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2006年12月30日 (土)

テレビ東京とアニメの関係

題名不詳

※1997年当時、「デラべっぴん」というアダルト向け雑誌用の原稿です。おそらく読んだことがある方はいないでしょう。「デラべっぴん……にしては詳しすぎる」というところを笑ってもらおうと半分ギャグ、半分マジ予想で書きました。2007年現在の実情とは異なる記述も含まれています。第一、いま「東京ローカル」「12チャン」と言ったら怒られると思いますが(略称は「テレ東」)、まずは昔話であるということで、ご容赦を。
そんなに綿密な調査をしたわけでもないですが、だいたいそれから10年の予測としては途中まで当たってて、「地上波デジタル」に向けて傾向が加速中というところを楽しんでいただければと。歴史的側面にしても、驚くべき超短納期で記憶中心に書いた趣旨の原稿……にしてはけっこう正確なので再読して笑いましたが、そういうとこもギャグです。事実関係にも間違いがある可能性が大ですし、引用や典拠にするには地雷があると覚悟してください。まあ、あまり語られて来なかっただろう歴史の流れがあるんだというご参考に。

<リード>
今やアニメと言ったらテレビ東京。だが、そこに
いたるには長い歴史の積み重ねがあった。20年あ
まりの時間を圧縮して解説しよう!

■東京ローカル局物語

 むかしむかし。20年ちょっとくらい昔。
 テレビ東京は「東京12チャンネル」という名前だった。だから「12チャン」というのは愛称みたいなものだ。
 アニメや特撮のメジャー作品は、主に10以下のチャンネル番号の民放で制作されていた。12チャンはどうだったかというと、海外のアニメのふきかえか、他局の古い作品「ハクション大魔王」なんかにに「新」マークをつけてリピート放映していた。
 「自分のとこで作ってないのに新番組かあ」。子供はそういうところを見逃さない。なんだか他と違って、お金のない、マイナーな雰囲気のところなんだなあ、と思っていた。クラスにもちょっとはみ出していたり、いじめられている子供がいた。12チャンという名前にも、どことなくそういう子供に共通した哀愁が漂っている。
 やがて「東京ローカル」と呼ばれていることを知って、インパクトを受けた。文化の発信地は全部東京だと思っていたからだ。「東京と言っても、いっぱいある都市のひとつで、ローカル局があるんだ」世の中が少しだけ変わって見えるようになった。

■12チャンならではの番組

 12チャン初期のアニメに「ドンチャック物語」という作品がある。75年の放映で、動物が主人公のアニメだ。78年には特撮ヒーロー「UFO大戦争 戦え!レッドタイガー」が放映されている。
 この2つの作品の共通点は何か?
 東京の水道橋には、後楽園という大きな遊園地がある。どちらも、この遊園地が生み出したキャラクターなのだ。「レッドタイガー」は今も生のヒーローがバトルをするアトラクションショーを常設化したことで人気の野外劇場から生まれたヒーロー。ドンチャックは今でも後楽園では現役のミッキーマウス的キャラクターである。
 子供にとって「テレビでやっている」かどうかは、大変な価値の差がある。テレビでやっていないといわゆる「パチモン」の扱いを受けたりする。後楽園の方から、そういった事情をバックにスポンサーから持ち込まれた企画なのではないだろうか。
 70年代後半の12チャンネル作品には、どうもそんな受け皿的作品が多い気がする。
 例えば79年「ピンクレディー物語 栄光の天使たち」というのは、当時人気絶好調だったピンクレディーの二人の伝記だが、当人たちが多忙のためアニメになったという作品だ。声は声優が担当しており、主題歌も作詞・作曲はピンクレディーのヒットを生んだコンビなのに歌は別人だったりしてパチモン臭さを漂わせていた。
 関係者の誰かがから思いついたように出た企画が平気で通り、あとの仕上がりはおかまいなし、という感じの作品が多いのは、12チャンの特徴で、80年に放映された「まんが水戸黄門」などは他局の水戸黄門を30分のアニメにしてしまう珍企画だった。

■保たれた命脈

 12チャンであれば企画から実現までのポテンシャルが低いということは、悪いことばかりではなかった。
 70年代の後半は、「仮面ライダー」「ウルトラシリーズ」が相次いで終了、あまりパッとしてなかった。そんな中12チャン独自ヒーローが誕生していった。
 中でも77年の「快傑ズバット」は傑作だ。予算が少ないため、ズバットの戦う相手は着ぐるみの怪人ではなく、ただの「ヤクザ」だ。スタッフはひとつ間違えれば陳腐になる設定を逆手に取った。「渡り鳥シリーズ」のような気障な主人公に「仮面ライダーV3」の宮内洋を配し、得意技比べなどの工夫を凝らして盛り上げた。数年前にLD化されたときには、かなりのセールスを記録したはずだ。
 78年「スパイダーマン」も重要な作品だ。それまで変形・合体する巨大ロボットはアニメにしか登場せす、変身ヒーローとは別ジャンルになっていたが、初めてこの作品でジョイントが行われた。これが翌年の「バトルフィーバーJ」では戦隊ヒーローと巨大ロボットという夢の共演に結びついて、20年もシリーズが継続。アメリカ版「パワーレンジャー」として大ヒットを飛ばすまでにいたる。 その原点が、12チャンネルにあるということは、忘れられてしまっているかもしれない。
 だが、12チャンネルだからこそ、「え? アメコミのスパイダーマンが、巨大ロボットに乗る? そんなの受けないよ、わはは」と言って企画を突っ返されるようなことが起きなかったのだろう。それがゆえに、他局とはいえ後の特撮ヒーローの命脈が保たれたばかりか、国際的な発展に結びついたかと思うと、少し感慨深いものがある。
 これもまた、アバウトで敷居の低い分だけ自由度が高く、結果として可能性をつぶすようなことのない、12チャンならではの社風のもたらしたものとは言えないだろうか。

■打ち切り事件の波紋

 80年代早々になると、12チャンネルのアニメも本数がかなり増大する。
 「機動戦士ガンダム」の次の富野監督作品「伝説巨神イデオン」も、テレビ版は80年に12チャンネルで放映された。時代はアニメブーム、富野監督は追い風に乗る形で、後に「リアルロボットもの」と呼ばれる路線を展開していた。人々は生な感情をむき出しにして罵り合い、殺しあい、その中でも愛を育み、場合によっては同衾さえも暗示された。
 こんなアダルトな作風に、まだウブだったアニメファンたちは呆然と画面を見ていたものだった。
 ところが、ラスト前5本目で唐突に「その瞬間であった、イデが発動したのは」というナレーションとともに番組が終わってしまった。いわゆる「打ち切り」である。
 このころ、すでにアニメファンはこういう状況を許さないくらいの数にはなっており、打ち切り分はすぐさま劇場映画として公開されることが決まったのである。これがアニメファンの団結力を高めた。「イデオン祭り」と称したキャンペーンが組まれ、いまはオタク評論家として有名な岡田斗司夫や、「パトレイバー」の原作者のゆうきまさみたちもハッピを着て踊っていたのである。
 今なら「続きはビデオを買ってください」であろうが、打ち切りさえもイベントにするパワーがアニメファンにあった。それをもたらしたのも12チャンだった。

■80年代、90年代の12チャンネル

 80年代中盤、テレビ局がこぞって大方針を変えるという大事件があった。
 それまで夕方の6時の枠は子供番組だった。新番組でなくても、再放送をよく行っていた。
 時代が流れ、子供がこの時間に必ずしもテレビを見なくなった。学習塾に通ったり、ファミコンを見たり。ビデオデッキの普及が拡大し、テレビ局の方も考えを改めなければならなくなった。つまりテレビの第一義の機能はリアルタイムな「報道」にある、としたのである。そこで夕方6時台はのきなみニュースで埋め尽くされてしまった。
 ところが、ここでも12チャンは迎合しなかった。予算がなかったのかもしれないが、ずっとアニメを放映し続けたのである。その中にも意外なヒットが生まれた。例えば「ベルサイユのばら」などは、12チャンの再放送で再評価され、中高生を中心に爆発的なヒットになったのである。「元祖天才バカボン」のリピートも12チャンの全番組でナンバーワンといわれるほどの視聴率を取り、赤塚不二夫の再ブームに結びついた。
 やがて90年代も半ばには、月曜日から金曜日まで全部新作アニメで埋まるようにすらなっていった。いつの間にかアニメと言ったら12チャンというほどにまでなっていた。その中の一本が95年の「新世紀エヴァンゲリオン」である。
 継続は力なり。敷居を低くして連綿とアニメを流し続けたことで、ついに経済効果を云々される作品まで12チャンから生まれたのである。もうはみ出した感じは12チャンにはない。

<コラム1>
 テレビ局はもともと新聞社の資本が入っている。その流れを見てテレビ局の特色を見ると面白い。
 日本テレビは読売新聞だ。読売ジャイアンツの放映権は日テレ優先。野球やスポーツに積極的だ。TBSは毎日新聞。三大紙の中ではいまいちマイナーだがドラマに強い。フジテレビは、産経新聞である。いち早くカラー化を打ち出した新聞社傘下らしく、バラエティが得意。かつては、アニメもフジテレビが中心だった。テレビ朝日は朝日新聞。朝日は一種の権威を持つゆえ、報道色が強い。
 ではテレビ東京は、どの新聞の系列だろうか?「社会人になったら日経を」とまで言われた「日経新聞」が正解である。
 日経が他の新聞社とは別の地位を占めているように、テレビ東京は「我が道を行く」が社風なのかも。なにせ、やんごとなき方が亡くなっても、アニメを流し続けたのはテレビ東京ぐらいだから。

<コラム2>

<リード>
テレビ局は時間を切り売りする商売。
アニメは深夜枠の開拓者だ!

 深夜枠は、もともとは絶対視聴者数が少ないため、商売にならないと思われてきた。やけにダイヤモンドのCMが多いのも、水商売の女性ぐらいしか見ていないという意味らしい。
 だが、それをアニメが切り開いた。「スーパーヅガン」「行け!稲中卓球部」といった有名な青年コミックを早くにぶつけたのはフジだったが、どうも印象が泥臭かった。「エルフを狩るモノたち」というアニメ絵のどことなくエッチな作品を放映したのは例によって12チャンだった。ご丁寧に「エルフ」のビデオ版は、女性の胸もとなどが写るように再撮影して商品価値を高めるという。
 12チャンの枠開拓が容赦ないと判ったのは「CLAMP学園探偵団」という作品が放映されたときだ。これは何と土曜日早朝7時台。徹夜で遊んだサラリーマンにはまだまだ深夜という意味だろうか。
 刺激されて他局の深夜アニメも出現しつつある。日テレの「剣風伝奇ベルセルク」、テレ朝の「深海伝説マーメイド」などがこの秋から放映中だ。

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<キャッチ>
97年は、果たしてアニメブームなのか?

