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2006年11月28日 (火)

マジンガー the MOVIE

題名:銀幕狭しと暴れるスーパーロボット軍団!

 マジンガーZとゲッターロボ……永井豪と石川賢の生んだ2大ロボットから、巨大ロボットアニメのブームが起きた。そして今日にいたってもキャラクターは「スーパーロボット」という愛称で、ゲームに景品にと再生産され続けている。
 1本目に上映予定されている『真(チェンジ!)ゲッターロボ』も、そんなリメイク作品の一本だ。24年前のアニメ版作品はすこし忘れよう。そのころ、まだスプラッタ・ホラーなどはそれほど流行していなかった。しかし、石川賢のコミック版は血しぶきとバイオレンスに彩られた恐るべき作品だった。そのテイストを軸にして、コミック版のストーリーとも違うまったく新しいゲッターの世界を作ろうとした意欲作だ。ビデオアニメにして1500円という信じられないプライスも話題騒然。現在進行形の新作である。
 2本目以降は、巨大ロボットブームまっさかりに、「東映まんがまつり」で公開されたマジンガーシリーズの劇場アニメ・バージョンである。
 これが連発でイッキ上映されるのは、かなり珍しい試みではないか。ゴジラを擁した東宝の「チャンピオンまつり」と双璧の「東映まんがまつり」。このイベント、学校休みのシーズンにしか見られない、まさに「お祭り」の気分にあふれていた。休み明けはどちらへ行ったか、それで新学期の流れが決まってしまう。東映は一貫して子供向けの作品を映画にテレビにと流してきた歴史がある。その点でも、子供の心をつかむのにノウハウがあったのだ。
 「映画館までわざわざ見に来るのだから、映画でしか見られないものを」
 この一見して当たり前の精神が、劇場マジンガーシリーズには満ちている。
ビデオではダメだ。みんなと興奮が共有できる劇場の銀幕でなくては。
 劇場マジンガー1本目は『マジンガーZ対デビルマン』(73年7月)。当時、人気のうちに放映終了していたデビルマンと当時人気最高潮、現役のマジンガーZが共演する。これでワクワクしない子供はいない。しかも、「空からの攻撃に弱い」Zのサポートメカ、ジェットスクランダーはテレビより早いお披露目だ。デーモン族が復活し、ドクター・ヘルと手を組んだ。その脅威の前に、不動明は、兜甲児はどうするのか。
 2本目『マジンガーZ対暗黒大将軍』(74年7月)も仕掛けが凄い。無敵を誇った超合金Zの全身をボロボロにしながら戦うZと兜甲児の勇姿に涙いっぱいの傑作だ。獣魔将軍のひきいる暗黒ミケーネ帝国7つの戦闘獣軍団。その強さに耐えながら戦うマジンガーZは震えるほどにカッコ良い。そのピンチに現れるのは、すでに放映決定していた続編のグレートマジンガーだ。一足さきに銀幕に登場させてしまったというわけだ。この作品はもうひとつの『マジンガーZ』最終回でもある。
 東映まんがまつりバージョンは、どの作品もテレビとは微妙に異なる設定のパラレルワールドだ。独自の世界を持っている。
 『グレートマジンガー対ゲッターロボ』(75年3月)と『グレートマジンガー対ゲッターロボG・空中大激突』(75年7月)は、謎の宇宙円盤からの侵略に二大ロボットチームが、ちょっぴり反目しながらも協力して戦う2本連続のストーリー。前者の敵が宇宙怪獣ギルギルガンで、後者の敵が結合獣ボング・光波獣ピグドロン。ムサシが死に、早乙女研究所が崩壊して新設されるエピソードも後者では劇場用にわざわざリメイクされている。作画監督に小松原一男を迎え、「空中大激突」では金田伊功と並ぶエフェクトの名手、友永和秀が原画を描いているのもみどころだ。
 「空中大激突」と公開当時は同時上映だったのが、『宇宙円盤大戦争』。泣かせるメロアニメでは日本一の演出家、芹川有吾があますところなくその天分を発揮した作品で、異様に気合の入った濃密な悲恋ドラマが見られる。主人公デューク・フリード(声はささきいさお)の設定など後の『UFOロボ グレンダイザー』のパイロット版的な位置づけの作品だ。主題歌も、カラオケ同一でエンディングや挿入歌に流用されている。主役ロボットは、UFOスペイザーと合体できるロボイザーだ。
 『UFOロボ グレンダイザー対グレートマジンガー』(76年3月)は、ミケーネとの戦いが終わってロボット博物館に展示されていたグレートマジンガーを、ベガ星親衛隊長バレンドスが強奪。グレンダイザーと戦うというストーリー。「ロボット博物館」という設定が誕生したのはこの作品である。この映画では、原画マンの友永和秀によるバレンドスのワイルドな表情、捕らえられた兜甲児が光線をよけて踊るコミカルなアクションが実は楽しい。
 シリーズ最後となったのは、『グレンダイザー ゲッターロボG グレートマジンガー、決戦!大海獣』(76年7月)。ついに三大ロボットが競演。兜甲児はマジンガーZでなくてダブルスペイザーなのは残念。しかし、ボスボロットやビューナスA、ダイアナンAも客演で、非常に豪華である。
 専用主題歌「いざ行け!ロボット軍団」が熱血していて燃える。この歌詞で初めて「スーパーロボット軍団」という言葉が登場し、いまにいたるのではないか。歌詞に全ロボットが日本製であるかのようなバグがあるのはご愛嬌(笑)。
副主題歌ともども菊池俊輔によるロボットアニソンひとつの頂点である。カラオケにぜひ入れて欲しい。
 劇場マジンガーは、すべてシネマスコープサイズだ。今のどことなくケチくさいビスタサイズや、映画サイズをまったく無視した比率のワイドテレビとは比較にならないほど視界が広い。そのサイズのすみずみまで活かしたワイド感あふれる画面構成にこそ注目だ。
 特に壮絶なのは、『Z対デビルマン』冒頭の機械獣との戦闘シーン。『暗黒大将軍』のクライマックス、Zとグレートのコンビネーションバトル。戦いで折れた斧が画面手前につきささる迫力を見よ。雷鳴が大地を切り裂く光景に驚け。いまのロボットアニメが忘れかけているパワフルさがここにはしっかりと記録されている。オリジンならではの魅力である。
 もう一度「お祭り」を楽しみたい世代も、ゲームやガシャポンでしかスーパーロボットを知らない世代も、いっしょになって銀幕に声援を送って欲しい。
それが銀幕に帰ってきたヒーローたちへの何よりのエールになるだろう。
【初出:不詳/1998年ファンタスティック映画祭のオールナイト用原稿だと思います】

※以下のバラとBOXは共通の映画が含まれています。BOXの方が特典ディスクが多いはず。『真ゲッターロボ』は近々再リリースされるようです。

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2006年11月27日 (月)

冥王計画ゼオライマー

題名:究極のロボットアニメ

 『冥王計画(プロジェクト)ゼオライマー』はバブル崩壊の直前、1988年の作品である。テレビでは全盛を誇ったロボットアニメが途絶え、オリジナル・ビデオ・アニメも5年目を迎えて黎明期のクリエイター中心大作主義から、30分の連作へと主流が移っていた。一方、新しく若い才能が活躍の場を与えられ、野心に満ちた作品も現れ始めていた。そんな節目の時代の中で、本作は「究極の巨大ロボットアニメ」として登場した。
 この作品最大の魅力は、巨大ロボットの魅力が作品の中心に根ざしているところである。ロボットアニメにおいては、本来巨大ロボットは添え物ではなく、物語を動かしていく主役キャラクターであるべきだ。一見当たり前のようであるが、これが守られているロボットアニメが何本あるのだろうか。
 元祖『マジンガーZ』では、主役は神にも悪魔にもなれる力を持った巨大ロボット、マジンガーZだった。ストーリーは超合金Zの争奪戦が中心で、その基本ラインに乗せて巨大ロボット同士のバトルをどう展開してくれるかが各話の味つけだった。
 『ゼオライマー』はこのセオリーを遵守し、ロボットアニメとして見せるべきところに映像的工夫を加えてしっかりと見せた上で、現代人が抱える「アイデンティティ」の問題をサスペンスに満ちたドラマ、すなわち「自分自身が敵と味方に分かれて世界を賭けて戦うゲーム」として描いた。このテーマも登場人物と各個の操るロボットの関係性に絡め、八卦ロボ中特異な能力とストーリーの根幹に関わる秘密を持った「天のゼオライマー」の存在を主役にきちんと位置づける周到さである。ロボットアニメは無数にあるが、ここまで突き詰めた作品は少ない。
 では、本作のロボットアニメとしての具体的な見どころについて述べてみよう。
 まず八卦ロボは、実体を感じさせる描写が非常に魅力的である。第1話の登場シーンでは、雷鳴を背景に、腕を組んで中空に浮かび、鉄甲龍要塞の上にただ立っているだけで実に格好良い。シルエットは中国テイストを意識してか、それぞれ「二つ名」の象形文字のラインを感じさせる。ストライプによるアクセントと胸に輝く球形コアは、全ロボットが共通化に持つもので、「同一設計者によるロボット」ということが視覚的に強調され、ドラマとロボットを密接に結びつけていた。
 戦闘に入ると、八卦ロボは実在するもののように大きく、パワフルに感じられる。画面構成(レイアウト)は、人間の目の高さのカメラポジションを意識して、八卦ロボを下から見上げたアオリの構図がほとんどで、圧迫感を覚えるほどだ。照明(ライティング)もほとんどのショットで光源がロボットの足元に設定され、下から上へ照らすような効果となり、顔面は黒ベタで潰されることも多く、巨大感とともに畏怖を感じさせてくれた。
 菊池通隆が絵コンテと作画監督を兼任したACT2では、この効果が多用され、巨大ロボットのバトルシーンに新境地を拓いた。富士山周辺に住む一般市民の生活環境で、ロボット同士の戦闘が始まるパニック状況を、緻密な構図を積み重ね、攻撃と被害を細かく追ったことで、激しい臨場感が発生した。特に、そびえるゼオライマーの足元には霧、手前には植え込み、電柱と電線、見上げる避難民、そしてトラックのバックミラーにも恐怖の一般市民の顔が写り込むショットの重層構造は、歴史に残る名構図である。
 巨大ロボットのギミック(仕掛け)描写も、ロボットのメカニズムらしさを強調し、機械としての魅力を存分に引き出していた。手足のパーツを合体しながら出撃していくゼオライマー、ブライストとガロウィンが一体となって放つ必殺技「トゥインロード」、ローズセラヴィーの巨大ビーム砲「Jカイザー」……巨大メカニズムが豪快に変形し、合体して力を解放する快感と、ドラマの盛り上がりが一体化していく。これもロボットアニメならではの快感である。
 ロボットの流れ弾で多数の死傷者が出る冷徹な描写の中で、登場人物の繰り広げる愛憎劇が、ゼオライマーの必殺技「メイオウ攻撃」によって、すべてが消滅していく。本来カタルシスとなるべき敵へのとどめ、主役メカ最大の見せ場が、妙に切なく虚無を覚えるものとなっている。
 この逆説的な感覚が、この物語ならではの「味」である。それは、本作がロボットアニメとしてやるべきことを十全に行ったからこそ、生まれたものなのである。
 アニメは、ジャンルの細分化とニッチ化、些末主義に陥る指向がある。歴史の中で何度もそういうことが起きた。その中で、基本を踏まえ、見せるべきものは突き抜けるまでしっかりと描き、さらに主張したいことをその上で物語る。そうあって欲しいものだ。
 そんなことを頭の片隅に置き、「究極のロボットアニメ」を存分に楽しんで欲しい。
【「冥王計画 ゼオライマー コンプリート」DVD解説書 脱稿 2001/4/20】

