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2006年11月28日 (火)

マジンガー the MOVIE

題名:銀幕狭しと暴れるスーパーロボット軍団!

 マジンガーZとゲッターロボ……永井豪と石川賢の生んだ2大ロボットから、巨大ロボットアニメのブームが起きた。そして今日にいたってもキャラクターは「スーパーロボット」という愛称で、ゲームに景品にと再生産され続けている。
 1本目に上映予定されている『真(チェンジ!)ゲッターロボ』も、そんなリメイク作品の一本だ。24年前のアニメ版作品はすこし忘れよう。そのころ、まだスプラッタ・ホラーなどはそれほど流行していなかった。しかし、石川賢のコミック版は血しぶきとバイオレンスに彩られた恐るべき作品だった。そのテイストを軸にして、コミック版のストーリーとも違うまったく新しいゲッターの世界を作ろうとした意欲作だ。ビデオアニメにして1500円という信じられないプライスも話題騒然。現在進行形の新作である。
 2本目以降は、巨大ロボットブームまっさかりに、「東映まんがまつり」で公開されたマジンガーシリーズの劇場アニメ・バージョンである。
 これが連発でイッキ上映されるのは、かなり珍しい試みではないか。ゴジラを擁した東宝の「チャンピオンまつり」と双璧の「東映まんがまつり」。このイベント、学校休みのシーズンにしか見られない、まさに「お祭り」の気分にあふれていた。休み明けはどちらへ行ったか、それで新学期の流れが決まってしまう。東映は一貫して子供向けの作品を映画にテレビにと流してきた歴史がある。その点でも、子供の心をつかむのにノウハウがあったのだ。
 「映画館までわざわざ見に来るのだから、映画でしか見られないものを」
 この一見して当たり前の精神が、劇場マジンガーシリーズには満ちている。
ビデオではダメだ。みんなと興奮が共有できる劇場の銀幕でなくては。
 劇場マジンガー1本目は『マジンガーZ対デビルマン』(73年7月)。当時、人気のうちに放映終了していたデビルマンと当時人気最高潮、現役のマジンガーZが共演する。これでワクワクしない子供はいない。しかも、「空からの攻撃に弱い」Zのサポートメカ、ジェットスクランダーはテレビより早いお披露目だ。デーモン族が復活し、ドクター・ヘルと手を組んだ。その脅威の前に、不動明は、兜甲児はどうするのか。
 2本目『マジンガーZ対暗黒大将軍』(74年7月)も仕掛けが凄い。無敵を誇った超合金Zの全身をボロボロにしながら戦うZと兜甲児の勇姿に涙いっぱいの傑作だ。獣魔将軍のひきいる暗黒ミケーネ帝国7つの戦闘獣軍団。その強さに耐えながら戦うマジンガーZは震えるほどにカッコ良い。そのピンチに現れるのは、すでに放映決定していた続編のグレートマジンガーだ。一足さきに銀幕に登場させてしまったというわけだ。この作品はもうひとつの『マジンガーZ』最終回でもある。
 東映まんがまつりバージョンは、どの作品もテレビとは微妙に異なる設定のパラレルワールドだ。独自の世界を持っている。
 『グレートマジンガー対ゲッターロボ』(75年3月)と『グレートマジンガー対ゲッターロボG・空中大激突』(75年7月)は、謎の宇宙円盤からの侵略に二大ロボットチームが、ちょっぴり反目しながらも協力して戦う2本連続のストーリー。前者の敵が宇宙怪獣ギルギルガンで、後者の敵が結合獣ボング・光波獣ピグドロン。ムサシが死に、早乙女研究所が崩壊して新設されるエピソードも後者では劇場用にわざわざリメイクされている。作画監督に小松原一男を迎え、「空中大激突」では金田伊功と並ぶエフェクトの名手、友永和秀が原画を描いているのもみどころだ。
 「空中大激突」と公開当時は同時上映だったのが、『宇宙円盤大戦争』。泣かせるメロアニメでは日本一の演出家、芹川有吾があますところなくその天分を発揮した作品で、異様に気合の入った濃密な悲恋ドラマが見られる。主人公デューク・フリード(声はささきいさお)の設定など後の『UFOロボ グレンダイザー』のパイロット版的な位置づけの作品だ。主題歌も、カラオケ同一でエンディングや挿入歌に流用されている。主役ロボットは、UFOスペイザーと合体できるロボイザーだ。
 『UFOロボ グレンダイザー対グレートマジンガー』(76年3月)は、ミケーネとの戦いが終わってロボット博物館に展示されていたグレートマジンガーを、ベガ星親衛隊長バレンドスが強奪。グレンダイザーと戦うというストーリー。「ロボット博物館」という設定が誕生したのはこの作品である。この映画では、原画マンの友永和秀によるバレンドスのワイルドな表情、捕らえられた兜甲児が光線をよけて踊るコミカルなアクションが実は楽しい。
 シリーズ最後となったのは、『グレンダイザー ゲッターロボG グレートマジンガー、決戦!大海獣』(76年7月)。ついに三大ロボットが競演。兜甲児はマジンガーZでなくてダブルスペイザーなのは残念。しかし、ボスボロットやビューナスA、ダイアナンAも客演で、非常に豪華である。
 専用主題歌「いざ行け!ロボット軍団」が熱血していて燃える。この歌詞で初めて「スーパーロボット軍団」という言葉が登場し、いまにいたるのではないか。歌詞に全ロボットが日本製であるかのようなバグがあるのはご愛嬌(笑)。
副主題歌ともども菊池俊輔によるロボットアニソンひとつの頂点である。カラオケにぜひ入れて欲しい。
 劇場マジンガーは、すべてシネマスコープサイズだ。今のどことなくケチくさいビスタサイズや、映画サイズをまったく無視した比率のワイドテレビとは比較にならないほど視界が広い。そのサイズのすみずみまで活かしたワイド感あふれる画面構成にこそ注目だ。
 特に壮絶なのは、『Z対デビルマン』冒頭の機械獣との戦闘シーン。『暗黒大将軍』のクライマックス、Zとグレートのコンビネーションバトル。戦いで折れた斧が画面手前につきささる迫力を見よ。雷鳴が大地を切り裂く光景に驚け。いまのロボットアニメが忘れかけているパワフルさがここにはしっかりと記録されている。オリジンならではの魅力である。
 もう一度「お祭り」を楽しみたい世代も、ゲームやガシャポンでしかスーパーロボットを知らない世代も、いっしょになって銀幕に声援を送って欲しい。
それが銀幕に帰ってきたヒーローたちへの何よりのエールになるだろう。
【初出:不詳/1998年ファンタスティック映画祭のオールナイト用原稿だと思います】

※以下のバラとBOXは共通の映画が含まれています。BOXの方が特典ディスクが多いはず。『真ゲッターロボ』は近々再リリースされるようです。

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2006年11月27日 (月)

冥王計画ゼオライマー

題名:究極のロボットアニメ

 『冥王計画(プロジェクト)ゼオライマー』はバブル崩壊の直前、1988年の作品である。テレビでは全盛を誇ったロボットアニメが途絶え、オリジナル・ビデオ・アニメも5年目を迎えて黎明期のクリエイター中心大作主義から、30分の連作へと主流が移っていた。一方、新しく若い才能が活躍の場を与えられ、野心に満ちた作品も現れ始めていた。そんな節目の時代の中で、本作は「究極の巨大ロボットアニメ」として登場した。
 この作品最大の魅力は、巨大ロボットの魅力が作品の中心に根ざしているところである。ロボットアニメにおいては、本来巨大ロボットは添え物ではなく、物語を動かしていく主役キャラクターであるべきだ。一見当たり前のようであるが、これが守られているロボットアニメが何本あるのだろうか。
 元祖『マジンガーZ』では、主役は神にも悪魔にもなれる力を持った巨大ロボット、マジンガーZだった。ストーリーは超合金Zの争奪戦が中心で、その基本ラインに乗せて巨大ロボット同士のバトルをどう展開してくれるかが各話の味つけだった。
 『ゼオライマー』はこのセオリーを遵守し、ロボットアニメとして見せるべきところに映像的工夫を加えてしっかりと見せた上で、現代人が抱える「アイデンティティ」の問題をサスペンスに満ちたドラマ、すなわち「自分自身が敵と味方に分かれて世界を賭けて戦うゲーム」として描いた。このテーマも登場人物と各個の操るロボットの関係性に絡め、八卦ロボ中特異な能力とストーリーの根幹に関わる秘密を持った「天のゼオライマー」の存在を主役にきちんと位置づける周到さである。ロボットアニメは無数にあるが、ここまで突き詰めた作品は少ない。
 では、本作のロボットアニメとしての具体的な見どころについて述べてみよう。
 まず八卦ロボは、実体を感じさせる描写が非常に魅力的である。第1話の登場シーンでは、雷鳴を背景に、腕を組んで中空に浮かび、鉄甲龍要塞の上にただ立っているだけで実に格好良い。シルエットは中国テイストを意識してか、それぞれ「二つ名」の象形文字のラインを感じさせる。ストライプによるアクセントと胸に輝く球形コアは、全ロボットが共通化に持つもので、「同一設計者によるロボット」ということが視覚的に強調され、ドラマとロボットを密接に結びつけていた。
 戦闘に入ると、八卦ロボは実在するもののように大きく、パワフルに感じられる。画面構成(レイアウト)は、人間の目の高さのカメラポジションを意識して、八卦ロボを下から見上げたアオリの構図がほとんどで、圧迫感を覚えるほどだ。照明(ライティング)もほとんどのショットで光源がロボットの足元に設定され、下から上へ照らすような効果となり、顔面は黒ベタで潰されることも多く、巨大感とともに畏怖を感じさせてくれた。
 菊池通隆が絵コンテと作画監督を兼任したACT2では、この効果が多用され、巨大ロボットのバトルシーンに新境地を拓いた。富士山周辺に住む一般市民の生活環境で、ロボット同士の戦闘が始まるパニック状況を、緻密な構図を積み重ね、攻撃と被害を細かく追ったことで、激しい臨場感が発生した。特に、そびえるゼオライマーの足元には霧、手前には植え込み、電柱と電線、見上げる避難民、そしてトラックのバックミラーにも恐怖の一般市民の顔が写り込むショットの重層構造は、歴史に残る名構図である。
 巨大ロボットのギミック(仕掛け)描写も、ロボットのメカニズムらしさを強調し、機械としての魅力を存分に引き出していた。手足のパーツを合体しながら出撃していくゼオライマー、ブライストとガロウィンが一体となって放つ必殺技「トゥインロード」、ローズセラヴィーの巨大ビーム砲「Jカイザー」……巨大メカニズムが豪快に変形し、合体して力を解放する快感と、ドラマの盛り上がりが一体化していく。これもロボットアニメならではの快感である。
 ロボットの流れ弾で多数の死傷者が出る冷徹な描写の中で、登場人物の繰り広げる愛憎劇が、ゼオライマーの必殺技「メイオウ攻撃」によって、すべてが消滅していく。本来カタルシスとなるべき敵へのとどめ、主役メカ最大の見せ場が、妙に切なく虚無を覚えるものとなっている。
 この逆説的な感覚が、この物語ならではの「味」である。それは、本作がロボットアニメとしてやるべきことを十全に行ったからこそ、生まれたものなのである。
 アニメは、ジャンルの細分化とニッチ化、些末主義に陥る指向がある。歴史の中で何度もそういうことが起きた。その中で、基本を踏まえ、見せるべきものは突き抜けるまでしっかりと描き、さらに主張したいことをその上で物語る。そうあって欲しいものだ。
 そんなことを頭の片隅に置き、「究極のロボットアニメ」を存分に楽しんで欲しい。
【「冥王計画 ゼオライマー コンプリート」DVD解説書 脱稿 2001/4/20】

※脚本:會川昇、監督:平野俊弘、キャラクターデザイン:菊池通隆のOVAです。「隠れた傑作」みたいに思っていたら、いつの間にかフィギュアも出る人気作になっていて、ちょっと嬉しいです。「スパロボ効果」だとは思うんですが……。

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鉄人28号(太陽の使者)

ブラックオックス(鉄人28号・新)

<リード>
心を持った黒き巨人
その優しさに言葉はいらない

■最強の敵は最強の友

 横山光輝の『鉄人28号』は都合3回アニメ化された人気作品だ。99年初夏、3作品各2体、計6体がHGガシャポン化された。選定した担当者は実に鋭い。3作品の「鉄人+オックス」を組み合わせて商品化したのだ。
 オックスとはブラックオックスのことだ。頭頂部の両側に巨大な二本の角を有し、全身を黒いカラーリングで包んだ鋼鉄の貴公子。鉄人28号のライバルにして最強タッグを組んだ友である。
 最強の敵が、一度は破れた後に味方になる「昨日の敵は今日の友」パターン。これは、少年ジャンプ系のコミックが80年代に大流行させた。そのロボット版とも言うべきものは、60年代の『鉄人28号』ですでに完成されていたわけだ。
 ブラックオックスの人気は鉄人本体より高い。たとえば『機動警察パトレイバー』に登場し、巨大な角を持った黒いレイバー、グリフォンはデザイン段階ではデザイナーの出渕裕に「オックス」と呼ばれていたそうだ。OVA版『ジャイアントロボ』では、庵野秀明作画によるブラックオックスが、霧に包まれて「ガシャン! ガシャン!」とビル街を歩いていた。これらクリエイターたちの少年時代に、強い印象を残した黒いロボットだったのだ。

■太陽の使者版ブラックオックス

 80年のリメイク版『鉄人28号』は、通称『太陽の使者版』と呼ばれている。1年間の放映の後半は、ブラックオックスがらみの話で盛り上がっていた。
「心を持ったロボット」という切ないテーマは、「いいも悪いもリモコン次第」の鉄人本体とのコントラストを得ていっそう明白になった。ことにオックスの死に様は鮮烈な印象を持ってぐっと迫ってきた。太陽の使者シリーズは、オックスなしには語れないと断言できる。
 初登場は第34話「最大の敵!ブラックオックス」。不乱拳博士はX団のヘンケル司令の力を借りて自分の理想とする「心を持つロボット」を建造していた。たとえ悪人の力を借りようと、心を持っていれば正しいことをすると信じ、不乱拳博士はは未完成なオックスを敷島博士に託して死んでいく……。
 第36話「宿命の対決!鉄人対オックス」では、ヘンケルの弟ガンガルが不乱拳博士に変装してオックスをだまし、鉄人と戦わせる。オックスの強さがここで浮き彫りになる。目からウネウネした凶悪なビームを放射! 戦車も航空機も壊滅的な打撃を受け、出動した鉄人も左腕をもぎとられてしまうのだ。
 この回はスタジオZ5・No.1による華麗なメカ作画が絶好調。山下将仁・越智一裕作画のパワーが炸裂し、オックスの強さをあますところなく描いていた。結局、本物の不乱拳博士が講演するビデオを見てオックスはだまされていたことに自らの判断で気づき、鉄人と再度共同戦線で逆転する。このように、無敵を誇る鋼鉄の身体に、幼くもけなげな魂が宿っているというアンビバレンツな有様が、なんと言ってもオックスの魅力なのだ。

■ブラックオックスの最後

 ロボット博物館に収蔵されたオックスは、鉄人とタッグを組んで何度か戦いに勝利を収める。一方、宇宙魔王とグーラ王子の地球攻撃が本格化、その中でついにオックスとの別れが描かれるときが来た。
 第49話「さらば!ブラックオックス」では、ロビーによって催眠装置がオックスに取り付けられ、電磁光線で要塞都市を攻撃中の鉄人を追いつめていく。鉄人捨て身の攻撃でオックスは正気に戻った。ここでオックスの持つ心が、逆に悲劇を招いてしまう。
 オックスは傷ついた鉄人を横たえると、要塞都市の地下の火山脈を攻撃する。ところがグーラ王子は一枚上手だった。オックスを葬り去るために要塞都市を自爆させてしまったのだ。
 激しい光に包まれるオックス……。
 この先の描写は、涙なしには語れない。爆発だけでもオックスがやられた!というショックがある。だが、もっと視聴者の度肝を抜くような冷酷な映像が展開するのだ。
 空中から回転して飛来する何ものかがある。それがバンッ!と地面につきささると、それはなんとオックスの顔面のパーツだった!
 ロボットが破壊され最後を迎えるシーン数々あれど、インパクトという点では、これほどのものはないだろう。オックスは心があった。だから自分の判断で人間のために捨て身の攻撃をした。結果、鋼鉄の身は破壊され、その顔面自体が墓標となった。
 だが、われわれは知っているのだ。最後のその描写がロボットらしく即物的であればあるだけ、オックスの心がどれだけ高貴に輝いていたか、を。衝撃の映像に対する驚きが、とりもなおさずオックスに対する最大の賞賛なのだ。一瞬の映像で深く刻みつけられた傷は、我らが生命のないものにも共感できる魂をもった証明でもあるのだから。
 私の執筆用パソコンの上には、ブラックオックスのHGガシャポンが並んでいる。体型は腰がくびれていてもっとスマート、顔は彫りが深く、憂いを持っているようでもある。つい感情移入してしまう自分……。
 まさに巨大ロボット史上最大の「2番手」ブラックオックスは、心の有様を見せつけてくれた勇者だったのだ。【初出:ムック「No.2キャラクター伝説―二番手英雄伝」(双葉社) 1999年10月】

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2006年11月26日 (日)

ベルサイユのばら

アンドレ(ベルサイユのばら)

