« 巨人の星 | トップページ | 大空魔竜ガイキング »

2006年11月 3日 (金)

長浜忠夫がもたらしたもの

題名:長浜忠夫がもたらしたもの --巨大ロボットアニメの飛翔--

◆長浜忠夫版ガンダム?

 時に1979年。富野監督による『機動戦士ガンダム』は、第1話からアニメファンの注目を集めていたものの、視聴率不振で玩具も売れず、途中から路線変更になった。Gアーマーなるパワーアップメカの登場や、モビルスーツの新型が続々投入されるようになったあたりである。
 この頃、アニメファンの間ではガンダムの行く末についてあらぬ噂が横行した。第26話で全員特攻して終わり、なんてのが典型だ。
 明らかによくできたガセネタの中に「第27話で総監督が交替して長浜忠夫になる」、というのがあった。大笑いしながら、富野さんじゃなくて長浜さんがやるとどうなるのかなぁ、とバカ話に興じたものだ。
 ――ギレンとドズルのザビ兄弟が物語の冒頭、自慢のモビルスーツを闘技場コロニーに出し、デギン公王を招いて御前試合をする。デザインはブッちゃんこと出渕裕だ。モビルスーツはそれぞれ飯塚昭三と緒方賢一の声で、「うわるっぐぐ!」「ぐわぁあぁ!」などと喚きながら戦闘開始。一体はやおら背中からトゲのついた鉄球を出して鎖で振り回し始める。もう一体の胸のシャッターが開くと、どう見ても胴体の厚みよりデカいミサイルが出現する。ミサイルは空中で爆発して針をまきちらし、相手は針ネズミのようになって倒れる。
 勝った方が、今週のガンダムの挑戦者だ。
 「敵モビルスーツ接近!」「よし、バリヤー展開!」
 ホワイトベースにサイレンが響けば、宇宙空間は緑色のオドロ雲渦巻く戦闘空になっている。挑戦者の敵モビルスーツは、ガンダムに向けてニードルミサイルを発射。ミサイルは破裂した後に何十本という巨大な針を放射し、グサグサとガンダムのコクピットを貫く。加えて1万ボルトの電撃がアムロを苦しめる。
 「どうわぁっ!!」白とピンクの2色トーンに塗り分けられたアムロが絶叫する。もちろん監督交代とともに主役声優は古谷徹から神谷明に交代しているのだ。
 「そ……そうだ。あのときの……。びぃむっさぁべるっ!ケン玉殺法!」アムロはカツ・レツ・キッカとケン玉で遊んだときのことをヒントに電撃をはねかえし、あらたなる刺客モビルスーツを退けるのだった。
 「今度も……つらい戦いだった……」疲れきったアムロの目に、夕陽のように差し込む太陽がまぶしい。
     ×  ×  ×
 これはもちろん悪い冗談だ。
 だが、こんなネガティブなイメージで長浜忠夫監督のことを捉えている人も多かったのは事実だ。ことに『ガンダム』本放送の頃、富野監督を持ち上げるあまり具体的な検証なしに、「長浜さんの演出はクサイ」「オーバー過ぎてギャグみたいだ」「ワンパターンで古い」と劣ったものと決め付け、低く評価する風潮は厳然としてあった。長浜監督が81年に志半ばで病死したため、巨大ロボットものの第一人者は富野監督というイメージができてしまったことも、過小評価に影響している。
 しかし、長浜監督が拓いたものがあってこその『ガンダム』という方が正確なのである。それが歴史的な認識というものだ。後から出たものの改良点、優位性をもって過去の作品を劣ったものと決めつけるのはおかしい。そもそも監督の演出に対して、優劣がつけられるほど我々は何を知っているというのだろうか?「監督の個性」を云々できるほど、監督が何をやっているか我々は把握しているのだろうか?
 『宇宙戦艦ヤマト』の劇場公開でアニメがムーブメントになろうとしていたとき、巨大ロボットアニメというフィールドで確かな「ものを創る」意識と意志を持ち、手ごたえを得ていた長浜忠夫。 本稿では、巨大ロボットアニメの勃興期に長浜監督の作品にかけた情熱の軌跡を追うことで、現在にいたる作品群のスタートラインを探り、「監督とは何か?」を考える手がかりを得てみたい。
 なお、東北新社や東映本社の製作で創映社サンライズスタジオが下請けで制作した作品を便宜上サンライズ作品と表記するが、映像作品の制作現場の主体という位置づけを重視してで他意はない。