※脚本:會川昇、監督:平野俊弘、キャラクターデザイン:菊池通隆のOVAです。「隠れた傑作」みたいに思っていたら、いつの間にかフィギュアも出る人気作になっていて、ちょっと嬉しいです。「スパロボ効果」だとは思うんですが……。

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鉄人28号(太陽の使者)

ブラックオックス(鉄人28号・新)

<リード>
心を持った黒き巨人
その優しさに言葉はいらない

■最強の敵は最強の友

 横山光輝の『鉄人28号』は都合3回アニメ化された人気作品だ。99年初夏、3作品各2体、計6体がHGガシャポン化された。選定した担当者は実に鋭い。3作品の「鉄人+オックス」を組み合わせて商品化したのだ。
 オックスとはブラックオックスのことだ。頭頂部の両側に巨大な二本の角を有し、全身を黒いカラーリングで包んだ鋼鉄の貴公子。鉄人28号のライバルにして最強タッグを組んだ友である。
 最強の敵が、一度は破れた後に味方になる「昨日の敵は今日の友」パターン。これは、少年ジャンプ系のコミックが80年代に大流行させた。そのロボット版とも言うべきものは、60年代の『鉄人28号』ですでに完成されていたわけだ。
 ブラックオックスの人気は鉄人本体より高い。たとえば『機動警察パトレイバー』に登場し、巨大な角を持った黒いレイバー、グリフォンはデザイン段階ではデザイナーの出渕裕に「オックス」と呼ばれていたそうだ。OVA版『ジャイアントロボ』では、庵野秀明作画によるブラックオックスが、霧に包まれて「ガシャン! ガシャン!」とビル街を歩いていた。これらクリエイターたちの少年時代に、強い印象を残した黒いロボットだったのだ。

■太陽の使者版ブラックオックス

 80年のリメイク版『鉄人28号』は、通称『太陽の使者版』と呼ばれている。1年間の放映の後半は、ブラックオックスがらみの話で盛り上がっていた。
「心を持ったロボット」という切ないテーマは、「いいも悪いもリモコン次第」の鉄人本体とのコントラストを得ていっそう明白になった。ことにオックスの死に様は鮮烈な印象を持ってぐっと迫ってきた。太陽の使者シリーズは、オックスなしには語れないと断言できる。
 初登場は第34話「最大の敵!ブラックオックス」。不乱拳博士はX団のヘンケル司令の力を借りて自分の理想とする「心を持つロボット」を建造していた。たとえ悪人の力を借りようと、心を持っていれば正しいことをすると信じ、不乱拳博士はは未完成なオックスを敷島博士に託して死んでいく……。
 第36話「宿命の対決!鉄人対オックス」では、ヘンケルの弟ガンガルが不乱拳博士に変装してオックスをだまし、鉄人と戦わせる。オックスの強さがここで浮き彫りになる。目からウネウネした凶悪なビームを放射! 戦車も航空機も壊滅的な打撃を受け、出動した鉄人も左腕をもぎとられてしまうのだ。
 この回はスタジオZ5・No.1による華麗なメカ作画が絶好調。山下将仁・越智一裕作画のパワーが炸裂し、オックスの強さをあますところなく描いていた。結局、本物の不乱拳博士が講演するビデオを見てオックスはだまされていたことに自らの判断で気づき、鉄人と再度共同戦線で逆転する。このように、無敵を誇る鋼鉄の身体に、幼くもけなげな魂が宿っているというアンビバレンツな有様が、なんと言ってもオックスの魅力なのだ。

■ブラックオックスの最後

 ロボット博物館に収蔵されたオックスは、鉄人とタッグを組んで何度か戦いに勝利を収める。一方、宇宙魔王とグーラ王子の地球攻撃が本格化、その中でついにオックスとの別れが描かれるときが来た。
 第49話「さらば!ブラックオックス」では、ロビーによって催眠装置がオックスに取り付けられ、電磁光線で要塞都市を攻撃中の鉄人を追いつめていく。鉄人捨て身の攻撃でオックスは正気に戻った。ここでオックスの持つ心が、逆に悲劇を招いてしまう。
 オックスは傷ついた鉄人を横たえると、要塞都市の地下の火山脈を攻撃する。ところがグーラ王子は一枚上手だった。オックスを葬り去るために要塞都市を自爆させてしまったのだ。
 激しい光に包まれるオックス……。
 この先の描写は、涙なしには語れない。爆発だけでもオックスがやられた!というショックがある。だが、もっと視聴者の度肝を抜くような冷酷な映像が展開するのだ。
 空中から回転して飛来する何ものかがある。それがバンッ!と地面につきささると、それはなんとオックスの顔面のパーツだった!
 ロボットが破壊され最後を迎えるシーン数々あれど、インパクトという点では、これほどのものはないだろう。オックスは心があった。だから自分の判断で人間のために捨て身の攻撃をした。結果、鋼鉄の身は破壊され、その顔面自体が墓標となった。
 だが、われわれは知っているのだ。最後のその描写がロボットらしく即物的であればあるだけ、オックスの心がどれだけ高貴に輝いていたか、を。衝撃の映像に対する驚きが、とりもなおさずオックスに対する最大の賞賛なのだ。一瞬の映像で深く刻みつけられた傷は、我らが生命のないものにも共感できる魂をもった証明でもあるのだから。
 私の執筆用パソコンの上には、ブラックオックスのHGガシャポンが並んでいる。体型は腰がくびれていてもっとスマート、顔は彫りが深く、憂いを持っているようでもある。つい感情移入してしまう自分……。
 まさに巨大ロボット史上最大の「2番手」ブラックオックスは、心の有様を見せつけてくれた勇者だったのだ。【初出:ムック「No.2キャラクター伝説―二番手英雄伝」(双葉社) 1999年10月】

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2006年11月26日 (日)

ベルサイユのばら

アンドレ(ベルサイユのばら)

<リード>
光と影……離れられないもの
二人はひとつなのだから

■光と影の演出に愛は映える

 『ベルサイユのばら』はオスカルが主人公である。
……と言い切ってしまうと何か違った感じがしないだろうか。
 そう、この物語は「オスカルとアンドレ」こそが主役なのだから。副主題歌にもあるように、オスカルとアンドレは「光と影」。同じ形をした、二人でひとつの存在だ。
 マリー・アントワネットは物語構造上での2番手キャラと言える。だが、1番手キャラと一体になって支える存在、主役を浮き彫りにするアンドレこそ、真の2番手キャラではないだろうか。
 『ベルばら』は池田理代子のコミックを原作に宝塚でブームとなり、外国人をキャスティングした実写映画と、何度かメディアに進出している。アニメ版は当初約1クールは長浜忠夫監督、それ以後は出崎統監督と途中監督交代というアクシデントがあるなど、放映時は不遇であった。後に再放送によって中高生の間でブームとなり、『ベルばら』は時を越えた古典的コミックとなったのである。
 男装の麗人オスカルは貴族の生まれで王族を警護する近衛隊。アンドレは幼なじみでオスカルを慕ってはいるものの、平民の出である彼とオスカルが結ばれることはあり得ない……はずだった。フランス革命さえなければ。
 オスカルの仕える王妃マリー・アントワネット……その圧制とスキャンダルに対する民衆の不満は爆発寸前だった。オスカルを護りたい一心で、アンドレは近衛隊に志願し、近くにいようとする。オスカルが輝く光ならば、アンドレは影で近くいようとした。
 この決意が、二人のコントラストをいっそ鮮やかにしている。やがて来るクライマックス、二人が結ばれる瞬間を頂点として……。
 出崎統監督になた後半は、画面が一新された。光と影のコントラストがより強調されるようになった。
 外を歩くキャラクターにはまぶしい入射光が。窓は全面透過光に輝き、鳩の群が通り過ぎる。翳りもまたフィルムの上に強く現れる。画面の半分近くを覆う暗い影(パラフィン)。時に大胆に黒ベタに光だけで処理された画面。
 時間は緩急自在に、ときにはスロー、ときには三回繰り返しの引き。そして感極まった瞬間が描き絵(ハーモニー作画)となって画面に定着し、時間を凍結する。
 この演出作法が、オスカルとアンドレを中心とした「光と影」をさらに鮮やかにしていったのである。

