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2006年11月 4日 (土)

おいら宇宙の探鉱夫

題名:「おいら宇宙の探鉱夫」真空に輝くプロの魂(前+後)
<新世紀王道秘伝書 巻之弐拾九、参拾>

■ジュブナイルSFとアニメ

 日本のアニメ活況にいたる歴史とSF文化には、切っても切れない縁がある。六〇年代以降、米ソの宇宙開発競争によって有人宇宙計画が実行された。宇宙時代と言われ、児童の世界でもSF的な色のついたものが隆盛となった。その世代が持ち上がるようにして青年となった七〇年代にSFアニメを支持した。そんな密接な関係にあるのだ。
 文学では児童向けのジャンルを「ジュブナイル」と呼ぶ。ことにSFの世界では、ジュブナイルの傑作はいくつもある。たとえばハインラインの「宇宙の戦士」(スターシップ・トルーパーズ)も、映画と違って原作は分類上ジュブナイルだ。国産SFではNHKの少年ドラマシリーズの原作となった筒井康隆の「時をかける少女」(タイムトラベラー)や眉村卓の「ねらわれた学園」が代表格である。
 なにもかもどん欲に吸収しようという少年期に向け発信された物語には、独特の風格がある。ジュブナイルSFには、科学と未知へのあこがれが純化し、凝縮しているのだ。本連載最後の作品は、そんなジュブナイルでSFな世界に挑戦したアニメ『おいら宇宙の探鉱夫』である。

■未来の宇宙開拓史

 題名は「炭坑」ではなく「探鉱」である。金属鉱脈などの資源を採掘すること。これはプロの宇宙探鉱者たちの物語なのだ。
『おいら宇宙の探坑夫』は、一九九四年から九五年にかけて全二巻で発表された。「スーパー・ハイ・クオリティー」と銘打ってケイエスエスから リリースされたビデオアニメ・シリーズのひとつである。『デビルマン妖鳥死麗濡編』(一九九〇年)の細やかな描写で注目された飯田馬之介が監督で、キャラクターデザインと作画監督は川元利浩。原作者には怪しげな外人名が記されているが、和訳してみればすぐ判るとおりアニメ用のオリジナル・ストーリーである。
……時はハレー彗星がふたたび巡り来る二〇六〇年代の未来。宇宙開発企業プラネット・キャッチャー・コーポレーション(PCC)は、小惑星トータチスを月軌道近くのラグランジェ・ポイントに置き、宇宙港や作業施設を設置して小惑星から鉱物資源を採掘し、地球に送る業務を行っていた。
 宇宙船ラクーンテールは、四年の歳月を費やしたハレー捕獲計画を終え、トータチスに帰還途上であった。南部牛若はトータチス生まれの少年だ。宇宙パイロットにあこがれる牛若は、同期の河原町フキともども検定試験を受けていた。フキが無事合格し、いよいよ牛若の出番だ。
 牛若の宇宙艇は、作業員の母由美子に見送られながら発進し、父・南部光三郎が乗るラクーンテールをかすめて課題消化に向かった。規定どおりチップを交換し、帰途についたとき、牛若の故郷トータチスでは大事故が発生していた。偶然接近してきた古い軍事衛星が彗星の影響で暴走、トータチスにミサイルを射出したのである。
 第1話「118,000ミリセコンドの悪夢」は、この軍事衛星が誤動作するときの時間、約2分のことを指している。ミサイルを受けたトータチスは大破し、周囲は大混乱となった。

■過酷な真空の環境

「おいら宇宙のパイロット」は東宝の特撮映画『妖星ゴラス』(一九六二年)の劇中挿入歌だ。地球はせまくなったが、宇宙はまだまだ広い。そんな宇宙開拓への前向きな夢とあこがれを織り込んだコーラス曲である。
 その歌の題にちなんだ本作品もまた そんな新天地・宇宙へのあこがれが息づいている。ただし、宇宙は真空の世界。ひとを拒み、傷つけ、少しの油断が死に直結する非情さにあふれている。
 本作品でまず話題になるのが、緻密な画面づくりである。ことに、ものの配置や動き、ふるまいが科学的にしっかりと考えられている。だからこそ宇宙空間に臨場感を感じる。特に優れているのが、光の描写と、無重力空間における慣性の描き方である。
 光に関しては、宇宙では光源(太陽またはライト)が一定で空気による拡散がないため、ハイコントラスト気味となる。場所によっては影が長くなったりもする。太陽の直射があたっている場所に出たときの主観的な反射のまぶしさ加減も、場面によってはしっかりと描かれているのだ。
 無重力に関しては、物理法則が徹底して貫かれている。いったん動き始めたものはその方向へ動き続ける。方向を変えたりするのはバーニアを噴射したときか、物体に別の力が加わったときである。
 宇宙ものを標榜していても、こういった基礎的な点をしっかりと意図的に描いている作品はなかなか少ない。かといって、この作品がくそリアリズムに徹しているかというと、そういうわけでもない。
 牛若やフキたち少年少女のキャラクターは実に漫画映画風である。表情の変化、リアクションなどリアルな芝居をやりつつ、顔面を崩したりするアニメ的飛躍、気持ち良さも兼ね備えている。このバランスが実に好感の持てる部分なのである。

