング」をのぞく「ゴワッパー5 ゴーダム」「超電磁ロボ コン・バトラーV」とこの「UFO戦士ダイアポロン」の3本は、主人公チームが例の「王道五人衆」だった。熱血漢と二枚目と巨漢とチビと紅一点というあのキャラクターシフトである。「コンV」以外はチピを天才メガネ君と子供に分けて二枚目をカットしたバリエーションだが、チビちゃんのキャスティングが3作ともそろって千々松幸子というあたりが「製作者のねらい」というやつを感じて、今からふりかえると何だか微笑ましい。
  「ダイアポロン」を制作したのはエイケン。エイケンと言えば、かつてテレビアニメの草成期(当時はTCJ)に鉄人28号やエイトマンなど珠玉のSFアニメを作っていた老舗だ。76年当時も20年たった今も変わらぬ稲作アニメの代表作、「サザエさん」のエイケン。それがなぜロボットアニメを……と誰もが思った。それほどロボットものは当たるとされた時期があったのだ。

◆ロボットか変身ヒーローか?◆

 主役ロボット・ダイアポロンは、巨大ロボットアニメ史初めて「巨大ロボット同士が合体する」という快挙を成し遂げた。同年の「マシーンブラスター」では、ロボット同士が合体できず組み体操をしていたから、偉いというほかない。質は量によって支えられる。同期の「コンV」ともども合体ロボ技術革新の時だったのだ。アニメの合体シーンでは、主人公のかけ声で「不要部分収納!」というのがあって「何じゃそりゃー」とツッコんだもんである。ダイアポロンの玩具CMを思い出すと、手足をもぎとって合体していたように思う。まだ完全合体とはいかなかったようだ。
 しかも……ダイアポロンは細かく追求すると、実は「巨大ロボット」ではないのだ。アポロンヘッダー、トラングー、レッガーの3大のロボットが合体完了すると、確かにダイアポロンの形になる。だが、「その後」が恐ろしい。スペースクリアー号で中に乗り込んでいた主人公タケシが、がらんどうになった内部で「ビュルルルルー!」(なぜかウルトラセブン変身の効果音)とダイアポロンと同じサイズに巨大化変身するのだ。リアルに作画された筋肉と神経が膨れ上がり、タケシが苦しむシーンが気色悪かった。収納されたはずの「不要部分」はどこに行ったのだろう。当たって痛くはないのだろうか。まさにミステリーだ。
 このようにダイアポロンの正体は、「巨大着ぐるみ変身ヒーロ一」なのであった。巨大ロボットアニメ数あれど、主人公が巨大ロボのコスプレをして戦うのは、この作品ぐらいである。
 スポンサーのブルマァクは、この新コンセプトの主役登場儀式を「合体+変身」すなわち「合身」という新ネーミングで意気揚々と世に問うた。「ガッシーン」というのが擬音ともマッチする。同年の「マグネロボ ガ・キーン」と類似の発想である。「およげ!たいやき君」が空前のヒットを飛ばす中、子門真人の歌う主題歌(山本正之作曲)も「ガッシーン」まみれである。ちなみに主題歌は未CD化でカラオケにもまったく入っていないのは嘆かわしい。「ゴーディアン」と合わせてVAPあたりで復刻CD化して欲しい。
 初期の戦闘シーンでは、タケシがロボットの名前を呼ぶとテレパシーが走り、3体のロボットが三日月珊瑚礁に潜んだアポロンベースから射出され、合身してから敵に立ち向かうまで例によって1分ちかくかかっていた。これがまた視聴者からのクレーム対象になった。「最初から合身して来れば良いのに」ということなのだ。という理由で、シリーズ後半ではUFO少年団のメンバーが分離したロボットに搭乗することになった。タケシも巨大化せずスぺースクリアー号でドッキングし、ロボットとしてコントロールするという路線変更になった。いかんせんそこまで見続けている視聴者は少なく、ずっと着ぐるみで通したと思っている人も少なくない。