<リード>
光と影……離れられないもの
二人はひとつなのだから

■光と影の演出に愛は映える

 『ベルサイユのばら』はオスカルが主人公である。
……と言い切ってしまうと何か違った感じがしないだろうか。
 そう、この物語は「オスカルとアンドレ」こそが主役なのだから。副主題歌にもあるように、オスカルとアンドレは「光と影」。同じ形をした、二人でひとつの存在だ。
 マリー・アントワネットは物語構造上での2番手キャラと言える。だが、1番手キャラと一体になって支える存在、主役を浮き彫りにするアンドレこそ、真の2番手キャラではないだろうか。
 『ベルばら』は池田理代子のコミックを原作に宝塚でブームとなり、外国人をキャスティングした実写映画と、何度かメディアに進出している。アニメ版は当初約1クールは長浜忠夫監督、それ以後は出崎統監督と途中監督交代というアクシデントがあるなど、放映時は不遇であった。後に再放送によって中高生の間でブームとなり、『ベルばら』は時を越えた古典的コミックとなったのである。
 男装の麗人オスカルは貴族の生まれで王族を警護する近衛隊。アンドレは幼なじみでオスカルを慕ってはいるものの、平民の出である彼とオスカルが結ばれることはあり得ない……はずだった。フランス革命さえなければ。
 オスカルの仕える王妃マリー・アントワネット……その圧制とスキャンダルに対する民衆の不満は爆発寸前だった。オスカルを護りたい一心で、アンドレは近衛隊に志願し、近くにいようとする。オスカルが輝く光ならば、アンドレは影で近くいようとした。
 この決意が、二人のコントラストをいっそ鮮やかにしている。やがて来るクライマックス、二人が結ばれる瞬間を頂点として……。
 出崎統監督になた後半は、画面が一新された。光と影のコントラストがより強調されるようになった。
 外を歩くキャラクターにはまぶしい入射光が。窓は全面透過光に輝き、鳩の群が通り過ぎる。翳りもまたフィルムの上に強く現れる。画面の半分近くを覆う暗い影(パラフィン)。時に大胆に黒ベタに光だけで処理された画面。
 時間は緩急自在に、ときにはスロー、ときには三回繰り返しの引き。そして感極まった瞬間が描き絵(ハーモニー作画)となって画面に定着し、時間を凍結する。
 この演出作法が、オスカルとアンドレを中心とした「光と影」をさらに鮮やかにしていったのである。

■肖像画に見る真実の姿

 第37話「熱き誓いの夜に」は、シリーズ上のクライマックスだ。
 テレビのアニメ特番で「名場面」としてこの回、オスカルとアンドレが川面に映る蛍の光をバックに結ばれるシーンがよく取り上げられる。表現としても裸で抱き合うのは、当時、衝撃的映像だったので無理もない。
 しかし、本当のクライマックスはこのシーンではなく、直前アンドレが見た肖像画のシーンにこそある、と私は確信している。
 胸の病で死期が近いことを知っていたのか、オスカルは画家のアルマンに肖像画を描かせていた。完成した絵には、それは白馬に乗り剣をふるう軍神マルスの姿をしたオスカルがいた。水のような静けさの中に秘めた情熱を、アルマンは表現したのである。
 アンドレはオスカルを護るために目をやられ、ほとんど失明寸前だった。オスカルを心配させまいと、眼の病を隠しているアンドレは、絵の感想を求められて語った。
「美しい……たとえようもなく……輝くおまえの笑顔が。この世の光をすべてその身に集めているようだ……。(中略)すばらしい絵だ。おまえの優しさ、気高さ、そして喜びまでもが、すべて表現されている……忘れない、おれは……この絵にかかれたおまえに美しさをけっして忘れない」
 この言葉を聞いて、オスカルは涙をとめどもなく流すのだ。
 アンドレの語った言葉は実際の絵とはことごとく異なっている。アルマンの絵ではオスカルは笑みをたたえていないし、優しさもそこにはない。
 アンドレが見えない目で観た絵は、心でつかんでいたオスカルの姿、子供の頃から追いかけていたオスカルの心の美しさに満ちあふれていた。花と月桂冠に飾られたオスカルのもうひとつの肖像画は、同時にオスカルにも共有される。男装の麗人・軍人としてふるまってきたオスカルの凛々しさでなく、優しさ・高貴さ・喜びといった女性らしい美しさに彩られていたことが、何よりオスカルには嬉しかった。自らも目を背けていた自分の真実がそこに発見されたからこそ、オスカルは心を開いて涙する。その涙は、アンドレと自分がひとつの存在と悟った愛の涙なのだ。
 この「見えない絵」を通じた交流、ふたりの心がひとつになる瞬間こそが、物語全体でのピークとなる「愛の形」の完成なのだ。肉体的に結ばれるシーンは、確認のために用意されているに過ぎない。
 ということで、アンドレこそは主人公をこのような愛の形で包みこんだ至高の2番手キャラなのである。
【初出:ムック「No.2キャラクター伝説―二番手英雄伝」(双葉社) 1999年10月】

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2006年11月25日 (土)

OVA20周年(AX東京)

《未発表原稿》

AX東京 OVA20周年討論 レジュメ(案)
                     2004.01.13 氷川

●ビデオの状況
 ・ビデオデッキの本格普及は1980~81年ごろ
 ・デッキ=20万円
 ・テープ=2000~3000円
 ・1982~1983年には高額のレンタルビデオ屋が開店
 ・レンタル代:定価の10%(1500円くらい)
 ・LD時代の予感(83年ごろか?)
 ・ビデオソフト商売の端緒
  →「幻魔大戦」('83)は公開と同時にソフト販売
   「ナウシカ」('84)にいたっては、LDを同時販売

●OVA前史
 ・70年代終盤:テレフィーチャー・アニメ形式が発生
 ・24時間スペシャル、日生など大スポンサー
 ・1982年のマクロスにも名残(1,2話の同時本放送など)
 ・エモーションレーベルの誕生
  →厳選された作品群。内外、特撮への目配り。
   それまではメーカー側のロジックだったのが、ファン寄りになった
 ・模型雑誌との連動開始(モデルグラフィックスの表4広告)
 ・バンダイ:2次商品→1次商品への転換

●OVAへの期待
 ・作家性の熟成 → もっと自由に作ったものが観たい
 ・コマーシャリズムからの解放 → アリバイとしての玩具不要論
 ・TVコードからの解放 → 暴力、セックスなどのアダルト描写
 ・権利の問題:作家への還元(実際には稀少)
 ・総じて「可能性」を信じていたのだが……

●ダロス(1983年)
 ・月面都市における階級闘争話
 ・戦後日本の縮図的な描写(三鷹事件の模写など)
 ・売れ線ねらいのデザインライン:安彦調、ガンダム声優など
 ・鳥海永行(ガッチャマン)+押井守(うる星)
 ・当時、押井監督は『うる星TV』と『ビューティフルドリーマー』の
  三本建て体制
 ・作画のピーク→山下将仁のアクション、エフェクト
  (スタジオぴえろは『ニルス』等の動物、生活描写派だった)
 ・HiFi以前。でも仕様はステレオ。
 ・30分7800円(6800円だったか?)
(Negative side)
 ・分割発売だった
  →遅延に継ぐ遅延
  →30分増えて、4部作になった
 ・話数順でない発売
  →ストーリーよりも映像偏重
 ・難解なストーリー
(Point)
 ・バラまかれる薬莢 → 「マトリックス」への影響

●メガゾーン23part1(1985年/3)
 ・23=東京23区
 ・美樹本 晴彦+平野俊弘+石黒監督
  (マクロス人気を引っぱる形で)
 ・バイク変形
 ・バーチャルアイドル
 ・主人公が負ける蹉跌の物語

●魔法の天使クリィミーマミ ロング・グッドバイ(1985年/6)
 ・「永遠のワンスモア」84/10 総集編+後日談
 ・人気作品の続編をビデオで(の走り)
 ・映画撮影のバックステージもの
  →立体物展開とのマッチング(B-Clubなど)
 ・スタジオぴえろ+望月智充監督
  伊藤和典+高田明美
 (押井監督もモデル出演)

●戦え!イクサー1(1985年/10)
 ・立ち上がった市場の受け皿的作品
  レンタル屋 → アダルトとスプラッター
  マンガで美少女エロ → レモンピープル(久保書店の出資)
 ・作画で肉と粘液が描写可能に
 ・平野俊弘が監督:特撮感覚の横溢
 ・音楽:渡辺宙明

●メガゾーン23part2(1986年/5)*劇場(落ちた)
 ・梅津泰臣にキャラが変更。監督は板野一郎。
 ・具体的ブランド描写の走り:ビールがハイネケン、バドワイザーなど
 ・アダルト志向の強化(ベッドシーンが劇場のみでカット)
 ・グロテスク描写

●ガルフォース(1986年/7)*劇場
 ・園田健一キャラ
 ・アートミック全盛期
 ・美少女しかいない設定
 ・動物的ヒロインの走り

●ブラックマジックM-66(1987年/6)
 ・北久保弘之監督
 ・士郎正宗:原作者のこだわり(直筆コンテ、ナウシカの影響)
 ・リアリズム作画の端緒(沖浦啓之氏)

●トワイライトQ 迷宮物件FILE538(1987年/8)
 ・トライライトゾーン+ウルトラQ-ウルトラゾーン
  (日本のアウターリミッツ=ウルトラゾーン)
 ・ディーン制作
 ・背景を写真加工:後の写実的背景の先がけ
 ・虚実混淆の物語

●機動警察パトレイバー(1988年/4)
 ・86~87年ディザースターからの回復 → ブロックバスター
  4800円、CM入り
 ・30分 全6話フォーマットの確立
 ・限りなくTVアニメに近いレベル、尺、内容
 ・クリエイター集団:ヘッドギア
 ・押井守監督、第二の出世作

●トップをねらえ!(1988年/10)
 ・パトレイバーとのコンペティション
 ・庵野監督デビュー作
 ・オタク的要素の集大成 → SF風味
  ガイナックスの芸風まんま(ダイコン以来)

●ジャイアントロボ(1992年/7)
 ・『宇宙戦艦ヤマト』の末裔
 ・小林誠メカ
 ・今川泰宏演出
 ・レトロキャラ+荒々しいアクション
 ・完結までに6年がかり

●天地無用!魎皇鬼(1992年/9)
 ・AIC作品
 ・思わぬ伏兵的にヒット
 ・第二世代『うる星やつら』的要素
 ・女の子回転寿司状態、温泉話などなど
  90年代中盤以後のギャルアニメ、ギャルゲーの雛形
 ・複雑多岐な続編(何本あるんだ?)

●青の6号(1998年)
 ・フルデジタル、メカフル3Dポリゴン、5.1ch
 ・究極の「ハイターゲット」作品か?
 ・前田真宏監督
 ・GONZOの方向性を決めた作品

以上です。

【初出:AX東京 2004年1月 トークショー用のレジュメ】

※これをもとに、壇上では井上博明氏と掛けあいでトークを行いました。作品名の上がっているものについては、編集済みのビデオを流しながらでしたし、通訳が入ったりする関係で、まったくこのとおりには進行していません(笑)。メモの開陳で恐縮です。

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2006年11月23日 (木)

アリーテ姫

題名:SFオンライン『アリーテ姫』レビュー原稿

 SFに何を求めるかは人によって様々であるが、もし知的冒険を求めているのであれば、ぜひお勧めする。それがスタジオ4℃制作、片渕須直監督の長編アニメ『アリーテ姫』である。
 作品の舞台は、一見中世のファンタジー風に見える世界。かつて栄華を誇っていたという魔法使いの末裔が、姫を囚われの身にする……なんてうっかり書いてしまうと「またか」と思われるだろうが、ところがどっこい、これはSFなのである。これくらいちゃんとSFしているアニメは、恐らく他にはないのではないだろうか。
 「充分進んだ科学は魔法と見分けがつかない」とはSF作家クラークの発言だ。最近ではラリー・ニーヴンをよく読み返しているという片渕監督は、本作品をアニメ化するときに、やはりこの言葉を意識したという。
 変身の魔法は遺伝子操作によるもので、水晶球にはプログラムが仕掛けられ、地表に降る星はかつて人が宇宙に暮らしたあかし……だが、おとぎ話のアイテムをSFギミックに置き換えたことが重要なのではない。これは「SF的方法論によるスペキュレイティヴな作品ですよ」というサインなのだ。
 なぜなら、この作品の主張は、「充分に進んだ科学による魔法をさらに凌駕する……そんな本当の魔法がある」ということなのだから。それが何かは、ここでは言えない。各人で確認する経験そのものも、この映画の放つ魔法の一部で、それをうかつな言葉で消してしまうわけにはいかない。申し訳ないが、SF好きなら絶対に損はしない貴重なワンダー体験を保証する。
 この作品に、ハリウッド映画的「事件」はほとんど起こらない。姫が囚われの身となり、自由になる。それだけの物語だ。しかし、それだけのことに何重にもこめられた意味性、多面的な仕掛けが、次第に知的な興奮をもたらすと、病みつきになる。その興奮は、映画が終わってもずっと続く。なぜなら、この映画は自分の人生と地続きになっているからだ。これこそが知的冒険であり、それを事件として楽しまないのは損である。
 このプロセスの根底に流れているのは、SFの持つ発想の自由さであり、思考方法の相対化が見せる解放感が、この映画には確かに存在するのである。
 もうひとつ別の角度からのご推薦。この映画は、人生も折り返し点にさしかかり、「自分の人生これでいいのだろうか」「自分にこれから何ができるのか」という悩みを改めて持ち始めた中年の方々に最適である。かくいう筆者も、実は会社を辞めて独立した直後に観たのだが、「もっと早く観ていたら、もう少し気が楽だったかなあ」、と思ってみたり、「そうだよなあ」なんぞと納得をしつつ、暗闇でうなずいていたりしたのであった。かと言って、説教臭さはまったくなく、スリリングな経験の中でのことなので、念のため。
 『アリーテ姫』という作品の特異な面白さが、少しは想像できたであろうか?

  ×   ×   ×

 さて、編集部のリクエストで、この作品の映像表現についても述べておこう。
 本作品は仕上げ以降の工程がフルデジタルで制作され、セルは使用されていない。だが見た目のほとんどのカットは、一般のセルアニメの伝統にのっとって制作されており、ことに背景は筆目を意識した仕上がりに徹底している。
 何カットか、デジタルの特性を活かしたカットがあり、セル画の撮影台では不可能な表現をものにしている。片渕監督は、同じスタジオ4℃の『MEMORIES-大砲の街-』(大友克洋監督)の演出/技術設計を担当した経験を持つ。これは全編が1シーン1カットで描かれた特殊なアニメだが、実際にはデジタル箇所は少ない。そのデジタル使用箇所が、タイトルの出るカットで背景を廊下のような3D空間に貼り込んだものであった。
 『アリーテ姫』でも場面のいくつかに同様の発想を応用している。3DのCGIに背景を貼り込み、セルワークと一体化して、並んだ人の手前をカメラが駆け抜けていく映像や、円筒形の牢屋の内壁をなめるようにして底に座っている姫を回り込む映像をものにした。城下町の家々が折り重なった映像については、これは2Dの絵で描いた建家を3D空間上で看板のように立てて、それを視点移動したものだという。要するに、マルチプレーン撮影をパンフォーカスにしたもので、建家自体が3Dで描かれているわけではない。
 デジタルの恩恵は、一般的には300色以下のセル絵の具の色数限界を突破したことにも効果的に使われている。具体的には、いくつか登場する魔法のアイテムでの金属色の表現で、動きの中で微妙に光り具合が連続的に変化することで、セル風の絵なのにセルでは絶対に出せない微妙な色合いを実現している。これもモニタ上での確認が可能にしたことであるという。
 こういったことすべては、実はテーマと一体となった方法論なのであるが、内容に触れすぎてしまうので、ここでは詳述は避ける。
【初出:SFオンライン 脱稿:2001.06.17】

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セルアニメ、デジタル進化の系譜

※1999年ごろ=「セルアニメの末期」時期の原稿のため、最新状況などとは異なり、用語も一部違っている部分があると思います。あくまで「当時の情報」として再掲します。

◆アニメはそもそもデジタルなのだ

 まず確認しておきたい事実がある。それは「セルアニメーション」という表現自体が、本質的には「デジタルな」表現様式であるということだ。
 映画が現実に存在する物体の三次元空間と質感とアクションを実体として撮影するのに対し、アニメーションはそれを「絵」によって模擬しようとする。三次元空間は、二次元の透明なセルの重なりとして置きかえられる。質感は、ベタな絵の具数百色の弊領域・平面の組み合わせになる。アクションは、フィルムのコマ単位に時間と空間が分解されて描かれる。
 これらが本質的に「デジタル化」と等価であることは容易に想像できよう。
 セルアニメーションには模擬的なものであるがゆえの限界もある。表現者は常にその限界に悩み、突破しようと模索してきた。好例がマルチプレーン撮影である。セルアニメの平面の限界を超えるために、複数の対象物をやぐらのように立体的に配置して、トラックアップ時に奥行きを感じさせようとする試みである。
 したがって、右図・右表に示すように、アニメに電子的な表現を導入しようとした歴史も意外と古い。アニメ界の老舗タツノコプロなどは、かなり以前から実写やミニチュアとの合成やストロボ効果、透過光などの特殊撮影、あるいはタッチ・ブラシなどの特殊なテクスチャ仕上げといった手法でセルアニメの限界を超えようと実験していたのである。