◆サンライズ以前の長浜演出◆

 長浜監督は、60年代は横山光輝原作『伊賀の影丸』など人形劇の演出を担当し、東京ムービー(Aプロダクション)でアニメを手がけることになる。代表作は、もちろん『巨人の星』だ。梶原一騎・川崎のぼるの原作コミックは、日本を代表するヒット作だが、長浜忠夫演出のアニメ化はそのヒットに大きく貢献している。それは、原作コミックを読み返すと何となく物足りなさを感じることでも明白だ。
  アニメ版では大リーグボール1号のあたりから、長浜演出の真骨頂という雰囲気になってくる。テレビ放映が雑誌連載に追いつきそうになり、原作に忠実なとストーリー展開以外の要素で間を持たせる必要が生じていた。ロボットアニメに繋がる長浜演出の基礎は、その要請に応えるべく開発されたものではないだろうか。
 この時期の『巨人の星』は観客を飽きさせない創意工夫と実験であふれかえっていた。時間の流れを再構成し細かくカットを割ったり、魔球が出ると背景が異次元のようになるなど画面的にも様々な味つけをして盛り上げた。結果として登場人物の心理をじっくりとなめ回すように見せつけ、性格を掘り下げ「キャラを立てる」ことに成功、テレビアニメの新時代を築くことに成功したのだ。
 本作品の途中からトレスマシン導入により、劇画キャラクターを劇画タッチで描写することが可能になった。同時代の作品は荒々しい描線のものが多く劇画の時代を感じさsれるが、長浜監督の劇画演出はその先を行っていた。エリアル合成で目の中に実写の燃える炎を合成してしまうなどは序の口だ。「竜虎の対決」「真剣勝負」という比喩を本当にそのまんま絵にして、星や花形がいきなり竜虎や武士に変身して怪獣映画も顔負けのバトルや時代劇のような剣劇を始めてしまったりする。原作にもこういうイメージ処理はあるが、長浜によるアニメ版の迫力は稚拙にやればギャグになるものを迫力で押え込み、何倍にもパワーアップしていた。
 エンディングクレジットには脚本家と並んで「構成:長浜忠夫」と出ているが、これは長浜監督がオープニングにクレジットされている「演出」の他に原作の分解・再構築や、行間を読み、イメージを数十倍にふくらませるような場面の再構成を手がけていたと解釈できる。
 燃え立つような情念を放ちながら演出の現場に立っていた長浜監督の迫力はスタッフを引っ張り、画面に魂をこめていた。この長浜監督の情熱と方法論がロボットアニメに導入されたことで、何がもたらされたのだろうか。