◆ダイアポロンIIとは?◆   IIはローマ数字の2です

 ダイアポロンには「謎の続編」がある。「UFO戦士 ダイアポロンII」というタイトルで、テレビ局を移し東京12チャンネルで放映された。徳間書店の「TVアニメ25年史」でも子細不明となっている作品だ。どうやら制作プロにもちゃんとした資料が残っていないらしい。再放送に別タイトルをつけたという説になっている。この辺も「ダイアポロン」の怪作色を激しく増幅している。
 私は当時見ていたので、どういう作品かはおおむね覚えている。これはTBSで放映された正編のネガを複写し、ゲストの怪獣ロボを新作で差し替えた半新作なのだ!敵の幹部も新キャラ差し替えで当時の小学館学年誌にも特集されている。その他のフィルムとストーリーは流用という変わりダネ。第1回放映は正編の第6回相当で、エイケンに残っているストーリー資料にもまったく正編と同じ話が書いてあるため、研究者が混乱するのも無理はない。確かアクションシリーズという副題もついたはずだ。要するに「ウルトラファイト」のようなフィルム流用の変種アニメと考えれば良い。この当時はウルトラシリーズのように敵の怪獣と主役のバトルにこそ価値がある、と考えられていた歴史的証拠のようなものか。

◆ダイアポロンと芦田豊雄◆

 一事が万事こんなトンデモな調子なので、かつて月刊OUTで芦田豊雄をイヂメるのにダイアポロンが使われ、あげくの果て「ダイアポロン芦田」と名乗るまでになってしまったのはよく判る。
 しかし、しかしであ~る。この風潮には「待った」をかけたい。芦田キャラ、エフェクト作画こそは、この作品の宝物なのだから。
 ギャグにしてた人は、いったい芦田キャラの実物を見たことがあるのだろうか?作画を見たことがあるのだろうか?どうかすると芦田さんご本人も当時を忘れてギャグにしてたフシがあるが……。
 主人公の顔。どこかで見たことはないだろうか?
 そう。初代「宇宙戦艦ヤマ卜」の古代君。
 それも岡迫亘弘によるキャラ表のものではなく。第1話など主要な回で「オフィスアカデミー社内班」を統一した作画監督、それが芦田豊雄。ヤマトと言えば芦田キャラ。それが「通」である。
 人なつこい目。あたたかみのある太い眉。Gペンのように強弱のつけられたナイーブな線。どれもがアニメファンの琴線に触れる。ヤマトの魅力を支えていたのは芦田さんの作画したキャラだったのだ。ダイアポロンのキャラクター設定は、その直系なのだ。しかも、芦田オリジナルキャラの第1作目だ。
 年月は非情なもので、芦田本人にもこのキャラクターは描けなくなってしまった。もともと画風は内面からにじみ出るもので、経験した作品によって変化するのだが、芦田の場合は極端に変わる。「宇宙戦艦ヤマト3」を見れば判る。
「メーテルリンクの青い鳥」の後では、もはや同じ古代君は描けなくなってしまったのだ。その後、鳥山明作品を経て、ワタル調になった今では14万8千光年ほど遠くなってしまったことであろう。
 キャラだけではない。芦田エフェクトもポイントが高い。「ヤマト」でも遊星爆弾で岩がめくれるシーンや冥王星の海のエフェクトは芦田作画によるものだ。その実力は「ダイアポロン」でもいかんなく発揮され、太陽のコロナのゆらめき、3体ロボットを射出するときの波のうねりは実に見事だった。ダイアポロンビームは黒いイナヅマが走り、初めて撃った波動砲の香り。ロボット表面のマジンガーとはまた違った金属タッチ。上手い人は何を描かせても上手いのだ。テレパシーのスパークは、芦田が総監督をつとめた「北斗の拳」で場面転換にも流用されていたような……やはり芦田本人にもダイアポロンは密かに気にいてたのだろうか。
 ダイアポロンと聞いただけで、こんなことが走馬灯のように甦る。
 そういうわけで、ダイアポロンの芦田キャラとエフェクト作画は、私には永遠の郷愁なのです(今回、芦田キャラの実物をお見せできなかったのは残念…またの機会に)。
【初出:動画王(キネマ旬報社)第1号 1996年】
 ※この原稿は文字数を間違えて、規定量の1.5倍で書いたバージョンです。掲載されたものとは大きく異なります。

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合身戦隊メカンダーロボ

題名:合身戦隊メカンダーロボ(未発表版)

