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2006年11月17日 (金)

装甲騎兵ボトムズ(その2)

題名:フィルム・ボトムズのテイスト

 懐かしくも苦いコーヒーの味を確かめてみたくなったことはないだろうか?
 ボトムズと言えばAT。ATに触れば、いつでもボトムズ世界に戻れる。だが、いくらボトムズのテイストの根元を求めても、なにかがもの足りなくなくなることがくる。テイストの根元は、ATの活躍するフィルムの中にこそあるからだ。ATはボトムズ・フィルムのテイストを依代として体現しているものという理解が必要なのだ。
 ボトムズ・フィルムの持つほろ苦いテイスト……それはどの辺から来るのか? 乾きを癒すため、確かめに出かけてみたい。

●ボトムズと『ブレードランナー』

 ATをあやつるボトムズ野郎たちのオイルと硝煙にまみれた世界観。それは、どのように形成されているのだろうか?
 フィルムは学術論文ではない。われわれが味わうテイストは、設定や科学考証からは、決して生まれない。フィルムとして提示され、映像として描かれ、生理反応として混沌と積み重なる幾多の記憶の中から、じょじょに形を成していったもの……容易には言葉に置き換えられないものから生まれるものである。
 その味わいの源泉であるボトムズ世界のイメージは、100%オリジナルなのだろうか? 答えはNOである。
 ロマンアルバムやCDなどに掲載されている何人かのスタッフの寄稿、インタビュー上に繰り返し現れているのは、決してボトムズの世界が完全オリジナルではなかった、という事実である。ことに最初の1クールにおける世界観構築については、リドリー・スコット監督のSF映画『ブレードランナー』に大きな影響を受けているのである。
 『ブレードランナー』は1982年の公開後、ビデオグラム化されるたびにバージョン変更され、1991年には後に大流行する「ディレクターズ・カット」なる特別版が製作されるにまでいたったカルト中のカルト作品である。舞台は近未来2019年のロスアンジェルス。薄暗い風景の中に超高層ビルが林立し、酸性雨が常に降り続け、アジアから大量に流入した人々が、半ばスラム化した町並みの中で暮らしている。風景は常にどこか不鮮明で明瞭にものを見ることができず、しのつく雨が物語の全体を陰鬱なトーンでおおっている。
 未来都市と言えば、ドームにおおわれて晴天、透明パイプの中にエアカーが走るというステレオタイプの明るくドライなイメージは、この作品以前ずっと続いていた。だが、『ブレードランナー』1本で、SF映画やSFアニメの描く近未来がすべてダークでウェットなイメージに切り替わってしまった。
 では、そこを起点に置いているからボトムズはくだらないフィルムかというと、そんなことはないのは皆さんご承知の通りである。それは以下のスタッフの文面からも明白である。
「他人様の作品を下敷きに、なんて気は全くないし、やろうとしたってアニメの表現はおのずから違った世界を創りだしてしまう」(吉川惣司「ポンポンポンポン…」装甲騎兵ボトムズBGM集VOL2解説書 キングレコードより)
 ウド編のフィルムでは、巨大建造物の薄暗い底辺で暮らすひとびとは猥雑という言葉こそがお似合いの大衆、「夜の女」が何人も街角に立ち、町中で車座になってカードゲームが行われ、露店では異様な生物がペットとして売買されている。こういった街の点描は、確かに『ブレードランナー』を彷彿とさせる。
 しかし、そこに戦争の臭いを背負ったキリコのドラマが重なったら、どうだろうか? まったく違ったものが見えてくるのではないだろうか?