◆勇者ライディーン

 長浜監督のロボットアニメ第1作は、75年の『勇者ライディーン』だ。『マジンガーZ』に始まる永井豪・東映動画路線でヒットした巨大ロボットアニメという新ジャンル。マンガ家に原作を頼らず虫プロの流れをくむアニメスタッフでその新天地に挑戦した作品だ。スタート当初の総監督は富野由悠季(当時:喜幸)だったが、諸般の事情で第三クールから長浜に交代した。
 長浜担当の1本目は、第27話「シャーキン悪魔のたたかい」。前半の敵幹部キャラクター・シャーキンは、仮面に包まれた美貌、クールな性格、独特の美学を持ち、美形キャラの元祖だった。そのシャーキン自らが巨大化し、戦いを挑む。前半の総決算を行い、後半戦への橋渡しとなる大事なエピソードだ。
 長浜監督は巨大シャーキンとライディーンの戦いに鼓の音を重ねたり、戦いに敗れたシャーキンが剣をつきたて割腹自殺するといった和風で大時代的な演出を行った。雨に打たれる好敵手の屍を前に「シャーキン、お前が味方だったらなぁ……」と、ひびき洸に切なく重く独白させた。
 さすが『巨人の星』の監督……と思わせるような長浜節は、この1本でもいかんなく発揮されていたわけである。
 後半の『ライディーン』の基本設定にはいくつか変更が加わった。大魔妖帝バラオの幹部が豪雷巨烈・激怒巨烈兄弟となって敵の内部にもライバル構造が盛り込まれた。化石獣は巨烈獣となり、作品の神秘性は薄れ、エピソードの中心は戦闘になった。特に長浜を監督に迎えてからの戦闘シーンはエスカレートの一途をたどっていった。毎回のようにライディーンの体は切り刻まれ、コクピットには針が突き刺さってスパークが走り、ひびき洸の絶叫がとどろきわたった。巨烈獣はさらに合体獣となり、ライディーンの苦しみも二倍以上になった。
 恐らく局やスポンサーの意向で「巨人の星みたいな迫力でロボット同士にドンパチさせてください」といった要請が長浜監督にはあったのではないだろうか。長浜監督のふところの深さを感じさせるのは、その要請に期待以上に応えた上で、さらに大きなドラマをロボットものの上に構築しようとした点だろう。引継ぎの雇われ監督という意識だったら、自己の作家性を過信するタイプだったら、前任者の作った設定は嫌うかもしれない。だが、長浜監督は前半に張られた伏線で主人公とその母の引き裂かれた肉親同士の情愛に注目した。これを軸に、ムー大陸の生き残り母レムリアがムートロンを解放するために時を超え、ひびき洸と巡り合うという最終回に向けての壮大なクライマックスを大河ドラマ的に仕掛けた。これも屈指の大河ドラマ『巨人の星』のアニメ化を経験した長浜監督ならではのことだろう。
 『巨人の星』から『ライディーン』に受け継がれた長浜節。その要素を整理すると、「ライバルキャラへの熱い視線」「対決に主眼を置いた派手な画面作り」「時代がかった大芝居」「大河ドラマ的構成」「引き裂かれた肉親間の情愛」といったものになるだろうか。

◆美形キャラのアピール--コン・バトラーV◆

 東映本社の発注でサンライズで制作された『超電磁ロボ  コン・バトラーV』、『超電磁マシーン  ボルテスV』、『闘将ダイモス』の3本が「長浜ドラマティカル・ロボットアニメ三部作」と呼ばれる。いずれも長浜忠夫が総監督として第1話から最終回まで携わり、ガルーダ・ハイネル・リヒテルといった市川治が声の本格的美形キャラとその悲劇のドラマを創出している。
 まず、『コン・バトラーV』から長浜監督の活躍を振り返ってみよう。
 安彦良和のキャラクター、特にこの時代アニメファンのアイドルだった南原ちづる、初めて完璧な5体合体を可能な超合金、巨大ロボットの王道パターン確立とヒット要素の多い作品だった。それをしっかりと支えていたのが、『ライディーン』で自信をつけた長浜演出である。
 第1話では、内閣総理大臣の任命書を持った5人の主人公たちが思い思いの方法で集結、どれい獣の攻撃に巻き込まれながら南原コネクションに急ぐ。その途上でキャラクターの性格・得意分野を自然な流れで見せ、基本設定はもちろん、出撃から初勝利に至る戦闘パターンまで、有無を言わさずグイグイと引き付けるように観客に納得させて楽しませる。これを設定期間ふくめて短期間にまとめあげた長浜監督の力技は今も語り種だ。
 この作品ではキャンベル星の前線司令官ガルーダが、主人公・葵豹馬に挑戦するライバル、すなわち後に言われる美形キャラとして人気を集めた。特に第25話「大将軍ガルーダの悲劇」は敵側のドラマ、ガルーダと侍女ミーアの悲恋にスポットを当てて、高いテンションのドラマでファンの胸を打ち、話題を呼んだ。ミーアはガルーダの心を慰めるための壁飾りのようなロボットだが、ガルーダを密かに思い慕っている。誇り高いガルーダの方はしょせんロボットとしか見ていない。ガルーダを守りたい一心で、ミーアはどれい獣に乗り無断出撃し、執念の攻撃でコンバトラーVを窮地に追い込む。だがいま一歩のところでコンバトラーの攻撃に敗れ、駆けつけたガルーダの手で修理工場に運び込まれる。そこでガルーダの見たものは自分と同じ形態の試作機だった。ガルーダもまたロボットであり、キャンベル星前線のオレアナにあざむかれていたのだ。
 この回は30分の大半が敵側の描写にさかれ、明らかに主役の座と作者の視点は逆転して敵側に移っている。主人公側の正義を貫き、玩具を売るための戦闘描写を中心にしなければならない巨大ロボットアニメで、この構成は画期的だった。それだけに失敗は許されなかったのだろう。結ばれぬ運命にあるからゆえのミーアの情念、それを受け止めないガルーダのプライド、それに逆襲され運命に翻弄されるガルーダの心理描写は凄絶であり、画面に吸い込まれる感すらあるほどだった。この回は放映されるや大きな反響を呼んだ。
 脚本の辻真先によるガルーダの基本設定とドラマは、『巨人の星』で飛雄馬を取り巻くライバル関係、特に二枚目の花形の大リーグボール1号打倒を華々しく描いた長浜監督にとって、相性が良かった。主役に対峙するライバル側のドラマとそれを貫く心理の動きは、演出家として存分に腕のふるい甲斐のあるものだったのだろう。
 玩具や無敵のヒーローを必要とする本来の視聴者に充分なアピールをした上で、それ以外の青年層・女性層という新たな観客層にもドラマを訴えかけることができる。決まった原作のない分だけ、そこに自由なオリジナルの発想を盛り込むことも可能だ。すべてはスタッフのやる気次第なのだ。精根こめれば、すべては作品に反映し、見る人は見て確実な反応を返してくれる。
 こんな手応えを長浜監督は得たのではないか。その認識は、長浜監督にとってもその後のアニメの方向性にも、大きな影響があったに違いない。
 ロボットアニメに新たな土壌と可能性を発見した長浜監督は、次の作品では自ら基本設定を考え出した。美形キャラに華を持たせるためのさらに悲劇的な設定を考案し、物語中で主役に匹敵するだけのポジションをになわせる。そして、その悲劇の人生を1本の大河ドラマに埋め込み、厚みを持たせ、作品のテーマを具現化する役回りとして美形キャラを積極的にフィーチャーしようと決意した。それが『ボルテスV』とプリンス・ハイネルだ。