<リード>

'77年3月3日~12月29日 全35話 東京12チャンネル系放映

和光プロによる初めてのロボットアニメ。地球から1500光年のかなた、オリオン星雲に属するガニメデ星のヘドロン皇帝は精鋭コンギスター軍団オズメル大将軍に地球征服を指令した。またたく間に地球全土は制圧され、最後の希望は日本だけだ。ジミー、小次郎、竜介の3人は敷島博士の開発した戦闘機メカンダー1、2、3に搭乗。合体してメカンダーマックスとなり、さらにメカンダーロボに合身してコンギスター軍団と戦う。キャラクターデザインは「宇宙戦艦ヤマト」「アンデス少年ペペロの冒険」の岡迫亘弘、演出は林政行、安濃高志、長谷川康雄らが担当した。

◆異色の舞台設定◆

 「メカンダーロボ」と言えば、まずは主題歌だ。「マジンガーZ」をヒットさせた渡辺宙明による繰り返しの多いテーマ曲、実はピアノでは黒鍵だけで弾けるという特殊な音階を使っているのだそうだ。途中で「マグネマン!」とイッパツ叫びを入れて、そこから「マグネロボ ガ・キーン」につなぐのは定番の宴会芸だが、正統派の音階の主題歌に飽きていたのだろうか。同時期の作品を見渡すと、「ダンガードA」ではスポ根、「ボルテスV」では大河ドラマ、「バラタック」ではギャグと正統派のロボットは影をひそめ、アニメのトレンドはスーパーカーものへとシフト。巨大ロボットものは黄昏ムードである。主題歌も異色になろうというものだ。
 この作品も、野球場が変形して空母キングダイヤモンドになったり、メカンダーロボが胸から放射能の火炎を噴射するアブナイ武器(メカンダーフレイム)を使ったり、逆立ちしてミサイル撃ったり(大型ミサイル・ジョーズ)するヘンな戦闘シーンが有名である。ほとんど再放送もされずビデオ化もされず、なかば伝説化したマイナーアニメ軍団。だが、その1本として無視されてしまうには惜しい魅力にメカンダーロボは満ちているのだ。
  ……怪生物ヘドロン皇帝の指令で突如地球に襲来したコンギスター軍団は、ヘドロボットを搭載したコンギスター円盤の圧倒的戦力でまず南北アメリカ大陸を制圧。そこに拠点を築き、アフリカ全土を席捲するやヨーロッパを制圧すると最後の拠点ロンドンを攻撃した。
 「日本からの連絡はまだないか…たのむぞミスターX」。
 謎の言葉を残してロンドンは壊滅。
 ついに地球全土の95%がコンギスター軍団の制圧下におかれ、急遽結成された地球防衛軍は総司令部を日本の浅間山麓地下数百メートルに移し、決戦に備えた。ついに日本にも襲来したコンギスター軍団の猛攻に、たちまち戦力の50%を喪失、東京は紅蓮の戦火につつまれた。
 だが、総司令官・山本勝幸にはたったひとつ、かすかな希望が残されていた。
 「ミスターXから連絡はないか…」
 こんなシビアな異色のイントロから第一話はスタートする。
  そう、これは地球全土を舞台にしたリアルな侵略戦争ものなのである。
  宇宙からの侵略者だろうと、核兵器で対抗すれば良いではないか?
 そうはいかない。コンギスター軍団は静止軌道にミサイル衛星を配備。あらゆる原子力装置に反応して衛星高度から強烈な破壊力を持つオメガミサイルが射出され、原子力空母、原子力発電所、原子力潜水艦まで破壊しつくしてしまったのだ。
 ミスターXすなわち敷島博士が事態を打開すべく作った決戦兵器。それが、メカンダーロボというわけだ。何とも燃えるシチュエーションではないか。日本人の作るロボットアニメたるもの、こうでなくてはいけない。日本を舞台に戦闘が展開し、地球側が弱いという設定に納得の行く理由を加えた点で、本作品は高く評価できるのではないか。

