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2006年11月 8日 (水)

劇場版『∀ガンダム』

寄稿題名:富野由悠季監督と『∀(ターンエー)ガンダム』

◆前代未聞のサイマル・ロードショー

 今回は2002年2月9日から劇場公開が予定されている『∀ガンダム I地球光/II月光蝶』と総監督の富野由悠季作品について述べよう。
『∀ガンダム』は1999年4月から1年間にわたって放映された全49話(総集編1話含む)の連続TVアニメーションである。今回の劇場映画は、TVシリーズの総集編をベースに2本の映画として再構築したもので、「サイマル・ロードショー」という公開方式が取られている。各2時間強2本だて公開にすると4時間半近くとなるため、日替わりで前編・後編を上映するという形式となったわけである。週2回出かけるのには一瞬ためらいが生じるが、完成した作品を見ると、この公開方式は意外に映画の作風にも合っているのではないかと思った。
 前編「地球光」は地球を舞台にした部分を中心にディアナとキエル、二人の入れ替わりを中心描いた優しい作風である。一方、後編「月光蝶」は主人公たちが月に出かけ地球へ戻る中で、主役メカ∀ガンダムと宿敵ターンXの激烈な戦闘が何ラウンドも行われ、ややハードな展開をとり、ラストシーンでまた優しい世界へ収斂していく構成をとっている。
 その好対照がセットになることで、全体がふくらんでいき、『∀ガンダム』の世界を非常に大きなものとして見せてくれる。だから、一気に4時間半通して観るよりは、前編で出来たイメージを見終わって1日か1週間か、頭の中でゆっくりと反芻した方が、その対照感がより心地よくなるのではないか、と感じたのである。
 それは『ガンダム』という題名がついてはいても、この作品が新しく優しいところに触ろうとした作品であるのと無関係ではない。

◆民話コンセプトを中心においたガンダム

 映画の前編「地球光」の冒頭、物語は衛星軌道から地球に向かうモビルスーツと、その中の三人の少年少女から始まる。彼らは月に住むムーンレィスで、地球降下作戦に先立って環境適応テストのために選ばれたのである。その一人、主人公ロランは鉱山主のハイム家に住み込み、運転手として働くことになった。そこアメリア大陸のイングレッサは、一見して産業革命時代に見える活気を秘めたオールド・ファッションなところであった。
 やがて2年が過ぎてロランが地元の成人式「宵越しの祭り」に参加して、いよいよ地域社会の一員となろうとした夜、月の軍隊ディアナ・カウンターが攻め入り、戦争が勃発してしまう。そして成人式のための神像ホワイトドールの中からは白いモビルスーツが出現して攻撃に自動的に反撃してしまった。
 ロランはこのモビルスーツ「∀ガンダム」の正式名称も知らないままパイロットとなり、月と地球の間にたって戦うことになる。
 この畳みかけるような展開の中で世界の成り立ちが手際よく紹介される。そして、月の女王ディアナが登場することで画面は引き締まり、一気に核心へと迫っていく。ディアナとハイム家の長女キエル、二人の外見がそっくりだったことから、ほんのいたずら心で入れ替わってしまうのである。だが、そのことが争いを繰り返す地球と月のそれぞれの立場の理解を深めていくことにつながっていく──。
 この導入で示されるように、主要人物の入れ替わりや月の女王の物語は日本では「とりかえばや物語」「かぐや姫」をはじめとする世界中のベーシックな民話的な要素が原案である。それが、ハイテク最先端を連想させるガンダムと一体となったところが、まず面白い。
 ここで重要なのは、名作とロボットアニメの合体した物語の組み立て方に、SF的な相対感覚の匂いがあることである。

◆富野監督の作品歴

 それをよく知るために、富野由悠季監督の作品歴に関して少し説明が必要だろう。
 富野監督は今でこそロボットアニメの第一人者のように言われているが、本来はもっと幅広く引き出しが多く、多彩なジャンルに対応可能な演出家である。それは、フリー演出家としてアニメ製作プロダクション各社で無数の作品に絵コンテを提供し、各話を演出した時期の仕込みがあるからだ。
 仮に「プロジェクトX」のような番組で『機動戦士ガンダム』の最初のTVシリーズ(1979年)のメイキングを作ったとすると、「そのとき富野はガンダムに全力投球した」などと言われてしまいそうだが、実際は掛け持ちをしていた。
 その作品とは高畑勲監督、宮崎駿場面設定(15話まで)の名作劇場『赤毛のアン』(日本アニメ)で、「とみの喜幸」名義で絵コンテを5本提供している。同時にガンダム・スタッフの大河原邦男、中村光毅もガンダムと掛け持ちをしていた『科学忍者隊ガッチャマンII』(竜の子プロの)でも1本だけ絵コンテを担当している。
 富野監督は出身から「虫プロ系」と分類されることが多いが、個人的には「富野アニメ」には、「竜の子+日本アニメ」の感触を強く感じる。竜の子プロ作品『科学忍者隊ガッチャマン』『新造人間キャシャーン』のような善悪を越えたSF的相対感覚と大胆な科学設定やネーミング、日本アニメ「名作劇場」シリーズの日常感覚に近しい人間模様の中から大きくドラマを生み出す作劇、これらが合わさって『ガンダム』に導入され、大衆に受け入れられた要因になったと考えるのである。