◆長浜ロボットの頂点『ボルテスV』◆

 美形キャラを主眼においたとき、問題になったのは、美形キャラの所属する敵側の設定だった。
 それまでの作品では悪というものは一面的な価値観を持つ存在に過ぎなかった。例えば「地球を征服する」と言った場合にも、武力の行使そのもの以前にあるもの、なぜ征服しなければならないのかという理念や目的意識、いったい何をどうやって支配するのかという具体的な方法論は実にあいまいだった。主人公側の持つ秘密のエネルギーの争奪戦、あるいは単に主役ロボを打ち倒すことが世界制服の早道だと言うことで戦いを挑んでくる、といった強引な設定が長浜作品も含めて実に多かった。
 いったい敵とは何なのだろうか?同じ人類、あるいはそれに類するものであれば、種族民族があり、社会と文化があるはずだ。現実世界では、同じ人間同士であってもメンタリティの微妙な差異が軋轢になって戦争となる。ではその差とは何なのか?それを図式化して描くことで、この世の中に本当にある人為的な苦しみや災いの根元に迫れるのではないか。いま青年たちがアニメを見ているなら、そこまで踏み込んでこそ、見ごたえのある大河ドラマになろうし、この大テーマがあってこそ、美形キャラは作品を最後まで支える軸になる。
 長浜監督の思考はこうだったのではないだろうか。
 長浜監督が考え出したのは、「人間が同じ人間を差別することの是非」という大テーマを巨大ロボットもので訴えかけることだった。敵美形キャラという本命の主人公と、ヒーローロボットに搭乗する本来の主人公を兄弟に設定することで、「敵と味方にある差はいったい何なのか」ということを浮き彫りにできる。敵のボアザン星にも、はっきりした社会制度を持たせる。年少の視聴者をも引き込むため、作品は巨大ロボットアニメとしても成功しなければならない。そのためには、当初はコンVと同じ1話完結の普通の巨大ロボットアニメと見せかけ、バトルシーンもサービスいっぱいに描いておいて、やがては敵・味方相互に絡み合う大河ドラマ構成へと導いていく。
 長浜監督は、こんな大仕掛けに出た。