◆デジタルによってアニメ表現は変わるか

 単純な帰還回路による初期の電子変形(スキャニメイト)から、コンピュータの導入にいたったのが、第二のデジタル化ショック。機械の演算によって初めて可能になった表現とは、上述のセルアニメの限界突破だった。すなわち、手描きでは困難な三次元の回り込み、1コマ撮影によるフルモーション、ライトアップによる微妙な質感表現、複雑な形状の変形などが選ばれていた。それらと平行して単純な省力化であるデジタルペイントの模索があったことは興味深い。
 1980年代前半にすでにメジャーな方向性は出ていた。これに「従来の撮影台の限界突破」「デジタルの質感を表現として利用」を加えたあたりが、現在の方向性の中心だろう。
 近年ではコンピュータのダウンサイジング、コストパフォーマンスの向上、ネットワークによる統合が急速に進んでいる。フルデジタル化への環境が整った上に、セルの生産中止、テレビ局へのデジタルビデオによる納品の促進など、デジタル化はもはや業界の潮流となってきている。機械出力ゆえにセルアニメと融合せず、いびつなものにもなりがち、という問題も解決しつつある。
 生活全体にデジタルが浸透している以上、デジタルでの表現そのものがデジタル世代の観客の生理とマッチするということもあるかもしれない。
 一方では、デジタルで何でもできるようになったという錯覚により、疲労を呼ぶ映像も増加しつつある。例えばフォロー・パンで済みそうなショットなのに、わざわざ画面全体をグルグルと回してみたり、必要以上にテクスチャを複雑にして視線を散漫にしてみたり、ショットの切り返しがつながらなかったり。映画の基本を無視した落ちつかない映像も、増加している。
 デジタル技術そのものは何もしてくれない。今いちど映画の原点、アニメの原点に戻り、「表現したいこと」を視座に据えた上でデジタルの適切な使い方を考える時期ではないだろうか。

▼年表---------------------------------

主要作品年表
Histry of Digital Animation in Japan

●1975年
『宇宙の騎士テッカマン』
オープニングでキャラクターが幾何学模様に変形したり、宇宙船が飛行するシーンを拡大・縮小するのを、コンピュータ演算ではなく、ビデオ信号を応用した電子機器で表現した。これらの表現方法は、同年『タイムボカン』のタイムトラベルのシーンに応用される。

●1983年
『ゴルゴ13』
ディズニー映画『トロン』の影響で生まれた、邦画で初めてCGを売りにした劇場公開アニメ。大阪大学の協力で、大型コンピュータを使用してビルの谷間を3Dヘリコプターが飛翔するクライマックスが描かれた。

●1984年
『SF新世紀レンズマン』
CG空間とセルアニメを合成したり、敵側の有機的なメカの質感をレンダリングで表現するなど、本格的にアニメにCGが組みこまれた作品。同じ流れで製作された『小鹿物語』は、デジタルペイントの実験作。

●1987年
『王立宇宙軍 オネアミスの翼』
アンテナが突き出た人工衛星が回転するシーンなど、人間の手で描くのに無理がある動きをコンピュータに計算させて、プリンタの出力からセル画に起こす方法がとられた。

●1988年
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
円筒形のスペースコロニーが回転するシーンで、それまでの無機的なCGの質感ではなく、背景美術のテクスチャを貼りこんで、セルアニメ部分との違和感を低減させる手法が登場した。

●1989年
『機動警察パトレイバー 劇場版』
リアルな「コンピュータ犯罪」というテーマに挑んだ作品。HOSというオペレーティング・システムの起動画面がCGで描かれ、現実のパソコン通信にそれを模したフリーソフトが流通した。同年のテレビ版ではポリゴンCGで描かれたイングラムが回り込むアバンタイトルもついた。

●1992年
『機動警察パトレイバー2』
それまでのアニメは、CGによる映像表現を追求していた。しかし、この映画では「登場人物がCGと思って見ているモニタ画像をデジタルで描く」という新しい発想が生まれた。

●1994年
『MACROS PLUS』
従来の撮影台では困難なモブシーンの重ねや、レンズを通したときの歪みなどをデジタル技術で描き出した。

●1995年
『闇夜の時代劇』
サンライズ制作による実験作。深夜枠で放映された10分程度の連作短編で、富野由悠季、高橋良輔、今西隆志らベテラン監督がフルデジタルのアニメに挑戦。和紙のテクスチャと筆のイラストを動かすといった試みがされた。

●1996年
『MEMORIES』
大友克洋の総指揮によるオムニバス形式の劇場公開作品。大友自身が監督した第3話「大砲の街」では、作品全体を1シーン1カットで描くためにCGを駆使して、背景のつなぎの部分をデジタル処理した。

『天空のエスカフローネ』
波紋効果や変形、逆光効果、モーフィングや複雑なレイヤ合成など、ローエンドなCG技術でも可能な表現を多用することで、独特の効果をあげた。

●1997年
『もののけ姫』
タタリ神の触手が複雑にからみあうショット、馬の上から主観的に画面奥へ進むショットなど、宮崎駿監督が従来の撮影技法ではできなかった複雑な動きやカメラワークをCGで可能にした。その成果はスタジオジブリの次回作『となりの山田くん』で活かされるという。

●1998年
『青の6号』
デジタルペイントとLightWave3Dを駆使しフルデジタルで制作された、前田真宏監督によるビデオアニメ。3Dポリゴンで作られたメカと、従来のセルの延長にある2Dキャラクターを融合させようとした、新たな試みで注目されている。

▼マトリックス------------------------

デジタル3D演算

●三次元回り込み
平面で構成されるアニメにおいて、生身のアニメーターが立体物を正確に回したり、カメラの方が対象を回り込むのを手書きで描くのは、とても困難である。コンピュータにより、複雑な位置関係のオブジェクトが一斉に視点を移動しても無理なく描けるようになった。ただし、二次元のセル画空間とのマッチングには、まだ課題が残っている。

●セミCGアニメート
無理して全画面をコンピュータで描く必要はない。人間では、計算の苦手なフォルムの推移だけわかれば充分だ。動画以後の作業は普通のセルワークにする。この考えを使っている代表が『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『南海奇皇(ネオランガ)』だ。

デジタルペイント

●セル画ペイントの代替
アニメーションの基本となるセルは、原材料が枯渇しつつあり、ペインターの人件費も削減対象となりつつある。そこでデジタル技術を使用してペイントし、直接ビデオへ出力することが主流になりつつある。色彩の抜けの良さを活かし、東映アニメーションの『夢のクレヨン王国』のように、パステルカラーで構成されるアニメも出現している。

デジタルによるカラーリング(彩色)には、効率化と質感の違和感克服という、2種類のメリットがある。後者が行きついた先が、テクスチャーマッピングだ。

デジタル・テクスチャー

●テクスチャーマッピング
3DCGでは、質感が問題になる。光源をしっかり取って物体を演算で描くと、どうしても無機質になりがちだ。特にアニメの建造物は背景として絵画的に描かれるため、それをCGにすると浮いてしまいがちだ。その解決として、背景をスキャナで取りこみ、テクスチャとして表面にマッピングする技術が使われる。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』や『攻殻機動隊』では自然な形でこれが使われていた。

デジタル変形

●変形・拡大・縮小
アニメの絵を自在に変形させようという欲望は昔からある。そこに機械的な演算を持ちこんで電子機器の歪みで変形アニメ表現の幅を広げようとしたのがタツノコプロの『宇宙の騎士テッカマン』『タイムボカン』だった。

●モーフィング
ビデオクリップなどで大流行した技術だ。2枚の絵をコンピュータの演算で補完し、スムースに変形させる。サンライズの『勇者王ガオガイガー』『天空のエスカフローネ』などの作品に多用されている。

デジタル撮影台

●光学カメラの限界突破
映画は100年以上前に開発された技術だ。俗称「シャシン」というように、光学的なカメラによる写真を連続して撮影して成立する。アニメーションは、さらに平面に描かれたものをコマ撮影するために専用の撮影台を必要とする。それにはさまざまな制約がある。
例えば、いっぺんに移動できるオブジェクトの数と方向は定められている。手前の対象にズームアップしながら、後ろはトラックバックするという複合動作はできない。また、重ねられるセルの枚数にも限りがある。こういった限界をデジタルの技術で突破しようという考えは、『攻殻機動隊』や『新世紀エヴァンゲリオン』(劇場版)によく現れている。

押井守監督の『攻殻機動隊』では、香港の街並みで漢字テクスチャーマップした看板を多層に重ねて極めてゆっくり動かすという、今までのアニメ技術ではできそうでいて、できなかった映像を出している。

【初出:雑誌FLICKER 1999年ごろの原稿】

※最後の方の「マトリックス」とあるのは、デジタル技法を図解的に囲みで図示したもので、残念ながら図そのもののラフは現存していません。

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2006年11月22日 (水)

未来少年コナン

題名:未来少年コナンに、宮崎駿のルーツを見た!

<小見出し>
元気なコナンの姿を見れば
疲れた心もたちまち浄化

<リード>
『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』の連続大ヒットで、その地位を不動のものとした宮崎駿監督。処女作『未来少年コナン』には、宮崎アニメのすべてがあると言われる。では、どの辺が原点となっているのだろうか? その秘密に迫ってみた。

<本文>
 『未来少年コナン』を観ていない方は幸せである。宮崎監督のすべてが詰まった唯一のテレビ作品なのだから。13時間という長大な時間を濃密で未知の宮崎ワールドに身を置いて過ごせる──これ以上の快楽は、他にはない。決して古さは感じないだろう。むしろこの時代だからこそ、より大きな輝きが、きっとあなたの目に見えるに違いない。
 宮崎アニメの本質とは、ずばり2文字の漢字で言い切ることができる。その言葉とは「浄化」である。
 『コナン』における「浄化」のかたちは多様だ。判りやすい例から挙げれば、人類滅亡という物語設定がある。人が荒らした環境の中で自然の持つ浄化力に賭け、人も自然の一部として生きるべきだという視点は、以後の作品でも『風の谷のナウシカ』などで見受けられるものである。
 その結果、科学の持つ過去の力に囚われたインダストリアの人びとは、当初は悪役的に描かれる。ダイス船長もモンスリー女史も、自分で生き延びるのが精一杯な育ち方をした結果、他人を傷つけることもいとわない人物として登場する。ところが主人公コナンに接するうちに、実に愛すべき人間となってコナンを助けるようになっていくのだ。これも宮崎アニメの「浄化」の力なのである。
 主人公コナンは、自然の中で育ち、壊れた文明の残骸を見ても怖いとも思わず、伸びやかに活躍する。コナンの心は過去に囚われず、未来に向かって開いているからだ。一番大事なラナのため、コナンは怪力を発揮する。アニメならではの自由な表現がそこにある。素晴らしいのはコナンの前向きな精神だ。その心が行動を求めるとき、コナンの身体をつき動かして、スーパーパワーになるのである。いつしか人は、そんなコナンに影響を受け、気持ちを変えて自発的に動いていくようになる。つまり、これが「浄化」なのだ。
 その動きは、13時間コナンにつき合ったあなたの心をも動かし、開かせていくはずだ。「おわり」の文字が見えるころには、きっとあなた自身の心も浄化されているに違いない。「癒し」よりももっと深く大きな、宮崎アニメの「浄化」の経験。絶対に損のない13時間が、あなたを待っている。

<STORY>

──西暦2008年、超磁力兵器の使用によって人類は絶滅寸前となった。生き残った人々は水没した大陸の一部に集まり、おびえながら細々と暮らす生活を続けていた。
 それから20年。孤島の「残され島」で、育ての親「おじい」以外の人を知らずに育った少年コナンは、ある日少女ラナに出会う。ラナの祖父は太陽エネルギーの秘密を知っている。その復活を狙うインダストリアという科学文明国家に追われていたのだ。
 コナンの奮戦もむなしくラナは飛行艇で連れ去られた。「おじい」の遺言に従って、コナンは島を離れ、旅立つ決意をした。仲間を探し、ラナを助けるための冒険の旅が始まった!

<キャプション類>
コナン●大変動の後の残され島で生まれた子ども。火事場の馬鹿力的なパワーを発揮するが、本質は優しく前向きな少年だ。ラナに出会ったことで、人と交わってより大きく成長していく。

ラナ●知恵あるハイハーバーの少女。祖父のラオ博士とテレパシーができるため、インダストリアに狙われている。

ジムシー●プラスチップ島に住んでいた野性味あふれる少年。コナンにとって最初の仲間になった。

ダイス●バラクーダ号の船長。インダストリア貿易局員でラナをさらったりするが、どこか憎めない海の男。

モンスリー●インダストリアの行政局次長。美人だが任務遂行を優先する厳しい性格だったが、それには理由が……。

ラオ博士●ラナの祖父で、三角塔復活の鍵を握る太陽エネルギーの権威。パッチという偽名を使用。

レプカ●インダストリアの執政を握る行政局局長。傲慢な野心家で、太陽エネルギー復活を企む。

<ROOTS>
●ハイハーバーで共同生活を拒否した不良少年たちの仮面は『千尋』のカオナシを連想させる。

●人類滅亡を目撃し呆然とたたずむモンスリーの表情は王蟲の群を前にしたナウシカのようだ。

【初出:BSテレビジョン(角川書店) 初出:2001.12.09】

※超短納期仕事だった記憶があります。ルーツについて無理が感じられるのは、そのせいかも? 『未来少年コナン』については小生のキングレコードさん最初の仕事ですが、その後もCD版サントラ「全BGM集」の仕事をすることになります(腹巻猫氏と共同)。

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2006年11月21日 (火)

南原ちづる(超電磁ロボ コン・バトラーV)

題名:わが青春の南原ちづる

 どうも。せっかくのご指名なのに、いきなりのツッコミで恐縮ですが、3コマ目の「32話」はきっと「第31話 電磁を奪う強敵モグマ」の間違いですね。なんせ『コン・バトラーV』のLDには信じられないことに「ちずるチャプター」というものがついておりまして、32話では「ちずるのしりもち」(笑)が該当です。セットしますと、唐沢さんが7コマ目でご指摘のパンチラが出てくるという20世紀のスグレモノ。DVDになっても付けて欲しいものです。
 第32話「猛威!恐怖のツララ弾」では、ちづるが凍結した路面で何度もすっころぶパンチラシーンが、そのチャプターです。両手が凍傷で紫色の手袋みたいになっていて、早く手当をしないと両手が腐ってしまうというのがすげー痛々しく、これがまた何ともいえない気持ちのする回です。で、そういう演出は、やっぱりというかで、斧谷稔すなわち富野監督の作品だったりするわけでした。
 31話は、これもちづるファン必見の回ですよね。LDチャプターは「ちずると知恵のシャワーシーン」という信じられないものが(笑)。この回は、知恵ちゃんが、レオタード姿で体操の特訓中の「ちづるお姉ちゃん」にあこがれて密着取材をするんですね。汗かいてジュース飲むちづるも、ポイント高い。そして、「シャワーで鼻歌」のちづるに突撃質問で取材した驚愕のデータは!
「好きなものは、お芋にケーキ。好きな花はバラで、音楽はシャンソン。スポーツは体操とフェンシング、バスト84、ウエスト60、眠ると歯ぎしり。色はピンク」
 ああ、これ放映当時にもメモした記憶があるぞ(笑)。こういう描写があるってことは、視聴者の大きいお兄さん&スタッフのおじさんたちは、ちづるの詳細データに興味津々だったという証拠に他ならないです。やはり愛されていたヒロインだったんですね。
 それで、唐沢さんは「ちづる」と表記されておりまして、「同志!」(ひしっ)と思いました。サブタイトルを転記するときは「ちずる」でも、自分の思いをこめた文章では「ちづる」表記が正しいちづる道です。なんのこっちゃ。この31話では、いわゆる大王道の「ニセのラブレターが誤配で大騒動」があるのですが、知恵のニセ署名では、なんとビックリ。画面にちゃんと「ちづる」と出るではありませんか。スタッフの中にもこだわっていた方がいらしたんですね。
 拙著「アニメ新世紀王道秘伝書」(徳間書店刊)では省略しましたが、このこだわりには下品な理由があるんです。つまり、「ちづる」だと漢字は「千鶴」ですけど、「ちずる」だと「千ずる」で、そりゃマズイだろーと(笑)。確か富沢雅彦さんが同人誌「PUFF」で指摘されてたことだと思いますが、これにどきっとして私らも「ちずる」と書くのをやめたということは、まあ誰しもやっぱり心の中にそういう部分を抱えていたってわけです。深くは説明しないけど。
 ちづるを産み出したキャラクターデザインの安彦良和さん、当時はライディーン後半から線が非常に走るようになっていまして、特にアクションポーズのちづるは格好良くてしなやかで、パンチラも少しあったかな……太股の肉感的な感じといい、元気な感じがして、すごくキュートでしたね。個人的には、こういう少ない線でいろんなことを感じさせてくれる絵が好きですね。カゲとかハイライトとかいっぱいつけるのは、一見丁寧に見えても、安彦ちづるのように、ざっざっとした線で描かれた魅力には届かないものがあるのではないのかな。
 安彦作画監督回は2回しかないんですが(たぶん『ろぼっこビートン』の準備中だったため)、第1話のラストの方が安彦原画でして、最後の笑顔とか実に可愛くて、自著でも扱っている回と違うのに、わざわざそのカットを探してカラーページに載せたくらいです。コクピットで苦しむとことかもついでに掲載したりして。役得、役得。
 話は尽きませんね。唐沢さん、またいずれ語り明かしましょう。
【初出:単行本「唐沢なをきのうらごし劇場」 脱稿 2000.05.15】
※そういうわけで、画面内を尊重して「ちづる」表記にしていたりする私です。ちなみにDVDでは「ちずるチャプター」はありませんでした。LD捨てられない……トホホ。