■肖像画に見る真実の姿

 第37話「熱き誓いの夜に」は、シリーズ上のクライマックスだ。
 テレビのアニメ特番で「名場面」としてこの回、オスカルとアンドレが川面に映る蛍の光をバックに結ばれるシーンがよく取り上げられる。表現としても裸で抱き合うのは、当時、衝撃的映像だったので無理もない。
 しかし、本当のクライマックスはこのシーンではなく、直前アンドレが見た肖像画のシーンにこそある、と私は確信している。
 胸の病で死期が近いことを知っていたのか、オスカルは画家のアルマンに肖像画を描かせていた。完成した絵には、それは白馬に乗り剣をふるう軍神マルスの姿をしたオスカルがいた。水のような静けさの中に秘めた情熱を、アルマンは表現したのである。
 アンドレはオスカルを護るために目をやられ、ほとんど失明寸前だった。オスカルを心配させまいと、眼の病を隠しているアンドレは、絵の感想を求められて語った。
「美しい……たとえようもなく……輝くおまえの笑顔が。この世の光をすべてその身に集めているようだ……。(中略)すばらしい絵だ。おまえの優しさ、気高さ、そして喜びまでもが、すべて表現されている……忘れない、おれは……この絵にかかれたおまえに美しさをけっして忘れない」
 この言葉を聞いて、オスカルは涙をとめどもなく流すのだ。
 アンドレの語った言葉は実際の絵とはことごとく異なっている。アルマンの絵ではオスカルは笑みをたたえていないし、優しさもそこにはない。
 アンドレが見えない目で観た絵は、心でつかんでいたオスカルの姿、子供の頃から追いかけていたオスカルの心の美しさに満ちあふれていた。花と月桂冠に飾られたオスカルのもうひとつの肖像画は、同時にオスカルにも共有される。男装の麗人・軍人としてふるまってきたオスカルの凛々しさでなく、優しさ・高貴さ・喜びといった女性らしい美しさに彩られていたことが、何よりオスカルには嬉しかった。自らも目を背けていた自分の真実がそこに発見されたからこそ、オスカルは心を開いて涙する。その涙は、アンドレと自分がひとつの存在と悟った愛の涙なのだ。
 この「見えない絵」を通じた交流、ふたりの心がひとつになる瞬間こそが、物語全体でのピークとなる「愛の形」の完成なのだ。肉体的に結ばれるシーンは、確認のために用意されているに過ぎない。
 ということで、アンドレこそは主人公をこのような愛の形で包みこんだ至高の2番手キャラなのである。
【初出:ムック「No.2キャラクター伝説―二番手英雄伝」(双葉社) 1999年10月】

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2006年11月25日 (土)

OVA20周年(AX東京)

《未発表原稿》

AX東京 OVA20周年討論 レジュメ(案)
                     2004.01.13 氷川

●ビデオの状況
 ・ビデオデッキの本格普及は1980~81年ごろ
 ・デッキ=20万円
 ・テープ=2000~3000円
 ・1982~1983年には高額のレンタルビデオ屋が開店
 ・レンタル代:定価の10%(1500円くらい)
 ・LD時代の予感(83年ごろか?)
 ・ビデオソフト商売の端緒
  →「幻魔大戦」('83)は公開と同時にソフト販売
   「ナウシカ」('84)にいたっては、LDを同時販売

●OVA前史
 ・70年代終盤:テレフィーチャー・アニメ形式が発生
 ・24時間スペシャル、日生など大スポンサー
 ・1982年のマクロスにも名残(1,2話の同時本放送など)
 ・エモーションレーベルの誕生
  →厳選された作品群。内外、特撮への目配り。
   それまではメーカー側のロジックだったのが、ファン寄りになった
 ・模型雑誌との連動開始(モデルグラフィックスの表4広告)
 ・バンダイ:2次商品→1次商品への転換

●OVAへの期待
 ・作家性の熟成 → もっと自由に作ったものが観たい
 ・コマーシャリズムからの解放 → アリバイとしての玩具不要論
 ・TVコードからの解放 → 暴力、セックスなどのアダルト描写
 ・権利の問題:作家への還元(実際には稀少)
 ・総じて「可能性」を信じていたのだが……

●ダロス(1983年)
 ・月面都市における階級闘争話
 ・戦後日本の縮図的な描写(三鷹事件の模写など)
 ・売れ線ねらいのデザインライン:安彦調、ガンダム声優など
 ・鳥海永行(ガッチャマン)+押井守(うる星)
 ・当時、押井監督は『うる星TV』と『ビューティフルドリーマー』の
  三本建て体制
 ・作画のピーク→山下将仁のアクション、エフェクト
  (スタジオぴえろは『ニルス』等の動物、生活描写派だった)
 ・HiFi以前。でも仕様はステレオ。
 ・30分7800円(6800円だったか?)
(Negative side)
 ・分割発売だった
  →遅延に継ぐ遅延
  →30分増えて、4部作になった
 ・話数順でない発売
  →ストーリーよりも映像偏重
 ・難解なストーリー
(Point)
 ・バラまかれる薬莢 → 「マトリックス」への影響

●メガゾーン23part1(1985年/3)
 ・23=東京23区
 ・美樹本 晴彦+平野俊弘+石黒監督
  (マクロス人気を引っぱる形で)
 ・バイク変形
 ・バーチャルアイドル
 ・主人公が負ける蹉跌の物語

●魔法の天使クリィミーマミ ロング・グッドバイ(1985年/6)
 ・「永遠のワンスモア」84/10 総集編+後日談
 ・人気作品の続編をビデオで(の走り)
 ・映画撮影のバックステージもの
  →立体物展開とのマッチング(B-Clubなど)
 ・スタジオぴえろ+望月智充監督
  伊藤和典+高田明美
 (押井監督もモデル出演)

●戦え!イクサー1(1985年/10)
 ・立ち上がった市場の受け皿的作品
  レンタル屋 → アダルトとスプラッター
  マンガで美少女エロ → レモンピープル(久保書店の出資)
 ・作画で肉と粘液が描写可能に
 ・平野俊弘が監督:特撮感覚の横溢
 ・音楽:渡辺宙明

●メガゾーン23part2(1986年/5)*劇場(落ちた)
 ・梅津泰臣にキャラが変更。監督は板野一郎。
 ・具体的ブランド描写の走り:ビールがハイネケン、バドワイザーなど
 ・アダルト志向の強化(ベッドシーンが劇場のみでカット)
 ・グロテスク描写

●ガルフォース(1986年/7)*劇場
 ・園田健一キャラ
 ・アートミック全盛期
 ・美少女しかいない設定
 ・動物的ヒロインの走り

●ブラックマジックM-66(1987年/6)
 ・北久保弘之監督
 ・士郎正宗:原作者のこだわり(直筆コンテ、ナウシカの影響)
 ・リアリズム作画の端緒(沖浦啓之氏)

●トワイライトQ 迷宮物件FILE538(1987年/8)
 ・トライライトゾーン+ウルトラQ-ウルトラゾーン
  (日本のアウターリミッツ=ウルトラゾーン)
 ・ディーン制作
 ・背景を写真加工:後の写実的背景の先がけ
 ・虚実混淆の物語

●機動警察パトレイバー(1988年/4)
 ・86~87年ディザースターからの回復 → ブロックバスター
  4800円、CM入り
 ・30分 全6話フォーマットの確立
 ・限りなくTVアニメに近いレベル、尺、内容
 ・クリエイター集団:ヘッドギア
 ・押井守監督、第二の出世作

●トップをねらえ!(1988年/10)
 ・パトレイバーとのコンペティション
 ・庵野監督デビュー作
 ・オタク的要素の集大成 → SF風味
  ガイナックスの芸風まんま(ダイコン以来)

●ジャイアントロボ(1992年/7)
 ・『宇宙戦艦ヤマト』の末裔
 ・小林誠メカ
 ・今川泰宏演出
 ・レトロキャラ+荒々しいアクション
 ・完結までに6年がかり

●天地無用!魎皇鬼(1992年/9)
 ・AIC作品
 ・思わぬ伏兵的にヒット
 ・第二世代『うる星やつら』的要素
 ・女の子回転寿司状態、温泉話などなど
  90年代中盤以後のギャルアニメ、ギャルゲーの雛形
 ・複雑多岐な続編(何本あるんだ?)