<大見出し>
テレ東アニメの進路は?

<リード>
■テレ東アニメ「エヴァンゲリオン」に揺れた97年。
テレビアニメの本数も激増。その両者に潜む「狙い」に迫ってみよう!

■12チャンアニメ増加の理由

 97年12月現在、テレビで放映されているシリーズものアニメは43本、そのうちテレビ東京の放映は13本。実に三分の一である。
 現在の傾向は大きく二方向に分化している。ひとつは「爆走兄弟レッツ&ゴー」「ポケットモンスター」のように、子供たちの人気の中心となっているアニメ。もうひとつは、「少女革命ウテナ」「大運動会」のように、マルチメディア展開と密接に結びついたヤング・アダルト向けアニメ。これは深夜枠を活用して急増しつつある。
 「新世紀エヴァンゲリオン」の放映された95年より少し前から、アニメの状況に関しては変化が見られるようになってきた。
 アニメの制作にはお金がかかる。もともとテレビ局から支払われる制作費ではまかないきれない。従来は作品のキャラクターを使用した商品の売り上げで補填するという方法が取られていた。それが進み、主役のロボットの玩具を売るためのCMとして企画され、その分、作品のストーリー等にはオリジナルでも良しとする流れが発生した。「機動戦士ガンダム」を筆頭とするロボットアニメや「美少女戦士セーラームーン」もその系統だ。
 だが、エヴァは違った。
 初号機のプラモや綾波のフィギュアは何種類も出てよく売れているが、それは結果のことであって第一義の目的ではない。エヴァの目的は、「作品そのもの」の二次使用でペイすることを前提にしていたのだ。したがって、仕掛けたのは玩具メーカーではなく、各種メディアでのソフト配布のキーとなるレコード会社。また、権利関係もクリエイターを擁する制作会社で原作権を獲得したことにより、従来と違う資金の流れができたと想像がつく。
 エヴァが異例のヒットになって業界のポテンシャルが上がった。
 エヴァの経済効果は各誌で熱く報道されたように数百億にのぼる。「ウチもエヴァのように当てたい」と考えている会社は多いだろう。
 現在のアニメ、特にアニメオリジナル作品は、レコード会社、出版社、アニメショップ、テレビ局などなど多岐に渡る会社が資本を出し合い、トータルで商売にしようという流れが主流だ。よく「**制作委員会」といったクレジットを見かけるが、それがそういった各社の総称である場合が多い。「みんなで幸せになろうよ」というコラボレーションの時代を反映したものとも言える。
 企画が持ち込まれたときに、比較的に障壁の少ない局として、12チャンは認識されているのではないだろうか。自ら積極的にアニメを増やし流すほどの主体性を持ってアニメに接しているとは思えず、基本的に持ち込みを受けてるというスタンスに見うけられる。、そうならば増やそうとしているのは持ち込む側で、それはアニメ会社であったり、アニメ作家であったりする。それは吉なのか凶なのか?
 アニメには良いやつも悪いやつもいない。
 「受ける儲けるやつ」と、「受けない損するやつ」の二種類しかいない。
 「質は量によって支えられる」という言葉があるとおり、クオリティ確保、新しいタイプの作品のブレイクスルーは量産によってしか生まれないだろう。
 12チャンアニメは、量によってその底辺を支える役割を果たしているのだ。

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<キャッチ>
12チャンには、未来のアニメ像
が凝縮されている!

<タイトル>
どうなるこれからのアニメ?

■多チャンネル・マルチメディア時代へ

 12チャンアニメが急増している理由。それを追っていくと、これからのアニメの時代がどうなっていくのか判るかもしれない。
 ビデオアニメも、しばらく前から企画としては陰りが見えていた。単品の知名度は低く、どれもこれもギャルが大量に出るだけで似たりよったりでは、一定の数のファンには売れても頭打ちになる。
 だがうまくアレンジしてテレビと連動できるなら話は変わってくる。最初に実現したのはLDCの「天地無用!」だ。ビデオアニメのヒットを手がかりにテレビでも同じキャラクターを使い、設定・ストーリーは新規に展開。その次の「神秘の世界 エル・ハザード」は最初からビデオとテレビの両面で展開することを前提にしていた。
 いずれもテレビ放映はテレビ東京が受け持った。
 いま、空前の多チャンネル時代とも言われている。衛星放送・ケーブルテレビなどメディアは激増の方向だ。廉価版ビデオやDVDの台頭が、追い討ちをかける。だが、流す映像ソフトウェアの量にも質にも限界はある。だから今のうちにソフトを作り溜めしておいた方が、先行投資になる。当然の考え方だ。
 それには、ビデオアニメの6本シリーズよりは、テレビで半年分の26本のパッケージとして持っておいた方が有利である。ビデオとテレビ、両方あれば、なお良い。長く売り上げになる作品はどこだって欲しい。
 出版社も積極的にこういう動きに参入する。テレビ東京でのアニメ化に顕著なのが、たとえば角川書店・富士見書房(角川の子会社)の原作ものだ。雑誌や若年層向け文庫での小説・コミックのヒットとアニメ化を巧みに連動させている。
 声優ブームも、拍車をかける。アニメーションのフィルムとしての出来以前に、どの声優が出演しているかで視聴率や売り上げが決まるとまで言われる時代である。作品は多い方が受け皿も多いし、「声優オリジナルドラマCD」のような番外編パッケージでまた売り上げに貢献するからだ。
 ゲーム業界も黙ってはいない。マルチシナリオ、新キャラクターを配しての展開など、定番のものが増加している。
 これらの中心にあるのは、やはり毎週定期的に無料で視聴できるテレビアニメだ。それが「無料だからこんなもんだろう」という旧態依然のクオリティでは誰も見向きもしない。
 そんな理由で、「今までのテレビアニメよりはちょっとクオリティは良いけれど、ビデオアニメと比べてしまうとちょっと落ちる」という作品が増えているのだろう。それは、ビデオアニメが普及してきたころ、「劇場アニメよりはちょっと落ちる」というような作品が多かったのに似ている。
 時間帯も「夜討ち朝駆け」になっている。それだけひとびとの生活様式が多様になり、価値観も多元化しているということなのだ。アニメの放映される時間は今後はますます隙間を縫うようになっていくし、価値を選ぶためのチャンネルが増えるに従って有料チャンネルふくめて拡散していくだろう。
 この動きは青年層だけにとどまらない。コロコロコミックなどの年齢層でも類似の現象は起きている。ミニ四駆ブームから来た「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」やピカチュウ人気の「ポケットモンスター」などだ。
 多チャンネル・多メディア時代にアニメは様々な分野の要請を受け、再び中心的役割を果たそうとしているのだろうか。

■12チャンアニメの今後は

 このように作品の増加傾向はとどまるところを知らない。さらに来年以降は、富野由悠季や高橋良輔などかつてアニメブームの中心となった巨匠や、かつての若手が中堅に育って指揮をする作品が激増するという。その背景には、13本(12本)・26本という単位でのアニメ制作が、放映局未定でアニメ会社とレコード会社、出版社主導で進められているケースも少なくない。
 地上波は時間枠をいくら縫ったところで限界に近づいている。有料のWOWOWなどが生き残りをかけて人気アニメパッケージを獲得し、ユーザ数拡大の牽引役にする計画もあるらしい。熾烈なアニメ増加と顧客獲得戦が、これから幕を開けようとしているのだ。 この秋から冬に向けての12チャンアニメ増大は、単にその前触れだったのかもしれない。デジタル技術により、セル画工程を省略した作品も目立たない形で投入が始まっており、増加への抵抗を低くするだろう。
 アニメ作品は増える。
 だが、それは本当に「アニメブーム」の到来を意味するのだろうか。
 確かにこれまでは魅力ある作品数に限りがあり、ファンが作品を選んでいるというよりは、作品に選ばれているというような兆候すらあった。その選択肢が広がることは基本的には良いことだ。
 しかし、それぞれ個別の嗜好を持ち、個別のメディアの事情から個々のユーザ層へ特別にアレンジしたような作品が増えるなら、単に既存のパイの食い散らかしになり、求心力を失うのは目に見えている。
 いま必要なのは、新しいパイを焼き上げることと、それを食べたいと思っている新しいお客を呼び込むことだ。それには作り手・受け手ともどもそれぞれの立場で、何が受けて何が受けないのか考えつつ、せっかくめぐってきたチャンスを活用することではないだろうか。
 いまはエヴァに続く「次の時代」を模索する時期。本当の「アニメブーム」になるのは、これからではないか。次世代の作品。それはこの量産の流れを追うことで予見可能かもしれない。
 独特のスタンスで、新タイプのアニメを常に提供してきた12チャンの果たす役割は今後とも大きいだろう。