◆タツノコカラーの拡散◆

 絶望的な状況から一縷の希望を託して立ち上がる戦士たち。泣けるシチュエーションである。設定作りには、もとタツノコプロで活躍したライターと「宇宙戦艦ヤマト」の演出家がペンネームで参加しているという。なるほどと思えるハードなカラーである。
 特に注目したいのが、タツノコ色だ。
 この前年、タツノコを退社したスタッフが葦プロを設立。「マシーンブラスター」でタツノコっぽいメカと戦闘シーンを持つ作品を制作した。「メカンダーロボ」の制作は和光プロだが、主役メカデザインがメカマン(大河原邦男)ということに始まり、タツノコ作品経験者が多く集まり、やはりどことなくタツノコっぽい作風なのである。
 ことに人類側を敗色濃い中から必死で反攻する弱い立場から描く、という点はタツノコプロの「新造人間キャシャーン」(73年)から引き継がれたものではないか。敵オズメル大将軍の配下にいる女司令官メデューサ将軍は醜い容貌だが、実は捕らえられて洗脳されたガニメデ星の女王なのだ。メデューサは、主人公ジミーの母親でもあり、たまに正気に戻って味方を助けることがある、という設定などはもろにスワニーだったりする。
  タツノコで「キャシャーン」を含めた数多くのSFアクションの演出を手がけた富野由悠季(喜幸)も、この作品に各話演出で参加。補給部隊のエピソードなど戦争映画のムードを漂わせた大人の香りで演出をしていた。マイナー作品ゆえ作画の仕上がりが決して良いとは言えない作品だったが、その分、内容的には従来のメジャー作品ではできなかったような挑戦ができたのではないだろうか。
 富野が総監督をつとめた同年の「無敵超人ザンボット3」や後の「機動戦士ガンダム」で、マイナーな作品づくりの中から設定をリアルにし、戦記っぽく描こうとしたルーツは、意外に「メカンダーロボ」なのかもしれない。
 蛇足だが、第2話の予告では敵メカ・シンキラーが正面から写るとまたその背後から2体目のシンキラーが出現するというジェットストリームアタックなシーンがあった。ひょっとして富野演出なのだろうか・・。

◆メカンダーの戦闘シーン◆

  地球側が圧倒的な劣勢に立っている理由、オメガミサイルは、ヒーローロボット・メカンダーロボに最大の弱点も与えている。三機の戦闘機メカンダーマックス(後半では自動車トライカー)が合体したあと、メカンダーロボの背中に「合身」すると、メカンダーロボの小型原子炉が作動する。静止衛星は、それをキャッチし、ただちにオメガミサイルが発射される(なぜかキングギドラの声が鳴る)。命中するまでは3分から4分。その間に敵を仕留めなければならない。「ウルトラマン」以来の伝統である「ヒーローの時間制限」は、タツノコプロでは「ポリマー」「テッカマン」などの作品で行っていたが、メカンダーでは世界設定と密接に結び付けられていたのだ。
 メカンダーロボの腕がグルッと回転してミサイルを連射したり、両手の円盤についたトゲを内側に持ってきて両側からはさみ込んで敵を圧殺したりする戦闘シーンは迫力がある。だが、武器は総じてスマートではない。発射された3つのパーツが野牛型になる空中合体魚雷ブルサンダーなんて今週のビックリドッキリメカみたいだ。耳をはずして電撃ヌンチャクにしたり(ライチャック)、腕の円盤をフリスビーにしたり(メカンダーUFO)するのもちょっと趣味が悪い。この時代のロボットの武器はおおむねこんなものではあるのだが。
 敵の怪獣メカ(これまたゴジラの声で鳴いたりする)は、第1話から同形のものが3体出てくる。それまでは「怪獣映画」のカタルシスを継承して、敵怪獣メカも伝統的に一体だったが、そもそも敵メカは兵器なのだから、同じ形のものが複数あっても良いわけだ。再生怪獣ではなく、同形メカを量産して出したのは、この作品が初ではないだろうか。
 タイトルにもなっている「合身」はメインスポンサーのブルマァクが「ダイアポロン」のときに作った造語で、「合体」と「変身」を合わせたものだ。だが、この番組の放映中にブルマァクは倒産。最後の方は、同じフィルムを使いまわして「回想編」「総集編」「単なる使いまわし」の区別がつかなくなっていた。
オープニングにも出ているキジュウダーとの戦闘シーンは何度見たか判らない。
でも、これも量産メカだという解釈で行っていたわけである。「機動戦士ガンダム」で評価されたものの一つに、ザクのように「怪獣」とされていた敵メカを工場で量産された兵器として扱うという考え方があったが、その先駆けとも言えるのではないだろうか。
  いまの目で見れば、まずその稚拙な作画に笑ってしまうであろうこと必定ではあるのだが、しかし、こんな作品もあってこそアニメは進化して行ったという点で記憶にとどめたい1本である。
【初出:動画王(キネマ旬報社)第1号 1996年】
 ※この原稿は文字数を間違えて、規定量の1.5倍で書いたバージョンです。掲載されたものとは大きく異なります。また、この後にLD-BOX化されています。《2007年11月付記》ついにDVD-BOX化もされました!

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