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マインド・ゲーム

題名:閉塞を吹き飛ばす──アニメーションの根元的驚異に満ちた作品

 昨年末からの予感どおり二〇〇四年はアニメーション映画にとって大変な節目の年になりつつある。巨匠の大作攻勢、アニメ・マンガ原作の実写化は予定どおりだが、「機械のからだ」を持つアニメ映画『アップルシード』という伏兵の衝撃も覚めやらぬ中、今度はアニメーションの根元的な「おもしろさ」を究める方向からエネルギーに溢れかえった意欲作が登場した。それがスタジオ4℃と湯浅政明監督の『マインド・ゲーム』である。
 まず映像表現が驚きの連続だ。荒々しいタッチと色彩効果で感情表現を支える背景美術。豪快に空間を歪ませまくったレイアウト。ヘタウマ系で感情のおもむくまま表情を崩しまくるフレキシブルなキャラクターは、シリアスになると声を演じる吉本興業の役者たちにいきなり実写変身してしまう。
 こんな風に、画面のテイストがどんどんと変化していくから、初恋の幼なじみ、みょんちゃんに偶然再会した主人公の西が、大阪の横町にある焼き鳥屋に行くという序盤の日常的展開だけでも、充分にワンダーに満ちた空間が拡がっていく。その闊達さは最初はとまどいを感じるほどだが、これに慣れてくると、既存表現の枠組みからの解放感が次第に快感に転じていく。
 重要なのは、表現が単に奇をてらった実験に終わらず、物語に寄りそって常に瑞々しい感情を伝えてくれることだ。相手にフィアンセがいると知りつつ、初恋以来の気持ちをストレートに伝えることのできない西。格好をつけてはみるものの、それは本当は臆病な保身的行為と知っているからこその自己嫌悪と、内心のたぎる思いとの行ったり来たりが、さまざまに変化する映像(花火の表現が秀逸)で描かれ、観ているこちらの鼓動とも共鳴していく。
 静謐なる中で高まる心の内圧は、ヤクザに主人公が最高に格好悪い方法で射殺されてしまうという展開を契機にして、一気にはじけ飛んでしまう。さらに復活後はストーリー展開にもドライブがかかり、カーチェイスや銃撃戦までエスカレートしていくが、勢いづいた驚きの先には、あらゆる予想を越えた巨大な驚きが待っているのだ。
 映画の果たす大事な役割のひとつには、「日常的な閉塞からの解放」がある。本作品は、アニメーションならではの特性をフルに活かしきって、その要求に応えている。その特性とは、実感を抽出して連続した絵の動きの中に塗り込めることだ。湯浅監督は『クレヨンしんちゃん』などでも知られる優れたアニメーターなので、動画技術だけ注目しても、「主人公がひたむきに走る」と画面の時空間全体が「ひたむき化」してしまうほど凄まじいパワーを放っている。本作ではそれに留まらず、ありとあらゆる映像表現を動員して、色彩や抽象化のレベル設定まで微妙に変化させながら、観客の根元的な生理からエネルギーを引き出そうとしているようだ。それが、「人生を前向きに生きるための活力」と直結するところに、快感の源があるのだろう。
 きちんとしたレイアウト、崩れないキャラクター、破綻のないストーリーと、この十年あまりのアニメ作品は「商品としてきれいなもの」を追求してきたようなところがある。それはそれで理由と意味のあることだったが、「もうそろそろ充分じゃないか」「この先には何もなさそうだ」と作り手も観客も思い始めている兆候が顕れ始めている。だから筆者も「大作ラッシュの後は、アニメーションの根元的な手描きの魅力に回帰した作品が出る」と予想していた。だが、「後」ではなく「最中」の登場で、他作品とまったく重ならない角度からの挑戦だったところをとても嬉しく感じた。
 「もっと好きなように暴れたらええやん」という破壊的で未来につながるアニメーション・パワーは国境を越えるのか、ジョエル・シルヴァーによる海外配給も予定されているという。作品外のサプライズも含め、驚異に満ち満ちたアニメーション体験をぜひ『マインド・ゲーム』で感じて欲しい。
【初出:キネマ旬報 脱稿:2004.07.03】
※2006年11月現在だと『鉄コン筋クリート』のスタジオ4℃と、『ケモノヅメ』の湯浅政明監督の……と言った方がふさわしいでしょう。

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PLANET OF THE APES/猿の惑星

題名:リ・イマジネーションに沈めた偏愛

 ティム・バートン監督と言えば、重要なアニメーション作品を排出した学校カル・アーツの出身で、ディズニーのアニメーターとして出発した人物だ。イマジネーションの力で動きと生命を与えていたバートンが監督となった映画の世界では、やはりこの世のものならぬ異形のものがメインに描かれてきた。世間的に「正しい」とされているものとそうでないものを、どこかねじれた状況に投げ込んで、せめぎあいから生まれる境界のドラマとして語ろうという姿勢が貫かれていた。
 そんなバートンに60年代SF映画『猿の惑星』を撮らせる、という発想はあまりにも出来過ぎだ。特殊メイクと自由の女神オチが有名になり過ぎた古典だが、もとは人と人にあらざる猿、その逆転状況の中から人間性の正体をあぶり出すのが本筋だったのだから。
 本作には「リメイク」ではなくバートン監督による「リ・イマジネーション」なる造語が用いられている。とらえどころのない言葉だが、映像を見てなるほどと思った。「リメイク」であれば、すでに作られた形のあるものをなぞって作るということになる。そうなると『猿の惑星』は苦しい。現代では陳腐化するものが多くなってしまうだろう。
 映画はもともと映像を積み重ねてできあがっていくイメージを楽しむもの。であれば、前作にあった根元的「イメージ」の方を原点としてアレンジすれば良い。監督のテイストがその上につくことで、作品は新しく甦るだろう。これは実に賢い読みである。
 引用された具体的イメージは、「高みから水中への落下」「猿の人間狩り」「猿の階級社会」「魂のあるものとないもの」など、かなり重なり合う部分が多い。それでいてバートン監督の意識は、これも引用イメージの「猿女性とのキス」に激しく集中している。まるで日本のアニメキャラのような髪形をしたチンパンジー、アリのフェロモンを発する視線と口元の紅には、なぜかどぎまぎする。60年代SF映画的ブロンドのヒロインを無視してるかのような主人公レオが、この熱視線をどう受け止め対処するか……それが表面的な対立のストーリー展開よりも、数十倍は濃密なハラハラドキドキのエモーションをかきたてていることに気づいた瞬間、「あ、やりやがったな!」と思った。
 だから、「ロッド・サーリング先生に捧ぐ」みたいなタイムスリップ仕掛けや、ラストのオチのためのオチに、決してダマされてはいけない。これは、バートンがリ・イマジネーションの過程で、深く沈めた偏愛こそを楽しむ作品なのだから。
【初出:キネマ旬報 脱稿: 2001.07.22】

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2006年11月20日 (月)

2001年春の新番組

題名:新世紀ワンダー映像アニメの鑑賞ポイントと期待感

 「21世紀」という呼び方にも少しだけ馴染みの出てきたこの春。文字通り「新世紀のアニメ」が発進した。今回の特集で取り上げられたこの3本は、過去さまざまな話題作を発表してきた実力派監督が、いずれも独特の映像感覚を駆使して制作していて、21世紀の幕開けにふさわしい作品群と言える。

●NOIR(ノワール)

 『無責任艦長タイラー』『EAT MAN』の真下耕一監督の作品。美少女二人組の主人公は、現実の異国を舞台に淡々と職業としての殺人を請負い遂行する。「フィルム・ノワール」とは、暗黒街を舞台にした戦前の一連のフランス映画などの犯罪映画を現す用語である。この作品の銃撃戦は、一撃必殺となることが多く、派手なアクションよりは、犯罪の現場における駆け引きや緊迫感を主体に描こうとしているようだ。
 第1話では、少女・霧香がネクタイを応用して敵を無表情に絞殺してしまうシーンが印象的で、アニメっぽいキャラと無慈悲な殺人行為とのギャップで何かを浮かび上がらせる意欲がうかがえた。今後はどんな舞台やシチュエーションが登場するか、期待できる。エキゾチックさが炸裂する主題歌、シーンを浮き彫りにする連続したBGMと、音楽の使い方も素晴らしく、発砲音も火薬の音の重さと転がる薬莢の金属音がリアルだ。

バンダイチャンネル

●ジーンシャフト

 『エスカフローネ』の赤根和樹監督の作品で、男女比は男性アニメ・ユーザを意識してか1対9になっているものの、「未来&宇宙」を正面から描いた直球勝負のSFアニメだ。
 赤根監督は、テレビ作品にデジタル技術が導入され始めたごく初期から、たくみにCGを使いこなしてきた。そのノウハウを活かしたデジタル映像表現が、多く見受けられる。著名モデラーの竹谷隆之による巨大ロボット「シャフト」は、複雑にパイプが絡みつき、板を重ねて500メートルの巨体を建造物的に構成するという目新しいデザイン感覚だ。構造材が微妙に相対位置を変化させながらゆっくりと起きあがり、マニュピレータの指の一本一本が少しずつズレながら開閉するメカニズム映像は、CGならではの無機質さが映像的驚きに昇華し、かなりのインパクトを持っていた。
 ジーン"Gene"とは遺伝子のことで、遺伝子解析と技術応用が毎日のように報道される現代最先端のテーマを扱った作品であり、今後ドラマがどのようにそれを噛み砕き、活かしていくのか楽しみである。

バンダイチャンネル

●THE SOUL TAKER~魂狩~

 『それゆけ! 宇宙戦艦ヤマモトヨーコ』『新・破裏拳ポリマー』の新房昭之監督の作品。トリッキーな構図を駆使して、欧米のコミックにも通じるまるでカラートーンを貼ったような鮮やかなイラスト的映像が特徴の作品だ。『デビルマン』や『スポーン』のようなダークヒーロー志向か、主人公はクライマックスで悪魔にも見える形に変容する。
 第1話は若干詰め込み過ぎか、めまぐるしくポイントの追いづらい構成だったが、第2話では、小技の効いたギャグと力の抜けた舞台設定(江戸村なのだ)で繰り広げられる肉弾アクションが、往年のタツノコアニメの2001年風アレンジを感じさせてくれた。シリアスな物語を引っ張る伊達京介と、脱力した壬生(みぶ)シローの凸凹道中的テイストが前面に出て、ノリが立ち上がってくると、楽しい作品になるのではないだろうか。

 あえて言えば、3作品いずれも、キャラクターや世界の「設定」に「謎」を持たせ、小出しにして物語を引っ張ろうとする点、映像構成に重きを置き過ぎるような点が、多少気になった。まず登場人物が言動を通じて興味をわきたたせて、そこに生じる人間同士の葛藤(ドラマ)が牽引力になって欲しい。「設定」や「映像」はドラマを支える黒子のようなもののはずだ。これらが一体となって視聴者の感情をゆさぶったとき、アニメはまた大きく新世紀に羽ばたけるに違いない。

【初出:月刊アニメージュ(徳間書店)2001年6月号 Sence of Wonder特集】
※ごく初期の第1~2話あたりの時期に書いたレビューです。うち2本はバンダイチャンネルでもレビューを書いてます。

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2006年11月19日 (日)

茄子 アンダルシアの夏

題名:緊張感あふれる細部は神を宿す

 真っ先に目についたのは、画面の上半分が青一色で染められた雲のない空の描写だった。まぶしく明滅する光がある。オープンカーの滑らかなボディ、そしてそれに積まれたテレビ受像器の反射だ。大地は大陸らしい平坦でなだらかな起伏を持ち、乾燥しきった白っぽい土には、申し訳程度の草が生えているだけ。
 人工の道路は決して肥沃ではない土地を切り裂き、遠近法の消失点が見えるほど長くなだらかに続く。車を走らせるにつれ、アスファルトに埋め込まれた珪素が路面にきらめき、直射光の強さと気温の高さを改めて教えてくれる。まさしく自分は遙かな地にいて何かが始まるのを待っているという期待が盛り上がったところで、メインタイトルが出る。
 開巻早々のこうした描写の積み重ねだけで、これは間違いなく観るに値するアニメーション作品なのだと確信し、フィルムの奏でる心地よい緊張感に身が引き締まった。
『茄子 アンダルシアの夏』の映像には、こうした不思議な緊張感があまねく漂っている。ひとつひとつは、言葉に置き換えてしまったとたん瑞々しさが損なわれてしまいそうな、はかなさを持つ点描ばかりだ。しかし、各々の描写は確かにそこに実在するという強固な存在感を同時に備え、見逃すなという主張を無言で放っている。
 主張しているのは風景ばかりではない。人物の会話や配置、人と自転車、チームと個人やクライアントや、レース走破の果てにあるべきもの、人と水と食べ物と土地を貫く連鎖といった雑多なものも、何かを語りかけてくる。具体的な説明は、何ひとつとして登場して来ないにも関わらず、独立した事象も無駄な描写もない。黒猫も変なメガネもテレビも、ある役割を作中で果たしている。すべては大きなひとつの関係性の一部なのだ。
 なぜならば、現実世界と人生はあまねくそのようにできているから。だが、それをあるがままにフィルムに定着させるのは、至難の業だ。それをどう成就させようというのか……この興味もまた、緊張感の源泉だ。
 言葉にならない言葉、声にならない声に耳を傾けよう。未知なる緊張を避けようとせず、思いきって身を預けさえすれば、関係の連続性が見えてくる。脳内で再構築した体験は、まさしくフィルム内世界へのパスポートとなるだろう。
 個々の描写は、やがて激しい一本の流れをなしていく。それは、全編の大半を自転車のペダルを踏み続ける主人公のぺぺという男と、彼の人生観を媒介にしてまとまり始める。
 自分の持てる渾身の力をぶつけることでしか前には進まない自転車。ペダルが回り、車輪が回ることで前へ進む。しかし、彼は決して一人で走っているわけではない。そこにはチームがあり仲間がいて、与えられた役割がある。そしてチームには、個性あふれるコンペティタがいる。全体はひと固まりの集団となっているが、いつライバルが出し抜こうと飛び出て来るかわからない。一瞬の誤った判断は、即時リタイヤに結びついてしまう……。
 ある程度、人生と社会で経験を積んだ者であれば、このレースの関係性が何を象徴しているかはすぐにわかるだろう。自転車の速さや運動自体に意味があるわけではないのだ。ぺぺが死力を尽くしてペダルを踏むたびに、観ているこちらの息づかいも荒くなる。それは、彼の運動に体感が同期しているからだけではなく、彼の背負ったものと目ざすものの交差するところに、私たちもよく知っている“あのゴール”が見え隠れするからだ。彼の精神的な緊張感が、伝染しているのである。
 フィルムとレースの進行とともに、こうした状況がわかればわかるほど、最終的な興味はぺぺ個人へ向いて、収斂の度合いがエスカレートしていく。なぜ走るのか。なぜ自転車なのか。どこを走っているのか。そこを走る意味とは何なのか。
 ぺぺの兄アンヘルとカルメンの結婚式……そして自転車レース。この2つのイベントには、運動する者と止まった者がいる。それにももちろん意味がある。その両者の視点を往還しつつ、おぼろげな疑問への手がかりとなる情報が次第に積み重なっていく。やがてパズルの断片がはまるように一体となって、走り続けるぺぺの心の底にあるものがキュッとひとつの像を結ぶ。その瞬間は、まさしくクライマックス。そこには違った人生のかたちがあり、共感が見えるからだ……。
 人と世界の結びつきを、日常的な観察情報を素材として巧みにすくいあげ、積み重ねて存在感あふれるドラマに結実させるこういった作法は、まさしく原作者・黒田硫黄のテイスト。だが、高坂希太郎監督はそれを映像化する上で、時間と空間、色彩と音響を加えることで、感覚的なものを見事にアニメ的に移植した。
 細部があまねく意味を持ち、有機的につながって生命の感覚を為す。これぞまさに、すべてに神が宿るというアニミズム。だからこの作品を、アニメーションの王道レースを走破したフィルムと呼んでみたい。

【初出:『茄子 アンダルシアの夏』劇場パンフレット映画評 脱稿 2003.07.03】

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2006年11月17日 (金)

装甲騎兵ボトムズ(その2)

題名:フィルム・ボトムズのテイスト

 懐かしくも苦いコーヒーの味を確かめてみたくなったことはないだろうか?
 ボトムズと言えばAT。ATに触れば、いつでもボトムズ世界に戻れる。だが、いくらボトムズのテイストの根元を求めても、なにかがもの足りなくなくなることがくる。テイストの根元は、ATの活躍するフィルムの中にこそあるからだ。ATはボトムズ・フィルムのテイストを依代として体現しているものという理解が必要なのだ。
 ボトムズ・フィルムの持つほろ苦いテイスト……それはどの辺から来るのか? 乾きを癒すため、確かめに出かけてみたい。

●ボトムズと『ブレードランナー』

 ATをあやつるボトムズ野郎たちのオイルと硝煙にまみれた世界観。それは、どのように形成されているのだろうか?
 フィルムは学術論文ではない。われわれが味わうテイストは、設定や科学考証からは、決して生まれない。フィルムとして提示され、映像として描かれ、生理反応として混沌と積み重なる幾多の記憶の中から、じょじょに形を成していったもの……容易には言葉に置き換えられないものから生まれるものである。
 その味わいの源泉であるボトムズ世界のイメージは、100%オリジナルなのだろうか? 答えはNOである。
 ロマンアルバムやCDなどに掲載されている何人かのスタッフの寄稿、インタビュー上に繰り返し現れているのは、決してボトムズの世界が完全オリジナルではなかった、という事実である。ことに最初の1クールにおける世界観構築については、リドリー・スコット監督のSF映画『ブレードランナー』に大きな影響を受けているのである。
 『ブレードランナー』は1982年の公開後、ビデオグラム化されるたびにバージョン変更され、1991年には後に大流行する「ディレクターズ・カット」なる特別版が製作されるにまでいたったカルト中のカルト作品である。舞台は近未来2019年のロスアンジェルス。薄暗い風景の中に超高層ビルが林立し、酸性雨が常に降り続け、アジアから大量に流入した人々が、半ばスラム化した町並みの中で暮らしている。風景は常にどこか不鮮明で明瞭にものを見ることができず、しのつく雨が物語の全体を陰鬱なトーンでおおっている。
 未来都市と言えば、ドームにおおわれて晴天、透明パイプの中にエアカーが走るというステレオタイプの明るくドライなイメージは、この作品以前ずっと続いていた。だが、『ブレードランナー』1本で、SF映画やSFアニメの描く近未来がすべてダークでウェットなイメージに切り替わってしまった。
 では、そこを起点に置いているからボトムズはくだらないフィルムかというと、そんなことはないのは皆さんご承知の通りである。それは以下のスタッフの文面からも明白である。
「他人様の作品を下敷きに、なんて気は全くないし、やろうとしたってアニメの表現はおのずから違った世界を創りだしてしまう」(吉川惣司「ポンポンポンポン…」装甲騎兵ボトムズBGM集VOL2解説書 キングレコードより)
 ウド編のフィルムでは、巨大建造物の薄暗い底辺で暮らすひとびとは猥雑という言葉こそがお似合いの大衆、「夜の女」が何人も街角に立ち、町中で車座になってカードゲームが行われ、露店では異様な生物がペットとして売買されている。こういった街の点描は、確かに『ブレードランナー』を彷彿とさせる。
 しかし、そこに戦争の臭いを背負ったキリコのドラマが重なったら、どうだろうか? まったく違ったものが見えてくるのではないだろうか?