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《テレビ東京アニメ・特撮代表作年表》

■ダメおやじ(74)
 テレビ東京アニメの第1作目。古谷三敏の代表作のアニメ化。原作の最後の方のホノボノしたところに行く前に終わった。
■忍者キャプター(76)
 テレビ東京特撮の第1作目。7人の現代忍者が悪の忍者と戦う。もう一つの戦隊シリーズのような作品。
■グロイザーX(76)
 テレビ東京最初のロボットアニメ。ゴキブリのようなグロイザーXがファイトアップしてグロイザーロボに変形。ガイラー星人と戦う。
■快傑ズバット(77)
 エヴァの庵野監督もハマっていた人気特撮変身ヒーロー。「チッチッチッ、日本じゃ二番目だな」主役の宮内洋の決めゼリフに痺れる。カッコ良さ、ここに極まれり。LDもヒットした。
■スパイダーマン(78)
 米国マーベルコミックから版権を取得。巨大ロボ・マーベラーの乗ってマシーンベムと戦う。
■ずっこけナイト ドンデラマンチャ(80)
 ほとんどの回は凡庸だが6話「ドンはカウボーイ」が異常にハイテンション。アニメーター金田伊功がコンテ・作画のすべてを担当。暴走アニメの原点となった異色作だ。
■宇宙戦士バルディオス(80)
 ロボットアニメだが、地球が洪水に見舞われ、大津波が画面いっぱいになって「完」となる。壮絶な打ち切り最終回が話題になった。
■銀河旋風ブライガー(81)
 前口上とともに始まる金田伊功作画のオープニングが人気。ルパン調のキャラが評判で、同人誌が大ブレイクした。
■まんが水戸黄門(81)
 他局の人気番組をアニメ化するところが12チャンらしい。助さんのアイテム「力だすき」と地平線からせりあがる葵の御紋は衝撃的。
■ドン・ドラキュラ(82)
 広告代理店倒産により、第4話で終了という史上最短で終わった事実が作品内容より有名。これでも手塚治虫原作のアニメだ。
■魔法のプリンセス ミンキーモモ(82)
 今日に続く新世代の魔法少女アニメの元祖。ミンキーステッキで夢をかなえる職業婦人に変身。三匹のお供を連れた桃太郎が原案。打ち切り後にまた延長となったりもした。
■装甲騎兵ボトムズ(83年)
 題名が主役メカの名前ですらない、ハードボイルド調ロボットアニメ。無骨なメカ、スコープドッグを駆るキリコのクールさが人気。
■マシンロボ クロノスの大逆襲(86年)
 ロボットアニメ冬の時代に好き勝手な作品世界で暴れていた異色作。ヒロイン・レイナが大人気。
■ミスター味っ子(88年)
 「うまいぞーー!」味皇さまの口からまばゆい光が飛び出す。味への感動をあらゆるアニメ的表現を駆使し常識を超えまくった作品だ。
■絶対無敵ライジンオー(91年)
 校舎が変形して秘密基地に。子供の究極の夢をかなえ、生き生きとした18人の子供キャラの性格描写が輝く。高年齢層にも人気の高かったロボットアニメで、ビデオ続編も3本制作された。
■赤ずきんチャチャ(94年)
 音楽に満ちあふれた世界も楽しげな少女アニメ。SMAPを起用しミュージカルにもなった。
■天地無用!(95年)
 ビデオ先行し、テレビ化された初期の作品。年中お祭り騒ぎ、主人公の周囲ヒロイン回転寿司状態の「うる星やつら」的アニメ。
■新世紀エヴァンゲリオン(95年)
 包帯少女綾波レイがブレイク・・と思うまもなく作品そのものが大ヒット。テレビ東京の底力を思い知らされた。
■天空の城エスカフローネ(96年)
 ほとんどビデオアニメの作画の細やかさ、画面に融合したCGの使い方が話題のファンタジー作品。でも作品の本質は「少女らしさ」。
■機動戦艦ナデシコ(96年)
 アニメのパロディも、オタク世代のトラウマも、対人関係のスレ違いも、「すべていまある自分たちらしさ」であるという認識から始めた。メタアニメ論的なSFアニメ。
■エルフを狩るモノたち(96年)
 女性のエルフを脱がして脱がして脱がしまくるという深夜枠ニーズに忠実に応えたアニメ。
■少女革命ウテナ(97年)
 シュール描写とギャグの交錯する果てに突き抜けるものは何か? 今年一番の問題作。
【初出:デラべっぴん(英知出版)1997年12月発売】

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「スター・ウォーズ」と日本の特撮・アニメ

題名不詳:

 スターウォーズが日本の特撮やアニメーション映像にどのような影響を与えたか、それを探るのが本稿の目的である。

◇遅れた本邦公開◇

 米国でスターウォーズ(以下SWと略)がブレイクしてSFXブームが起きた1977年は、日本でも「宇宙戦艦ヤマト」によるアニメブーム元年だった。
「ヤマト」は「鉄腕アトム」などテレビアニメで育った世代がハイティーンになるタイミングでブームになった。アニメになじみ、マンガじみた表現以上のものを潜在的に求めていた観客層を新たに開拓したわけだ。SWも、第二次世界大戦のイメージを踏襲しつつ宇宙空間を舞台にした戦争もので、高度な映像技術を駆使したエフェクト映像で娯楽に徹底して仕上げた作品という点で共通性がある。不思議なシンクロであった。
 しかしSWの日本公開は、1年遅れ78年まで延期されてしまった。当時雑誌媒体では著名人が渡米して見てきたコメントを載せ、事前情報を山のようにフカして回った。結果、SFファンたちの脳裏には膨らみまくったイメージによる華麗なるSW映像ができあがってしまった。ライトセイバーの光る玩具を始めとするグッズ先行販売も拍車をかけ、本物の映画が公開されると各自の中にできあがった「オレSW」よりはどこかしら劣る映像とのギャップに激しく悩んだ人も多かった。

◇日本特撮作品へのインパクト

 SW公開によって宇宙SFブームが起きるに違いない。国産作品への影響は、そんな期待をになってまず特撮作品に現れた。
 トップバッターは、東宝映画の78年お正月映画「惑星大戦争」だ。この題名は、SWの日本公開タイトルに予定されていたものだ。東宝特撮のお家芸は、空間をジグザグに切り裂くイナヅマ光線なのだが、「赤い針をバラまいた」と評されたレーザービームの表現がSWの影響ではないか。全体の作風という点では、「海底軍艦+宇宙戦艦ヤマト」といった要素の方が色濃い映画だった。
 78年春、テレビでは円谷プロ制作「スターウルフ」が始まった。エドモンド・ハミルトンの原作を円谷プロが特撮にするというのも、SWブームのもたらしたものだった。バッカス3世号が画面上方からフレームインする映像や、ウルフアタッカーなど宇宙船のデザインに影響が見られる。本作では、模型を黒子が手持ちで操作し、宇宙空間に合成するという疑似モーション・コントロールで撮影された。
 東映はSW公開直前、「仁義なき戦い」で有名な深作欣二監督による「宇宙からのメッセージ」を製作した。原作は石ノ森章太郎、特撮監督は矢島信男で、「ヒーローの出ない東映特撮ヒーローもの」総決算という内容だった。この作品では、画面いっぱいに迫る宇宙船や、宇宙要塞の溝をすり抜けてのドッグファイトなど、SWを厳密に参考にした画面が登場した。だがそれらは、ネガティブな意味で話題になってしまった。
 「メッセージ」では対象物を接写できるシュノーケル・カメラで撮影が行われた。これが、上下左右を閉ざされた空間を疾駆するドッグファイトというSWもやっていなかった映像も可能にしていた。この要素はSWの3作目に逆フィードバックをかけているのではないか。SWのモーション・コントロール・カメラ技術は、複雑な動きを可能とする反面、どうしても無機質に感じられる。
特別編では、さらにCG画像に差し替えられていることから、SWの方向性が「完全な動きのコントロール」にあることが判る。だが「スターウルフ」や「メッセージ」は、手持ちカメラに近い浮遊感があり、模型じみたチープな感じは否定できないものの、今見ると妙に迫力と味のある映像である。このようにSWに対して別の魅力もあったのだが、無視されてしまったのは残念だった。

◇SW公開前後のアニメ作品◇

 アニメでのSW影響第1作目、それはテレビから始まった。
 SWのSF界における最大の功績は何だろうか?それは「ライトセイバー」というアイテムの創出だろう。SW以前のSFでは光線銃というアイテムはあっても、「光線剣」は無かった。時代劇にこだわるルーカスが、SFの世界にチャンバラを持ち込みたいと考えたからこそのアイテムだ。
 日本のアニメでも、「光線剣」の導入から影響が始まった。第1号は、78年の富野監督作品「無敵鋼人ダイターン3」。オープニングに光る剣を持つ女性コマンダーが登場している。とにかく「ダイターン3」は、SW影響の最先端を行っていた。悪の首領ドン・ザウサーがコロスという美女に出す指令は、第2話で初登場したときは「あーー、あっ、うーー」という唸り声だった。それが途中の回から急に「しゅーーー、ぱほーー、がーー」という呼吸音になってしまった。SWの日本公開直後の出来事で、当時のアニメファンは「と、トミノさん、見ましたね……」とささやきあったものである。
 「ダイターン」の映像で特筆すべきは、エフェクト・アニメーター金田伊功入魂の作画が冴える「遥かなる黄金の星」という回だ。主人公・波嵐万丈が母から受け取った金塊を乗せ、火星からひとり脱出するまでの回想を描いたエピソードで、衛星フォボスで追撃する宇宙戦闘機を崖の中をくぐり抜け降りきるドッグファイトが、SWを見た直後の金田伊功によって鋭く描写されていた。
当時の筆者は金田の所属していたスタジオZを訪問したとき、作画机の金田が「SWテクニカルマニュアル」と、星野宣之のコミック「巨人たちの伝説」を見ながら鉛筆を動かしていたのを目撃している。完成画面で宇宙船はSWのように光源のきつい宇宙空間ならではの白黒を強調したモノトーンで描かれていた。そのディテールはテレビにしては異様に細かく、担当動画マンは「金田さんに悪いものを見せた、線がメチャメチャ増えてる~」と泣いていた。
 「ダイターン」以前に話題になったのは、「宇宙戦艦ヤマト」の続編「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」だった。1作目のヒットを受けて78年夏公開と決定するや、すぐさまSWとのバッティングが取り沙太された。西崎プロデューサーは、メインスタッフを連れてハワイに遠征した。目的は、日本ではまだ見られなかったSWとスピルバーグ監督「未知との遭遇」の2大SFX映画を研究するためだった。ビデオのない時代を感じさせる。「スターウォーズはただの娯楽映画で(愛をテーマにした)ヤマトにとってはおそるるに足らず」云々。こんな趣旨の談話も雑誌に掲載された。当時いち早く偵察に行った国内映像関係者は、どういうわけかこのようなコメントをあげている。
 「さらば宇宙戦艦ヤマト」が公開されると、きらめく光に包まれた新造戦艦アンドロメダや、ビルを乗せた半球形の都市帝国は「未知との遭遇」、ヤマト艦載機が大軍となって球形の要塞に侵攻し、ワンポイントをくぐって動力炉破壊という展開になっているのは、SWの影響が強く感じ取られた。このドッグファイトもダイターン担当直後の金田伊功の手によるもので、以後、金田は日本におけるアニメのエフェクト専門家として大きく注目を浴びていくようになる。