●青の6号(1998年)
 ・フルデジタル、メカフル3Dポリゴン、5.1ch
 ・究極の「ハイターゲット」作品か?
 ・前田真宏監督
 ・GONZOの方向性を決めた作品

以上です。

【初出:AX東京 2004年1月 トークショー用のレジュメ】

※これをもとに、壇上では井上博明氏と掛けあいでトークを行いました。作品名の上がっているものについては、編集済みのビデオを流しながらでしたし、通訳が入ったりする関係で、まったくこのとおりには進行していません(笑)。メモの開陳で恐縮です。

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2006年11月23日 (木)

アリーテ姫

題名:SFオンライン『アリーテ姫』レビュー原稿

 SFに何を求めるかは人によって様々であるが、もし知的冒険を求めているのであれば、ぜひお勧めする。それがスタジオ4℃制作、片渕須直監督の長編アニメ『アリーテ姫』である。
 作品の舞台は、一見中世のファンタジー風に見える世界。かつて栄華を誇っていたという魔法使いの末裔が、姫を囚われの身にする……なんてうっかり書いてしまうと「またか」と思われるだろうが、ところがどっこい、これはSFなのである。これくらいちゃんとSFしているアニメは、恐らく他にはないのではないだろうか。
 「充分進んだ科学は魔法と見分けがつかない」とはSF作家クラークの発言だ。最近ではラリー・ニーヴンをよく読み返しているという片渕監督は、本作品をアニメ化するときに、やはりこの言葉を意識したという。
 変身の魔法は遺伝子操作によるもので、水晶球にはプログラムが仕掛けられ、地表に降る星はかつて人が宇宙に暮らしたあかし……だが、おとぎ話のアイテムをSFギミックに置き換えたことが重要なのではない。これは「SF的方法論によるスペキュレイティヴな作品ですよ」というサインなのだ。
 なぜなら、この作品の主張は、「充分に進んだ科学による魔法をさらに凌駕する……そんな本当の魔法がある」ということなのだから。それが何かは、ここでは言えない。各人で確認する経験そのものも、この映画の放つ魔法の一部で、それをうかつな言葉で消してしまうわけにはいかない。申し訳ないが、SF好きなら絶対に損はしない貴重なワンダー体験を保証する。
 この作品に、ハリウッド映画的「事件」はほとんど起こらない。姫が囚われの身となり、自由になる。それだけの物語だ。しかし、それだけのことに何重にもこめられた意味性、多面的な仕掛けが、次第に知的な興奮をもたらすと、病みつきになる。その興奮は、映画が終わってもずっと続く。なぜなら、この映画は自分の人生と地続きになっているからだ。これこそが知的冒険であり、それを事件として楽しまないのは損である。
 このプロセスの根底に流れているのは、SFの持つ発想の自由さであり、思考方法の相対化が見せる解放感が、この映画には確かに存在するのである。
 もうひとつ別の角度からのご推薦。この映画は、人生も折り返し点にさしかかり、「自分の人生これでいいのだろうか」「自分にこれから何ができるのか」という悩みを改めて持ち始めた中年の方々に最適である。かくいう筆者も、実は会社を辞めて独立した直後に観たのだが、「もっと早く観ていたら、もう少し気が楽だったかなあ」、と思ってみたり、「そうだよなあ」なんぞと納得をしつつ、暗闇でうなずいていたりしたのであった。かと言って、説教臭さはまったくなく、スリリングな経験の中でのことなので、念のため。
 『アリーテ姫』という作品の特異な面白さが、少しは想像できたであろうか?

  ×   ×   ×

 さて、編集部のリクエストで、この作品の映像表現についても述べておこう。
 本作品は仕上げ以降の工程がフルデジタルで制作され、セルは使用されていない。だが見た目のほとんどのカットは、一般のセルアニメの伝統にのっとって制作されており、ことに背景は筆目を意識した仕上がりに徹底している。
 何カットか、デジタルの特性を活かしたカットがあり、セル画の撮影台では不可能な表現をものにしている。片渕監督は、同じスタジオ4℃の『MEMORIES-大砲の街-』(大友克洋監督)の演出/技術設計を担当した経験を持つ。これは全編が1シーン1カットで描かれた特殊なアニメだが、実際にはデジタル箇所は少ない。そのデジタル使用箇所が、タイトルの出るカットで背景を廊下のような3D空間に貼り込んだものであった。
 『アリーテ姫』でも場面のいくつかに同様の発想を応用している。3DのCGIに背景を貼り込み、セルワークと一体化して、並んだ人の手前をカメラが駆け抜けていく映像や、円筒形の牢屋の内壁をなめるようにして底に座っている姫を回り込む映像をものにした。城下町の家々が折り重なった映像については、これは2Dの絵で描いた建家を3D空間上で看板のように立てて、それを視点移動したものだという。要するに、マルチプレーン撮影をパンフォーカスにしたもので、建家自体が3Dで描かれているわけではない。
 デジタルの恩恵は、一般的には300色以下のセル絵の具の色数限界を突破したことにも効果的に使われている。具体的には、いくつか登場する魔法のアイテムでの金属色の表現で、動きの中で微妙に光り具合が連続的に変化することで、セル風の絵なのにセルでは絶対に出せない微妙な色合いを実現している。これもモニタ上での確認が可能にしたことであるという。
 こういったことすべては、実はテーマと一体となった方法論なのであるが、内容に触れすぎてしまうので、ここでは詳述は避ける。
【初出:SFオンライン 脱稿:2001.06.17】

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セルアニメ、デジタル進化の系譜

※1999年ごろ=「セルアニメの末期」時期の原稿のため、最新状況などとは異なり、用語も一部違っている部分があると思います。あくまで「当時の情報」として再掲します。

◆アニメはそもそもデジタルなのだ

 まず確認しておきたい事実がある。それは「セルアニメーション」という表現自体が、本質的には「デジタルな」表現様式であるということだ。
 映画が現実に存在する物体の三次元空間と質感とアクションを実体として撮影するのに対し、アニメーションはそれを「絵」によって模擬しようとする。三次元空間は、二次元の透明なセルの重なりとして置きかえられる。質感は、ベタな絵の具数百色の弊領域・平面の組み合わせになる。アクションは、フィルムのコマ単位に時間と空間が分解されて描かれる。
 これらが本質的に「デジタル化」と等価であることは容易に想像できよう。
 セルアニメーションには模擬的なものであるがゆえの限界もある。表現者は常にその限界に悩み、突破しようと模索してきた。好例がマルチプレーン撮影である。セルアニメの平面の限界を超えるために、複数の対象物をやぐらのように立体的に配置して、トラックアップ時に奥行きを感じさせようとする試みである。
 したがって、右図・右表に示すように、アニメに電子的な表現を導入しようとした歴史も意外と古い。アニメ界の老舗タツノコプロなどは、かなり以前から実写やミニチュアとの合成やストロボ効果、透過光などの特殊撮影、あるいはタッチ・ブラシなどの特殊なテクスチャ仕上げといった手法でセルアニメの限界を超えようと実験していたのである。

◆デジタルによってアニメ表現は変わるか

 単純な帰還回路による初期の電子変形(スキャニメイト)から、コンピュータの導入にいたったのが、第二のデジタル化ショック。機械の演算によって初めて可能になった表現とは、上述のセルアニメの限界突破だった。すなわち、手描きでは困難な三次元の回り込み、1コマ撮影によるフルモーション、ライトアップによる微妙な質感表現、複雑な形状の変形などが選ばれていた。それらと平行して単純な省力化であるデジタルペイントの模索があったことは興味深い。
 1980年代前半にすでにメジャーな方向性は出ていた。これに「従来の撮影台の限界突破」「デジタルの質感を表現として利用」を加えたあたりが、現在の方向性の中心だろう。
 近年ではコンピュータのダウンサイジング、コストパフォーマンスの向上、ネットワークによる統合が急速に進んでいる。フルデジタル化への環境が整った上に、セルの生産中止、テレビ局へのデジタルビデオによる納品の促進など、デジタル化はもはや業界の潮流となってきている。機械出力ゆえにセルアニメと融合せず、いびつなものにもなりがち、という問題も解決しつつある。
 生活全体にデジタルが浸透している以上、デジタルでの表現そのものがデジタル世代の観客の生理とマッチするということもあるかもしれない。
 一方では、デジタルで何でもできるようになったという錯覚により、疲労を呼ぶ映像も増加しつつある。例えばフォロー・パンで済みそうなショットなのに、わざわざ画面全体をグルグルと回してみたり、必要以上にテクスチャを複雑にして視線を散漫にしてみたり、ショットの切り返しがつながらなかったり。映画の基本を無視した落ちつかない映像も、増加している。
 デジタル技術そのものは何もしてくれない。今いちど映画の原点、アニメの原点に戻り、「表現したいこと」を視座に据えた上でデジタルの適切な使い方を考える時期ではないだろうか。

▼年表---------------------------------

主要作品年表
Histry of Digital Animation in Japan

●1975年
『宇宙の騎士テッカマン』
オープニングでキャラクターが幾何学模様に変形したり、宇宙船が飛行するシーンを拡大・縮小するのを、コンピュータ演算ではなく、ビデオ信号を応用した電子機器で表現した。これらの表現方法は、同年『タイムボカン』のタイムトラベルのシーンに応用される。

●1983年
『ゴルゴ13』
ディズニー映画『トロン』の影響で生まれた、邦画で初めてCGを売りにした劇場公開アニメ。大阪大学の協力で、大型コンピュータを使用してビルの谷間を3Dヘリコプターが飛翔するクライマックスが描かれた。

●1984年
『SF新世紀レンズマン』
CG空間とセルアニメを合成したり、敵側の有機的なメカの質感をレンダリングで表現するなど、本格的にアニメにCGが組みこまれた作品。同じ流れで製作された『小鹿物語』は、デジタルペイントの実験作。

●1987年
『王立宇宙軍 オネアミスの翼』
アンテナが突き出た人工衛星が回転するシーンなど、人間の手で描くのに無理がある動きをコンピュータに計算させて、プリンタの出力からセル画に起こす方法がとられた。

●1988年
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
円筒形のスペースコロニーが回転するシーンで、それまでの無機的なCGの質感ではなく、背景美術のテクスチャを貼りこんで、セルアニメ部分との違和感を低減させる手法が登場した。

●1989年
『機動警察パトレイバー 劇場版』
リアルな「コンピュータ犯罪」というテーマに挑んだ作品。HOSというオペレーティング・システムの起動画面がCGで描かれ、現実のパソコン通信にそれを模したフリーソフトが流通した。同年のテレビ版ではポリゴンCGで描かれたイングラムが回り込むアバンタイトルもついた。