■プロたちの生きる世界

 この作品に登場するトータチスのひとびとは、プロフェッショナルばかりである。リアルに描かれた宇宙空間。そこで鉱物資源を相手に生き抜いてきた歴史の中には、さまざまな事件があったと想像される。事実、オープニングでも隕石事故とおぼしき静止画が挿入されている。
 ミサイル事故が起きたとき、ラクーンテールは入港途中であった。爆発によって、急に相対位置が変化したため、ドックであやうく衝突事故が発生しそうになる。だが、光三郎船長はとっさの判断で危険を省みずに全力噴射を行い、回避に成功する。さらに発進動作を行い、進路を妨害するさまざまな物体を絶妙な操作ですり抜けて、緊急救助活動の提案すら行うのだった。トータチス側も、指揮をとる金部長、野田教官以下、パニックになることなく冷静に対応を行う。
 こういった描写を通じて伝わってくるのは、彼らが長い宇宙生活の結果として鍛え上げられた鋼鉄のプロ魂を持っているということだ。
 一瞬でも判断を誤ると確実に死につながる過酷な環境。それは、自分の死かもしれないし、かけがえのない仲間の死かもしれない。一挙手一投足に、生命に対する責任があるのだ。そして、そこまでして行動するだけの価値がある、という自負に満ちてあふれている。実に立派ではないか。
 その立派さ、輝かしいプロ意識を際だたせるものとして、宇宙のリアルな環境描写が正しく機能しているからこそ感動するのである。
 しかし、ただ単に宇宙開拓偉人伝のようなものであれば、この作品にアニメ的な魅力を感じることもなくなってしまうだろう。なぜこのように立派なひとびとが描かれているのか。アニメ的感動があるのか。それは主人公、牛若の少年らしい行動に関係がある。
 トータチスの事故により、帰還途中だった牛若の作業艇も大きな影響を受けた。機体は損傷し、推進剤の大半は失われてしまった。
 当然、検定中止となりかけるが、逆に大事故発生であれば再検定と合格のチャンスは二度とないかもしれないと、牛若はわざと連絡が取れないようにして、トータチスへ独力での帰還を決意した。少年らしい判断だった。

■宇宙生まれの少年が見るものは…

 牛若は、唯一トータチスで生まれて育った少年である。幼いころから宇宙環境になじんできたし、そこでプロとして生活している父母や同僚の背中を見て育ってきた。当然、その考え方にも影響を受けている。だから、事故を否定的に、被害者的に考えないわけである。
 だが、もっと大事なことがある。恐らく牛若はプロとして立派な大人たちの中にあって、子供あつかい、マスコットあつかいされても来たのではないだろうか。試験に合格して、大人たちと対等なパイロットになれる、というのは彼にとっては全存在をかけたステージアップ、大人への仲間入りのチャンスなのである。
 大人たちを目標に、追いつこうとする。表面的には技量も判断力もある少年。それなのに、追い求めれば求めるほどに、少年らしさが浮き彫りとなる。あこがれと未熟さ、その相克……そして成長という構図は、作品世界全体のカナメとなっている部分である。この作品を正しいジュブナイルとしてとらえたくなる最大の要件でもある。
 推進剤は一回加速できる分しか残っていない。だが、トータチスの位置は目視とコンピュータで食い違いを見せている。
 帰還のための決断のときがきた。牛若はコンピュータのデータを信じて最後の加速をする牛若。だが、トータチスは爆発によって軌道が変わり、地球衝突へのコースを進みはじめていたのだ。
 ランデヴーポイントに達した牛若は、驚愕の事実を、そして決定的な誤判断を知った。
 「トータチスが、無いっ!」
 はたして牛若の取る行動はどうなっていくのだろうか(以下次号)。