◇ガンダムへの影響度◇

 SWからインスパイアされ以後の流れを変えた作品として「機動戦士ガンダム」に触れないわけにはいかない。もともとガンダムが普通のヒーローものよりSF的な要素を強化できたのも、SWのヒットあってのことでもあるし。
 ガンダムのビームサーベル。ついに日本の巨大ロボットが、光線剣を使うときがきた。ただ光線剣を使っただけではない。剣をかっこ良く描くには、収容されている「静」の状態、これをいつどう抜いて「動」に転じさせるか、それが重要だ。これこそ日本のオリジナルな発想ではないか。凡庸な作品だと、「刀」は「腰」に装備させるだろう。ガンダムは違った。背中から抜く。おお、佐々木小次郎!場合によっては2本抜く。おお、宮本武蔵!これがカッコ良さを何倍増しにもした。
 ガンダムでは、剣を持つロボットのヒーロー性にも工夫がなされていた。敵側のザクには「ヒートホーク」という「熱で切る」武器を持たせているが、ガンダムのビームサーベルはより進歩した特別なアイテムとして描かれ抜いているのだ。「比較で凄さを描写する」というのも演出の知恵である。ルークの相手は人間だが、ガンダムの敵はロボット。ためらいなくビームサーベルの熱で装甲は貫通し、切断面を溶融し、まっぷたつにするという表現も可能になった。
これもまたヒーローとしてのカタルシスである。
 SWの影響で知られていないものとしては、番組のタイトルロゴがある。筆者がガンダム当時、関係者から聞いた話をもとに説明する。富野監督は作品の細部にまでイメージをこだわる作家で、ガンダムのGが目立つロゴタイプも富野原案らしい。年長向け作品としてサントラが出るならばジャケットはSWみたいに黒地に白抜きでGロゴを使った大人向きのものにしよう、そのために考えたデザインだというのだ。ところが最初のサントラのジャケットはセル画の子供っぽいものになってしまった。富野監督はクレームをあげ、レコード会社もこれではいけないと反省、セカンドアルバム「戦場で」は安彦良和イラストのジャケットにした。これが大ヒットとなり、「ジャケットは単なる包装ではない、作品の一部なんだ」と関係者に認識させ、以後の流れを変えてしまったのである。間接的とはいえ、SWのインパクトであろう。

◇影響度ざまざま◇

 SWの冒頭、画面上方を覆い隠すようにしながらフレームインしてくるスターデストロイヤーの構図は、ひときわインパクトが強いものだった。宇宙船の描き方を一変させたと言って良いだろう。あまりに日本で類似の映像が多く流れたため、宮崎駿もどこかの雑誌に苦言を呈していたはずだ。SW直後、宮崎の担当作品(画面構成)「赤毛のアン」オープニングでは、冒頭に馬車が上空からフレームインしてくるカットがある。これに宮崎が皮肉として「馬の腹が延々と流れる」という演出を提案した、という噂があった。「アン」の高畑監督による「じゃりン子チエ(劇場版)」の冒頭にも、「巨大なゲタ」が上空からズゴゴゴとフレームインするショットがある。どうせフレームインするならこれだよ、という皮肉の発想が高畑・宮崎コンビらしい。
 SWの影響で蔓延した舞台設定には「様々なエイリアンのたむろする酒場」がある。実例は枚挙にいとまがないが、「銀河鉄道999(劇場版)」の美女リューズが弾き語りをする大人のムードでまとめたものや、「レンズマン」のようにディスコでフィーバー(死語)にまとめたものなど、日本流アレンジもさまざまだった。
 SW2作目「帝国の逆襲」は80年の公開。「伝説巨神イデオン」放映のころである。SW2最大の話題は「ダースベイダーはルークの父」というドンデン返しだった。あまりに日本的ウェットな展開に、当時のファンは驚きを隠せなかった。
 ここで妙な符合がある。ダースベイダーは「ドクロ」をモチーフにしたデザインである。もともとSWが企画されたときには、過去のSF映画が多数参考にされ、その中には日本の特撮キャラクターものも含まれていた。「ダースベイダー」のモデルにも諸説あるが、「変身忍者嵐」に登場した血車魔神斎ではないか、というのが有力だ。石ノ森章太郎によるコミック版では「魔神斎は嵐の父だった」という設定があるというところまで押さえて語るのが、この噂話を口伝するときのポイントである。
 81年の「最強ロボ ダイオージャ」は、もともと水戸黄門を原典とする出発点からしてハイブリッド感覚あふれる作品だったが、その最終回にはSWキャラにインスパイアされたとおぼしき3大敵メカが登場する(図参照)。だが、このダースベイダーに似たデースバンダー、顔をよく見ると魔神斎に酷似しているのだ。確か片手も鉤爪になってたはずだ。デザイン担当は出渕裕である。
なかなかシャレが効いたゲストキャラだった。
 「帝国の逆襲」以降は、日本のレベルもかなり向上し、SWを凌駕するような映像も多く見られるようになっていく。「地球へ…」や「ヤマトは永遠に」では金田伊功が高速で宇宙要塞の溝を飛行する宇宙戦闘機を描いた。このころは「とにかく溝があったら、まず入ってみる」という映像にあふれていた。
 メカや戦闘機の飛行速度や軌跡、物体の壊れるときの破片にまでこだわった板野一郎が「伝説巨神イデオン」や「超時空要塞マクロス」で見せたアニメートは、モーション・コントロール映像をスピード感と快感度で超えていた。
「宇宙刑事ギャバン」に始まる宇宙刑事シリーズの「レーザーブレード」も、渡辺宙明の軽快な音楽に乗せて異空間で光線剣が乱舞するというもので、フィニッシュの切れ味は世界のヒーロー像に新しい1ページを加えたといっても過言ではない。いつしか日本のアニメや特撮は、SWの影響を昇華し始めた。

◇スターウオーズの6年◇

 SWの一作目の米国公開された77年、日本では富野アニメ「無敵超人ザンボット3」が放映されていた。三作目「ジェダイの復讐」が公開された83年、どんなアニメがあったか、ご記憶だろうか?
 なんと富野アニメは「聖戦士ダンバイン」だ。俗悪と言われ、玩具主導のロボットが必殺技を連呼するヒーローもの。それに異論を唱える作品が出たら、SW三部作が完結する間にファンタシー世界で人間の情念を描く作品まで行ってしまった。劇画タッチでザンボットを暴れさせていた金田伊功は、「幻魔大戦」で邪念といった抽象的なものをアニメートするにいたっていた。
 この差を振り返って、眩惑感にとらわれないだろうか?
 SWも1作目よりも2作目、3作目と進むにつれてキャラクターの内面を深化させる作風へと変化し、SFX技術は格段に進歩している。だが、あえて言えば改造再生デススターをもう一度破壊させる以上のアイデアは出ていない。
 日本のアニメーションは、星の数ほどの作品が生まれては消えていく中で、技術も進歩し、表現の多様性を獲得していった。その原動力になったのは、前半で述べた「まだ見ぬSW」に対する熱いイメージと、思い入れと、貪欲な研究心だったのではないだろうか。SWの6年を振り返るとき、同時に壮絶な勢いで進化し駆け抜けていった日本の映像クリエイターたちの作品群にも思いをはせていきたいものである。

【初出:「NEWTYPE MK2」(角川書店) 1997年6月発売】

※『スター・ウォーズ』とナカグロ入りが公開用の正しい表記ですが、慣用的にはナカグロなしも許容されているようです。エピソード1公開時に書いたもので、まさか『ガンダムF91』のビーム・シールドが逆流しているとは夢にも思ってませんでした。なお、題名やキャッチ、キャプションの原稿テキストが紛失しているので、いずれキリヌキから復刻して補完します。

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2006年12月26日 (火)

ガンダムエース 2007年2月号

寄稿題名:ガンダムの時代 第52回
機動戦士ガンダムTV版再入門「TV版の中落ちに感じる美味しさ(2)」

 当方の連載は先月の続きです。ガンダムDVD-BOXも店頭に並び、こちらの作業も完了してますので、あとは下巻の上がりも待ちどおしい昨今です。今年はファーストガンダムに捧げた1年だった気がします。

 表紙は安彦ゾック! ということではたして喜んでいいものでしょうか。いや、いいのです。本編中の扱いも、なかなかのものです。「危うく赤くなるところだったのか?」などと思ってみたり。
 福井晴敏さんの新連載小説「機動戦士ガンダムユニコーン」もスタート。そちらにも安彦挿絵が入ってます。あと驚いたのは安田朗さんの「妹ガンダム」のイラスト。今月は、ちょっと濃度が高いです。正月休みにはいいのかも。

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2006年12月25日 (月)