●ウドの街とバトリング

 戦争は人の流れを産み出す。金の流れをつくる。直接戦闘に参加しない者たちも集い、戦士にひとときの慰謝を与えたり、利用しながらたくましく生きていく。その様子がウドの街の乱れきった生活描写に織り込まれており、単なる暗さや無気力さではなく、奇妙な活気をフィルム全体にもたらしている。
 金が流れ、人が集まれば実権を握るものが出る。ウドの街では、腐敗の象徴として暴走族と市民を守るはずの治安警察が手を組み癒着している。貧富の差が激しくなれば、ガス抜きが必要になる。そう、ギャンブルだ。戦争が長引けば、戦争しか能のない者が増え、食うために命がけでローマの闘技場のように、ロボット同士の戦闘を見せて暮らす者も出るだろう。それが「バトリング」だ。
 こういった要素は、まったく『ブレードランナー』には関係がない。忘れてはいけないことは、『ボトムズ』がロボットアニメだということだ。単に『ブレードランナー』をロボットアニメ化するのであれば、映画に登場した未来車スピナーの位置につけて、人造人間を追う警官を主人公にすれば良さそうではないか。
 しかし、それはATには似合わない。フィリピンあたりを旅すると、街を走っている車が軍用車のお下がりばかりである。荷台いっぱいに鈴なりになって移動し、生活する人びと。中には軍とうまくやり、軍を利用してたくましく生き抜く者もいるのだろう。鋼鉄の厚みやリベットむき出しのATは、こんな風に社会の底辺にいながら明るく生きる者が、そばにいてこそ光るロボットなのではないか。
 完成したフィルム世界に準拠して上記のような思考を転がしたとき、雑多なことがピタリと符合して「大丈夫」な感覚を覚える。そんな状態を英語だと「メイク・センス」という言葉で表現する。ここまで来た「ウドの街」の持つ世界観は、もはやブレードランナー・イメージを大きく脱して「ボトムズ世界」としか呼べないものに一人歩きし、自動的にいろんな新しいものを語りかけ、発信してくるものに成長している。こうしたプロセスこそが、オリジナリティの獲得なのだ。
 となれば、「ボトムズの世界観は映画『ブレードランナー』にインスパイアされたものである」と表現するのが順当である。アニメを語るとき、パクリとパロディとオマージュとインスパイアを混同する風潮があるが、本来は区別をつけるべきものだ。ひとはまったくの無一物からものをイメージすることはできない。作り手も観客も同じである。その意味において、100%オリジナルなものというのは存在しないし、仮にあったとしても人間が容易に認識可能なものとはなり得ず、実用的でない。
「だいたいこんなイメージ」という出発点に、どれだけ多面的なイメージを練り込んであるか、全体としてどういうバランスが取れているかが、最終的には映像総体のもつ厚みとなって、印象に大きく作用する。ウドの街頭描写には、おそらく複数のスタッフによって、過去のいろんな映画のシーンや諸外国のイメージが無数にミクスチャされているに違いない。フィルムのテイストとは、この雑多なものが時間に沿って流れ、せめぎあって動く中から産み出されるものなのだ。

●ATの背負ったテイスト

 だからATにしても、軍で量産され固有名詞すら持たない兵器……などと、設定部分だけを突出して語っても、テイストを語るときにはあまり意味がない。実際には、ATとは軍のものでありながら、軍の中ではなく外に置いた方が似合うロボットのように思えてくる。それは、バトリングという要素から強く派生してくるイメージだ。
 ATと言えば、強化プラスチックではなく鋼鉄で出来ていて、ロールアウトした新品の状態ではなく、どれも戦闘でくたびれ果ている感じがする。装甲がへこみ、塗装は錆びてはがれ、搭乗者が間に合わせのパーツを寄せ集めてさまざまにカスタマイズしているような共通認識としてのAT像があるだろう。実際にアニメの画面では、セルアニメの限界もあって、ここまで表現した描写が少ないのに、共通認識が持てるということは、ATと世界の相互作用が「バトリング」という状況を媒介にうまく行って、独自性を放ち始めた証左なのである。
 ATがロボットデザインとして持つ独自性の中には、目に相当するターレット状のレンズとアームパンチ、降着ポーズが列挙できる。ここで注意したいのは、そういったギミックも、文章なり静止画で設定されているから魅力的なのでは、決してない、ということだ。特徴あるアクションをともなう、という共通項に気づけば、それは自明だ。
 レンズは、表情を持たないはずのロボットの視線の移動、注視、回転させたときのレトロ的な「らしさ」の表現に使われている。アームパンチの薬莢が飛び出す仕掛けは、鋼鉄のかたまりのロボットとロボットが格闘するときに、「すごい力で殴った!」という感じが、拳銃発射で誰もが知っている薬莢排出のイメージを重ねられるからこそ、採用されたものだろう。降着ポーズも、大事なのは機構ではなく、機械と人との大きさの比率、乗り込むときの距離感、戦闘時に「あそこに人がこれぐらいの大きさで乗っている」という感じを出すのに適したものなのだろう。
 フィルムは、動く映像で演出され、表現されてナンボの世界だ。深く作品を味わうためにも、まずはそういう部分にこそ観察の目を貪欲に向けていきたい。

●ATに乗る者……キャラの魅力

 このような着目方法をとっていくと、キリコ自身のドラマもまた、完全オリジナルとは言い難い部分を持っていることに気づく。
 当初、この物語は戦争で心に傷を負って戦いしか知らない青年が、次第に情感を取り戻していく「リハビリの物語」としてスタートしたという。これもまた、アメリカ映画『ランボー』や『ディアハンター』をはじめとするベトナム帰還兵の物語をどことなく連想させる設定だ。
 だが、ここからがまたボトムズのユニークなところなのである。硝煙と砂埃にまみれ、長い戦いに疲れ果てた兵士たちが、極限状態の中で見る夢とは、いったいどういうものなのだろうか? それが、王女を救いに来る王子様の典型的なおとぎ話「眠れる森の美女」だったりしたら、実に面白いではないか。「大人のおとぎ話」だから、王女様は素っ裸で、思わず王子様のトラウマになってしまったりして……きっと、キリコのドラマの発端はこのような下世話なところから生まれたのだろう。
 根幹に甘ったるいものを潜めたキリコこそが、一番優れたAT乗りで戦士でもある、という一見矛盾するかのような取り合わせが、ATというメカの主役、先に述べたような世界と関わりを持つからこそ、矛盾に内在するポテンシャルの落差が、他のものにも作用して次々とドラマを産み出し、先へ先へと転がしていく。
 ボトムズとはこんなフィルムだ。作品のテイストとは、この転がる動きが、観客と相互作用する中で生まれてくるものなのだと発見できれば、いろんな部分に新しい味わいが見つかる。その中で、ATもまた輝きを持ち始めるだろう。

●とめどなく転がり続けるドラマ

 以上のように、1クール目で、すでにボトムズ世界の定義とキャラの確立に成功している。凄いのは、その先である。
 2クール目「クメン編」では、せっかく構築したウドの世界をチャラにして、気がおかしくなるような熱気と湿度に満ちたジャングルに舞台が移ってしまう。そこは王国を二つに割って傭兵たちが争う内乱の世界だ。マンネリズムを防ぐために、次にスタッフが触媒としたイメージは、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)だった。ベトナム戦争を題材に、映画史上まれな狂気とも思える壮絶なロケで製作された作品である。
 人工的なウドから一転して、クメンの自然の持つ荒々しい情景、河や湿地帯を活かした戦闘アクションは、ボトムズの世界全体を拡げるとともに、キリコ+ATという組み合わせが、どのような世界にも順応し、それを媒介にしてさらにボトムズという作品を拡げられる懐の深さを、実戦を通じて立証してしまった。
 3クール目以降も、リドリー・スコット監督『エイリアン』(1979年)から閉鎖され薄暗い宇宙船のイメージ、スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968年)から意識を持ったコンピュータ殺しのイメージにインスパイアを受け、何ものにも帰属せず、屈しないキリコのキャラクターは、ついに神との対決にまで到達してしまう。
 ここまで醸成できれば、あとは厚みのある作品世界とキャラクターが転がって、外伝や続編を自動的に産み出す……と思いきや、続編『野望のルーツ』『赫奕たる異端』では、安定したかに見える部分にスタッフたちは大きな揺さぶりをかけ、一部にはリセットまでかける大胆な試みが現れた。これもまた、新たなドラマを産み出すためのものなのだろう。
 さまざまな要素を取り込み、厚みを加えて安定に向かった世界を、また崩してさらなる新しい要素を取り込む。こんな風に転がり続ける関係性を内包しているボトムズ世界。だから我々の乾きも永遠に癒されることはない。実は、そこのところがボトムズのいちばん美味しいところなのかもしれない。

<キャプション類>

●ウドの街を行くキリコ・キュービィ。小惑星リドの事件をきっかけに、軍を脱走したキリコは流れ流れてウドに来た。ベトナム戦争の帰還兵を思わせる、戦いしか知らないキリコの青年像は、初期設定から引き継がれたものだ。

●街を歩くキリコの主観映像で、『ブレードランナー』を連想させる人の点描が入る。明らかにストリート・ガールとわかる女たちもいる。青年層以上をターゲットとした作品であることが明確に示され、世界の深みが増していく。

●カプセルの中に入っていた裸の女……キリコの運命を変えた女性ナの素体を見て驚くキリコ。実はこの瞬間、フィアナの側もキリコによって運命を切り拓かれたのである。これも実は「眠れる森の美女」のバリエーション・シーンなのだ。

●第2部、舞台はうって変わって、クメン王国。焼き付くような熱帯の直射日光がカメラに射し込み、キリコの顔にも深い影が落ちている。抜けるような青空、熱気にゆらめく大気……気分はコッポラ監督の超大作『地獄の黙示録』だ。

●第3部、キリコとフィアナは宇宙に出たとたん、謎の宇宙船に捕捉されてしまう。誰もいない広大な宇宙船という閉鎖空間は、映画『エイリアン』を想起させる。ここでキリコは、忘れたい自分の過去と対面しなければならなくなる。

●第4部、ワイズマンに「神の後継者」として選ばれたキリコは、クエント星の中核に迫る。味方すらあざむいきキリコが企んだのは「神殺し」だった。コンピュータの破壊は「2001年宇宙の旅」と同じくメモリ引き抜きによる。

●スコープドッグの降着ポーズと、中にいるパイロット、キリコの大きさがわかるカット。過去に登場したどんな巨大ロボットよりも、人間に近いサイズが実感できるだろうか。

<ローラーダッシュとアームパンチ>
●ATの足に取り付けられたローラーダッシュと、腕から薬莢を排出するアームパンチの合わせ技が、バトリングをリアルにする。

<カメラアイの放つ視線>
●第1話、いっせいに振り返るAT群という映像は新境地を開いた。顔のレンズは回転し、注視につれてピントが送られていく。

【初出:ボトムズバイブル―装甲騎兵ボトムズ 全記録集〈1〉(樹想社)2001.07.10脱稿】

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装甲騎兵ボトムズ

 1980年代前半、「ガンダム」に影響された作品が流行する中で、ひときわ異彩を放ったカルトなロボットアニメがあった。「ロボットを戦争のための兵器として描く」。ガンダムが提唱した概念を極限まで追求し、徹底してハードボイルドタッチに仕上げた「装甲騎兵ボトムズ」。究極のリアルロボットアニメだ。
 「ボトムズ」とは主役ロボットのことですらない。タイトルロール不在、すなわちヒーロー否定ということだろう。代わってAT(アーマード・トルーパー)という呼び名が使われている。アストラギウス銀河の二大勢力が、理由も定かでない星間戦争を続けて百年。長きにわたり大量に投入された4メートル前後の二脚歩行ワンマンタンク。この世界でもっともありふれた兵器。それがATだ。
戦争の長期化で人心はすさみ、街角にあふれたATパイロットは「最低の野郎」という意味をこめ「ボトムズ乗り」という俗称で呼ばれている。これがタイトルの由来だ。何と乾いた響きではないか。
 主人公キリコも、決まった主役メカに乗らない。部品を集めて一体のATを作り上げたり、敵から奪ったりして次々に乗り換えていく。この世界では、ロボットはバイクや自動車のように量産された兵器なのだから当然だ。
破損を愛ければ動作不良を起こし、戦闘のためには整備も必要だ。鋼鉄の厚みを感じさせる大河原邦男のメカデザインも、オイルの臭いあふれる描写にぴったりだった。キリコは終始寡黙だ。誰にも屈服せず超人的な行動力と判断力で危険を克服していく。着々とミッションを遂行するキリコのクールさも、この作品の魅力のひとつだ。
 周囲をハードな世界観で固め、主人公を徹底してドライに描く。そうすることで、物語で一番大切なものが逆照射され、浮き彫りになる。大切なものとは、キリコとヒロイン・フィアナの愛だ。二人の出会いもまた尋常ではない。第1話の冒頭、キリコは偶然にも軍の最高機密を見てしまう。実験カプセルの中でキリコをじっと見つめる裸の女…。それが戦闘用に強化されたパーフェクトソルジャー、フィアナの誕生であり、運命の出会いだった。
 このシチュエーション、実は「眠れる森の美女」の相似形なのだ。
 武器のトリガを引けば死体の山が築かれる。殺伐として渋いボトムズワールドは、実は高橋両輔監督が巧妙に仕組んだ撒き餌だ。本音は、テレビシリーズ最後でキリコが遍歴の果てに勝ち取るフィアナとの愛、甘い甘いおとぎばなしの方なのだ。その証拠が「眠れる森の美女」というわけだ。
 普通はエサの方が甘いのにヘンだね、と言いつつ、最後の一握りの甘さを味わうまで、渋い渋いボトムズ世界を噛み分け舌で転がすのは、これもまた至上の快楽なのである。ためしに口に入れてみてはいかがだろうか?
【初出:SFアニメがおもしろい(アスペクト) 1997年1月】

※DVD-BOXの新品は品切れのようですが、バラでも出ています。

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2006年11月16日 (木)