◆ボルテスの大河ドラマ◆

 ボアザン星は地球で言えば中世風の文化様式を持った惑星で、人類には角のある者とない者の二種類がいる。角のある者は貴族階級に所属し、角を誇りとし、角のない者を労奴として支配していた。ボアザン星人にとって、地球は角のない未開の民族惑星だ。貴族に支配されてこそ幸福になるという、支配者に共通のロジックを取って彼らはついに地球侵略に飛来した。
 ボアザン星の地球侵攻には、隠されたもう一つの意味があった。現皇帝ザンバジルは前皇帝を謀略によって失脚させ、いまの地位についた。彼にとって前皇帝の息子プリンス・ハイネルは王位継承権を持つ邪魔物なのだ。そこで辺境の地球へと遠征を命じ、ハイネルを戦死させようと企んだのだ。日本神話のヤマトタケルを彷彿とさせる物語だ。
 このボアザン側に渦巻く陰謀は、実は地球側にも重要な関係がある。
 主人公・剛三兄弟たちの父親はかねてよりボアザン星の侵攻を察知し、地球防衛軍・岡長官や浜口博士、妻・剛光代博士とボルテスVを建造していた……と、ここまではよくある設定だ。剛博士は行方不明となっており、光代は第2話で獣士に体当たりして死亡。中盤は、剛兄弟の父への慕情がドラマの軸になって展開する。
 その頂点が、第28話「父剛健太郎の秘密」だ。
 剛健太郎は皇帝ザンジバルが陥れた前皇帝ラ・ゴールその人だった。王位継承権を持ちながら、生まれながらにして角のない特異体質のラ・ゴール。聡明で繊細な彼は、角のある者がない者を差別するボアザンの考え方に疑念を抱いていた。そして即位した矢先にザンバジルの企みで角のないことが露見、王位を追われ、労奴に落とされた。残した子供が実はハイネルであり、助力者により地球に移住し、光代博士と結ばれた後に設けたのが剛三兄弟というわけだ。
 最終回、地球とボアザン星の労奴が手を結び、革命が起きる。ボアザンに燃え盛る戦火の中、ハイネルと剛健一は兄弟とも知らず、生身で剣と剣で決着をつけようと切り結ぶ。その中で、ハイネルは健一、健太郎をついに肉親と認めるものの、彼らと手を取り合おうとはしなかった。いや、できなかったのだ。生きざまを曲げるにはあまりにハイネルは純粋すぎた。彼はボアザン貴族の誇りを持ったまま炎の中に消えて行く。
 これが悲劇だからこそ、なぜこういうことが起きるのか、起こしてはいけない、という長浜監督のメッセージが直截に伝わるのだ。