●1992年
『機動警察パトレイバー2』
それまでのアニメは、CGによる映像表現を追求していた。しかし、この映画では「登場人物がCGと思って見ているモニタ画像をデジタルで描く」という新しい発想が生まれた。

●1994年
『MACROS PLUS』
従来の撮影台では困難なモブシーンの重ねや、レンズを通したときの歪みなどをデジタル技術で描き出した。

●1995年
『闇夜の時代劇』
サンライズ制作による実験作。深夜枠で放映された10分程度の連作短編で、富野由悠季、高橋良輔、今西隆志らベテラン監督がフルデジタルのアニメに挑戦。和紙のテクスチャと筆のイラストを動かすといった試みがされた。

●1996年
『MEMORIES』
大友克洋の総指揮によるオムニバス形式の劇場公開作品。大友自身が監督した第3話「大砲の街」では、作品全体を1シーン1カットで描くためにCGを駆使して、背景のつなぎの部分をデジタル処理した。

『天空のエスカフローネ』
波紋効果や変形、逆光効果、モーフィングや複雑なレイヤ合成など、ローエンドなCG技術でも可能な表現を多用することで、独特の効果をあげた。

●1997年
『もののけ姫』
タタリ神の触手が複雑にからみあうショット、馬の上から主観的に画面奥へ進むショットなど、宮崎駿監督が従来の撮影技法ではできなかった複雑な動きやカメラワークをCGで可能にした。その成果はスタジオジブリの次回作『となりの山田くん』で活かされるという。

●1998年
『青の6号』
デジタルペイントとLightWave3Dを駆使しフルデジタルで制作された、前田真宏監督によるビデオアニメ。3Dポリゴンで作られたメカと、従来のセルの延長にある2Dキャラクターを融合させようとした、新たな試みで注目されている。

▼マトリックス------------------------

デジタル3D演算

●三次元回り込み
平面で構成されるアニメにおいて、生身のアニメーターが立体物を正確に回したり、カメラの方が対象を回り込むのを手書きで描くのは、とても困難である。コンピュータにより、複雑な位置関係のオブジェクトが一斉に視点を移動しても無理なく描けるようになった。ただし、二次元のセル画空間とのマッチングには、まだ課題が残っている。

●セミCGアニメート
無理して全画面をコンピュータで描く必要はない。人間では、計算の苦手なフォルムの推移だけわかれば充分だ。動画以後の作業は普通のセルワークにする。この考えを使っている代表が『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『南海奇皇(ネオランガ)』だ。

デジタルペイント

●セル画ペイントの代替
アニメーションの基本となるセルは、原材料が枯渇しつつあり、ペインターの人件費も削減対象となりつつある。そこでデジタル技術を使用してペイントし、直接ビデオへ出力することが主流になりつつある。色彩の抜けの良さを活かし、東映アニメーションの『夢のクレヨン王国』のように、パステルカラーで構成されるアニメも出現している。

デジタルによるカラーリング(彩色)には、効率化と質感の違和感克服という、2種類のメリットがある。後者が行きついた先が、テクスチャーマッピングだ。

デジタル・テクスチャー

●テクスチャーマッピング
3DCGでは、質感が問題になる。光源をしっかり取って物体を演算で描くと、どうしても無機質になりがちだ。特にアニメの建造物は背景として絵画的に描かれるため、それをCGにすると浮いてしまいがちだ。その解決として、背景をスキャナで取りこみ、テクスチャとして表面にマッピングする技術が使われる。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』や『攻殻機動隊』では自然な形でこれが使われていた。

デジタル変形

●変形・拡大・縮小
アニメの絵を自在に変形させようという欲望は昔からある。そこに機械的な演算を持ちこんで電子機器の歪みで変形アニメ表現の幅を広げようとしたのがタツノコプロの『宇宙の騎士テッカマン』『タイムボカン』だった。

●モーフィング
ビデオクリップなどで大流行した技術だ。2枚の絵をコンピュータの演算で補完し、スムースに変形させる。サンライズの『勇者王ガオガイガー』『天空のエスカフローネ』などの作品に多用されている。

デジタル撮影台

●光学カメラの限界突破
映画は100年以上前に開発された技術だ。俗称「シャシン」というように、光学的なカメラによる写真を連続して撮影して成立する。アニメーションは、さらに平面に描かれたものをコマ撮影するために専用の撮影台を必要とする。それにはさまざまな制約がある。
例えば、いっぺんに移動できるオブジェクトの数と方向は定められている。手前の対象にズームアップしながら、後ろはトラックバックするという複合動作はできない。また、重ねられるセルの枚数にも限りがある。こういった限界をデジタルの技術で突破しようという考えは、『攻殻機動隊』や『新世紀エヴァンゲリオン』(劇場版)によく現れている。

押井守監督の『攻殻機動隊』では、香港の街並みで漢字テクスチャーマップした看板を多層に重ねて極めてゆっくり動かすという、今までのアニメ技術ではできそうでいて、できなかった映像を出している。

【初出:雑誌FLICKER 1999年ごろの原稿】

※最後の方の「マトリックス」とあるのは、デジタル技法を図解的に囲みで図示したもので、残念ながら図そのもののラフは現存していません。

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2006年11月22日 (水)

未来少年コナン

題名:未来少年コナンに、宮崎駿のルーツを見た!

<小見出し>
元気なコナンの姿を見れば
疲れた心もたちまち浄化

<リード>
『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』の連続大ヒットで、その地位を不動のものとした宮崎駿監督。処女作『未来少年コナン』には、宮崎アニメのすべてがあると言われる。では、どの辺が原点となっているのだろうか? その秘密に迫ってみた。

<本文>
 『未来少年コナン』を観ていない方は幸せである。宮崎監督のすべてが詰まった唯一のテレビ作品なのだから。13時間という長大な時間を濃密で未知の宮崎ワールドに身を置いて過ごせる──これ以上の快楽は、他にはない。決して古さは感じないだろう。むしろこの時代だからこそ、より大きな輝きが、きっとあなたの目に見えるに違いない。
 宮崎アニメの本質とは、ずばり2文字の漢字で言い切ることができる。その言葉とは「浄化」である。
 『コナン』における「浄化」のかたちは多様だ。判りやすい例から挙げれば、人類滅亡という物語設定がある。人が荒らした環境の中で自然の持つ浄化力に賭け、人も自然の一部として生きるべきだという視点は、以後の作品でも『風の谷のナウシカ』などで見受けられるものである。
 その結果、科学の持つ過去の力に囚われたインダストリアの人びとは、当初は悪役的に描かれる。ダイス船長もモンスリー女史も、自分で生き延びるのが精一杯な育ち方をした結果、他人を傷つけることもいとわない人物として登場する。ところが主人公コナンに接するうちに、実に愛すべき人間となってコナンを助けるようになっていくのだ。これも宮崎アニメの「浄化」の力なのである。
 主人公コナンは、自然の中で育ち、壊れた文明の残骸を見ても怖いとも思わず、伸びやかに活躍する。コナンの心は過去に囚われず、未来に向かって開いているからだ。一番大事なラナのため、コナンは怪力を発揮する。アニメならではの自由な表現がそこにある。素晴らしいのはコナンの前向きな精神だ。その心が行動を求めるとき、コナンの身体をつき動かして、スーパーパワーになるのである。いつしか人は、そんなコナンに影響を受け、気持ちを変えて自発的に動いていくようになる。つまり、これが「浄化」なのだ。
 その動きは、13時間コナンにつき合ったあなたの心をも動かし、開かせていくはずだ。「おわり」の文字が見えるころには、きっとあなた自身の心も浄化されているに違いない。「癒し」よりももっと深く大きな、宮崎アニメの「浄化」の経験。絶対に損のない13時間が、あなたを待っている。

<STORY>

──西暦2008年、超磁力兵器の使用によって人類は絶滅寸前となった。生き残った人々は水没した大陸の一部に集まり、おびえながら細々と暮らす生活を続けていた。
 それから20年。孤島の「残され島」で、育ての親「おじい」以外の人を知らずに育った少年コナンは、ある日少女ラナに出会う。ラナの祖父は太陽エネルギーの秘密を知っている。その復活を狙うインダストリアという科学文明国家に追われていたのだ。
 コナンの奮戦もむなしくラナは飛行艇で連れ去られた。「おじい」の遺言に従って、コナンは島を離れ、旅立つ決意をした。仲間を探し、ラナを助けるための冒険の旅が始まった!