チャイナさんの憂鬱

題名:チャイナさん:アニメの魅力

 鶴田謙二の連作"Spirit of Wonder"の中でも、チャイナさんを主人公とした一連のシリーズは発表当時から人気があった。ビデオアニメ『チャイナさんの憂鬱』も、まだ原作が「知る人ぞ知る」状態にあった1992年に、チャイナさん人気に押される形で製作された作品である。
 原作者の鶴田謙二は、特異なまで絵にこだわりのある作家である。なにしろ、日本のマンガ文化を特徴づけている擬音の描き文字を排除してまで、絵の構図と描きこみで表現しようとしているくらいだ。原作のチャイナさんは、その超絶的な画力によって、紙のコマ上に鮮烈なイメージで焼きつけられていた。笑顔ひとつとっても、感情の機微が存分に刻み込まれている。目を引くのはチャイナさんの若々しい女性特有の身体の線だ。魅惑的かつ煩悩的な曲線描写は、何度読んでも見つめても、飽きがこない。まさしくチャイナさんは、コマの中で生きているのである。
 しかし、それはあくまでマンガ特有の描写と言える。静止した紙の上に一瞬の時間を止めて定着したマンガでは、読者がコマとコマを行ったり来たり、時間の流れもおまかせで、チャイナさんへの注目ポイントも自在だ。ゆえに、この作品をアニメ化する、という行為は予想外の難問だったはずだ。アニメは量産された絵の連続で表現を行う。1枚の絵としての色つやは、セル画の連続した動きに喪われがちで、時間はフィルムが回るとともに決まったたテンポで流れていく。要するに、アニメ化にはマンガとはまったく別ものとしての処理と工夫が必要なのだ。なおかつ原作の味わいを保たなければならないのだから、アニメとしての課題は大きい。
 では、本作品はこの課題をどうクリアして、アニメ版チャイナさんとしての魅力を確立していったのだろうか。
 監督はこの作品の後に『クレヨンしんちゃん』でヒットを飛ばした本郷みつる。キャラクターデザインと作画監督は、柳田義明。制作の亜細亜堂は藤子不二雄原作作品や、魔法少女ものなど、ていねいに描かれた日常生活の中で、繊細な心理の機微と驚きを発信してきたスタジオだ。そこがキーポイントである。各カットで原作の一枚絵としての密度に迫るかわりに、チャイナさんのキャラクターを、フィルムの流れの中で浮き彫りにする。日常描写を積み重ね、最後に大きくワンダー感で打ち上げる。これによって、チャイナさんの女性ならではの感情の推移を、フィルムとして表現した。これがアニメとしての大きな魅力である。
 いわゆる「アニメ絵」に対して、チャイナさんは名前通り大陸系の造作をしており、絵的にも骨格が感じられ、肉づきよく描かれている。それはアニメ版でも、こだわって描かれた部分である。女性らしいフォルム、表情の変化は、日常的の動きの中で、観客の目を存分に楽しませてくれる。
 チャイナさんの「憂鬱」は、日常の中で、ジムが花屋のリリーと会話している光景を目撃するといった、ささやかな不協和音として始まった。それは、チャイナさんが持っているジムに対する密やかな気持ち、女性ならではの心のゆれ動きとして、映像の流れで描写されていく。子供たちと遊び、髪をとかし、料理を作り掃除をし、酒にへべれけになり、二日酔い明けでお茶を入れたりする、多彩な日常映像が展開する中に、チャイナさんの感情は、実にちょっとしたリアクションの変化として隠されている。それは、言葉にしてしまったとたん、はかなく消えてしまうような、デリケートなものなのだからこそ、映像ならではの大きな魅力となっている。
 もうひとつ、本作品の大きな魅力は、平凡な感情と組み合わされたワンダー感覚だ。SFの神髄は「センス・オブ・ワンダー」にあると言われている。日常的な感覚は、目を常識という名のフィルターで曇らせる。SFでは、科学が心を解き放ってポンと超越した驚きに変えてくれる。これが「センス・オブ・ワンダー」というもので、原作の"Spirit of Wonder"の語源ともなっている。本作でも、フィルムの流れ、扱うアイテムの対比の中で、このワンダー感へと観客を誘うジャンプの仕掛けがしっかりと存在しているのが嬉しい。前半の日常描写がしっとりしていればいるほど、後半からラストへのジャンプ率が上がり、ワンダー感が大きくなる。
 静かに始まった恋愛感情の、ささやかな嫉妬によるバランス崩しの原因は、実は他ならぬジムのチャイナさんへの贈り物だった。このトリックが、月というとてつもなく大きな天体をジャンプ台にしたことによって、世界を大きく包みこむように作動し、同時にチャイナさんとジムの感情の深さ大きさを表現している。ここが味わい深い点だ。
 「本物の月」に二人が乗って語り合うクライマックスのデートシーンでは、語るにつけ多様に変化するチャイナさんの表情が絶品だ。チャイナさんが自分の手を現実の月にかざして指輪としてはめてみる見立てのシーンで、やわらかでしなやかな女性の指と、現実には石コロの固まりである月が、ひとつ画面におさめられて、その対比にゾクゾクする。これが本物の「ムーンライト」、月の青い光に照らされる中、田中公平の音楽が雰囲気を盛り上げていく。これこそが、アニメ版ならではのワンダー感なのだ。
 以上述べたような、アニメ版ならではの魅力を追いつつ作品を観ていくと、表面で描かれた以上のものが浮かび上がってきて、より深い味わいが発見できるに違いない。
 折に触れて、再三見返しても新しい発見があって深みのある作品……それこそがアニメ版『チャイナさんの憂鬱』なのだ。
【初出:「チャイナさんの憂鬱」DVD解説 脱稿:2001.02.23】

※BOXの方には続編やサントラ、チャイナさんフィギュアなども同梱されてます。

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2006年12月24日 (日)

マインド・ゲーム

題名:閉塞を吹き飛ばす──
アニメーションの根元的驚異に満ちた作品


 昨年末からの予感どおり二〇〇四年はアニメーション映画にとって大変な節目の年になりつつある。巨匠の大作攻勢、アニメ・マンガ原作の実写化は予定どおりだが、「機械のからだ」を持つアニメ映画『アップルシード』という伏兵の衝撃も覚めやらぬ中、今度はアニメーションの根元的な「おもしろさ」を究める方向からエネルギーに溢れかえった意欲作が登場した。それがスタジオ4℃と湯浅政明監督の『マインド・ゲーム』である。
 まず映像表現が驚きの連続だ。荒々しいタッチと色彩効果で感情表現を支える背景美術。豪快に空間を歪ませまくったレイアウト。ヘタウマ系で感情のおもむくまま表情を崩しまくるフレキシブルなキャラクターは、シリアスになると声を演じる吉本興業の役者たちにいきなり実写変身してしまう。
 こんな風に、画面のテイストがどんどんと変化していくから、初恋の幼なじみ、みょんちゃんに偶然再会した主人公の西が、大阪の横町にある焼き鳥屋に行くという序盤の日常的展開だけでも、充分にワンダーに満ちた空間が拡がっていく。その闊達さは最初はとまどいを感じるほどだが、これに慣れてくると、既存表現の枠組みからの解放感が次第に快感に転じていく。
 重要なのは、表現が単に奇をてらった実験に終わらず、物語に寄りそって常に瑞々しい感情を伝えてくれることだ。相手にフィアンセがいると知りつつ、初恋以来の気持ちをストレートに伝えることのできない西。格好をつけてはみるものの、それは本当は臆病な保身的行為と知っているからこその自己嫌悪と、内心のたぎる思いとの行ったり来たりが、さまざまに変化する映像(花火の表現が秀逸)で描かれ、観ているこちらの鼓動とも共鳴していく。
 静謐なる中で高まる心の内圧は、ヤクザに主人公が最高に格好悪い方法で射殺されてしまうという展開を契機にして、一気にはじけ飛んでしまう。さらに復活後はストーリー展開にもドライブがかかり、カーチェイスや銃撃戦までエスカレートしていくが、勢いづいた驚きの先には、あらゆる予想を越えた巨大な驚きが待っているのだ。
 映画の果たす大事な役割のひとつには、「日常的な閉塞からの解放」がある。本作品は、アニメーションならではの特性をフルに活かしきって、その要求に応えている。その特性とは、実感を抽出して連続した絵の動きの中に塗り込めることだ。湯浅監督は『クレヨンしんちゃん』などでも知られる優れたアニメーターなので、動画技術だけ注目しても、「主人公がひたむきに走る」と画面の時空間全体が「ひたむき化」してしまうほど凄まじいパワーを放っている。本作ではそれに留まらず、ありとあらゆる映像表現を動員して、色彩や抽象化のレベル設定まで微妙に変化させながら、観客の根元的な生理からエネルギーを引き出そうとしているようだ。それが、「人生を前向きに生きるための活力」と直結するところに、快感の源があるのだろう。
 きちんとしたレイアウト、崩れないキャラクター、破綻のないストーリーと、この十年あまりのアニメ作品は「商品としてきれいなもの」を追求してきたようなところがある。それはそれで理由と意味のあることだったが、「もうそろそろ充分じゃないか」「この先には何もなさそうだ」と作り手も観客も思い始めている兆候が顕れ始めている。だから筆者も「大作ラッシュの後は、アニメーションの根元的な手描きの魅力に回帰した作品が出る」と予想していた。だが、「後」ではなく「最中」の登場で、他作品とまったく重ならない角度からの挑戦だったところをとても嬉しく感じた。
 「もっと好きなように暴れたらええやん」という破壊的で未来につながるアニメーション・パワーは国境を越えるのか、ジョエル・シルヴァーによる海外配給も予定されているという。作品外のサプライズも含め、驚異に満ち満ちたアニメーション体験をぜひ『マインド・ゲーム』で感じて欲しい。
【初出:キネマ旬報 脱稿:2004.07.03】

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特撮DVD-BOX特集

●宇宙刑事シャリバン
 赤く輝き、ハイテク感あふれるメタルスーツ。80年代のニュー特撮ヒーロー、それが宇宙刑事だ。第2作のシャリバンは、勇気と優しさを教える男。見どころはJACの面々が身体をはったボディ・アクション。吊り橋や断崖からジャンプしながら全身が光につつまれ、ぐぐっとポーズを決める変身シーンは、まさに特撮の醍醐味だ。勇ましい渡辺宙明の音楽に乗せ、レーザーブレードは敵を切り裂き突き刺す。元祖スターウォーズを越える迫力に、大興奮する。

発売・東映ビデオ/バラ売り 全5巻(第1巻初回には特典BOXつき)/出演・渡 洋史、降矢 由美子、西沢利明、名代杏子ほか/監督・小林義明、田中秀夫、小笠原猛、辻理、小西通雄ほか/1983年東映作品


●帰ってきたウルトラマン
 町がスモッグに煙りだしたあのころ。もう無邪気な子供ではいられない……そんなたそがれた感覚を、僕らは持ち始めていた。本作には、そんな70年代的空気がいっぱいに詰まっている。M78星雲から帰還したウルトラマンにも、傷つき悩み苦闘する人間くささがあふれていた。隊員同士の軋轢や、コンプレックスを抱いた青年など、大人を感じさせるドラマが多いのも特徴。今回は先進のデジタルリマスターにより、驚くべき鮮明さで時代の空気がよみがえる。

発売・パナソニックデジタルコンテンツ/バラ売り 全13巻予定/出演・団 次郎、岸田 森、榊原るみ、池田駿介、西田健ほか/監督・本多猪四郎、筧正典、冨田義治、山際永三、大木淳ほか/1971年円谷プロ作品


●バンパイヤ
 バンパイヤとは、普段は人間の姿なのに、あるきっかけで動物に変身してしまう呪われた種族のことだ。虫プロ商事が、手塚治虫の原作を“実写とアニメの合成”で表現した。主演のトッペイは若き日の水谷豊。月を見ると、トッペイの目は輝き、全身に剛毛が生え、牙が伸びて狼に変身する。米国の特殊メイクに先駆け、リアルな変身ものを驚きの映像で描いた。変身後はセルアニメになってしまうが……。手塚先生も自分自身の役で出演している。

発売・コロムビアミュージックエンタテインメント/BOX(7枚組)/原作・手塚治虫/出演・水谷 豊、山本義明、佐藤博、渡辺文雄、左卜全、手塚治虫/脚本監修。福田義之/監督・真船禎ほか/1968年虫プロ商事作品


●快傑ライオン丸
「風よ、光よ! 忍法獅子変化!」変身を忍法としてとらえた斬新な時代劇ヒーロー、それがライオン丸だ。白い獅子の流れるたてがみ、マントをまとった姿に「心」と書かれたヨロイ。天馬にまたがり、刀を構えるその立ち姿の美しさは感動ものだ。ライバル役のタイガージョーの生き様にも共感たっぷり。最終回、自らを犠牲にして大魔王ゴースンに決死の戦いを挑むライオン丸の毅然とした姿は、主人公獅子丸のまっすぐな気性を反映し、ひたすら涙である。