■人力による苦難突破

 第2話「デストロイ&エクソダス」は、トータチスの奥深くで作動する謎の機械装置のカウントダウンで幕を開ける。コンピュータ計測を信じこんで帰還した牛若は、トータチスが移動してしまったことを知って、じたんだを踏んでいた。コンピュータはコンピュータに過ぎない。すでに推進剤を失った作業艇にあたる破片を見て、牛若は何かを期した。
 トータチス側でもコンピュータが停止。人力で燃料タンクを放出するという事態にまでいたっていた。牛若の母、由美子が燃料タンクを押し出すシーンに注目だ。野田とフキの協力を得て三人がかりで足をつかってけり出すのである。慣性があるため、最初はびくともしない。「こんなの出産に比べれば!」と力む母の言葉と同時に、タンクはやっと動き出す。その様子を見て、フキは「子どもか……」とふと感慨にふける。
 燃料タンクも動力が停止すればただの物体と化す物理法則と宇宙空間の非情さ……それをくつがえすのが、母親ならではの生命力あふれるパワーというところが、世界観をよく現している。加えてフキ、つまり「未来の母」の視線によって出来事が相対化され、つながりを見せるという、重層的な表現がワンダー感あふれて嬉しい。

■生身で飛び出す真空の宇宙

 周辺宙域に漂う様々な残骸に対し、アームを使って作用反作用の法則を利用し、トータチスにじりじりと肉迫する牛若。この方法では作業艇の損耗が激しく、減速もできない。
 牛若は決意した。手元には気密を確保するためのヘルメットすらないため、大きく息を吸って、作業艇を捨て素肌のまま真空の宇宙へと飛び出したのだ。一見無謀に見えるこの行動の結果もまた実にSFしている。真空で無重力という宇宙空間の特性をよく活かしたサスペンスに息が詰まりそうだ。飛び出した牛若の腕に一瞬シートベルトがからみつき、失敗すれば即、死につながる世界であることを想起させ、どきっとする。牛若は作業艇に立ち、力強く蹴ってトータチスに向かった。バランスを崩した宇宙艇は小惑星の地表に激突大破し、この決断がギリギリのものと示す。
 太陽の直射が強く牛若の顔に照りつける。牛若は一瞬気が遠くなりかけ、耳から吹き出た血が球体となってはじけ飛ぶ。通りかかった漂流物をキックし、やっとのことでエアロックにたどりつけば、また新たな試練が待っていた。自動装置が故障していたのだ。外部から緊急用のクランクを出し、手動で回転させることで必死にロックを開ける牛若。
 ここは空気のない宇宙を強調してサイレント映画にも似たコミカルな動きで描かれている。生身で真空の宇宙へ人間が出られるかは、昔から議論の分かれるところだ。有名な回答は、SF作家A・C・クラークによるもので、「短時間ならなんとか大丈夫」というもの。事故により生身で宇宙に飛び出す内容のSF短編小説があり、映画『2001年宇宙の旅』でもボウマン船長がスペースポッドからディスカバリー号に戻るときに類似の描写がある。『探鉱夫』は、それに準拠しているのだ。

■子どもと大人の間に…

 この後も牛若の受難と、それをものともしない威勢のよい行動は続く。空気のあるトータチス内部も大混乱となっており、そこで大王道パターンの「鉄骨綱渡りサーカス」を行う。アメリカ製アニメ『ポパイ』で建設中のビルに赤ちゃんが紛れ込んで危うくなると次の鉄骨が……という、アレにヒントを得たようなシチュエーションだ。牛若は『カリオストロの城』ルパン三世の小道具のようなワイヤーを使い、コナン走りをして、まるで70年代の宮崎アニメの主人公のごとき威勢の良い急ぎっぷりを見せてくれる。その最中に、牛若は第2話冒頭の謎のメカに遭遇するのである。ほとんど気にもとめずに……。
 『探鉱夫』の世界はシビアだ。結局、ここまでがんばっても牛若の努力は報われない。メインコンピュータのシステムダウンによって、検定結果が消失してしまったのだ。
 本来、牛若は自らに誇りをもって良い。時間ギリギリとなったのは、牛若が浮遊している作業員でまだ息があった怪我人を発見、医療ブロックへ搬入するのに回り道をしたからなのだ。もし見捨てていれば、検定は合格でもこの先宇宙で働いていく本当の資格を失っていたかもしれない。
 宇宙に出たとき太陽に焼け、半身が火膨れとなった牛若の凄惨な顔。その姿で母やフキに対面したとき、牛若は腹を立てる。恐らくは自分自身にだ。検定に合格しなかったのは動かぬ事実だ。この異常事態では再検定のチャンスもないだろう。こう考えた彼は、毛布をかぶってフテ寝をしてしまう。
「絶対、言い訳なんかするもんか!」牛若の少年らしい叫びが胸を打つ。この感情の動き……これこそが、本作品のジュブナイルたる要である。
 子どもには子どもなりの論理と行動原理がある。大人との境界にさしかかった子どもがいちばん嫌うのは、子ども扱いされることだ。牛若もそうなのだろう。
 彼は立派である。あれだけの困苦を乗り越え、しかも最初はミスしたとはいえ、クリティカルな点では的確な判断をくだして来ている。検定合格に必要とされるスキルという意味では、同期生の何倍もの能力を発揮している。それを主張して甘えようともせず、「結果が出なければ何もない」と厳しい自己判断をする。これは両親を含めた周囲の大人が持つプロ意識の影響なのである。それはトータチスの大人たちが取る幾多の細かい描写、言動を見ていればおのずとわかることだ。その背中を見て育ったからこその価値判断基準なわけだ。それは紛れもなく「プロ」のものなのである。