◆ボルテスの反響◆

 長浜監督は、ボルテスの悲劇の大河ドラマが受け入れられることに絶対の自信を持っていた。その現れとして、第28話を「主役ロボットの登場しない回」として指定した。スポンサーの意向として、主役ロボットが敵メカと戦うことは毎回の約束ごとで、それに反することは大事件だった。長浜監督は周囲に作家としての主張を納得させ、ついに全体のテーマの核となるエピソード第28話を戦闘シーンなしの回想ドラマだけで描ききった。
 メッセージ色の強い第28話と最終回の放映に先立って、長浜監督は自腹を切って友人知己に自分の考えと、それぞれ放映を見て欲しい旨を記した葉書を印刷し、配布した。同じく自費で16ミリフィルムをプリントし、機会があれば積極的に出かけていって上映した。ビデオの普及していない時代だから、アニメ作家が自信の作品を見て欲しければそうするしかなかったのだ。アニメファンという層があるのかないのか、世間的にはまだまだ不明確な時期に、ここまでの自信と愛情と情熱を自分の作品にかけた監督は皆無だった。
 悲劇の美形キャラ・プリンスハイネルは、長浜監督の目論見どおり、女性ファンに人気爆発となった。
 もともと日本人は判官びいきと言われるが、長浜監督はハイネルをその好みにぴったりマッチするように描いた。
 ひたむきな情熱を包み隠す切れ長でクールなアイライン。考え方が純粋で誇り高く、側にいるカザリーンの慕情など寄せ付けない孤高さを持つ。両親と早くから別れて育ったため、こういう性格になったわけだが、戦いの間にふと見せる表情が母性本能をくすぐるのだろうか。
 アニメキャラクターに恋するというバーチャルな行為は、いまでこそ広く知られているが、1人のキャラがブレイクしたとまで言えるのはハイネルが最初ではないだろうか。ハイネルは立ち上がり始めた同人誌の中でも大人気となっていった。
 ちょうどこのころ「月刊OUT」が創刊された影響で、「受け」を主体にしたパロディ精神が「アニパロ」としてのジャンルを確立させるまでになった。二頭身のデフォルメキャラによるハイネルも大人気だった。
 作品に対する姿勢は真摯極まりない長浜監督だったが、同時にファンの遊び心が実によく判るひとでもあった。同人誌の動きもいたく喜び、ファンとの交流を楽しむようになっていった。長浜監督は、手紙魔としても知られ、毎朝5時に起床して、ファンレターに長文の返事を書いていたという。アニメの仕事だから、帰宅時間は不定期なはずなのに。長浜監督に手紙をもらい、アニメの感想だけでなく悩みごとや相談ごとを交わしていたファンは相当数に上る。人生の指針が変わり、ついにはプロのクリエイターになってしまった人もいる。デザイナーの出渕裕もその一人だ。
 長浜監督はファンからの声を大事にし、ファンの集いにもフィルムを抱えて積極的に出かけていった。よくそんな時間が……と思えるほど精力的に活動していた。
 長浜監督が確信を持って作品を世に送り出した。その情熱を受け止めるファンがいた。監督とファンと交流することで、また新しい場が生まれ、アニメの世界を広げていった。だからこそ、いまファンは安心して青年になってもアニメが見続けられる時代が来ているのではないだろうか。

◆監督の個性とは?◆

 長浜忠夫の監督としての個性、それは他の監督とは異なっている。アニメにおける監督という役職は、何をなすべき人なのか。監督の役目を一言でいうならば「作品の仕上がりに責任を持つ」。これに尽きる。逆に言えば、仕上がりに貢献する方法は人により変わるため、その人の得意とする方法でやって良い、ということだ。長浜監督の個性的な演出方法は、それを証明しているのではないか。
 他の監督の例をまず見てみよう。富野監督は、フィルムの仕上がりは絵コンテで決まると言っており、フィルムメイキング寄りの演出家と言えるのではないだろうか。これは富野監督が映像専門の大学出身であり、特にアニメ作家になろうとしたわけではないことが影響していると考えられる。宮崎駿監督の作品づくりは、描きたいことがまず完成画面のイメージとして出てきてしまう。最初にイメージボードがあって、これを平面的に並べ替えることでフィルムの流れを再構築する作業なしには映画が作れない。これは宮崎監督がアニメーター出身だから顕著なことかもしれない。
 では長浜監督はどうかと言えば、映像寄りのパートはコンテマンなりアニメーターを信頼してまかせるタイプだったのではないか。作品作りの姿勢としては、より包括的にフィルム全体、あるいはフィルム作りの現場全体の気持ち良いチームワークを見ていたと思われる。その雰囲気は熱気となってフィルムから立ち上るものだ。そして、作品そのものから感じられるタッチは、映像派というよりはむしろキャラクター演技派とでも呼ぶべきものではないだろうか。
 長浜監督は、人形劇の出身だ。完全な肉体を持ち得ない人形に魂を吹き込む。それは全身での演技と声の演技のマッチングが大事だ。どことなくオーバーアクション気味な長浜演出を連想させる。長浜自身が舞台に立つ役者出身だったのが作品づくりに影響していると見る説もある。「三日やったらやめられない」という役者。スポットライトを浴び、ホールに響く声で朗々たる台詞回しで自分の言葉で直接訴えかけ、観客の視線を一身に集め、自分の世界に引き込む。その様子というのは、大上段なテーマをテレビ画面から訴えかけた長浜作品とどこか通じるようなものがある。
 役者経験と関連したことで、長浜監督の演出というと必ず話題になるのが「監督自ら全部の役にアフレコをしてみる」という作業だ。アニメ制作は、オールラッシュと言って規定の尺になるよう完成した絵を全部編集してつないだ状態が節目になる。これに声優が録音スタジオでアフレコを行い、ダビング作業で効果音と音楽をつけて完成となる。長浜作品ではラッシュ時点で監督自ら台本を手に読み合わせチェックをするのだ。女性キャラクターの「エリカは……一矢さまを……お慕いもうしております……」などというセリフにも声色を使い、間を取り感情をたっぷり込めて読む。声優が実際にキャラクターに「入れる」かどうかをテストするのだ。それは見事なものだったという。
 ラッシュの段階で読み合わせに支障があると、すぐにリテイク。テレビアニメでは、アフレコに完成した絵が間に合わず、線撮り(原撮・動撮)・白味など尺を合わせたダミーが入っていることがある。長浜監督はそれを絶対に許さなかった。これは声優が完成画面から感じるエモーションに合わせて声の演技を決定し、魂を吹き込むのだから本来は当然のことなのだ。えてしてアニメの現場は絵描きが仕切っている関係で、「画作り」が優先されてしまうことから起きた弊害だ。
 本来フィルムとは映像と音が結ばれて完成するものだ。視聴者は、音も無意識のうちに重要な手がかりとしている。アニメーションにおいて、完成フィルムで「生」なものは音しかない。とりわけ生の人間が出るのは声の演技だけだ。よって、絵が生きるも死ぬも、音響次第なのだ。『コン・バトラーV』からエンディングの音響監督にも長浜忠夫がクレジットされるようになった。アフレコ時の熱のこもった演技指導、ダビング時にこれでもかこれでもかと音楽・効果音を厚くつける作業が高じて、音響にも責任を持つと宣言したことによる。これもまた「生命のないものに生命を吹き込む」というアニメーションの作り方の正当な手法なのではないだろうか。
 蛇足だが、長浜監督ご自身の声は『ボルテスV』の最終回、ボアザン星の守護神ゴードル像の役で聞けるので、興味ある方はレンタル店で探して欲しい。