発売・アミューズソフト販売株式会社/BOX(全2巻)/上巻29,800円(5枚組) 下巻25,800円(4枚組)/原作・うしおそうじ/出演・潮哲也、九条亜希子、梅地徳彦ほか/監督・石黒光一、土屋啓之助ほか/1972年ピープロダクション作品


●仮面ライダーV3
 仮面ライダー人気の絶頂期に登場した続編キャラ、それがV3だ。この作品にはあらゆる点に華がある。特に主人公・風見志郎を演じた宮内洋は、ヒーローを演じるために生まれてきたような男。いたるところで目立ちまくる。爆風の中でよろめきながら、びしっとポーズを決め、「変身、ブイスリャ~!」とフシをつけたかけ声とともに、一気にV3に変身。空中アクションも軽やかに、V3キックでデストロン怪人を粉砕する。このカタルシスは最高だ。

発売・東映ビデオ/BOX(9枚組+特典ディスク)/52,000円/原作・石ノ森正太郎/出演・宮内洋、小野ひずる、川口英樹、山口暁、小林昭二ほか/監督・山田稔、内田一作、奥中惇夫、塚田正煕、田口勝彦ほか/1973年東映作品


●愛の戦士レインボーマン
「黄色いブタをぶっ殺せ!」この作品の敵側は宇宙人でも魔王でもない。日本人を抹殺しようとする白人、ミスターKだ。彼の死ね死ね団は、あの手この手で日本人を苦しめようと社会に挑戦する。対するレインボーマンはインドで修行し仏教の力で七つの化身となる力を会得したヤマトタケシ。独特の世界観は、原作者の川内康範ならではのもの。偽札を使う新興宗教が日本社会を混乱させる前半部は、主役の濃い演技とともに、異様に高いテンションで痺れまくり。

発売・東宝/BOX(全4巻)/各12,000円(各2枚組)/原作・川内康範/出演・水谷邦久、平田昭彦、塩沢とき、曽我町子、石川えり子、井上昭文、藤山律子ほか/監督・山田健、長野卓、砂原博泰、六鹿英雄、児玉進ほか/1972年東宝作品


●仮面ライダーアギト
 アギト、ギルス、G3……バイオとハイテクの仮面ライダーを配し、三人ライダーが誕生した。優しい主人公の加え、野性味あるスポーツマン、職務に実直な警官とバリエーションを持たせ、誰かが好きになれるラインを確立、イケメン特撮ブームを不動のものとした。敵側アンノウンの目的やアギト自身の謎など、ミステリアスな雰囲気で引っ張る作風もおいしい。アニメ畑の出渕裕デザインの怪人も美しく、後半登場のアナザーアギトは今でも大人気である。

発売・東映ビデオ/バラ売り 全12巻/各5,800円/原作・石ノ森正太郎/出演・賀集利樹、要潤、友井雄亮、秋山莉奈、菊地隆則ほか/監督・田崎竜太、長石多可男、六車俊治、石田秀範、鈴村展弘、渡辺勝也金田治ほか/2001年東映作品


●スペクトルマン
 本作は、公害問題真っ盛りの時代に製作され、チープな特撮ながら、圧倒的にダークなパワーがフィルムにみなぎっている。汚染物質をもとに生物を改造して怪獣にして地球支配をたくらむ宇宙猿人ゴリ。対抗するスペクトルマンは、公害Gメンと協力して戦う。DVDのパッケージがかなり話題になった。なんとスペクトルマンの「生首」を再現。実物大のマスクの中に、DVDケースを収納可能となっている。既婚者が持ち帰れば、家庭争議になるかも?

発売・アミューズピクチャーズ株式会社/BOX(10枚組)/56,800円/原作・うしおそうじ/出演・成川哲夫、大平透、上西弘次、遠矢孝信、渡辺高光ほか/監督・土屋啓之助、堺 武夫、石黒光一ほか/1971年ピープロダクション作品


【初出:「週刊spa!」(扶桑社)DVD-BOX特集用原稿 脱稿:2003.02.04】

※DVDのリンクは最新のものにしています。現在入手難のものも含みます。

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90年代的ファン気質

題名:90年代的ファン気質

 90年代のアニメファン気質をキーワードに総括すると、「オタクが語る」ということにつきる。アニメをただ観て楽しむ、あるいは漫然と供給されるままに関連グッズやソフトを集めるという部分から、それについて「語る」ことで、明らかに一歩踏み出た感触がそこにあった。
 「語る」行為が一般化、メジャー化するのを促進した要因は、2つある。ひとつはパソコン通信とインターネットのネットワーク・メディアの発達。もうひとつは、オタクの社会的認知度向上である。
 まずネットの発達に関して、パソコン通信を例に述べる。80年代末期からニフティサーブ(現@nifty)のアニメフォーラムが活況を呈した。開設初期は資源不足からフォーラム内にコミックから特撮までメニューが囲いこまれ、ひとつの会議室で複数作品の話を平行して扱うのも当然とされていた。会員数とモデム速度も貧弱であり、それでも充分なコミュニケーションが取れていた。
 90年代に入ってアニメ・スタッフが自発的に会員として参加することも珍しくなくなった。たとえば『絶対無敵ライジンオー』(91年)では園田英樹さんを中心とする脚本家グループが会議室に参加。会議室を盛り上げるだけでなく、ビデオアニメ化の後押しをした。表だって参加しなくとも、スタッフがROM(リード・オンリー・メンバー)として会議室をウオッチする例が多くなった。
 密度の濃い場に専門的会話な可能なメンバーが集結し、濃い会話が新会員を呼び込むという良いサイクルが90年代初頭に形成された。『美少女戦士セーラームーン』(92年)もネットの発達を促進した作品だ。爆発的な書き込み数を集め、専門会議室が2つ設立された。この成功例をバックに会議室のテーマは細分化され始めた。やがて1作品1会議室が当然になり、果ては声優フォーラムや作品固有フォーラム、アニソン専門フォーラムが独立するにいたった。
 追い風を受けて、『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)テレビ放映にあわせてニフティに初のアニメ制作会社専門フォーラム「GAINAXステーション」が設立される。エヴァ専門会議室には毎週放映終了後に読みきれないほどの発言が殺到、作品中の謎を「邪推」する会議室までできた。前後して、Windows95を起爆剤にパソコンが爆発的に普及、インターネット・ブームが発生した。結果としていちファンがホームページを作成し、情報発信することが容易になった。『エヴァ』が最終回放映を迎えたとき、ネットの温度は沸点に達した。さまざまな論議がニフティ、インターネットで怒濤のように発生し、監督個人を罵倒する発言まで現れた。
 野球鑑賞をするオヤジのように「オレならこうするね」的会話をアニメの話題ですることは、以前からあった。が、それは飲み屋や部室などの密室か、数百人程度のサークル内での出来事だった。初期のネットも、穏やかな交流の場「サロン」の雰囲気があった。
 エヴァとインターネットを触媒として、千人万人……マスコミ的単位の人間を相手に公開の場で山岡士郎(美味しんぼ)のごとくアニメを語る「辛口批評家」がにわかに大量発生した。山岡は批評の代償として一週間後に「ほんものの味」を持ってくるが、ネット発言では切り捨て御免も同然の否定的論評も少なくない。手を汚さずに、多数の人間に「ものを語る」快楽は、否定文で書かれた「言葉の暴力」というダークサイドを解放する魔力も同時に秘めていたのだ。
 ネット論評が実際の作品に反映する現象まで発生した。97年夏の映画『The End of Evangellion』で、作品中に「庵野死ね」というインターネット発言が大写しになったのである。これは明らかに最終回論議で登場した「否定文」の一部だ。同作ではファンの姿が実写で銀幕に映し出され、作品あるいは作者に浸食するネットの意見(悪意)を逆にファンに向かってフィードバックさせる演出意図が強く感じられた。このような演出は前代未聞で、まさにネットとインタラクティブになった90年代的新現象だった。
 もうひとつ「オタク」の社会的認知度向上に関してはどうだろうか。
 これも80年代末期からの現象を引きずっている。幼女連続殺人事件が88年末に発生。容疑者の部屋がマスコミに公開され、「オタク的な部屋」が初めて世間の明るみに出て耳目を集めた。これが、オタク認知のきっかけであることは間違いない。
 この事件は、オタク的な趣味が犯罪の温床になるのではないかという印象を世間に強く与え、絶大なネガティブさで記憶されている。しかし事件の本質とは別に、世の中には「オタク」的な人間が多く、アニメを趣味とすることからずっと「卒業」しない、する必要がないと思っている人々が予想外に多いということも、同時に社会的に広く認知されたのである。
 90年代は二大ヒット作、『美少女戦士セーラームーン』と『新世紀エヴァンゲリオン』によって、新ファン層の他に、第一世代を含めたかつてのアニメファンが「帰ってきた」印象が強くある。これもオタク社会認知の肯定化現象と不可分である。
 「第一世代」というのは、1960年生まれが中心で、70年代後半から80年代前半のアニメブームを支えたファンのことだ。アニメマスコミを開拓したこの世代は、「成人になってもアニメを見ていい」という前人未踏の概念を提示した。この層へのアピールが意味するのは「中年になっても、アニメを楽しんでいい」というさらに新しいパラダイムだった。残されているのは「老人になっても(以下略)」であり、これは間違いなく保証されるだろう。「語る」ブームはそれを見越しての前触れと見ることも可能だ。
 第一世代は90年代には30台である。各企業に散った彼らは、決定権を持つ年齢になった。当然、過去に思い入れのあるキャラや作品を取り込んだリリースを行う。ユーザーとしても、この世代は可分所得が多い。LD-BOXを代表とする高額商品も消費可能で、フィギュアなど高価格でこそ実現可能な高品質の商品化も、市場として成立させることが可能になった。ロボットアニメの総集編ゲーム『スーパーロボット大戦』を牽引役にして、ゲームセンターのプライズ商品を中心に高精度造形塗装済のレトロキャラ立体も蔓延、第一世代的オタク商品は、全世代を貫いて受け入れられるようになった。
 92年に「ウルトラマン研究序説」「磯野家の謎」が出版。写真集やムックでない文字主体の研究本が登場し始めたことも、90年代的現象だ。『エヴァンゲリオン』の大ヒットは通称「エヴァ本」と呼ばれる出版ブームも起こした。多くは版権を取得していない「謎本」スタイルのものだったが、研究・論評は多岐にわたり、アニメ以外の他ジャンルからも識者・ライターが多数参加、さまざまな解釈がなされた。これら「活字主体のアニメ本」は、アニメファンという閉じた存在の裾野を拡大する効果があった。
 「活字アニメ本」の主流フォーマットは、四六版もしくはA5サイズの「別冊宝島スタイル」である。「別冊宝島」は文化や生活、ノウハウなど時代に即した基礎教養を集約した「新書」的なものが編集意図だ。そこに「アニメ」も、世代の共通文化として加えられた、というわけだ。ここでも「オタクの社会認知」が着実に根を下ろしたと言える。そして研究本を通じて「オタクが語る」行為はさらに加熱した。
 レトロ商品と『セーラームーン』『エヴァ』をバックに、「オタク」が本質的に何なのかを自分で「語る」こと……作品の研究にとどまらず、「オタクの自分探し」が発生したことも90年代で重要なことだ。
 その頂点に立つのは、自称オタクの王様「オタキング」こと岡田斗司夫さんだ。岡田さんは非常勤講師として96年に「オタク文化論」を東大で行い、テキストとして単行本「オタク学入門」(太田出版)を上梓。これも『エヴァブーム』の立ち上がり時期と同期して、マスコミに大きく取り上げられ、単行本もヒットした。
 岡田さんは、自己卑下の強いアニメファンに対し、鑑賞眼と見識があればその価値観は世界にも通用すると肯定的にとらえ、「もっとオタクになって楽しもう」と呼びかけるものだった。それに応えるように、いま書店でもコミックマーケットでもインターネットでも、アニメファンが「語る」行為が世をにぎわせている。
 いま新しいミレニアムと00年代を迎え、その「意味」を再考する時期が来ている。
 まず、確認しておきたい。アニメ作品というのは、フィルムだけが独立してあるものでは決してない。必ず受け止める観客がいて、心に何らかのリアクションが起きて初めて「作品になる」のである。同様に歴史は、ただ作品とそれにまつわる事実が羅列されれば、勝手に形成されるものではない。解釈によって流れを包括的にまとめ、「語る」作業があって、初めて「歴史にする」ことができるのである。「文化」も同様だ。
 90年代以前に発表されたアニメ作品の多くは風化し、個人体験の内面世界に閉じかけていた。たとえ作品がビデオグラム化され、再見されても、「消費」という経済的な結果だけが残っては虚しい。ここでファンが「語る」行為が一般化したことは、実は千載一遇のチャンスなのである。
 アニメ作品を軸にして言葉を交わす。作品とインタラクティブに何かを語りたい、言葉をつむいでみたいというのは、極めて自然かつ人間的な欲求である。語った言葉を通じてさらに多くの人と共感を持ち、コミュニケーションを取ることで、アニメファンは「歴史」や「文化」に発展する大きなものが獲得できるに違いない。あるいはグローバルなものに発展し、感動を永遠にすることも可能になるだろう。
 否定文で構成された言葉は、人や作品を傷つけるダークサイドのものだ。その魔力にとらわれず、肯定文でアニメを語っていこう。その先にある輝かしいものを前向きに見つめていきたい。次の10年間を楽しく生き抜くために。
【初出:「月刊アニメージュ」(00年2月号/徳間書店)90年代総括特集 脱稿:1999.12.17】