伝説巨神イデオン

 人類にとって未知の物体を発見したひとびとが、その本当の原理もわからないまま巨大ロボットのように仕立て上げ、次々と襲ってくる外敵を倒す。ときどきそのロボットは制御不可となって暴走し、空に向かって吼えたりしてしまう。闘いはエスカレートの一途をたどり、ついには全人類が滅亡してしまい、その中で新しい生命の可能性が示唆されて物語は終わる。
 ここでクイズです。この作品は何というタイトルでしょうか?
 その答えのひとつが、1980年の作品「伝説巨神イデオン」だ。「機動戦士ガンダム」に続いて制作された富野喜幸(当時)監督による異色の巨大ロボットアニメだ。
 人類が広く宇宙に移民している時代。殖民が始まったばかりのソロ星では滅亡した第六文明人の遺跡が発見されていた。一方、イデなる無限力(むげんちから)を求める異星人バッフ・クランが発掘現場に攻撃をしかけた。そのとき遺跡と思われていたメカはイデオンと呼ばれる巨神に合体し、バッフ・クランのメカを撃退した。バッフ・クランは報復と巨神の奪取を目的に総攻撃を開始。住処を奪われた人々はもう一つの遺跡で宇宙船の機能を持ったソロシップに非難し、宇宙へ発進した。かくしてあてのない宇宙の逃避行が始まった。
 バッフ・クランは重機動メカを使い、軍の総力をあげ、作戦を立てて容赦ない追撃をかける。イデとはいかなるエネルギーなのか?イデオンの制御は、ソロシップのひとびとにも思うにまかせない。子どもに危機が迫ったときに絶大なパワーを発揮したり、まったく作動しなかったり。
 いったいこの戦闘の意味は何なのか。闘いの果てに待つのは何か。
 前作『機動戦士ガンダム』で富野監督は、作家性も見せながら本音はある程度オブラートにくるみ、安彦良和のキャラクターや大河原邦男のメカに中和させ、商売としての節度を守っていた。だが、『イデオン』では富野監督の「本音」が見え隠れする。やるとこまでやってしまいたい、行けるところまで行ってしまいたい。そんな暗い情念に満たされたドラマから、人間って、こういうもんだよねと、富野監督の意欲が見える。
 そう、真の意味で富野監督100%の作家性が発揮されたのが、この作品なのではないか。
 それでは具体的に、『イデオン』のどこが面白いのか?
 まず、なんといってもイデの運命に翻弄される敵・味方のドラマだ。本来は合体玩具を売るためのロボットアニメとしては、人間関係は異様なほどリアルで生臭かった。極限状態において、裏の裏まで人の真実をさらけだしたドラマがそこにある。
 バッフ・クランの女性カララは、ソロシップ側には敵にあたる。だが彼女がソロシップに乗り込まざるを得ない状況を作り出すことで、カララを中心にした愛憎が浮き彫りになり、敵味方に半端ではない葛藤が生まれた。
 追撃隊の指揮を取るカララの姉ハルルが、自分自身の家名へのこだわりを妹カララにぶつけ、裸にして辱め、部下に命じて笑うというエピソードがある。憎悪は決して馴れ合いの和解には結びつかず、物語が進むにつれエスカレートする一方だ。
 ハルルの恋人ダラム・ズバが戦いの中で散ってしまう。ハルルは必死でその形見を入手しようとするが、それすらかなわずイデオンとの戦いの中ですべては無に帰していく。おのれのすべての憎悪を妹カララへの恨みへと転嫁したハルルは、カララこそが事件の元凶、イデ発動の中心と考え無残にも自分の手で射殺してしまうのだ。
 ハルルがふと父に漏らした真意とはなにか? 実はハルルも、ある意味では被害者なのだ。父にあたり、バッフ・クランの全軍を束ねるドバ総司令のエゴで男のように育てられたハルルは、家名を重んじ自分の意思をないがしろにされた我が身と、女性らしく愛する男の子を産もうとした妹カララを比べたとき、たとえようのない憎悪を抱いた。だがその感情と現実にどこかで折り合いをつけなければ生きてはいけない。人間はそう言う生物だ。
 だからハルルはカララをその引き裂かれた自分の元凶とし、殺す行為を選んだ。こうありたい自分とそれに反する現実に折り合いをつける唯一の方法がそれであるから。そこに「イデの発動を止める」という大義名分のあることは、ハルルにとって福音だったに違いない。
 しかし、それを成し遂げたハルルは、肉親殺しの嫌悪感を覚え、父の言葉に救われることもなく、髪をかきむしりながら泣く。筆者はここが全編のクライマックスだと思う。理屈を超えた心の問題がストレートに伝わってくる。こんなアニメが1980年という時代に他にあっただろうか。
 テレビ放映の打ち切りにより、テレビ版総集編「接触編」と打ち切り以後分の「発動編」の二本立ての劇場映画が公開された。いまレンタル店で借りやすいのは、この2本だと思うが、テレビ版の後に「発動編」をつなげて見るのがお勧めの鑑賞スタイルである。特に打ち切りへの怨念が集約し、ドラマ・作画ともに強烈なテンションを放った「発動編」は繰り返しの鑑賞にたえる。人物の演技やメカの破壊シーンの細かさとヤケクソとも思えるドラマのコンビネーションは、驚異的な密度であり、その密度に支えられて前人未到の破滅のドラマが語られる。
 まさに、その後アニメのあり方を変革したとも言える情念のアニメが『イデオン』なのだ。
【初出:SFアニメがおもしろい(アスペクト) 1997年1月】

※「新世紀エヴァンゲリオン」のヒットの影響下で出た文字中心のムックです。

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アメリカ人の目で見る日本のアニメ

<リード>
 いまや日本で世界に誇れる産業はアニメとゲームだ! と、よく一般誌に書かれている。だが、ピカチュウだけではない、日本製アニメの別の海外評価が、ここにある!

<本文>
 アメリカでは、どこのショッピングモールにも、ビデオ専門店がある。「アクション」「Sci-Fi」がそれぞれ1棚あったとすると、日本製アニメは同じサイズの1棚占領していたりするのが通常の光景なのだ。これはインパクトがある。棚の名前は「Japanimation」ではなく、「Anime'」か「Japanese Animation」である。
 『ドラゴンボールZ』『らんま1/2』など日本でのヒット作がそのままスライドして米国版になっているものも多い。が、圧倒的に受けを取っているのは、やっぱりヒロインものだ。書店に行けば、米国人オリジナルによる『ダーティペア』や『バブルガム・クライシス』が並んでいるし、『セーラームーン』の5人のヒロインがそれぞれソロで1冊のムックになっていて衝撃的だ。
 ビデオで目立つのは、オリジナル・ビデオ・アニメ。もちろんエロスとバイオレンスの横溢した作品が多いからだ。アニメが国境を越えるひとつの要因には、「裸と暴力」が万国共通言語になっているわけである。
 そんなわけで、その代表作たる「UROTSUKIDOJI」のパッケージを発見したとき、これ以上のサンプルはないと、レジに速攻で持っていった。あの『宇宙戦艦ヤマト』の西崎プロデューサーのもうひとつの代表作、日本でも大ヒットを飛ばした『うろつき童子』のことである。ここでお断り。筆者が買ったものは、無修正版ではなかった。最初のシリーズ3本を再編集したもので、肝心なところはカットされて露骨度が減少している。なあんだ、ガッカリ……いや、無修正だったら日本に持ち込めないんですけどね。
 そんなことよりも、もっとインパクトのある素晴らしいオマケが、このビデオにはついているんである!  いきなりお城と鳥居の映像が出てきて、もうこれだけで充分怪しい。いろんなアニメ作品(ほとんどアダルト作品)から抜いたと映像をバックに、渋い声でこんなナレーションが流れる。
「あなたが日本製アニメの初心者なら、この数分間でキャラクターをユニークにしている歴史的、文化的バックグラウンドについて学ぶ時間をお取りいたしましょう」
 そう、イントロとして「Anime Artform」なる5分くらいのチュートリアルが添付されているのだ。さすがマニュアル文化のアメリカ!
 まずは、女の子の髪の毛の色が黄色や青や緑になってて、ポニーテイル、リボンなど特徴ある髪型になっている説明だ。これはキャラクターを容易に描き分けるテクニックと片づけられる。まあ、本当のことだから仕方ない。
 「学校の制服」のパートで説明されるのは、当然、「水兵スタイルのブラウスとスカーフ」……すなわちセーラー服と、そして体育のブルマスタイルなのだ。やはり女の子が水兵の格好をしているのは不思議なんだろうなあ。バックにはセーラームーンのアダルト・パチモンの映像が流れるのが芸コマだ。学生の制服の歴史……それは1800年代末までさかのぼり、ジャーマニ、ビクトリアン、イングランド各国の文化の影響だとナレーションはつけ加える。ガーン、そうだったのか! しかし、それを知ったからと言って日本製アニメを見るのに何の役に立つのだろうか。
 そしてついに来るべきものが来る。「わん・くえすちょん・ふれくえんとり・あすくと……」 いわゆるFAQだ。そう、その質問とは、「なんだって、みんなそんなに目がでかいのか?」ってこと。これにも驚くべき解説がつく。「これは西洋の影響で、1930年代の古いディズニーキャラクターの影響に端を発している」 ええっ? ナレーターは渋い声で、さらに驚きの言葉を続ける。「いまや大きな目はアニメ、マンガのスタンダードだ。アメリカのコミックは日本市場に売るのに失敗した。なぜなら小さくて薄い目は、アンファミリーであまりに冷たいとみなされるからだ」 ひえー、そうなの? と驚きのバックに流れる映像は、淫獣ものの悪役が酷薄に笑う細い目なのだから、妙に説得力があるような、ないような(笑)。
 最後のテーマもスゴイ。「西洋人はしばしば不思議に思う……なんで声優はこんなにハイピッチのヴォイスなんだ?」 実例として甲高い声(ただし吹き替え後)の女の子が次々と語りまくる。するとナレーターは淡々と、「これも文化現象だ。こんな声は、日本ではモア・アトラクティブでフェミニンと思われる。多くの日本の企業ではセールスアシスタントに、顧客に接するときにハイピッチ・ヴォイスを使うよう指導している」と、しめくくるのだった。ホントかよ?
 うーん、こんなレッスンを受けながら、アメリカ人たちは日本のアニメを必死こいて文化的に理解しようとしているんだね。知らなかったなあ。なんてアメリカ人は勉強熱心なんだ!
 でも、続いて流れるのは、魔物の触手がびゅるびゅると伸びて女の子の服を破って犯しまくる映像なんだけどさ(笑)。これを見ているときも、アメリカ人は日本の文化のことを理解しようとしているのかなあ? 別のコトをしているんじゃないのかなあ……。
【初出:プチグラ 脱稿:2001.03.08】

※1996~2000年にかなり数多く海外に行く機会があり、米国中心に海外アニメ状況を自分の目で見てきたままに書いた原稿です。だいぶ時間が経過して変化はあると思いますが……。

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海外における日本製"anime"の評価

 まず、検索エンジンGoogleに"anime"を入れてみた。ヒット数なんと4130万件! まさに"anime"とは、世界の用語になっているわけだ。ちなみに日本のマスコミが好んで使う"japanimation"は2桁違う31万件。だから、英字の"anime"を使うことを強く推奨する。
 観光やビジネスでよく行く先進諸国、あるいはアジア圏では、"anime"を扱った雑誌なりビデオグラムなりは、ちょっと探せばすぐ見つけられるはず。例えばここに掲載したのはドイツのアニメ雑誌で、『天空のエスカフローネ』が表紙になっている(写真1)。熱心なのは、フランス、スペイン、イタリアといった欧州諸国、あるいは香港、韓国、台湾といった元気のいいアジアだが、なんと言っても熱中度がひときわ高いのはアメリカだ。
 それがどれぐらいホットかというと、アメリカのアニメファン主催のコンベンション(大会)の中でも代表的なアニメEXPOというイベントが、今年2004年1月、ついに"anime"の本場である東京で開催を敢行したくらいだ。この大会には、アメリカからも多数のツアー参加者が来訪した(写真2)。
 なぜ彼らはこれほどまでに"anime"に熱中するのか。その背後には「日本製」の持つ「ハイテク」のイメージが隠されている。これは携帯電話、家電製品から自家用車まで、安価で高性能の日本製品が世界を席巻していることと、"anime"の隆盛は無関係ではない。特に日本製家庭用ゲーム機で育った世代が、ハイテクイメージを求めて支持しているのではないか。
 海外での"anime"は、大きく3つのカテゴリーに分かれている。ひとつは『ポケットモンスター』に代表されるキッズもの。もうひとつはアダルトもの。そして最後が本書でも取り上げられているような、青年から成人が観るための作品である。
 ここの部分については、驚くべき数の作品が輸出されている。アメリカのショッピングモールにはたいてい大型のセルビデオ店があるが、そこには大き目の棚1個分の"anime"が置いてある。日本ではとっくに大型レンタルですら見かけなくなった20年来のオリジナル・ビデオ・アニメ作品が一堂に会している様は、なかなかの壮観である。
 その様子を軽く日本でシミュレーションするには、"amazon.com"で検索してみるのがいい。DVDコーナーでは例のビルボード1位を取った"Ghost in the Shell"(攻殻機動隊/'95)や、"Cowboy Bebop"(カウボーイ・ビバップ/'99)など当然の作品名が上位に出て来る。だが、日本では耳慣れない作品があることに、すぐ気づくだろう。その典型がほぼ常勝第1位の"Ninja Scroll"という作品だ(写真3)。これは川尻善昭原作・監督による『獣兵衛忍風帖』('93)のことである。伝奇的で破天荒な能力を持つ悪の忍者たちと、ハードボイルドで不死身な主人公の対決を描いた大衆的エンターテインメント大作だ。しかし、残念ながら日本の観客にはそれほど浸透していない。そのバイオレンス描写とエキゾチズムに彩られた娯楽性、スタイリッシュで美しい画面は、むしろアメリカのユーザーの方が正当に評価したということだ。2003年にTVシリーズ『獣兵衛忍風帖 龍宝玉篇』がスタートし、10年あけての続編に面食らったものだが、これもアメリカ市場をにらんだものだと考えれば合点がいく。
 こんな風に、日米で評価のギャップが生まれた作品は、他にもまだ無数にある。日本では13話で打ち切られたのに、アメリカ資本で続編がつくられた『THEビッグオー』('99)などもその典型だ。また、時代劇アニメ作品が企画中のもの含めていくつか目立って来ているが、それも『獣兵衛』に続けという意味だろう。ということは、われわれ日本人が楽しんでいてドメスティックだと思いこんでいる作品群も、今やアメリカ市場の影響を抜きには語れないところまで来ているということだ。
 アメリカで"anime"作品が受ける要素は、古くから「セックス&バイオレンス」と言われていて、それは時代を経た今も大きく変わることはない。ただし、近年もっと重要になってきたのは「エキゾチズム」と「萌え」ではないか。『千と千尋の神隠し』('01)がアカデミー賞を取った理由の本質も、きっとその辺ではないかと、個人的には疑っている。
 もうひとつ、海外市場の動きで重要なことがある。それは、彼らの情報収集意欲とメーカーのアメリカ市場への作品投入が加速した結果、この数年で日米の時差がなくなりつつあるということだ。これは、雑誌"Newtype USA"が創刊され、日本と同内容の記事を提供し始めたことで、決定的になったのではないか。"amazon.com"で買える作品の中には、新海誠監督がひとりでアニメをつくりあげた2002年の話題作『ほしのこえ』"Voices of a Distant Star"も入っているし、"Saikano"というタイトルが何かと思えば『最終兵器彼女』('03)のことだったりする。どうかすると、アメリカのファンの方が日本人より最新アニメ事情に詳しい可能性だってある。
 こういう状況がわかってくると、"anime"が内にこもるものではなく、国外にも開かれたものだということに、ちょっと誇らしい気持ちもわいてくる。逆に引っかかってくるのは、これほど熱い状況がきちんと日本のアニメファンやクリエイターたちに伝わっていない気がすることだ。それなのに政府までもが輸出産業としての"anime"に期待している。相互認識が空洞のまま、本数だけが増えるのでは、長続きしないのではないかと若干心配になってくる。
 せっかく世界がボーダレスになって来ているのだから、内外の気持ちと資金がちゃんとうまく回る形での"anime"発展があってほしい。日本のファンも、もっと海外の様子を見るべきだ。それがまた良質の作品を増やすという良いサイクルを切に願うものである。

<以下はキャプション>
●『天空のエスカフローネ』を扱ったドイツのアニメ専門誌'ANIMANIA'。紙面も熱気あふれる特集記事やファンレター、ビデオやフィギュアの広告がギッシリで圧倒される。フランスやイタリアでもアニメ誌を書店で見かけることが多い。

●東京池袋で開催されたアニメエキスポ東京(通称:AX東京)のパンフレット。実は両側が表紙になって英語版と日本語版をカップリングしたバイリンガル仕様。イラストは伊藤岳彦。バックに配されたデザイン中には「萌」の漢字も…。

●押井守監督作品『攻殻機動隊』の米国版DVDパッケージ。1997年ビデオリリース時の受賞記録などが配され、日本語・英語、両方の音声が収録されている。このVHS版のヒットが、日本製の「anime」注目のきっかけとなった。

●川尻善昭監督作品『獣兵衛忍風帖』の米国版DVDパッケージ。題名の"SCROLL"とは巻物のこと。川尻作品の濃い目のキャラクターとバイオレンス感覚は、アメリカ人の嗜好にマッチするのかもしれない。常勝1位のビデオグラムだ。

【初出:別冊宝島 脱稿2004.02.04】

※とりあえず「ジャパニメーション」と言うのを止めようよ、という根拠になっている話です。先だって雑誌「DIME」で取材を受けたときに、ほぼ同じコトを語りました。ということは、また説明する機会がありそうですね……。検索件数などは3年近く経ってだいぶ変わっていると思います。

※当ブログはテキストの再掲のみです。写真は掲載しておりませんので、ご了承ください。

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プラモ狂四郎(パーフェクトガンダム)