<キャプション類>
コナン●大変動の後の残され島で生まれた子ども。火事場の馬鹿力的なパワーを発揮するが、本質は優しく前向きな少年だ。ラナに出会ったことで、人と交わってより大きく成長していく。

ラナ●知恵あるハイハーバーの少女。祖父のラオ博士とテレパシーができるため、インダストリアに狙われている。

ジムシー●プラスチップ島に住んでいた野性味あふれる少年。コナンにとって最初の仲間になった。

ダイス●バラクーダ号の船長。インダストリア貿易局員でラナをさらったりするが、どこか憎めない海の男。

モンスリー●インダストリアの行政局次長。美人だが任務遂行を優先する厳しい性格だったが、それには理由が……。

ラオ博士●ラナの祖父で、三角塔復活の鍵を握る太陽エネルギーの権威。パッチという偽名を使用。

レプカ●インダストリアの執政を握る行政局局長。傲慢な野心家で、太陽エネルギー復活を企む。

<ROOTS>
●ハイハーバーで共同生活を拒否した不良少年たちの仮面は『千尋』のカオナシを連想させる。

●人類滅亡を目撃し呆然とたたずむモンスリーの表情は王蟲の群を前にしたナウシカのようだ。

【初出:BSテレビジョン(角川書店) 初出:2001.12.09】

※超短納期仕事だった記憶があります。ルーツについて無理が感じられるのは、そのせいかも? 『未来少年コナン』については小生のキングレコードさん最初の仕事ですが、その後もCD版サントラ「全BGM集」の仕事をすることになります(腹巻猫氏と共同)。

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2006年11月21日 (火)

南原ちづる(超電磁ロボ コン・バトラーV)

題名:わが青春の南原ちづる

 どうも。せっかくのご指名なのに、いきなりのツッコミで恐縮ですが、3コマ目の「32話」はきっと「第31話 電磁を奪う強敵モグマ」の間違いですね。なんせ『コン・バトラーV』のLDには信じられないことに「ちずるチャプター」というものがついておりまして、32話では「ちずるのしりもち」(笑)が該当です。セットしますと、唐沢さんが7コマ目でご指摘のパンチラが出てくるという20世紀のスグレモノ。DVDになっても付けて欲しいものです。
 第32話「猛威!恐怖のツララ弾」では、ちづるが凍結した路面で何度もすっころぶパンチラシーンが、そのチャプターです。両手が凍傷で紫色の手袋みたいになっていて、早く手当をしないと両手が腐ってしまうというのがすげー痛々しく、これがまた何ともいえない気持ちのする回です。で、そういう演出は、やっぱりというかで、斧谷稔すなわち富野監督の作品だったりするわけでした。
 31話は、これもちづるファン必見の回ですよね。LDチャプターは「ちずると知恵のシャワーシーン」という信じられないものが(笑)。この回は、知恵ちゃんが、レオタード姿で体操の特訓中の「ちづるお姉ちゃん」にあこがれて密着取材をするんですね。汗かいてジュース飲むちづるも、ポイント高い。そして、「シャワーで鼻歌」のちづるに突撃質問で取材した驚愕のデータは!
「好きなものは、お芋にケーキ。好きな花はバラで、音楽はシャンソン。スポーツは体操とフェンシング、バスト84、ウエスト60、眠ると歯ぎしり。色はピンク」
 ああ、これ放映当時にもメモした記憶があるぞ(笑)。こういう描写があるってことは、視聴者の大きいお兄さん&スタッフのおじさんたちは、ちづるの詳細データに興味津々だったという証拠に他ならないです。やはり愛されていたヒロインだったんですね。
 それで、唐沢さんは「ちづる」と表記されておりまして、「同志!」(ひしっ)と思いました。サブタイトルを転記するときは「ちずる」でも、自分の思いをこめた文章では「ちづる」表記が正しいちづる道です。なんのこっちゃ。この31話では、いわゆる大王道の「ニセのラブレターが誤配で大騒動」があるのですが、知恵のニセ署名では、なんとビックリ。画面にちゃんと「ちづる」と出るではありませんか。スタッフの中にもこだわっていた方がいらしたんですね。
 拙著「アニメ新世紀王道秘伝書」(徳間書店刊)では省略しましたが、このこだわりには下品な理由があるんです。つまり、「ちづる」だと漢字は「千鶴」ですけど、「ちずる」だと「千ずる」で、そりゃマズイだろーと(笑)。確か富沢雅彦さんが同人誌「PUFF」で指摘されてたことだと思いますが、これにどきっとして私らも「ちずる」と書くのをやめたということは、まあ誰しもやっぱり心の中にそういう部分を抱えていたってわけです。深くは説明しないけど。
 ちづるを産み出したキャラクターデザインの安彦良和さん、当時はライディーン後半から線が非常に走るようになっていまして、特にアクションポーズのちづるは格好良くてしなやかで、パンチラも少しあったかな……太股の肉感的な感じといい、元気な感じがして、すごくキュートでしたね。個人的には、こういう少ない線でいろんなことを感じさせてくれる絵が好きですね。カゲとかハイライトとかいっぱいつけるのは、一見丁寧に見えても、安彦ちづるのように、ざっざっとした線で描かれた魅力には届かないものがあるのではないのかな。
 安彦作画監督回は2回しかないんですが(たぶん『ろぼっこビートン』の準備中だったため)、第1話のラストの方が安彦原画でして、最後の笑顔とか実に可愛くて、自著でも扱っている回と違うのに、わざわざそのカットを探してカラーページに載せたくらいです。コクピットで苦しむとことかもついでに掲載したりして。役得、役得。
 話は尽きませんね。唐沢さん、またいずれ語り明かしましょう。
【初出:単行本「唐沢なをきのうらごし劇場」 脱稿 2000.05.15】
※そういうわけで、画面内を尊重して「ちづる」表記にしていたりする私です。ちなみにDVDでは「ちずるチャプター」はありませんでした。LD捨てられない……トホホ。

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マインド・ゲーム

題名:閉塞を吹き飛ばす──アニメーションの根元的驚異に満ちた作品

 昨年末からの予感どおり二〇〇四年はアニメーション映画にとって大変な節目の年になりつつある。巨匠の大作攻勢、アニメ・マンガ原作の実写化は予定どおりだが、「機械のからだ」を持つアニメ映画『アップルシード』という伏兵の衝撃も覚めやらぬ中、今度はアニメーションの根元的な「おもしろさ」を究める方向からエネルギーに溢れかえった意欲作が登場した。それがスタジオ4℃と湯浅政明監督の『マインド・ゲーム』である。
 まず映像表現が驚きの連続だ。荒々しいタッチと色彩効果で感情表現を支える背景美術。豪快に空間を歪ませまくったレイアウト。ヘタウマ系で感情のおもむくまま表情を崩しまくるフレキシブルなキャラクターは、シリアスになると声を演じる吉本興業の役者たちにいきなり実写変身してしまう。
 こんな風に、画面のテイストがどんどんと変化していくから、初恋の幼なじみ、みょんちゃんに偶然再会した主人公の西が、大阪の横町にある焼き鳥屋に行くという序盤の日常的展開だけでも、充分にワンダーに満ちた空間が拡がっていく。その闊達さは最初はとまどいを感じるほどだが、これに慣れてくると、既存表現の枠組みからの解放感が次第に快感に転じていく。
 重要なのは、表現が単に奇をてらった実験に終わらず、物語に寄りそって常に瑞々しい感情を伝えてくれることだ。相手にフィアンセがいると知りつつ、初恋以来の気持ちをストレートに伝えることのできない西。格好をつけてはみるものの、それは本当は臆病な保身的行為と知っているからこその自己嫌悪と、内心のたぎる思いとの行ったり来たりが、さまざまに変化する映像(花火の表現が秀逸)で描かれ、観ているこちらの鼓動とも共鳴していく。
 静謐なる中で高まる心の内圧は、ヤクザに主人公が最高に格好悪い方法で射殺されてしまうという展開を契機にして、一気にはじけ飛んでしまう。さらに復活後はストーリー展開にもドライブがかかり、カーチェイスや銃撃戦までエスカレートしていくが、勢いづいた驚きの先には、あらゆる予想を越えた巨大な驚きが待っているのだ。
 映画の果たす大事な役割のひとつには、「日常的な閉塞からの解放」がある。本作品は、アニメーションならではの特性をフルに活かしきって、その要求に応えている。その特性とは、実感を抽出して連続した絵の動きの中に塗り込めることだ。湯浅監督は『クレヨンしんちゃん』などでも知られる優れたアニメーターなので、動画技術だけ注目しても、「主人公がひたむきに走る」と画面の時空間全体が「ひたむき化」してしまうほど凄まじいパワーを放っている。本作ではそれに留まらず、ありとあらゆる映像表現を動員して、色彩や抽象化のレベル設定まで微妙に変化させながら、観客の根元的な生理からエネルギーを引き出そうとしているようだ。それが、「人生を前向きに生きるための活力」と直結するところに、快感の源があるのだろう。
 きちんとしたレイアウト、崩れないキャラクター、破綻のないストーリーと、この十年あまりのアニメ作品は「商品としてきれいなもの」を追求してきたようなところがある。それはそれで理由と意味のあることだったが、「もうそろそろ充分じゃないか」「この先には何もなさそうだ」と作り手も観客も思い始めている兆候が顕れ始めている。だから筆者も「大作ラッシュの後は、アニメーションの根元的な手描きの魅力に回帰した作品が出る」と予想していた。だが、「後」ではなく「最中」の登場で、他作品とまったく重ならない角度からの挑戦だったところをとても嬉しく感じた。
 「もっと好きなように暴れたらええやん」という破壊的で未来につながるアニメーション・パワーは国境を越えるのか、ジョエル・シルヴァーによる海外配給も予定されているという。作品外のサプライズも含め、驚異に満ち満ちたアニメーション体験をぜひ『マインド・ゲーム』で感じて欲しい。
【初出:キネマ旬報 脱稿:2004.07.03】
※2006年11月現在だと『鉄コン筋クリート』のスタジオ4℃と、『ケモノヅメ』の湯浅政明監督の……と言った方がふさわしいでしょう。