●ウドの街とバトリング

 戦争は人の流れを産み出す。金の流れをつくる。直接戦闘に参加しない者たちも集い、戦士にひとときの慰謝を与えたり、利用しながらたくましく生きていく。その様子がウドの街の乱れきった生活描写に織り込まれており、単なる暗さや無気力さではなく、奇妙な活気をフィルム全体にもたらしている。
 金が流れ、人が集まれば実権を握るものが出る。ウドの街では、腐敗の象徴として暴走族と市民を守るはずの治安警察が手を組み癒着している。貧富の差が激しくなれば、ガス抜きが必要になる。そう、ギャンブルだ。戦争が長引けば、戦争しか能のない者が増え、食うために命がけでローマの闘技場のように、ロボット同士の戦闘を見せて暮らす者も出るだろう。それが「バトリング」だ。
 こういった要素は、まったく『ブレードランナー』には関係がない。忘れてはいけないことは、『ボトムズ』がロボットアニメだということだ。単に『ブレードランナー』をロボットアニメ化するのであれば、映画に登場した未来車スピナーの位置につけて、人造人間を追う警官を主人公にすれば良さそうではないか。
 しかし、それはATには似合わない。フィリピンあたりを旅すると、街を走っている車が軍用車のお下がりばかりである。荷台いっぱいに鈴なりになって移動し、生活する人びと。中には軍とうまくやり、軍を利用してたくましく生き抜く者もいるのだろう。鋼鉄の厚みやリベットむき出しのATは、こんな風に社会の底辺にいながら明るく生きる者が、そばにいてこそ光るロボットなのではないか。
 完成したフィルム世界に準拠して上記のような思考を転がしたとき、雑多なことがピタリと符合して「大丈夫」な感覚を覚える。そんな状態を英語だと「メイク・センス」という言葉で表現する。ここまで来た「ウドの街」の持つ世界観は、もはやブレードランナー・イメージを大きく脱して「ボトムズ世界」としか呼べないものに一人歩きし、自動的にいろんな新しいものを語りかけ、発信してくるものに成長している。こうしたプロセスこそが、オリジナリティの獲得なのだ。
 となれば、「ボトムズの世界観は映画『ブレードランナー』にインスパイアされたものである」と表現するのが順当である。アニメを語るとき、パクリとパロディとオマージュとインスパイアを混同する風潮があるが、本来は区別をつけるべきものだ。ひとはまったくの無一物からものをイメージすることはできない。作り手も観客も同じである。その意味において、100%オリジナルなものというのは存在しないし、仮にあったとしても人間が容易に認識可能なものとはなり得ず、実用的でない。
「だいたいこんなイメージ」という出発点に、どれだけ多面的なイメージを練り込んであるか、全体としてどういうバランスが取れているかが、最終的には映像総体のもつ厚みとなって、印象に大きく作用する。ウドの街頭描写には、おそらく複数のスタッフによって、過去のいろんな映画のシーンや諸外国のイメージが無数にミクスチャされているに違いない。フィルムのテイストとは、この雑多なものが時間に沿って流れ、せめぎあって動く中から産み出されるものなのだ。

●ATの背負ったテイスト

 だからATにしても、軍で量産され固有名詞すら持たない兵器……などと、設定部分だけを突出して語っても、テイストを語るときにはあまり意味がない。実際には、ATとは軍のものでありながら、軍の中ではなく外に置いた方が似合うロボットのように思えてくる。それは、バトリングという要素から強く派生してくるイメージだ。
 ATと言えば、強化プラスチックではなく鋼鉄で出来ていて、ロールアウトした新品の状態ではなく、どれも戦闘でくたびれ果ている感じがする。装甲がへこみ、塗装は錆びてはがれ、搭乗者が間に合わせのパーツを寄せ集めてさまざまにカスタマイズしているような共通認識としてのAT像があるだろう。実際にアニメの画面では、セルアニメの限界もあって、ここまで表現した描写が少ないのに、共通認識が持てるということは、ATと世界の相互作用が「バトリング」という状況を媒介にうまく行って、独自性を放ち始めた証左なのである。
 ATがロボットデザインとして持つ独自性の中には、目に相当するターレット状のレンズとアームパンチ、降着ポーズが列挙できる。ここで注意したいのは、そういったギミックも、文章なり静止画で設定されているから魅力的なのでは、決してない、ということだ。特徴あるアクションをともなう、という共通項に気づけば、それは自明だ。
 レンズは、表情を持たないはずのロボットの視線の移動、注視、回転させたときのレトロ的な「らしさ」の表現に使われている。アームパンチの薬莢が飛び出す仕掛けは、鋼鉄のかたまりのロボットとロボットが格闘するときに、「すごい力で殴った!」という感じが、拳銃発射で誰もが知っている薬莢排出のイメージを重ねられるからこそ、採用されたものだろう。降着ポーズも、大事なのは機構ではなく、機械と人との大きさの比率、乗り込むときの距離感、戦闘時に「あそこに人がこれぐらいの大きさで乗っている」という感じを出すのに適したものなのだろう。
 フィルムは、動く映像で演出され、表現されてナンボの世界だ。深く作品を味わうためにも、まずはそういう部分にこそ観察の目を貪欲に向けていきたい。

●ATに乗る者……キャラの魅力

 このような着目方法をとっていくと、キリコ自身のドラマもまた、完全オリジナルとは言い難い部分を持っていることに気づく。
 当初、この物語は戦争で心に傷を負って戦いしか知らない青年が、次第に情感を取り戻していく「リハビリの物語」としてスタートしたという。これもまた、アメリカ映画『ランボー』や『ディアハンター』をはじめとするベトナム帰還兵の物語をどことなく連想させる設定だ。
 だが、ここからがまたボトムズのユニークなところなのである。硝煙と砂埃にまみれ、長い戦いに疲れ果てた兵士たちが、極限状態の中で見る夢とは、いったいどういうものなのだろうか? それが、王女を救いに来る王子様の典型的なおとぎ話「眠れる森の美女」だったりしたら、実に面白いではないか。「大人のおとぎ話」だから、王女様は素っ裸で、思わず王子様のトラウマになってしまったりして……きっと、キリコのドラマの発端はこのような下世話なところから生まれたのだろう。
 根幹に甘ったるいものを潜めたキリコこそが、一番優れたAT乗りで戦士でもある、という一見矛盾するかのような取り合わせが、ATというメカの主役、先に述べたような世界と関わりを持つからこそ、矛盾に内在するポテンシャルの落差が、他のものにも作用して次々とドラマを産み出し、先へ先へと転がしていく。
 ボトムズとはこんなフィルムだ。作品のテイストとは、この転がる動きが、観客と相互作用する中で生まれてくるものなのだと発見できれば、いろんな部分に新しい味わいが見つかる。その中で、ATもまた輝きを持ち始めるだろう。