●ガンプラマンガの頂点『プラモ狂四郎』

 『機動戦士ガンダム』は、放映終了後にバンダイからプラモデル(通称ガンプラ)が発売されるや、児童層を巻き込んでの大ブームとなった。そして1981年10月、講談社からコミックボンボンが創刊され、ガンダムファンの裾野を広げるコンテンツとして発進したのが、ガンプラを主役にしたマンガ『プラモ狂四郎』である。連載開始は1982年2月号。おりしも劇場版『機動戦士ガンダム』は3作目「めぐりあい宇宙(そら)編」で完結間近、まさしくガンプラブームの最初の頂点と言える時期だった。
「プラモスーパーアクションまんが」と連載第1回に銘打たれている『プラモ狂四郎』とは、どんな作品だったのか? それは、主人公・京田四郎たちが模型店「クラフト・マン」に設置されたコンピューターによって、プラモデルが実在するシミュレーション世界へ入って戦うという、プラモデルファンにとっては究極の夢をかなえてくれるマンガであった。ヴァーチャル・リアリティーという言葉がある現在ならともかく、当時は家庭用TVゲームやパソコンの登場前夜であるから、これがいかに画期的で先進的だったかわかるだろう。
 漫画の作者は、温かい描線が魅力のやまと虹一氏。原作者はクラフト団となっているが、これは同誌のブレーンとしても活躍していた編集者・安井尚志氏を中心とするペンネームである。当時の人気モデラーチーム「ストリームベース」も原作に協力、さらにマンガ内にも出演するという、まさにガンプラファンの夢と現実を橋渡しする作品であった。
 そして、パーフェクトガンダムこそは、ブームの頂点の中で生み出されたプラモ出身の“夢のガンダム”と言えるだろう。
【MG 1/100 パーフェクトガンダム(バンダイ)解説書原稿の一部:脱稿 2003.10.29】

※MSVの生みの親であり、筆者の師匠でもある安井氏の代表作です。簡潔にエッセンスを紹介した部分だけを抜粋して掲載します。入稿時のメールにその辺の事情が記載されているので、以下に補足します。

 小生、『プラモ狂四郎』とは本当に入れ替わりでして、講談社さん+安井さんのお仕事は、MSVのもとになったザクキャノンその他の掲載されたムックから「めぐりあい宇宙」あたりまでなんですが、ボンボンのお仕事は横で見ていつも楽しみにしておりました。
 そういえば、その当時に安井さんと飲んだとき、私から「ガンダムは本当はコアファイターを中心に上半身ガンダム下半身ガンタンクとか、そういうギミックになるはずだったんですよ~。みっともないから、出なくて良かったですね」と言ったことがありました。 そしたら、安井さんに「そうかなあ、オレはそれは格好いいと思うぞ」と激しく反論され、「ええ?」と思ってたら、数ヶ月後のボンボンにMSVとして「ザクタンク」が発表されて、腰が砕けたことがありました(笑)。
 またこうやって安井さんのお仕事と関わりができて嬉しく思います。

<ガンダムタンクについて>
 実はピピン用に開発され、後にプレステにも移植されたアメリカ実写版ガンダ
ムゲームに登場していますよね。

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2006年11月15日 (水)

ウルトラマン(ケムラー)

毒ガス怪獣ケムラー
『ウルトラマン』第21話「噴煙突破せよ」

ウルトラ怪獣の代表格!
眠い目が魅力の毒ガス怪獣

■怪獣の魅力は、「目」にあり!

 ウルトラ怪獣の代表選手というと、レッドキングやバルタン星人を思い浮かべるのではないだろうか。確かに彼らも魅力的だ。だが、ケムラーはある意味では彼らよりも際だってウルトラ怪獣的と言える名怪獣なのである。
 大武山(おおむやま)で謎の毒ガスによって被害が出るようになった。科学特捜隊のフジ隊員とホシノ君の調査で、毒ガスは怪獣の仕業とわかる。ケムラーと命名された怪獣と自衛隊の戦い、ケムラーの強さと大暴れが物語の大半で、怪獣としての魅力を存分に見せた一編だった。
 ケムラーの魅力は、まず怪獣怪獣したその外見だ。なんと言っても、あの眠い目がたまらない。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の怪獣の大半は、成田亨がデザインし、高山良策が造形を担当していた。二人は彫刻もできる前衛美術家で、そのクオリティは他と一線を画していたのだ。
 成田・高山怪獣の魅力は、まず何と言っても活きいきとした「目」にある。他の作品の怪獣では、たまにピンポン玉に黒丸みたいな目で、まばたきが出来ずに電飾を点滅させる怪獣がいる。これではシラけてしまう。
 ケムラーの目は、ウルトラ怪獣中でもっとも生物感の魅力にあふれていた。顔の造作がカエルを思わせるようにツルンとした中で目が前面に出ているだけに、いっそうその「眠そうな目」の印象を強くしていた。
 目の下に何段にも刻まれたシワ。目は瞳と虹彩が塗り分けられ、ほんのりと電飾で光っている。うっすらと瞼が瞳の上片をおおいかくすようにそっと覆って、「眠い」印象をもたらしている。瞼にはギミックが仕込まれ、開閉するようになっていて、「オレは生きてるんだ!」という演技ができるようになっているのだ。
 放映当時、週刊少年マガジンの表紙を飾ったウルトラマンの怪獣中でも、ケムラーは格別な印象を残している。それは、雑誌の表紙で私たち読者をにらみつけていた目の印象と鋭い主張によるものだ。
 それがどれだけ強いかは、「究極超人あ~る」(ゆうきまさみ作)によく描かれている。主人公あ~るが、両手を目にあてて「ケムラーの目!」という宴会芸のようなネタをするのだ。実に共感あふれる名場面だった。

■怪獣は生きるために武装する

 もうひとつ。ケムラーがウルトラ怪獣の代表選手だという理由を説明しておこう。
 先に挙げた怪獣・宇宙人のデザイン担当の成田亨は、ウルトラ怪獣を創造するにあたっていくつか自らに約束ごとをした。特に印象的なのは、「巨大生物」や「お化け」との差別化を明確に理論づけたことだ。それは、「怪獣」という特別な生き物を定義する根幹、日本の怪獣文化の基礎になっていると、私は思う。
 「巨大生物」は、単にいまいる生物が大きくなっただけだ。だから、「怪獣」という新たな定義で呼ばれるものではない。オケラが大きくなったら、「怪獣オケラゴン」ではなくただの「巨大オケラ」なわけだ。「お化け」は身体の一部を破壊して登場する。だが、怪獣はそうではない。
 怪獣が特殊な器官を持っているのは、それは彼らなりに生きるための道具なのだ、と成田は規定した。
 ケムラーはこの点でも実によくできた怪獣である。「毒ガス怪獣」という、6文字で非常によくわかる特徴をもった生き物。口の中がフラッシュのように光った後、ケムラーは轟然と毒ガスを吐き出す。それはもう豪快なくらいにゴウゴウとガスを吐く。やっぱり怪獣はその武器をアピールしてナンボの生き物だと痛感する。
 ケムラーの尻尾は、独立した器官になっている。そこから航空機すら落とす怪光線を発射可能で、まるで『ウルトラQ』のゴーガみたいな別の怪獣のようだ。
 ディテールを挙げればキリがない。カエル的印象を強くする耳のくぼみ、鮮やかに赤くなまめかしく光る唇、レッドキング風段々になった腹部など、もうこれがウルトラ怪獣でなくて何なんだ、というくらいの魅力炸裂だ。
 ケムラーの背中には、二枚の羽根のような甲羅がついている。自在に開閉する。開いた内側にはネイティブ・アメリカンの装飾のような鮮やかな色が塗り分けられていて、これまた生物の神秘という印象だ。開閉する理由は、そこに光って明滅するケムラーの弱点があって保護するためだ。甲羅はウルトラマンのスペシウム光線ですら防御してしまう。ケムラーはウルトラマンにすら勝ったと言える。
 ケムラーの生物としての武装は、そこまで強くてカッコ良いのだ。
 ウルトラマンは作戦を変更し、甲羅を持ち上げ弱点を露出させる役に徹する。とどめを刺すのは科学特捜隊のマッド・バズーカ、人間の科学の勝利だ。
 やられた後の行動も、ケムラーは普通ではない。死に場所を求めていくのだ。
 死期を悟ったケムラーは、自分の故郷の死火山に這いずるように動いていく。そして火口に身を投げ、自分を産んだ地球にその生命を還すのである。なんと感動的な最期!
 明らかに人間社会と隔絶した「怪獣の世界」をケムラーは背負って登場した。そして、彼は最期まで「怪獣らしさ」を貫いたのである。
 こんな怪獣、なかなかいないでしょ? だからこそ、ケムラーはウルトラ怪獣の代表選手と断言できるのである。
【初出:「ザ・怪獣魂2」(双葉社) 脱稿1999.12.10】

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2006年11月14日 (火)

ウルトラマンレオ(マグマ星人)

《サーベル暴君マグマ星人》『ウルトラマンレオ』第1話、第2話登場

悪には悪の世界がある!
野性味あふれる最大級の宿敵宇宙人、ここに登場!

■「宿敵」という言葉が似合う悪役

 『ウルトラマンレオ』は放映時、『仮面ライダー』系の等身大変身ヒーローと『マジンガーZ』系の巨大ロボットアニメに負けかけていた。オイル・ショックの影響で、製作状況にも陰りがあった。だが、それにも負けず『レオ』の第1話、2話は立派な出来で、新ヒーロー・レオの登場を飾った。
 双子怪獣ブラックギラス・レッドギラスによる「東京沈没」(時流に乗った『日本沈没』ネタ)は、今ではもう見られないほど水をふんだんに使った大規模な特撮が展開。加えてウルトラセブンが復活して、いきなり戦っているという久々のイベント性に興奮したものだった。双子怪獣は正統派のウルトラ怪獣らしい造形。なぜか耳のなくなったセブンをタッグで苦しめる。そこに登場したのが黒幕、マグマ星人だ。
 雷光ともに、マグマ星人は黒い雲海の中からぐんぐん迫ってくるように飛来する。登場シーンからして、えらくカッコ良く、思わずしびれてしまう。彼はニヤリと不適に笑うと、片腕をマグマ・サーベルに変形させて、2体1でただでさえ不利なセブンに斬りかかるのだ。怪獣だけにやらせておくにとどまない。なんとも好戦的で卑怯さのただよった、イイ感じの登場シーンではないか。
 マグマ星人が他のウルトラ宇宙人と違うのは、徹底した「悪役(ヒール)」として描かれていることだ。マグマ星人の造形は、バルタン星人やガッツ星人といった宇宙人とは完全にコンセプトが異なっている。顔がまず違う。狂気を秘めた仮面然とした顔が実に魅惑的なのだ。うっすらと開いた凶暴な目つき……その目も口も、スーツアクターの「人間の口」がそのまま露出している。だから、表情が豊かだ。憎々しげに視線を送ったり、口元を歪めて嗤(わら)ったりできるのだ。この人間くささが「異形の生物」とはまた違った魅力をもたらした。

■「宿敵」の資格とは

 レオの地球での姿、おおとりゲンはマグマ星人の凶悪さを回想する。マグマ星人こそは、ゲンの故郷L77星を滅亡させてしまった張本人だった。宿敵と言って良い。そして、今またゲンが第二の故郷と決めた地球を滅亡させに来たのだ。
 マグマ星人は、なぜ滅亡をもたらそうとをするのか……『ウルトラマンレオ』では、地球に来る宇宙人の大半は明白な動機を持たない。まるで通り魔のように地球に来訪し、地球の滅亡を促進させようとする。
 マグマ星人はその中でも特別な存在だ。宇宙の帝王になろうとしているのか、あるいは他の生物を滅亡させるのが彼の宿命なのか。そう思ってみると、マグマ星人がさらに他の宇宙人と違う特徴が見えてくる。彼の身体、ウェットスーツを使ったボディと銀のブーツや手袋を着用した姿は、レオに実によく似ているのだ。レオは胸にエンブレムをつけている。マグマ星人にエンブレムがあるのだ。
 ひょっとしてレオの世界でマグマ星人は「悪のウルトラマン」的存在ではないか。そう思うと、マグマ星人のキャラクターがなぜ魅力的かわかってくる。
 表情が豊かで自分に気に入らない星を自己の意志で滅ぼしていくマグマ星人の方が、滅亡させられ防戦一方、ある意味で受け身になっているレオたちより、引き立つキャラクター性を持っているからだ。
 この意味でも、マグマ星人は「宿敵」と呼ばれるにふさわしい宇宙人なのである。

■マグマ星人再登場! だけど…

 このように魅惑的なマグマ星人は、実はもう一度だけ登場している。
 レオが放映中の74年、夏休みのある日曜に円谷プロに怪獣同人誌PUFF会員を中心とする高校生・大学生のファンが集まった。円谷プロの熊谷健プロデューサー(当時)が同席し、意見を聞いた。結果として番組に反映されたことが二点。ひとつはカプセル怪獣の再登場(ボールセブンガー)で、もうひとつはマグマ星人の再登場だった。
 マグマ星人については、ここで述べたようなことが「久々の名キャラ」という評価になっていた。ぜひ、もう一度あの不適な姿を、という意見であった。私も大賛成だった。
 小学館の学年誌での設定では、L77星が滅亡時にレオと双子の兄弟アストラが生き別れとなり、マグマ星人に捕らえられたとされている。アストラが足に鎖を付けている理由はそれだ。だが肝心のテレビ放映では、なぜかアストラの苦闘の日々はまったく描かれなかった。ぜひ、この「レオ・サーガ」をもう一度テレビで描いて、レオの中に描かれるべき宿敵マグマ星人像を完成させ、シリーズとしての芯を通して欲しい、というファンとしてごくごく自然な願いであった。
 確かにマグマ星人は願いに応えて再登場した。だが、それは「怪獣ローランをお嫁さんにしたいマグマ星人」という、とんでもないものだった。しかも、あの魅惑的な人肌の露出した口もとは、スーツアクターのメイクが大変だったのか、FRPの面に置き換えられ、まったくの無表情になっていた。
 これは違う! とさすがに画面に向かって叫んだ。ゲストに桜井浩子と黒部進の初代ウルトラマン・コンビが出ていようと、そんなことは関係ない。マグマ星人は、ローランをお嫁さんにできるはずもなく、レオに懲らしめられて消えてしまった。あれはニセモノだったとでも思いたい気分だ。
 宿敵のカッコ良さ。それを醸し出すのは、非常に大変なことだ。マグマ星人は、レオの1、2話の時点では宿敵の表現に見事に成功していた。学習雑誌の展開も、それをうまくサポートしていた。だが、肝心のフィルムでの再登場で大きくミソをつけてしまったのだ。その上、マグマ星人の着ぐるみはすぐにババルウ星人に改造されてしまい、「レオ・サーガ」に決着をつける気はないということが判って二度も三度もガッカリした。
 私の心の中では、マグマ星人はいまも不適に嗤って宇宙の星々を怪獣を操っては破壊している。きっと、それでいいのだろう。
【初出:「ザ・怪獣魂2」(双葉社) 脱稿1999.12.10】

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2006年11月12日 (日)

DVDウルトラシリーズ(Q,マン,セブン)

題名:デジタル・ウルトラシリーズ

●細部が手に取れるような高画質!

 自腹を切っているからはっきり言わせてもらう。DVD化で画質が良くなると思うのは早計である。事実、私は何度かVHSにも劣る商品をつかまされ、泣きながら中古店へLDを買いに走ったことがある。某商品などは暗い、ピンボケ、色にじみ、粒子荒れ、ブロックノイズと、ギャグにしか思えない粗悪品であった。
 そういうときは、この至宝の画質を誇るデジタル・ウルトラシリーズを観て、目と心をを洗うことにしている。まさにDVD時代のスタンダードとなるべき最高峰の画質だ。崩壊寸前のマスターネガを洗浄し1コマずつスキャンして丁寧にデジタルで補正・修復した大変な労作である。
 筆者が画質の優劣を簡単に見分けるときの個人的手段を紹介しよう。まず、ヘルメットの反射など光沢の映りこみを見る。そこで半透明の階調表現がしっかりされていればOKである。続いて緑の再現性を見る。一番良いのは薄い緑である。
 シリーズが最初『ウルトラセブン』から始まったとき、この方法で思わずチェックしてしまった。結果は、「ウルトラにいいでしょう!」。
 セブンの着ぐるみの表現だけで、すでにおつりが来るほど素晴らしいことが判る。まず額のビームランプがエメラルドグリーンなのに狂喜乱舞。冗談ではなく涙が出て来た。そうそう、セブンの額は緑に輝いていたんだ! と。この20年余りはずっと青に表現されて本当の色を忘れかけていた。
 セブンの目も素晴らしい。中心部分の薄い金色と周辺のプラスチックの部分がしっかり分離した色で表現され、電飾のランプがしかるべき位置に輝いているのが見える。
 そして、最大の見どころは「光沢と薄い緑」を兼ね備えた胸のプロテクター部分だ。このくぼみ部分は、工事現場の作業員がつけるような反射材質の夜行塗料のような薄い緑のテープが貼ってある。スチル写真でもよく見ないと判らないこの部分が、家庭のプレイヤーとテレビで再現されたときには、本当にたまげた。静止画にすると、テープがたわんでちょっとはがれかけている状態まで見えてしまう。
 高画質というのは、こういうもののことを言うのだ。