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PLANET OF THE APES/猿の惑星

題名:リ・イマジネーションに沈めた偏愛

 ティム・バートン監督と言えば、重要なアニメーション作品を排出した学校カル・アーツの出身で、ディズニーのアニメーターとして出発した人物だ。イマジネーションの力で動きと生命を与えていたバートンが監督となった映画の世界では、やはりこの世のものならぬ異形のものがメインに描かれてきた。世間的に「正しい」とされているものとそうでないものを、どこかねじれた状況に投げ込んで、せめぎあいから生まれる境界のドラマとして語ろうという姿勢が貫かれていた。
 そんなバートンに60年代SF映画『猿の惑星』を撮らせる、という発想はあまりにも出来過ぎだ。特殊メイクと自由の女神オチが有名になり過ぎた古典だが、もとは人と人にあらざる猿、その逆転状況の中から人間性の正体をあぶり出すのが本筋だったのだから。
 本作には「リメイク」ではなくバートン監督による「リ・イマジネーション」なる造語が用いられている。とらえどころのない言葉だが、映像を見てなるほどと思った。「リメイク」であれば、すでに作られた形のあるものをなぞって作るということになる。そうなると『猿の惑星』は苦しい。現代では陳腐化するものが多くなってしまうだろう。
 映画はもともと映像を積み重ねてできあがっていくイメージを楽しむもの。であれば、前作にあった根元的「イメージ」の方を原点としてアレンジすれば良い。監督のテイストがその上につくことで、作品は新しく甦るだろう。これは実に賢い読みである。
 引用された具体的イメージは、「高みから水中への落下」「猿の人間狩り」「猿の階級社会」「魂のあるものとないもの」など、かなり重なり合う部分が多い。それでいてバートン監督の意識は、これも引用イメージの「猿女性とのキス」に激しく集中している。まるで日本のアニメキャラのような髪形をしたチンパンジー、アリのフェロモンを発する視線と口元の紅には、なぜかどぎまぎする。60年代SF映画的ブロンドのヒロインを無視してるかのような主人公レオが、この熱視線をどう受け止め対処するか……それが表面的な対立のストーリー展開よりも、数十倍は濃密なハラハラドキドキのエモーションをかきたてていることに気づいた瞬間、「あ、やりやがったな!」と思った。
 だから、「ロッド・サーリング先生に捧ぐ」みたいなタイムスリップ仕掛けや、ラストのオチのためのオチに、決してダマされてはいけない。これは、バートンがリ・イマジネーションの過程で、深く沈めた偏愛こそを楽しむ作品なのだから。
【初出:キネマ旬報 脱稿: 2001.07.22】

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2006年11月20日 (月)

2001年春の新番組

題名:新世紀ワンダー映像アニメの鑑賞ポイントと期待感

 「21世紀」という呼び方にも少しだけ馴染みの出てきたこの春。文字通り「新世紀のアニメ」が発進した。今回の特集で取り上げられたこの3本は、過去さまざまな話題作を発表してきた実力派監督が、いずれも独特の映像感覚を駆使して制作していて、21世紀の幕開けにふさわしい作品群と言える。

●NOIR(ノワール)

 『無責任艦長タイラー』『EAT MAN』の真下耕一監督の作品。美少女二人組の主人公は、現実の異国を舞台に淡々と職業としての殺人を請負い遂行する。「フィルム・ノワール」とは、暗黒街を舞台にした戦前の一連のフランス映画などの犯罪映画を現す用語である。この作品の銃撃戦は、一撃必殺となることが多く、派手なアクションよりは、犯罪の現場における駆け引きや緊迫感を主体に描こうとしているようだ。
 第1話では、少女・霧香がネクタイを応用して敵を無表情に絞殺してしまうシーンが印象的で、アニメっぽいキャラと無慈悲な殺人行為とのギャップで何かを浮かび上がらせる意欲がうかがえた。今後はどんな舞台やシチュエーションが登場するか、期待できる。エキゾチックさが炸裂する主題歌、シーンを浮き彫りにする連続したBGMと、音楽の使い方も素晴らしく、発砲音も火薬の音の重さと転がる薬莢の金属音がリアルだ。

バンダイチャンネル

●ジーンシャフト

 『エスカフローネ』の赤根和樹監督の作品で、男女比は男性アニメ・ユーザを意識してか1対9になっているものの、「未来&宇宙」を正面から描いた直球勝負のSFアニメだ。
 赤根監督は、テレビ作品にデジタル技術が導入され始めたごく初期から、たくみにCGを使いこなしてきた。そのノウハウを活かしたデジタル映像表現が、多く見受けられる。著名モデラーの竹谷隆之による巨大ロボット「シャフト」は、複雑にパイプが絡みつき、板を重ねて500メートルの巨体を建造物的に構成するという目新しいデザイン感覚だ。構造材が微妙に相対位置を変化させながらゆっくりと起きあがり、マニュピレータの指の一本一本が少しずつズレながら開閉するメカニズム映像は、CGならではの無機質さが映像的驚きに昇華し、かなりのインパクトを持っていた。
 ジーン"Gene"とは遺伝子のことで、遺伝子解析と技術応用が毎日のように報道される現代最先端のテーマを扱った作品であり、今後ドラマがどのようにそれを噛み砕き、活かしていくのか楽しみである。

バンダイチャンネル

●THE SOUL TAKER~魂狩~

 『それゆけ! 宇宙戦艦ヤマモトヨーコ』『新・破裏拳ポリマー』の新房昭之監督の作品。トリッキーな構図を駆使して、欧米のコミックにも通じるまるでカラートーンを貼ったような鮮やかなイラスト的映像が特徴の作品だ。『デビルマン』や『スポーン』のようなダークヒーロー志向か、主人公はクライマックスで悪魔にも見える形に変容する。
 第1話は若干詰め込み過ぎか、めまぐるしくポイントの追いづらい構成だったが、第2話では、小技の効いたギャグと力の抜けた舞台設定(江戸村なのだ)で繰り広げられる肉弾アクションが、往年のタツノコアニメの2001年風アレンジを感じさせてくれた。シリアスな物語を引っ張る伊達京介と、脱力した壬生(みぶ)シローの凸凹道中的テイストが前面に出て、ノリが立ち上がってくると、楽しい作品になるのではないだろうか。

 あえて言えば、3作品いずれも、キャラクターや世界の「設定」に「謎」を持たせ、小出しにして物語を引っ張ろうとする点、映像構成に重きを置き過ぎるような点が、多少気になった。まず登場人物が言動を通じて興味をわきたたせて、そこに生じる人間同士の葛藤(ドラマ)が牽引力になって欲しい。「設定」や「映像」はドラマを支える黒子のようなもののはずだ。これらが一体となって視聴者の感情をゆさぶったとき、アニメはまた大きく新世紀に羽ばたけるに違いない。

【初出:月刊アニメージュ(徳間書店)2001年6月号 Sence of Wonder特集】
※ごく初期の第1~2話あたりの時期に書いたレビューです。うち2本はバンダイチャンネルでもレビューを書いてます。

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2006年11月19日 (日)

茄子 アンダルシアの夏

題名:緊張感あふれる細部は神を宿す

 真っ先に目についたのは、画面の上半分が青一色で染められた雲のない空の描写だった。まぶしく明滅する光がある。オープンカーの滑らかなボディ、そしてそれに積まれたテレビ受像器の反射だ。大地は大陸らしい平坦でなだらかな起伏を持ち、乾燥しきった白っぽい土には、申し訳程度の草が生えているだけ。
 人工の道路は決して肥沃ではない土地を切り裂き、遠近法の消失点が見えるほど長くなだらかに続く。車を走らせるにつれ、アスファルトに埋め込まれた珪素が路面にきらめき、直射光の強さと気温の高さを改めて教えてくれる。まさしく自分は遙かな地にいて何かが始まるのを待っているという期待が盛り上がったところで、メインタイトルが出る。
 開巻早々のこうした描写の積み重ねだけで、これは間違いなく観るに値するアニメーション作品なのだと確信し、フィルムの奏でる心地よい緊張感に身が引き締まった。
『茄子 アンダルシアの夏』の映像には、こうした不思議な緊張感があまねく漂っている。ひとつひとつは、言葉に置き換えてしまったとたん瑞々しさが損なわれてしまいそうな、はかなさを持つ点描ばかりだ。しかし、各々の描写は確かにそこに実在するという強固な存在感を同時に備え、見逃すなという主張を無言で放っている。
 主張しているのは風景ばかりではない。人物の会話や配置、人と自転車、チームと個人やクライアントや、レース走破の果てにあるべきもの、人と水と食べ物と土地を貫く連鎖といった雑多なものも、何かを語りかけてくる。具体的な説明は、何ひとつとして登場して来ないにも関わらず、独立した事象も無駄な描写もない。黒猫も変なメガネもテレビも、ある役割を作中で果たしている。すべては大きなひとつの関係性の一部なのだ。
 なぜならば、現実世界と人生はあまねくそのようにできているから。だが、それをあるがままにフィルムに定着させるのは、至難の業だ。それをどう成就させようというのか……この興味もまた、緊張感の源泉だ。
 言葉にならない言葉、声にならない声に耳を傾けよう。未知なる緊張を避けようとせず、思いきって身を預けさえすれば、関係の連続性が見えてくる。脳内で再構築した体験は、まさしくフィルム内世界へのパスポートとなるだろう。
 個々の描写は、やがて激しい一本の流れをなしていく。それは、全編の大半を自転車のペダルを踏み続ける主人公のぺぺという男と、彼の人生観を媒介にしてまとまり始める。
 自分の持てる渾身の力をぶつけることでしか前には進まない自転車。ペダルが回り、車輪が回ることで前へ進む。しかし、彼は決して一人で走っているわけではない。そこにはチームがあり仲間がいて、与えられた役割がある。そしてチームには、個性あふれるコンペティタがいる。全体はひと固まりの集団となっているが、いつライバルが出し抜こうと飛び出て来るかわからない。一瞬の誤った判断は、即時リタイヤに結びついてしまう……。
 ある程度、人生と社会で経験を積んだ者であれば、このレースの関係性が何を象徴しているかはすぐにわかるだろう。自転車の速さや運動自体に意味があるわけではないのだ。ぺぺが死力を尽くしてペダルを踏むたびに、観ているこちらの息づかいも荒くなる。それは、彼の運動に体感が同期しているからだけではなく、彼の背負ったものと目ざすものの交差するところに、私たちもよく知っている“あのゴール”が見え隠れするからだ。彼の精神的な緊張感が、伝染しているのである。
 フィルムとレースの進行とともに、こうした状況がわかればわかるほど、最終的な興味はぺぺ個人へ向いて、収斂の度合いがエスカレートしていく。なぜ走るのか。なぜ自転車なのか。どこを走っているのか。そこを走る意味とは何なのか。
 ぺぺの兄アンヘルとカルメンの結婚式……そして自転車レース。この2つのイベントには、運動する者と止まった者がいる。それにももちろん意味がある。その両者の視点を往還しつつ、おぼろげな疑問への手がかりとなる情報が次第に積み重なっていく。やがてパズルの断片がはまるように一体となって、走り続けるぺぺの心の底にあるものがキュッとひとつの像を結ぶ。その瞬間は、まさしくクライマックス。そこには違った人生のかたちがあり、共感が見えるからだ……。
 人と世界の結びつきを、日常的な観察情報を素材として巧みにすくいあげ、積み重ねて存在感あふれるドラマに結実させるこういった作法は、まさしく原作者・黒田硫黄のテイスト。だが、高坂希太郎監督はそれを映像化する上で、時間と空間、色彩と音響を加えることで、感覚的なものを見事にアニメ的に移植した。
 細部があまねく意味を持ち、有機的につながって生命の感覚を為す。これぞまさに、すべてに神が宿るというアニミズム。だからこの作品を、アニメーションの王道レースを走破したフィルムと呼んでみたい。