■未完の大作とゴールの予感

 第2話のBパート(後半)以降は、苦境に立った小惑星トータチスが本社と日本政府から見捨てられたらしいこと、大気圏突入まで迫る時間の中で脱出可能な人数には限界があることが、タイムサスペンスの前提として設定される。
 時間ぎりぎりまで小惑星をもとの軌道に戻すべきだというのが、長老たる安藤係長の発言だった。牛若の発見した異様なメカはいったい何なのか……? 果たしてトータチスのひとびとは生き延びられるのだろうか? 
 このパートをくだくだしく書くことは避けよう。全6巻予定のうちの第2巻で中断した作品である。説明しても、受けるストーリーなり映像が、幻の第3巻以降では意味がない。
 本パートにも見るべきところは多数ある。トータチスの責任者たる金部長は弱者から脱出させようと腐心する。その中には子どもの牛若も含まれ、反発を招いてしまった。だが、愛嬢を喪った後悔がそれを言わせているという金の真意が、墓参りの場面で判明し、牛若にもその想いは伝わる。なぜ娘が死んだかにも裏がある。宇宙空間で骨の老化を防ぐカルシウム錠剤に薬害、すなわち人為的なミスがあり、大勢の子どもが死亡するという事件があったのだ。
 牛若自身にも、別の立場があるとわかる。12歳の彼が、「トータチス生まれの最後の生き残り」であり、「会社が宇宙で生まれた子どものデータを欲しがった」ために特別に残された子どもで、ゆえに一部では「われらがモルモットくん」と扱われてもいることが、セリフの断片に埋め込まれているからだ。
 これらの入り組んだ事情を背景とした上で、牛若の背伸びしたい気持ちと行動、その天真爛漫たる振るまいがあるということが、この未完のフィルムからしっかりと伝わってくる。だからこそ、彼の行動と感情の起伏にも納得と共感を抱くことができるのだ。
 プロにあこがれ、プロ並みの判断と行動があるからといって、牛若を一人前の大人扱いはできないギャップが作品の底に流れている。微妙なバランスが、ジュブナイルSF『探鉱夫』の持ち味となっている。
 このギャップを牛若が認識し、克己するときが、作品の本来のゴールとして設定されていた地点なのだろう。そのプロセスは、ここまでの展開から、決して甘いものではないと容易に予想できる。あらゆる「乳離れ」が苦いものと引き替えにしているように。
 この作品の打ち切り後、アニメ雑誌やネットで、再開のラブコールが持ち上がっては消えていった。ビデオアニメの世界には、長い年月を経て作品の続きが出た事例もある。DVDで、復活のチャンスもあるだろう。私も自分にできることをしていきたい。直接の続編でなくとも良いではないか。精神さえ受け継がれれば。
 未完の作品を評価するのはどうか、という意見もある。だが、どんな作品だって最初は未完だ。自分が良いと思っていることを価値観として発信するのに、中途かどうかは関係ない。
 可能性はいつも未来に向かって開かれている。その可能性は、天から降ってわいてくるものではなく、過去を正しく吟味し、位置づけ、高い視線で未来を見つめなおすことでしか勝ち取れないものなのだ。過去、現在、未来は、バラバラの点ではなく、このようにひとつのベクトルで貫かれるべきものなのだ。
 現在できること、未来につながることはいくらでもある。それは絶望的なまでに人間の生存を否定する宇宙に誇りをもって生き抜くひとびとの姿からも学べることだ。
 これが、連載最後に未完の作品『おいら宇宙の探鉱夫』を選んだ理由なのである。