※通常の敬称略にしていないのは、特集内の統一指示だったように思います。また、「リテラシー」という言葉もまだそんなに流行していなかったし、まだ匿名掲示板も巨大化していない時期ですね。この原稿のことは忘れてましたが、7年ぐらい経ったいま、「ネットというツールにはデスノート的側面がある」と書いてることの根幹にこれがあることを思い出しました。「死の宣告」というのは「他者否定」の最たるものなのですから。

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2006年12月22日 (金)

漫画映画の世界

題名:間口広く奥の深い漫画映画の世界

 実を言うと子どものころ、映画館には連れていってもらえなかった方なので、「漫画映画」の記憶はあまり残っていない。それでも『わんぱく王子の大蛇退治』だけには、特別な思い入れがある。「これこそ漫画映画」という強烈な認識が残っている。初見時に関しては、映画館(たぶんデパート内の劇場、大丸だったのではないか)の緞帳に刺繍されたクジャクの色合いまで記憶しているので、よほどすごく印象深い経験であったのだろう。映像的には、オロチの背びれが山間から見え隠れする巨大感あふれるショットや、ゆっくりと色を変化させるオロチの体色、ハイライトのない目の色などが、心中鮮やかに焼きついてしまった。これは後々の怪獣とアニメまみれの自分の人生にも、けっこう影響が大であるように思う。
 本作は日本神話をベースにスサノオノミコトの国造りを描いたものである。原作たる神話は、さまざまな研究書が示しているように、ある見方をすればおとぎ話ではなく現実の断片である。古代日本、侵略の遠征の結果として、征服者による歴史的記録が記され、それが説話に変化したもので、中には生臭い話が語り部の工夫でメタファー化されてさまざまに散りばめられているという。
 日本神話のように、現実を抽象化、暗喩化してファンタジーにした物語を、さらにもう一度、もう一段階、抽象度を上げてアニメーションとして映像化したのが『わんぱく王子~』ということになる。もしかしたら、この二重の抽象化が漫画映画としての純度を高めているとしたら、どうだろうか。
 スサノオやクシナダのキャラクターのルックは、当時から自分は好みだった。それ以前の東映動画長編作品、たとえば『少年猿飛佐助』や『安寿と厨子王丸』あたりの隈取りを連想させるキャラクターは、怖くて取っつきにくいという印象があった。それとは違うと、当時未就学児童の筆者の目から見ても好感度が高く、感情移入しやすいキャラクターだったことが、記憶に残る部分を強化する。そのデザインは、もりやすじ氏の手によるもので、以後たとえばTVアニメ『ハッスルパンチ』や『宇宙パトロールホッパ』など個人的に好感度高いものが続く。それらが、同じ森氏の手によると知るのは、かなり後のこととなる。
 それにしても、このキャラの抽象化はおもしろい。複雑な面構成を持った人体や顔面を、円筒や卵型のように簡略化されたアブストラクトな形状に置き換え、しかも無機質にならないように留意しつつデザインした、そのバランスが絶妙なのだ。また、動きに関しても、ディズニーなど欧米のアニメーション特有の「スクオッシュ&ストレッチ」(ゴムのような潰しと伸び)も、そんなに全面に出ず、くどさが感じられない。もっと簡潔で要領を得た動きで、その淡泊さが良いのだ。こういう秀逸さは、今なら言葉にも置き換えられるが、当時5歳の子どもではなぜかは理屈ではわからなかった。なのに、その明白な差ははっきりと実感されていたと、改めて思い出す。
 見た目の簡略化で取りつきやすくしたキャラクターは、アニメーション的空間の中に置かれて演技したとき、実感を醸し出して観客の感情移入を誘導する。間口は広く奥は深く、リアリティも十分にあるという、そんな作法が『わんぱく王子~』には貫かれている気がする。事実、空間そのものさえも中盤までは比較的平板に、舞台の書き割りのようなものとして描かれているのだが、スペクタクルシーン、特にクライマックスの対決では、崖や森など地形を利用した空間設計が成されていて、思いっきり立体的になる。その転換が比較的シームレスに、感情の流れに沿って自然に行われているので、気づけば遠いところまで持っていかれたという感覚があり、それが大きなカタルシスにも結びついている。
 この「間口は浅く広く、奥は深く」という作法こそが、日本版漫画映画の特質なのかもしれない。キャラの丸みとかわいさ、抽象性につい心を許すと、深い異世界へと連れられて、ドラマを演じる者たちにも共感を持たされて、気がつくと興奮と涙。清冽なアニメーションとしての個々のモーションの快感と、情動(エモーション)の同期があって、初めて感動がもたらされる。
 そういう観点で考えてみると、「これぞ漫画映画」という実感は、個々の作品に断片があるだけで、この方向性を総合的に極めきった作品は、かなり稀少なのかもしれない。逆に言えば、そこにまだ掘りつくされていない膨大なる鉱脈が眠っているということになるのだろう。そこを目指すアニメーション作家はいないのだろうか。そういえば、ゲーム『ゼルダの伝説 風のタクト』や『ポポロクロイス物語』などのキャラクターは、『わんぱく王子~』系に感じられた。意外にその方向からのアプローチに、次世代の漫画映画のブレイクスルーがあるのかもしれない……。
【初出:「日本漫画映画の全貌」図録(東京都現代美術館) 脱稿:2004.05.21】

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2006年12月19日 (火)

BLAME !

題名:果てしなき迷宮の旅路──BLAME!

 幾多にも階層が折り重なり、果ての見えないほど自己増殖した巨大建造物。誰がつくったかも定かではない人工物だけで構成された環境を、主人公“霧亥”(キリイ)はあてどもなくさまよう。階層が変わるごとに改造生物的な敵が襲いかかり、幾多もの出会いを乗り越え、彼は旅を続ける。目的は……「ネット端末遺伝子」の入手である。
──『BLAME!』という作品を要約すると、およそこういった形になるだろう。しかし、どのように言葉で要約しようとも、作品の本質的な魅力に迫ることは至難である。それは原作者・弐瓶勉のつむぎ出した暴力的なまでにサイバー的なビジュアル・イメージが、言葉以上に圧倒的な存在感と説得力を放っているからだ。
 原作コミック『BLAME!』(講談社アフタヌーンKC)は全10巻を数える長編である。その大半はテクノロジーと生物感の融合した奇怪なビジュアルとアクションに満ちているが、同時に極端に寡黙な作品でもある。ほとんどのシークエンスは、会話よりも、突発的に出現する怪物体や、距離や空間を感じさせる風景の変化で進行する。言葉による説明を排除している分だけに、その連なりは非常に映像的であり感覚的でもある。映画『BLADE2』のギレルモ・デル・トロ監督が本作を絶賛しているという事実も、これが言語の違いを超えて伝わりやすいイメージを芳醇に蓄えた作品である証左である。
 これは謎を追い求めそれを解読するというよりは、現実感を濃厚に持った危険なビジュアルに身をゆだね、感覚を体験し、描かれていない部分を妄想することで、作品世界の奥深くへと参加するタイプの作品だ。原作がこういう性質の作品である以上、映像化にはかなりの困難がともなったであろう。
 アニメ化にあたっては、ヒロインのCiboを主役にして記憶を再生するという趣向を軸にして、原作の壮大なる世界が再構築されている。1話約5分、合計6話分(DVDではさらに1話分を追加)で構成されたこのアニメーションは、原作以上に断片的ではあるが、動き、色彩、カメラワーク、そして音楽と音響というマンガにはない映像作品ならではの要素を加え、体験としての濃厚さを増強し、『BLAME!』の記憶を何倍にも増幅する方向性で制作されている。
 監督の井之川慎太郎とビジュアルデザインの鉄羅紀明はTVアニメ『魂狩 THE SOUL TAKER』で鮮烈なるイメージを発揮した先進のアニメ・クリエイターたち。音楽音響プロデュースには『千と千尋の神隠し』等の宮崎アニメや井上陽水ら高名アーティストのレコーディングで知られる大川正義。新たなるビジュアル+サウンドの衝撃が発動する。
 ディスクを手にして再生をはじめた瞬間から、あなたの『BLAME!』ワールド体験はスタートする。残酷で危険にあふれかえる旅路を、ぜひとも生き抜いて欲しい。
【初出:BLAME! DVDチラシ DVD発売日: 2003/10/24】
※鉄羅紀明氏は『ソウルテイカー』でも注目していましたが、この直後に若くして亡くなったはずです。非常に残念でした。