◆ガンダム世界の埋葬と全肯定

 ガンダムシリーズは、やがて作品自体を離れて、戦記もののテイストとモビルスーツのメカ感覚が突出して一人歩きを始めた。それがプラモデルの商品展開と結びついて作品を長寿命化に貢献する一方で、モビルスーツ設定や宇宙世紀年表を狭く深く掘り下げる、いわゆる蛸壺化的傾向も発生した。
 ワン・ジェネレーション20年という長い時間が経過して、もう一度富野監督に「ガンダム」が戻ってきたとき、富野監督はガンダムの原作者でもあるから、素知らぬ顔をして過去のシリーズを「無かったこと」にして新シリーズを立ち上げることもできたはずだ。
 しかし、その方法論を採れば、過去を「否定」することになってしまう。それはいかに原作者とはいえエゴの発動に他ならず、同時に新しいものをつくると言いながら過去に呪縛を受けたものとなってしまう危険性すらあったのではないか。
 そこで富野監督は、過去のすべてを「肯定」する道を採択した。アルファベットの原点「A」の上下をひっくり返した数学記号の「∀」をコードに採用し、「ターンエー」と読ませた上で過去の全ガンダムを埋葬しつつも肯定するという、大胆な方法論を編み出した。この辺がやはりただ者ではない部分を感じさせる。

◆ターンエー世界構築方法のSF性

 設定的には、地球規模で埋葬されたガンダムの遺産は「黒歴史」と呼ばれている。そして、一見して1900年代初頭に見えながらも実はそこは遠未来の世界であり、忌まわしいハイテクの産物はすべて月光蝶(大量のナノマシン)によって埋葬された。本当の超ハイテクである電気文明や発電芝、水素によるクリーンエネルギーは人びとは自然のものとして不思議に思わず日常で使いこんでいる。
 モビルスーツは発掘品として出土するが、登場人物たちはその本当の出自を知らないままだ。たとえば水中用モビルスーツであるにも関わらず、その性能とは無頓着に使いこなしている。
 そういったことの積み重ねが、「ガンダム世界」でありながらハイテク兵器を中心におかず、優しいふくよかな作風とすることにつながっている。そして、緑なす森や小麦やレンガの似合う、大らかにも感じられる拡がりのある世界と人間性の豊かさに、富野監督の名作劇場における経験が、大きく活かされている。
 この非常にねじれた世界そのものも充分にSF的であるが、面白いのは発想の方である。原点回帰でもあり、同時に違う形にも回帰したというまさしく「ターンエー」というコードの示す世界構築方法において、大きく視点を飛ばして相対化させるという発想は、それ自身が実にSFっぽいのである。
 この発想方法は、ガンダム世界に閉じただけのものではない。
 いま、誰もがこの時代を行き過ぎたものだと感じ始めている。コンビニエンス・ストアや携帯電話は確かに生活を便利にしたが、一方で人間から余裕や工夫を奪い、リストラの中で情が悲鳴を上げつつある。
 そんな時代だからこそ、『∀ガンダム』の描く世界と人、人と人の関係は魅力的に映るはずだ。同時に「∀的発想」も閉塞の打開になるのではないか。ネガティブに感じられるものでも否定せず肯定し、原点を確認しつつも大きくひっくり返す中から、そこに驚きの感覚を再発見することができる。
 後編「月光蝶」では、激しい戦闘場面の連続の後、ドラマはラスト数分間で物語の中でもすべてが静かに「∀」的に回帰していく。回帰しながらも、その中には別離があり、融和があり、人それぞれの選んだ道とその中でのささやかな幸福が点描され、そして主人公ロランとディアナの行く末が静かに描かれる。その中で、人を支える原点が、ひょっとしたらかいま見えるかもしれない。
 そんなことを考えながら、「∀的発想」に触発されてみるのは悪くない。
 行き過ぎたこの世の中だからこそ発見できる幸福とは、人の基本とは何なのか、大きな視点でターンエーしてみることも、今回の2本の映画で価値の高いことに違いない。

【初出:SFオンライン連載「氷川竜介のSFアニメのツボ 」第8回 脱稿2002.1.25】

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