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2006年11月 7日 (火)

千年女優(パンフレット)

寄稿題名:人が走馬灯に見いだすもの

 映画を観る上での至上の快感とは、いったい何だろうか?
 私にとってそれは、「やられた!」とうまくだまされていたことに気づく瞬間だ。その仕掛けが単純な種明かしではなく、テーマ性のある言葉やイメージが積み重なってきて、頭の中で一瞬にして「そういうことか!」とまとまる場合が一番気持ちいい。それが、映画的エクスタシーではないかと思う。
 今敏監督の前作『パーフェクトブルー』はクライマックスに入る瞬間、この至上の快感を与えてくれたアニメ映画であった。そこには伏線が整合する快感と、「アイドルとはどんな存在か?」「アニメにおける虚実の役割」等、論文にした方が良いような問題提起が同居していた。それは「なぜこのような事件が起き得るのか」というドラマの動機ともピタリとはまり、加えて現代という時代の空気ともリンクした重層的な気持ちよさをともなっていた。その後展開される追っかけは、アニメならではの二重性を自覚的に行使して奔放に描かれ、戦慄した。なぜこの映画に対して「実写で撮った方が良い」という評が出たのか、私にはまったく理解できない。アニメがアニメらしさを利用したからこそ可能になった表現であり、そこに新しい可能性が見えたのだから……。
 この前作をふまえてつくられた本作『千年女優』は、このようなアニメらしさと「だまし」の快感を突きつめた映画である。それをひとことで言うならば、“走馬灯の映画”ではないかと思った。
 走馬灯は回り灯籠とも呼ばれ、中心にろうそくを置いて上昇気流の力で切り抜き絵のある内枠を回転させ、灯籠の外側に映り込む影絵の動きを楽しむものである。本作の主人公・藤原千代子が演じる様々な女性像のオンパレードは、その走馬灯の走り行く幻影のようにも見える。その中から、人ひとりの生き様というとてつもなく大きなものが浮き彫りになってくるところが、まず面白いと感じた。
 たった一度出会っただけの“鍵の君”に向かうひたむきな気持ち。それは、千代子の心の炎が立ち上らせた上昇気流のようなものだ。熱い空気の流れは、千代子の演じる役を回転させ、こめられた熱気は映画のスクリーンから放たれて、観客の心を震わせ共感させる。決して成就することがないからこそ持ち続けられる想いの熱。作中のインタビューアーも、現実の観客も、この「語り口」に思わず引き込まれ、千代子の心の奥深くへと入っていき、かいま見える情熱のゆらめきに、いつしか心を動かされていく。
 なぜ人は、走馬灯の影絵にひかれるのか。それは影絵自体に意味があるのではなく、生命のない影の動きに自分の生を重ね、そこに何か大事な意味を見いだせるからである。人間が死ぬ直前、一生の主要な出来事が“走馬灯のように”駆けめぐるというが、この言い方もそれを前提にしている。こういったことを「錯覚」と言い切って、だまされることを嫌うのは簡単だ。だが、人が生きる上で意味があるのは、本当に発生している事実ではなく、それをどう受け止め体験したか、感覚の方である。それには虚構も現実も関係ない。むしろ虚実の境界で渾然一体となった領域にこそ、人生の真実が見えることが多い。つまり「うまくだまされること」の方が理詰めで考えぬくよりも気持ちが良いし、ゴールが近いかもしれないのである。
 この映画では、虚構と現実がどんどん混ざり合っていく。事実ベースでは、千代子の身の上話はただ記憶が曖昧になった老人語りに過ぎない。だが、映像に展開された話の中身や雰囲気、こもった熱は実に若々しく、まさに千代子が若返ってもう一度体感しているかのように活写されている。つまり老若という年齢差の混濁が発端として置かれているのだ。続いて聞き手の客観と語り手の主観、その垣根も壊れたことが、ギャグ混じりで宣言される。こうしてだまされまいとガードの堅い観客の心理的なバリアーも突破され、千代子の名前が象徴する“千年を超える恋の想い”のエモーションの急流に巻き込まれていく。
 この映画的な“巻き込み”のための映像には、戦中・戦後から高度成長時代にかけて娯楽の王座にあった日本映画の“記憶”が重ねられている。映画を使って映画を語る、いわゆるメタな感覚が主題に整合して、そこが次なる「だまし」の面白さだ。本格的時代劇から忍者映画、怪獣映画と半世紀にわたる映画の歴史的面白さが、千代子の現実の恋の記憶と混交状態になって流れていく。パッチワークのように現実の出来事がスペクタクルにインサートされ、映画と現実を往還することは、一見連続性を疎外するようにも思えるが、逆にこの飛躍がモンタージュの妙味となって、映画的な味に昇華している。重層的な映像の奔流に散漫さを感じず飽きないのは、それが千代子の“鍵の君”への尽きぬ想いで一本に貫かれており、整列されているからだろう。
 では、この映画は一途な女性の想いの熱さを、かつてあった映画の黄金期に重ねて賛美的に描いた作品かというと、それだけではない。随所には明白なる破壊と死の臭いが対置され、これが映画に絶妙な味を加えているからだ。具体的には、地震や戦争、“鍵の君”を狙う“傷の男”といった存在である。そのネガティブさの最たるものは、冒頭の撮影所の取り壊しで、これは“映画の死”を暗示している。恋、情熱、生、未来といったポジティブなものを妨げ、隔てる負のイメージがあるからこそ、千代子のひたむきさがいっそう輝くという構図は、人生の総括を連想させて、やはり光と影で構成される走馬灯と本質的な同一性を想起させる。
 虚実、主客、生死の同質化と異化効果、そこから垣間見える人生の真実への訴求が、映画『千年女優』の特質であり、ユニークな点だということは、誰もが認めることであろう。しかし、もっと大事で優先してこだわりたいことは、こういった表現がアニメだからこそ可能になったということで、アニメの本質ともリンクしていることである。
 アニメとは、もともと1枚1枚静止して生命を持ち得ない「死んだ」絵を人の手で描いて「生きている」と「錯覚」させる芸術である。つまり「だましの快感」こそがアニメの本質なのである。生死が表裏一体の出自を持ち、だましを良しとする表現であるからこそ、矛盾する要素を同じ俎上に乗せることも可能になる。この矛盾の間を貫く「トンネル効果」的なところに、何か大きな実感を練り込むことが可能になる──それがアニメの面白さの在処で、可能性であると信じている。
 これはまさに『千年女優』の持ち味と一致しており、だからこそ本作はアニメらしい感覚にあふれて魅力的な、走馬灯のような映画と言えるのである。
 このように述べてくると、堅苦しい分析に基づいて観るべき映画ではないかとも思われてしまいそうだが、本当のところ、この映画の一番すごいところは、こんなややこしいことを、お茶目で元気で情熱的な女性の活躍に集約させ、エンターテインメントとして仕上げたことである。アニメの世界ではかなりの高齢ヒロイン(70代)藤原千代子のチャーミングさに惚れて、うっとりすること。これ、われわれにとっては長生きの秘薬とも言える、アニメのエッセンスなのである。

【初出:映画『千年女優』劇場用パンフレット 2002年8月脱稿】

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