【初出:『茄子 アンダルシアの夏』劇場パンフレット映画評 脱稿 2003.07.03】

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2006年11月17日 (金)

装甲騎兵ボトムズ(その2)

題名:フィルム・ボトムズのテイスト

 懐かしくも苦いコーヒーの味を確かめてみたくなったことはないだろうか?
 ボトムズと言えばAT。ATに触れば、いつでもボトムズ世界に戻れる。だが、いくらボトムズのテイストの根元を求めても、なにかがもの足りなくなくなることがくる。テイストの根元は、ATの活躍するフィルムの中にこそあるからだ。ATはボトムズ・フィルムのテイストを依代として体現しているものという理解が必要なのだ。
 ボトムズ・フィルムの持つほろ苦いテイスト……それはどの辺から来るのか? 乾きを癒すため、確かめに出かけてみたい。

●ボトムズと『ブレードランナー』

 ATをあやつるボトムズ野郎たちのオイルと硝煙にまみれた世界観。それは、どのように形成されているのだろうか?
 フィルムは学術論文ではない。われわれが味わうテイストは、設定や科学考証からは、決して生まれない。フィルムとして提示され、映像として描かれ、生理反応として混沌と積み重なる幾多の記憶の中から、じょじょに形を成していったもの……容易には言葉に置き換えられないものから生まれるものである。
 その味わいの源泉であるボトムズ世界のイメージは、100%オリジナルなのだろうか? 答えはNOである。
 ロマンアルバムやCDなどに掲載されている何人かのスタッフの寄稿、インタビュー上に繰り返し現れているのは、決してボトムズの世界が完全オリジナルではなかった、という事実である。ことに最初の1クールにおける世界観構築については、リドリー・スコット監督のSF映画『ブレードランナー』に大きな影響を受けているのである。
 『ブレードランナー』は1982年の公開後、ビデオグラム化されるたびにバージョン変更され、1991年には後に大流行する「ディレクターズ・カット」なる特別版が製作されるにまでいたったカルト中のカルト作品である。舞台は近未来2019年のロスアンジェルス。薄暗い風景の中に超高層ビルが林立し、酸性雨が常に降り続け、アジアから大量に流入した人々が、半ばスラム化した町並みの中で暮らしている。風景は常にどこか不鮮明で明瞭にものを見ることができず、しのつく雨が物語の全体を陰鬱なトーンでおおっている。
 未来都市と言えば、ドームにおおわれて晴天、透明パイプの中にエアカーが走るというステレオタイプの明るくドライなイメージは、この作品以前ずっと続いていた。だが、『ブレードランナー』1本で、SF映画やSFアニメの描く近未来がすべてダークでウェットなイメージに切り替わってしまった。
 では、そこを起点に置いているからボトムズはくだらないフィルムかというと、そんなことはないのは皆さんご承知の通りである。それは以下のスタッフの文面からも明白である。
「他人様の作品を下敷きに、なんて気は全くないし、やろうとしたってアニメの表現はおのずから違った世界を創りだしてしまう」(吉川惣司「ポンポンポンポン…」装甲騎兵ボトムズBGM集VOL2解説書 キングレコードより)
 ウド編のフィルムでは、巨大建造物の薄暗い底辺で暮らすひとびとは猥雑という言葉こそがお似合いの大衆、「夜の女」が何人も街角に立ち、町中で車座になってカードゲームが行われ、露店では異様な生物がペットとして売買されている。こういった街の点描は、確かに『ブレードランナー』を彷彿とさせる。
 しかし、そこに戦争の臭いを背負ったキリコのドラマが重なったら、どうだろうか? まったく違ったものが見えてくるのではないだろうか?

●ウドの街とバトリング

 戦争は人の流れを産み出す。金の流れをつくる。直接戦闘に参加しない者たちも集い、戦士にひとときの慰謝を与えたり、利用しながらたくましく生きていく。その様子がウドの街の乱れきった生活描写に織り込まれており、単なる暗さや無気力さではなく、奇妙な活気をフィルム全体にもたらしている。
 金が流れ、人が集まれば実権を握るものが出る。ウドの街では、腐敗の象徴として暴走族と市民を守るはずの治安警察が手を組み癒着している。貧富の差が激しくなれば、ガス抜きが必要になる。そう、ギャンブルだ。戦争が長引けば、戦争しか能のない者が増え、食うために命がけでローマの闘技場のように、ロボット同士の戦闘を見せて暮らす者も出るだろう。それが「バトリング」だ。
 こういった要素は、まったく『ブレードランナー』には関係がない。忘れてはいけないことは、『ボトムズ』がロボットアニメだということだ。単に『ブレードランナー』をロボットアニメ化するのであれば、映画に登場した未来車スピナーの位置につけて、人造人間を追う警官を主人公にすれば良さそうではないか。
 しかし、それはATには似合わない。フィリピンあたりを旅すると、街を走っている車が軍用車のお下がりばかりである。荷台いっぱいに鈴なりになって移動し、生活する人びと。中には軍とうまくやり、軍を利用してたくましく生き抜く者もいるのだろう。鋼鉄の厚みやリベットむき出しのATは、こんな風に社会の底辺にいながら明るく生きる者が、そばにいてこそ光るロボットなのではないか。
 完成したフィルム世界に準拠して上記のような思考を転がしたとき、雑多なことがピタリと符合して「大丈夫」な感覚を覚える。そんな状態を英語だと「メイク・センス」という言葉で表現する。ここまで来た「ウドの街」の持つ世界観は、もはやブレードランナー・イメージを大きく脱して「ボトムズ世界」としか呼べないものに一人歩きし、自動的にいろんな新しいものを語りかけ、発信してくるものに成長している。こうしたプロセスこそが、オリジナリティの獲得なのだ。
 となれば、「ボトムズの世界観は映画『ブレードランナー』にインスパイアされたものである」と表現するのが順当である。アニメを語るとき、パクリとパロディとオマージュとインスパイアを混同する風潮があるが、本来は区別をつけるべきものだ。ひとはまったくの無一物からものをイメージすることはできない。作り手も観客も同じである。その意味において、100%オリジナルなものというのは存在しないし、仮にあったとしても人間が容易に認識可能なものとはなり得ず、実用的でない。
「だいたいこんなイメージ」という出発点に、どれだけ多面的なイメージを練り込んであるか、全体としてどういうバランスが取れているかが、最終的には映像総体のもつ厚みとなって、印象に大きく作用する。ウドの街頭描写には、おそらく複数のスタッフによって、過去のいろんな映画のシーンや諸外国のイメージが無数にミクスチャされているに違いない。フィルムのテイストとは、この雑多なものが時間に沿って流れ、せめぎあって動く中から産み出されるものなのだ。

●ATの背負ったテイスト

 だからATにしても、軍で量産され固有名詞すら持たない兵器……などと、設定部分だけを突出して語っても、テイストを語るときにはあまり意味がない。実際には、ATとは軍のものでありながら、軍の中ではなく外に置いた方が似合うロボットのように思えてくる。それは、バトリングという要素から強く派生してくるイメージだ。
 ATと言えば、強化プラスチックではなく鋼鉄で出来ていて、ロールアウトした新品の状態ではなく、どれも戦闘でくたびれ果ている感じがする。装甲がへこみ、塗装は錆びてはがれ、搭乗者が間に合わせのパーツを寄せ集めてさまざまにカスタマイズしているような共通認識としてのAT像があるだろう。実際にアニメの画面では、セルアニメの限界もあって、ここまで表現した描写が少ないのに、共通認識が持てるということは、ATと世界の相互作用が「バトリング」という状況を媒介にうまく行って、独自性を放ち始めた証左なのである。
 ATがロボットデザインとして持つ独自性の中には、目に相当するターレット状のレンズとアームパンチ、降着ポーズが列挙できる。ここで注意したいのは、そういったギミックも、文章なり静止画で設定されているから魅力的なのでは、決してない、ということだ。特徴あるアクションをともなう、という共通項に気づけば、それは自明だ。
 レンズは、表情を持たないはずのロボットの視線の移動、注視、回転させたときのレトロ的な「らしさ」の表現に使われている。アームパンチの薬莢が飛び出す仕掛けは、鋼鉄のかたまりのロボットとロボットが格闘するときに、「すごい力で殴った!」という感じが、拳銃発射で誰もが知っている薬莢排出のイメージを重ねられるからこそ、採用されたものだろう。降着ポーズも、大事なのは機構ではなく、機械と人との大きさの比率、乗り込むときの距離感、戦闘時に「あそこに人がこれぐらいの大きさで乗っている」という感じを出すのに適したものなのだろう。
 フィルムは、動く映像で演