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2006年12月18日 (月)

ハウルの動く城

題名;生涯を彩る「幸福」の可能性を示した
   アニメーション映画『ハウルの動く城』

 宮崎駿監督の長編映画は本作含め全九本だが、その三分の一にあたる題名に「城」のキーワードが入っている。城塞が登場する作品を加えると、半数を軽く超えるだろう。城は大得意のモチーフなのだ。また、宮崎駿のミリタリー趣味満載の漫画エッセイ「宮崎駿の雑想ノート」(「紅の豚」の原作)では、多砲塔戦車が大暴れする幻のアニメ企画が紹介されている。だから永く付きあって来たファンとしては、宮崎アニメの新作が「ハウルの動く城」という題名な上に予告編で「魔法使いが戦争を遂行する世界」という映像を提示されたら、条件反射的に半球形の砲塔から褐色とオレンジに彩られた爆炎が噴出する様が、脳内にまざまざと浮かぶ。
 というわけで、タイトルロールの城が、まさかただの一発も砲弾を発射しないまま映画が終わってしまうとは夢想だにしなかった。宮崎監督はそうした戦いに、すでに関心をなくしてしまったのかもしれない。それに従来の「宮崎城」とは、縦横に拡がる構造と各種「からくり」を擁して物語のハラハラドキドキ感を紡ぎ出す装置だったはず。ハウル城も縦方向の構造は使ってはいるものの、「高みから見渡す自然が綺麗」とソフィーの幸福感が優先している。城の魅力は、むしろ外部の複合的な建造物がウネウネとうねる生物感の方から放出されている。やはり確実に「なにか」が変節しているのだ。
 だからと言って、これは決して期待はずれな映画ではない。あまりに脱宮崎アニメ的でありながらしっかりと宮崎アニメしているのは確実だ。振り落とされかけた古い観客として、新しいバランスに戸惑っているだけなのだ。ただし、こうした再構築には作り手側にもいくばくか混乱をもたらしたようで、意地悪く見れば劇中でソフィーが城を崩壊させたと思ったら速攻で再建築させる慌てぶりに、バランスの崩れが集約されているようである。
 従来のパターンを逸脱しているといえば、「もののけ姫」以後の宮崎アニメに共通した特徴なのだが、「脱ストーリー的」である。たとえば戦争というタームについて、港に帰還する多砲塔戦艦に群衆が集まるシークエンスでは、晴天の空爆の恐怖感、「敵のビラを拾うな」と憲兵が注意して回る描写の積み重ねだけで、深刻さと厭戦気分が短時間に活写されていた。これに戦局激化で街中が紅蓮の炎に包まれる災禍が加わり、戦争の恐怖イメージが力強く伝わる。だが、その戦争がまさか「あんなかたち」で終わろうとは……。ハリウッド映画的ストーリー文法ではあり得ないことで、正直ラストには非常に驚いた。
 だが、時間の流れの中で「ものの見え方」は微妙に変わるものだし、西洋的論理優先の価値観だけでは成し得ない貴重なことにも見える。しかも、まさに「アニメーション的」なものを示していると思い至って慄然とした。
 そのヒントは、ソフィーのヒロイン描写に示されている。彼女の第一印象は「魔法をかけられる前からお婆さんっぽい」だった。恐らくソフィーは、母親の長所をすべて受け継いだ妹に対するコンプレックスに悩んでいる。それに起因するネガティブな言動も見え隠れする。だが突然九〇歳になったことを契機に、彼女の物事のとらえ方は急速にポジティブに変わる。それはまさに「禍福はあざなえる縄のごとし」という諺のとおりである。
 以後のソフィーの場面ごとの変容にぜひ着目し、意味を類推してほしい。最初は腰は最大限に曲がり、関節はポキポキ鳴って声もしわがれていた彼女は、目的が明確になるたびに姿勢や発声が若返る。最終的には映画冒頭とは容姿の印象まで変貌してしまう。「呪いはかけることはできるが、誰も解くことはできない」という設定が実に象徴的で、呪いは結局は自分で解くしかないということなのだ。
 ソフィーが「人と世界」をどうとらえるか――本来の意味での世界観が、外見を変容させる。メタモルフォーゼはアニメーション独特の得意技とはいえ、この使い方の着想は卓越している。内面変化を外見的変容にシンクロさせつつ、ソフィーという一人の人格と心を統一的に見せる――こうした手業と発想のリンクは、バラバラのポーズを描く中で一連の「動画」に仕立てて人を描くアニメーターならではものだ。その意味において、映画全体から見える「ソフィーの変容」とは、実は壮大なる「アニメーション」なのである。
 この行為は、「生命を吹き込む」という「アニメーション」の語源そのものだ。そしてここで言う「生命」とは、単に生き物の動きをデッドコピーすることではなく、「生きる歓び」のベクトルを示すことと思えてくる。だから、この映画は「宮崎駿の老境」と片づけてしまえるほど簡単なものではない。人類全員、「生まれてから老いて死ぬ」という定めは共通して背負っている。死や老いを呪いと受け取るのも、積極的に生きて人生を歓びでアニメートして全うしようと思うのも、各自の自由。だが、人とは迷うものだ。そんなときの指標が見てとれることこそ、この映画最大の普遍的な価値ではないだろうか。
 人の一生がそれぞれ心のキャンバスに描く「アニメーション」であるとしたら、それをどう幸福色に彩るのか……「ハウルの動く城」には、その根源的な秘密の一端が示されているに違いない。
【初出:キネマ旬報『ハウルの動く城』特集 脱稿:2004.11.22】

※2006年12月現在、特別収録版DVDは50%OFFのバーゲン中のようです。

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2006年12月17日 (日)

修羅之介斬魔劍

題名:「修羅之介斬魔劍」虚無を見据える娯楽時代劇アニメ

■伝統芸能直系の時代劇

 「講談」は日本の伝統芸能である。寄席演芸のひとつで、戦国大名に御伽衆が軍記を語って聞かせたのがルーツと言われている。「修羅場」は、この中で特に合戦の場面のことを指す。
 講談の内容は軍記の他に仇討ち、御家騒動など多岐にわたり、特に義賊など「悪漢」が活躍するものは、浄瑠璃、歌舞伎を含めて江戸時代に人気を集めたという。
 鳴海丈原作による時代劇アニメ『修羅之介斬魔劍』は、日本人に連綿と受け継がれてきた講談文化の直系たる作品である。
 主人公、榊修羅之介は、「死鎌紋」と呼ばれる不吉な家紋を背負い、比類無き剣の達人だ。その名の通り、彼の動くところ修羅の連続となり、血の川が流れる。
 心に深い疵を持つ主人公、姫様の誘拐事件、「銀龍剣」と呼ばれる宝物をめぐる三つどもえの争奪戦という定番の設定を軸にして、喪われた江戸の風景をバックに壮絶な乱闘・死闘が描かれる。もちろんお色気タイムも用意され、娯楽度数はかなり高い。
 この作品は、大人のためのエンターテインメント時代劇なのだ。

■氷の視線を持つ美剣士

 原作の『修羅之介斬魔劍』は、1990年から長編ノベルズとして5巻が刊行された。現在では徳間文庫で読むことができる。
 最初の刊行時(カドカワノベルズ版)では、イラストをアニメーターの杉野昭夫が担当。1990年末に小説版刊行間もなく同じく杉野昭夫のキャラクターデザインと、出崎統監督によってアニメ化された。脚色は原作者の鳴海丈自らが行い、50分という短い時間の中で多くのイベントを手際良くまとめている。
……寛永十二年、徳川家光将軍の治める江戸の世に半鐘の音が響き渡った。見せ物小屋から逃亡した白虎が町に出て、凶暴な牙で人々を食い荒らしていったのだ。捕方たちも次々と倒され、白虎が江戸城へと歩みを進めたそのとき……烈風の中をひとりの浪人者が白虎の進路に現れた。
 浪人は冷ややかな視線を白虎に向けると、一刀のもとに獣の体躯を両断した。浪人は奉行たちの感謝をよそに名も告げず、その場を去るのだった。
 彼がこの物語の主人公、榊修羅之介である。
 修羅之介は長髪、美形の剣士であり、その腕は天下無双。感情を乱すことなく、目の前の障害を淡々と退ける。
 白虎に対峙したときも、風に乱れる髪を気にもせず、ただ見据えるだけだ。この時期、出崎統監督は「眼光」の演出に凝っていた。このとき放った視線にも冷たく青白くほのめく光が重ねられ、赤く殺意に燃える白虎の視線と交錯していた。
 この後のシーンでも、何度か修羅之介の視線に光が重ねられている。修羅之介自身の表情は滅多に変化することがないが、目の光芒はさまざまな彩りを見せる。
 虚無をベースとする修羅之介のヒーロー像に、この視線の変化は独特の味つけをもたらしているのだ。

■アニメによる江戸の描写

 『修羅之介斬魔劍』は、50分の作品にしては空前と言って良い密度のアニメである。バトル、濡れ場などイベントだけでも軽く10以上はある。人物も次から次への登場で、乱戦の結果死んでしまう人物も少なくなく、テンポがよい一方で、あっという間に通り過ぎる印象もある。解説的な部分は切り捨られ、ストーリー的にも未完のまま幕を閉じる。
 パッケージには書いていないが、本編ラストには「VOL1」とあって、小説の展開にあわせてシリーズ化が予定されていたことが判る。1本のアニメとしては、バランスは崩れているかもしれない。物語に「体験」ではなく「説明」を求める者には「結局、なんだったんだ」という感想しかもたらさないかもしれない。しかし、そう簡単に切り捨ててしまうにはいかない魅力がこのフ