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Epiloge 果てしなき王道への挑戦

 王道はどのようにして切り拓かれるか。
 道は最初から「勝手にそこにあった」わけではなく、だれかが「ここを通ろう」と思い、万人に道と認められて、大勢が通った結果として「道になる」のである。
 アニメ作品の評価は、物理的な「道」ほどにはわかりやすくないだろう。手法だって確立していない。かといって、「また良い道ができないかな」とただ期待するのも、得策でない。ならば、できることとはいったい何なのだろうか。
 もし良い道だと思うのなら、通り続けることだ。そして、「何が良い道なのか」「どうして良い道だと思うのか」を万人が通れるように、コンセンサスに至れるように、言葉を探して、話を続けることが、通行人たる観客が個人の資格でつくせるベストなのである。それはだれにだってできることだ。
 この連載では「アニメはいかように観ても構わない」ということを提示するよう心がけた。一般的に「評論」という言葉が連想させる冷徹なる公平さは、あえて無視して、どれだけ自分の感覚、感動の原点に正直になれるかを目指した。
 それが楽しませてもらった観客としての精一杯の開拓行為だと信じて行動した。
 みんなも、もう一度、大きな声をあげてみないか。
 このインターネット時代、媒体はいくらでもある。
 もちろん、語るだけで不満があるなら、意を決して「自分の道はこれだ!」とアニメをつくる側に回ったって良いではないか。
 アニメのクリエイターたちだって、最初はみんな観客側にいたのだ。仕事についたときは、全員が新人だったのだ。
 才能がない? 
 よく考えて欲しい。才能とは何かをがむしゃらに行動する中でこそ発揮され、見いだされて形になったものしかないではないか。
 アニメの王道も、これから拓かれるものなのだ。まず行動ありき。「王道」にいたる究極の感動も、この開拓精神の果てに、結果として見つかるはずだ。私は確信する。
 新世紀に向けて、挑戦は続く。
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《以下はコラム》

●フキちゃん My Love

 本作品のヒロインは河原町フキ。古風な名前の似合う女の子だ。特徴あるヘアバンドを見て「あ! 空飛ぶゆうれい船だ」と思ったひとは、お友だちになりましょう。牛若から見ると、同期生のライバルでありお姉さんでもあるという、ビデオアニメでは珍しい役どころだ。合格したうれしさに思わず牛若に抱きつく屈託のなさが良い。白く枯れた地球の風景から宇宙を見上げる意味深なオープニングにも登場している。どんなあこがれを抱いてトータチスに来たのだろうか……。

●コクピット描写アラカルト

 本作品のSF的描写は細部のメカにいたるまで行き渡っている。キャラクターの川元利浩とメカの今掛勇という組み合わせは『カウボーイビバップ』の先駆けでもある。ここでは牛若が検定試験に使用する宇宙艇がらみの写真、特にコクピット関係を集めてみた。下部方向に開閉するハッチや、平面パネルに現れる内部図解は、実に「男の子ゴコロ」をくすぐるものだ。通信を自ら途絶させるための光コネクタの位置などもそれらしい。課題はバーチャル・リアリティ用ヘルメットを着装してマニュピレーターでLSIチップを交換するというもの。プリント板は実装密度があまりに低いし、交換するチップはDIPの汎用ロジックICで、障害が内部ではなく外部パッケージのクラックだったので、もとハード技術屋の筆者にとっては少々気になってしまった。

《DATA》

1994年11月11日発売、1995年1月27日発売(第2巻)

■STAFF
原作/フォースマン・ランチフィールド 企画/浅利義美・浅賀孝郎 脚本/早坂律子・飯田つとむ メカニックデザイン/今掛 勇・ムーチョス・メカヒノス メカニックデザイン協力/ゴンゾ メカニック作画監督/津野田勝敏 美術監督/谷口淳一 撮影監督/森下成一 録音演出/若林和弘 音楽/川井憲次 キャラクターデザイン・作画監督/川元利浩 監督/飯田馬之介 アニメーション制作/トライアングルスタッフ 製作/ケイエスエス

■CAST
河原町フキ&タコロー(日高のり子) 南部牛若(山口勝平) 南部光三郎(大塚明夫) 南部由美子(一城みゆ) 金部長(辻村真人) 安藤(京田尚子) 新川(上田祐司) 野田教官(土師孝也)

【初出:月刊アニメージュ(徳間書店)2000年9月号、10月号】

※初出時点ですでに永らく入手難状態の「幻の作品」でしたが、ようやく!!DVDで再リリースが決まりました。

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