PLANET OF THE APES/猿の惑星
題名:リ・イマジネーションに沈めた偏愛
ティム・バートン監督と言えば、重要なアニメーション作品を排出した学校カル・アーツの出身で、ディズニーのアニメーターとして出発した人物だ。イマジネーションの力で動きと生命を与えていたバートンが監督となった映画の世界では、やはりこの世のものならぬ異形のものがメインに描かれてきた。世間的に「正しい」とされているものとそうでないものを、どこかねじれた状況に投げ込んで、せめぎあいから生まれる境界のドラマとして語ろうという姿勢が貫かれていた。
そんなバートンに60年代SF映画『猿の惑星』を撮らせる、という発想はあまりにも出来過ぎだ。特殊メイクと自由の女神オチが有名になり過ぎた古典だが、もとは人と人にあらざる猿、その逆転状況の中から人間性の正体をあぶり出すのが本筋だったのだから。
本作には「リメイク」ではなくバートン監督による「リ・イマジネーション」なる造語が用いられている。とらえどころのない言葉だが、映像を見てなるほどと思った。「リメイク」であれば、すでに作られた形のあるものをなぞって作るということになる。そうなると『猿の惑星』は苦しい。現代では陳腐化するものが多くなってしまうだろう。
映画はもともと映像を積み重ねてできあがっていくイメージを楽しむもの。であれば、前作にあった根元的「イメージ」の方を原点としてアレンジすれば良い。監督のテイストがその上につくことで、作品は新しく甦るだろう。これは実に賢い読みである。
引用された具体的イメージは、「高みから水中への落下」「猿の人間狩り」「猿の階級社会」「魂のあるものとないもの」など、かなり重なり合う部分が多い。それでいてバートン監督の意識は、これも引用イメージの「猿女性とのキス」に激しく集中している。まるで日本のアニメキャラのような髪形をしたチンパンジー、アリのフェロモンを発する視線と口元の紅には、なぜかどぎまぎする。60年代SF映画的ブロンドのヒロインを無視してるかのような主人公レオが、この熱視線をどう受け止め対処するか……それが表面的な対立のストーリー展開よりも、数十倍は濃密なハラハラドキドキのエモーションをかきたてていることに気づいた瞬間、「あ、やりやがったな!」と思った。
だから、「ロッド・サーリング先生に捧ぐ」みたいなタイムスリップ仕掛けや、ラストのオチのためのオチに、決してダマされてはいけない。これは、バートンがリ・イマジネーションの過程で、深く沈めた偏愛こそを楽しむ作品なのだから。【初出:キネマ旬報 脱稿: 2001.07.22】
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