◆ボルテス以後の展開◆

 ボルテスで青年層に向けての作品づくりに成功した長浜監督は、次の作品では主人公と敵側ヒロイン間の恋愛というテーマで。「ロミオとジュリエット・ロボット版」という触れ込みの作品を送り出した、それが『闘将ダイモス』だ。甘い恋愛ではなく苦難の道を乗り越えた果ての愛を確認するという真摯なテーマは、特に後半のヒロイン・エリカが寝返ったと思わせる展開で、よく表現されていた。美形キャラでありエリカの兄でもあるリヒテル提督もハイネル同様に人気を博していたが、ゲストキャラクターの親友アイザックとの関係が取りざたされるなど、後のヤオイ同人誌に連なる要素もこの作品で出始めている。
 長浜監督のまいた種は他の作品でも芽吹き始めた。アニメブームが起きつつあり、その芽は着実に伸びていった。その中でももっとも重要なのは富野監督作品である。
 富野が総監督に返り咲いた77年の『無敵超人ザンボット3』は、ボルテス後半と同時期の作品だ。『ライディーン』降板後も、富野は長浜監督のもとで、『コンV』『ボルテス』に、絵コンテマン・各話演出として参加している(主としてペンネーム)。『ボルテス』などは重要な第1話やオープニング・エンディングも富野の担当だ。長浜監督の作業と考え方を吸収する機会も多かったのではないだろうか。
 『ザンボット3』は初のサンライズ・オリジナル作品だ。ここで富野が取った方法論は、長浜監督の影響なしには語れない。全2クールの作品構成を、一貫したドラマとして流れを創ること、敵・味方の区別なく攻撃を受ければ焼け出される人々がいる、というリアルな認識。
 この考え方を押し進めた79年の『機動戦士ガンダム』は、冒頭で述べたようにアンチ長浜的作品ととらえられることが多いのだが、その実はさらに長浜監督の方法論をベースにして深化させた要素が導入されているのだ。敵を宇宙人でもマッドサイエンティストでもなく、スペースコロニーという新しい社会に属する同じ人間。考え方の差異が戦争状況を生んでいること。そして美形キャラをコアにしたシャアというキャラクターを導入したことだ。シャアを美形キャラとするには異論があるかもしれないが、もし『ガンダム』が「リアリティあふれる戦争もの」を主眼においた作品なら、なぜジオン建国者の息子で妹と生き別れ、などといった大時代的な美形キャラ的設定がされているのだろうか?
 今でこそガンプラブームの結果として、ガンダムの魅力はモビルスーツやリアルな世界観だということになっているが、もしシャアが美形キャラ的でなければ、興味をつなぐ視聴者も半減し、そのガンプラブームそのものがなかったかもしれない。
 『ガンダム』放映時、長浜監督は最後のロボットものになる『未来ロボ ダルタニアス』を手がけていた。『ダイモス』は、高年齢層向けにエスカレートしすぎたらしく、キー局変更にともなって低年齢層向けへの回帰が行われている。第二次大戦直後の闇市を連想させる征服後の日本で明るく生きる主人公は、長浜監督のもう一つのキャラクターの持ち味をよく出していた。『侍ジャイアンツ』の蛮場番のように、『ど根性ガエル』のヒロシのように、スイカのような口を大きく開け広げるのが似合う、明るくて悩みの少ない野生児だ。長浜監督というと、真剣に眉を吊り上げて絶叫するキャラと思い込んでしまいがちだが、こういう天衣無縫のキャラクターが、何ものにも縛られず大暴れする作品も得意中の得意なのである。
 『ダルタニアス』の仮面の敵キャラ・クロッペン将軍。声は市川治でありながら、もはや美形キャラではなかった。王位継承権というお家騒動の時代劇的味つけ、人間でありながら影武者とさげすまれるクローン、という長浜作品ならではの設定がされていたが、長浜監督は『ベルサイユのばら』を古巣の東京ムービー新社で演出するため途中降板している。クローン話の展開は、佐々木勝利監督になっても長浜の基本設定が生かされ見ごたえ充分だったが、あまり知られておらず評価もされていないのは残念だ。
  『ベルばら』という、大時代的で舞台的で芝居がかっていて、まるで長浜がアニメ版を監督するためにあったような作品も、途中で降板劇があり、出崎統に総監督の座を譲る。その後は『ずっこけナイト ドンデラマンチャ』の監修を経て、フランスとの合作アニメ『ユリシーズ31』を監督中、第1話の完成時に病気により惜しまれつつ急逝した。
 アニメが世界中にはばたいている現在、長浜監督が自分のもたらしたものの成果を見届けられないことは、何とも残念でならない。