●とめどなく転がり続けるドラマ

 以上のように、1クール目で、すでにボトムズ世界の定義とキャラの確立に成功している。凄いのは、その先である。
 2クール目「クメン編」では、せっかく構築したウドの世界をチャラにして、気がおかしくなるような熱気と湿度に満ちたジャングルに舞台が移ってしまう。そこは王国を二つに割って傭兵たちが争う内乱の世界だ。マンネリズムを防ぐために、次にスタッフが触媒としたイメージは、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)だった。ベトナム戦争を題材に、映画史上まれな狂気とも思える壮絶なロケで製作された作品である。
 人工的なウドから一転して、クメンの自然の持つ荒々しい情景、河や湿地帯を活かした戦闘アクションは、ボトムズの世界全体を拡げるとともに、キリコ+ATという組み合わせが、どのような世界にも順応し、それを媒介にしてさらにボトムズという作品を拡げられる懐の深さを、実戦を通じて立証してしまった。
 3クール目以降も、リドリー・スコット監督『エイリアン』(1979年)から閉鎖され薄暗い宇宙船のイメージ、スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968年)から意識を持ったコンピュータ殺しのイメージにインスパイアを受け、何ものにも帰属せず、屈しないキリコのキャラクターは、ついに神との対決にまで到達してしまう。
 ここまで醸成できれば、あとは厚みのある作品世界とキャラクターが転がって、外伝や続編を自動的に産み出す……と思いきや、続編『野望のルーツ』『赫奕たる異端』では、安定したかに見える部分にスタッフたちは大きな揺さぶりをかけ、一部にはリセットまでかける大胆な試みが現れた。これもまた、新たなドラマを産み出すためのものなのだろう。
 さまざまな要素を取り込み、厚みを加えて安定に向かった世界を、また崩してさらなる新しい要素を取り込む。こんな風に転がり続ける関係性を内包しているボトムズ世界。だから我々の乾きも永遠に癒されることはない。実は、そこのところがボトムズのいちばん美味しいところなのかもしれない。

<キャプション類>

●ウドの街を行くキリコ・キュービィ。小惑星リドの事件をきっかけに、軍を脱走したキリコは流れ流れてウドに来た。ベトナム戦争の帰還兵を思わせる、戦いしか知らないキリコの青年像は、初期設定から引き継がれたものだ。

●街を歩くキリコの主観映像で、『ブレードランナー』を連想させる人の点描が入る。明らかにストリート・ガールとわかる女たちもいる。青年層以上をターゲットとした作品であることが明確に示され、世界の深みが増していく。

●カプセルの中に入っていた裸の女……キリコの運命を変えた女性ナの素体を見て驚くキリコ。実はこの瞬間、フィアナの側もキリコによって運命を切り拓かれたのである。これも実は「眠れる森の美女」のバリエーション・シーンなのだ。

●第2部、舞台はうって変わって、クメン王国。焼き付くような熱帯の直射日光がカメラに射し込み、キリコの顔にも深い影が落ちている。抜けるような青空、熱気にゆらめく大気……気分はコッポラ監督の超大作『地獄の黙示録』だ。

●第3部、キリコとフィアナは宇宙に出たとたん、謎の宇宙船に捕捉されてしまう。誰もいない広大な宇宙船という閉鎖空間は、映画『エイリアン』を想起させる。ここでキリコは、忘れたい自分の過去と対面しなければならなくなる。

●第4部、ワイズマンに「神の後継者」として選ばれたキリコは、クエント星の中核に迫る。味方すらあざむいきキリコが企んだのは「神殺し」だった。コンピュータの破壊は「2001年宇宙の旅」と同じくメモリ引き抜きによる。

●スコープドッグの降着ポーズと、中にいるパイロット、キリコの大きさがわかるカット。過去に登場したどんな巨大ロボットよりも、人間に近いサイズが実感できるだろうか。

<ローラーダッシュとアームパンチ>
●ATの足に取り付けられたローラーダッシュと、腕から薬莢を排出するアームパンチの合わせ技が、バトリングをリアルにする。

<カメラアイの放つ視線>
●第1話、いっせいに振り返るAT群という映像は新境地を開いた。顔のレンズは回転し、注視につれてピントが送られていく。

【初出:ボトムズバイブル―装甲騎兵ボトムズ 全記録集〈1〉(樹想社)2001.07.10脱稿】

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