 以上、かけ足で長浜監督の足跡をたどってきた。予想以上にボリュームが膨らんだものの、その業績の一部に触れただけで、長浜監督の大きさに改めて敬服するほかない。全貌をつかむには、また別の機会が必要だろう。長浜監督の活躍も当時、直接に触れていた立場では常識と思っていたが、いまや知る人ぞ知る、という状況になってしまったようである。
 どんな形でも良いから思いを巡らせて欲しいのだ。
 劣悪な環境と世間からの非難の視線をものともせず、いやそれをバネにして、自分の力を信じ、愛してくれる者のために情熱を傾けて作品を送り続けたひとのいることを。長浜監督もその一人だ。
 本稿が、その再評価の端緒になってもらえれば幸いである。

 [参考文献]「アニメ大好き!」(徳間書店 83年刊)
【初出:動画王Vol.1(キネマ旬報) 1996年】

<長浜忠夫 主要作品年表>

・伊賀の影丸1963年TBS
・オバケのQ太郎1965年東京ムービー
・巨人の星1968年東京ムービー
・珍豪ムチャ兵衛1971年東京ムービー
・オバケのQ太郎1971年東京ムービー
・ど根性ガエル1972年東京ムービー
・侍ジャイアンツ1972年東京ムービー
・勇者ライディーン1975年東北新社
・超電磁ロボ
 コン・バトラーV1976年東映
・超電磁マシーン
 ボルテスV1977年東映
・おれは鉄兵1977年日本アニメーション
・闘将ダイモス1978年東映
・未来ロボ ダルタニアス1979年東映
・ベルサイユのバラ1979年東京ムービー新社
・ずっこけナイト
 ドンデラマンチャ1980年国際映画社
・宇宙伝説ユリシーズ311980年東京ムービー新社
 (日本放映は1988年)

|

« 巨人の星 | トップページ | 大空魔竜ガイキング »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/163124/12534431

この記事へのトラックバック一覧です: 長浜忠夫がもたらしたもの:

« 巨人の星 | トップページ | 大空魔竜ガイキング »