●高画質になって幸せいっぱい

 目から鱗が落ちたような気持ちとはこのこと。初めてメガネをかけて視力が回復したときのことを思い出す。高画質とは幸せのことなのである。その目で改めると、すでに35年もの間見飽きたはずのソフトも、さまざまな驚きに満ちて見えてくる。
 たとえば桜井浩子が『ウルトラマン』出演に際して髪を栗色に染めたということは文献で知ってはいても、そう見えたことがない。ところがこのDVDではそんな文献を読まなくとも最初からその色なのである。
 造形マニアではないにせよ、怪獣のディテール理解が向上すると非常に嬉しく、怪獣ファン冥利につきる部分がある。ウルトラシリーズもフィルム作品だから、怪獣は動きの中で生命を持つものである。その動きの中で怪獣を見つめ直すために、高画質は大きく寄与する。
 たとえばガッツ星人の腰にラメのようなきらめく材質のものが貼り付けてあることの発見だ。確かにスチル写真にもそれは映っているが、動く画面で光を反射してキラキラッとしたときに真価を発揮し、改めて異星人らしさが何倍か増して感じられるものと感じた。同じことはケムール人やバルタン星人の目の複雑な動き(機電)にも感じる。このように、動く映像としての「表現」が向上することがとにかく嬉しい。
 フィルム傷がていねいに修復されているのも特筆もの。特に何本かのフィルムは、LD化のときにずっとネガ傷が入っているのを見て、オリジナルの損壊に未来永劫この傷は消えないのかと心にも傷を受けた思いだったので、それがクリアされたら気持ちも楽になった。
 こうなってくると、修復されたのは物体としての「傷」ではなく「気持ち」だったんだなあ、と思うようになってくる。画質向上で作品そのものの質が上がったかのようにすら思えて来る感慨の根幹には、この「気持ちの問題」があるのだろう。
 もちろん画質が上がりすぎた逆効果もあるにはある。ホリゾントまでの遠近感がわかってセットやミニチュアの大きさが実感できてしまうとか、隊員服やヘルメット、着ぐるみの破損状況がわかってしまうとか、そういう部分もあるのだが、それはまあご愛敬というところだ。
 すでにウルトラシリーズは評価が固まっているということで、あえて作品の中身には触れていないが、一番嬉しいことはこの高画質ソフトから新しい世代のウルトラファンがまた続々と誕生し、様々な新研究や新発見が産まれるであろうことだ。
 たとえば『ウルトラマン』前半は、怪獣にしてもカラーフィルム化を強く意識した色彩設計になっている。黄色や青の原色アクセント、ピンクの唇がその現れだ。これが時間とともにどう変遷していくのか、なんてのも興味津々のテーマだろう。
 商品レベルでも、すでにこのDVDから研究したらしき成果がガシャポン・フィギュア等にフィードバックされ、色味やディテールが正確な商品が登場しているのも嬉しいことだ。
 画質なんか見られればいい、作品は中身が大事という意見もよく聞く。私もそう思ったことがある。しかし、「内容と表現は一体」なのである。画質向上は内容をより正確に深みをもって伝え、その上で様々な未来を切り開くという観点で、とても大事なことなのだ……その原点を教えられた。
 デジタルウルトラシリーズの、そういった姿勢と品質が、DVD業界のスタンダードにぜひなって欲しいものである。

<CAP>
●どのヒーローも怪獣も高画質の画面の中で活き活きと生命を得たように表現されている。これぞ宝だ!

●OPの前に流れた武田製薬のジングル。ウルトラQ第7巻に収録。

●今回の収穫はウルトラQのOPの文字ネガが修復されたこと。

<コラム1>
 本シリーズは「特撮の神様」とうたわれた円谷英二が初めてTVの世界で特撮シリーズを立ち上げたもの。自らメガホンを取ったカットがいくつかある。写真は「鳥を見た」(ウルトラQ第12話)で留置所から巨大化したラルゲユウスが飛び立つカット。他にも『ウルトラマン』のアボラス対バニラがそうである。

<コラム2>
(1)質感とディテール
 画面に映るもののディテール、特に質感の向上が嬉しい。フジ隊員の手袋とヘルメット用バンドの材質の差、ガマクジラ体表の絶妙なグラデーション、ブルトンの体表にまぶされた雲母のような反射材、シーボーズの角の透明さ、アイロス星人の体毛など新鮮な発見がある。またガヴァドン(A)のようにセットの子細がわかるのも嬉しい。

(2)色味
 巨大ラゴンの鮮明な緑、多々良島の極彩色、ギエロン星獣の赤い目と黄色い嘴など鮮烈な色と判る。

(3)電飾
 バルタン星人の目の回転、メフィラス星人の点滅、セブンの目の表情など電飾の輝きが美しい。

<コラム>
 例えばピーターは何種類かあって、小さいものはトカゲにメイキャップしたもの、等身大と巨大化では後者は炎に映えるようウロコに鏡を埋められている。本DVDは今後こんな研究に役立つだろう。

【初出:『アニメージュ魂』(徳間書店) 脱稿:2002.04.12】

※その後、DVDは各々特典をつけたBOX化されている。ただし、BOXは限定でバラ売りが現行商品のようである。

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2006年11月11日 (土)

機動警察パトレイバー

題名:機動警察パトレイバー
   ビデオアニメの出世頭

■総勢73本のお化けシリーズ

 まず時系列的にアニメ版『パトレイバー』の歩みを追うと、以下のようになる。
(1)ビデオアニメ時代
 1988年4月押井守監督でリリース開始。12月に全6本で終了。その後、劇場映画公開直前に7本目が1989年6月にリリース(これのみ吉永尚之監督)。
(2)劇場アニメ1作目
 1989年7月に公開(押井守監督作品)。ウィルスを使ったハイテク犯罪、リアルな描写が話題に。
(3)テレビ時代
 1989年10月より日本テレビ系で放映(吉永尚之監督)。1990年9月に全48本の放映を終了。
(4)ビデオアニメ第2期
 1990年11月より毎月テレビシリーズがビデオパッケージとして刊行。テレビ3話に対してOVA1話の比率で、テレビの続編が新作にてバンドリング(吉永尚之監督)。全16話で、1992年4月に終了。
(5)劇場アニメ2作目
 1993年8月に公開(押井守監督作品)。東京に戦争状況をもたらす疑似クーデターを扱った。
 すごい作品数だ。総勢73本にものぼる作品がつくられていることがわかる。しかも、ビデオ・テレビ・劇場の3メディアにわたって各々がヒット。他に例のない一種のお化けシリーズと言える。
 本稿ではこの驚きの「パトレイバー・シリーズ」を、個々の作品の内容にはあまり深く立ち入らず、現在の視点でもう一度全体を振り返ってみることとしたい。

■マルチメディアの申し子

 「マルチメディア」は、ひとと状況によって定義が異なる玉虫色でカメレオンな言葉だ。『機動警察パトレイバー』は、アニメ的マルチメディアにうまく乗り、出世に次ぐ出世を繰り返した作品としてまず記憶されている。アニメの作品内容以前に、オリジナル・ビデオ・アニメ(以下OVA)の3種のメディアでビジネスとしてきちんと成功し、後の作品企画のプロトタイプにも使われたことが、その感を強くしている。
 この作品の始動と思われるのは1986年。マンガ家ゆうきまさみが友人のアニメ・クリエイター(主としてメカデザイナー)出渕裕と企画したものが出発点だ。雑誌にも高田明美によるキャラクターのプロトタイプが掲載、脚本家の伊藤和典によるプロットと進む。1987年前半に聞いた噂は、「6人の監督がそれぞれの持ち味で演出する連作シリーズ」だった。ゆえに、押井守が監督として決まったのは最後のはずだ。
 当時、OVAは一種の行きづまりを見せていた。主流は1時間前後の尺で、作画や演出の質もテレビアニメ以上劇場アニメ以下と、はっきり言えば中途半端だった。玩具を売らなくて良いからと企画や設定は逆に放漫になり、意味不明な作品をアニメファンだからという理由だけでガマンしてたくさん観た記憶が残っている。サポート体制もないままに若手に現場を仕切らせ崩壊寸前、という話もよくあった。だから経験豊富な予算含めコントロール可能な人材として、押井監督は期待されたのではないか。
 『機動警察パトレイバー』のマスコミへの露出は1988年春、少年サンデー誌上でゆうきまさみのコミック版掲載が最初だ。タイミングを合わせてビデオ版が30分4800円というブロックバスターで発売、この価格戦略も大きく取りざたされた。全6話という、テレビ放映の1クール(13本)の約半分というフォーマットも画期的で、やがて業界のデファクト・スタンダードになっていく。
 押井守監督の手腕は確かだった。ビデオ初期作品ではイングラムもほとんど動かず、活劇としての魅力には乏しいが、それをフィルム構成とダイアローグで押し切った。「4800円で買うアニメはこんな感じ」という顧客の期待値は満たされ、その上に押井監督独自のこだわりがある「おじさんたちのクーデター話」もきちんと成立。結果的に押井監督の作家性を再認識させ、映画版2本につながる道を拓いた。
 コミックとビデオの相乗効果で、大ヒット。先に挙げた、ゆうき・出渕・高田・伊藤・押井の5人はヘッドギアというクリエイター・ユニットを結成、雑誌や広告を飾るスターとなった。

■パトレイバーの基本設定

 1990年代後半、産業用機械ロボット「レイバー」が工事土木関係を中心に流行、同時にレイバーを使った犯罪も続発した。警視庁は特殊車両二課、通称「パトレイバー」を設置してこれに対抗した…。
 パトレイバーの基本設定は、こうだ。
 特車二課は、第一小隊、第二小隊から構成。主人公はレイバー好きで第二小隊に配属された女性隊員、泉野明。パートナーは、レイバー産業界の大物を父に持つ篠原遊馬。これに大男だが優しい性格の山崎、すぐ銃を撃ちたがる太田、恐妻家の進士を加えた合計5名が主力隊員だ。統括する後藤隊長は切れ者すぎて上層部からにらまれ、特車二課も埋め立て地のうらぶれた風景の中に設置され、警察のプロパガンダに使われてるがお荷物扱い、という点が異様にリアリティがある。
 出渕裕による主役メカ「イングラム」のデザインは、ヒーローロボット的な頭部とプロポーションでカッコ良い。だが色はパトカーと同じ黒白のツートーンで胸には桜の代紋、肩は回転式パトライトと、キャラクターとしても実に際だっていた。
 パトレイバーのヒットが続いた理由は、キャラクターや世界観など骨組みに相当する要素がしっかりと自立していたことが最大のものである。初期ビデオアニメは爆弾テロ、怪談ミステリー、怪獣もの、ポリティカル・フィクションとバリエーション豊かだ。これも確実な枠組みに支えられ、「なんでも飲み込める」と、間口を拡げた結果が出た。
 コミック版とアニメ版ではキャラクターの性格づけや描写の比重が微妙に違う。6人目のキャラクター香貫花クランシーや、押井組の常駐俳優、千葉繁をモデルにしたシバ・シゲオを中心にした整備班の面々の比重がコミックでは軽い。こんな違いも、発展していくうちにバリエーションとして認識され、全体で「パトレイバー」というひとつのシリーズとしての枠組みの中に飲み込まれていく。
 これも基礎工事が絶妙であることの証左だ。80年代後半のトップ・クリエイターたちが心血を注いで構築したものだから、当然と言えば当然である。
 それが本作品の非常に面白い点である。

■時代を先取りした予見的作品

 2000年2月18日の新聞に驚くべき記事が載った。中央官庁のホームページハッキングにともない、「警視庁は、不正アクセスやサイバーテロなどの発生時に現場に出動する専門家チーム『サイバーフォース』を設置する」(朝日新聞朝刊より引用)ということだ。この瞬間、「ごーん!ご・ごんごーん!」と川井憲次の音楽が耳元で鳴り、千葉繁の声色で記事を音読してしまったのは私だけではあるまい。記者がわざと行ったのか、あまりにも『機動警察パトレイバー』のイントロ・ナレーションに似ていたのだ。
 パトレイバーの時代設定は1999年。作品の初出は、1988年。12年が過ぎて、ついに実年代が設定年代を追い越し、本当に警察が似たような動きを始めてしまった。もちろん、都心にロボットが闊歩する時代が来るとは誰も思っていなかった。「レイバー」という設定は、ガンダム以降に流行したリアル系巨大ロボットを成立させるための「お約束」という自覚は送り手も受け手もしっかり持っていた。さまざまな事件に遭遇し解決する連作物語を成立させるのに、警察と犯罪という枠組みが欲しかったということだ。
 「実年代の入った近未来」「超科学などの飛躍した設定の排除」は、あまり類を見ない勇気あるセッティングなのだ。酷を承知で結果論的に言えば、「去年・今年の話」としていま再見したとき、いちばん違和感あることは巨大ロボットではなく、「なぜ携帯電話やインターネットを使わない?」という疑問だったりする。それくらい近未来という設定は、陳腐化の危険性に満ちているのだ。
 逆に言えば、困難に挑戦したことで現実に密着した問題意識が持てたこともパトレイバーの懐を深くした。映画版1作目ではハイテク犯罪のウィルスによる犯罪という、正確で予見的なテーマが扱われているし、2作目では携帯電話を代表とする通信網も小道具として機能するようになっている。

■パトレイバー・アゲイン

 まとめると、キャラクター構造と世界観が強固で、バラエティに富んだプロットをぶつけ、コンテンポラリな問題意識も盛り込めることが、『パトレイバー』の最大の強みと言える。
 一方、この作品が『うる星やつら』などの永劫回帰的な作品に比べて不利な点は、まさにパトレイバーの強みが諸刃の剣として出た部分だ。現実に流れる時間が、シリーズとして続けているうちに、作品内のキャラと世界観に大きく作用してしまうのだ。実年代と実世界をベースにしているため、携帯電話のように、なまじの技術描写は陳腐化のおそれがある。キャラクターにも成長への問題意識が芽生える。映画版2作目では、この作品内世界と現実とのきしみを精算し、ピリオドを打とうとした形跡があった。クレバーな人材が集まって作られたシリーズだから、ヒットを始めたときから、いつか卒業の日が来るのは判っていたことだろう。
 だが『パトレイバー』の世界は、終わらせてしまうには、少々惜しい。キャラと世界が育ってしまったのなら、さらに近未来にして新規に仕切直しの方法論もあるだろう。実際に、90年代も末期に近づいて、劇場アニメの3作目が鋭意制作中と報道、予告編も公開された。とり・みきが脚本を担当、従来のキャラクターから離れて、スタッフ的にも違った布陣での新作が準備中なのだという。
 現実世界が2000年の節目を迎えて、変わっていくところ、変わってはいかないところは、そろそろ判ってきたはずだ。常に「近未来」とのの距離感と相対関係を射程に置いて「現在」を逆照射する作品づくりもふたたび可能になる好機到来ではないか。
 あの頃と同じ『パトレイバー』のキャラや作品をもう一度見たいのではない。あのような志や方法論に導かれた新しい作品が、また観てみたい。その確認のために作品を再見するのも一興ではないだろうか。
【初出:双葉社ムック 脱稿:2000.02.20】

※以下の2パッケージには別途解説を提供しています。また、この記事は3本目の劇場映画『WXIII機動警察パトレイバー』の製作前に書かれたものです。

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2006年11月 9日 (木)

勇者ライディーン

寄稿題名:神秘のパワーで元気充満!

 『勇者ライディーン』DVD最大の見どころは、第7巻に収録された「富野由悠季インタビュー」の映像である。富野総監督の映像自体は珍しくないが、インタビュアーにこそご注目。それは、現在『ラーゼフォン』で初監督に就任し、やはり「美と神秘のロボットアニメ」でライディーンの血脈をいくばくか受け継いだ作品づくりに挑戦中の出渕裕なのである。収録は2000年の11月。今にして思うとよくできた伏線だなあ……。
──と他人事みたいに書いているが、「それはブッちゃんがいいよ」と振ったのは筆者なのであった。そういうものである。
 この作品を再見すると、さすがに古さは禁じ得ないものの、やはり熱気に充ちていて画面から何かが飛んでくるものがある。作品の感動とは、理屈と説明の積み重ねではないのだなあ、と思う部分が多々ある。
 たとえば前半の富野監督編は、打倒マジンガーへの挑戦意欲の高さと、つむぎ出した神秘のイマジネーションの大きさが良い。第1話を観ると、悪魔の時代が本当に来そうな予兆の風景、ライディーンの示す神々しさ、そして船や人体までもが石と化してしまうまがまがしき黒い光など、明らかにこの作品にしかないものが多く息づいていて、それだけで心臓がドキドキする。
 後半の長浜監督編も、バトルにバトル、さらにバトルを積み重ねて数ラウンドを必ず消化するライディーンの戦いのこってり感がたまらない。特に40話台の盛り上がりは最高である。敵が合体獣を繰り出して来たことで、対抗として自分の身体をも傷つける必殺技ゴッド・ボイスの封印を解くライディーン。母への思いとクライマックスが交錯するドラマ展開が見事だ。
 画は未熟でもついつい画面の中に引き込まれるものを感じてしまう。最近インターネットの掲示板でアニメの感想を見ていると、美しい絵を遠くの方から眺めるように価値を見いだしているのと好対照である。
 別に昔の方が良いとか昔に戻りたいなどとはまったく思わないが、この差は何なのだろうかと考えつつ楽しむにはちょうど良いDVDソフトではないだろうか。

<キャプション>

●巨大な岩の手の形をした移動要塞ガンテ。悪魔世紀の始まりを象徴するビジュアルを体現した存在だ。

●第1話の安彦良和によるライディーンの顔の作画は、まさに神がかった美しさを表現しきっている。

<コラム>

 本作の主人公ひびき洸は、ライディーンに乗らないときは高校生活を送っているので、ドラマも学園ものと密接にからみついているものが多い。なので敵のライバル、プリンス・シャーキンが突然に転校生・砂場金吾として現れるというスゴイ展開もあったりするのである。やはり学園に転校生は美味しいネタなのである。

【初出:『アニメージュ魂』(徳間書店) 脱稿:2002.04.12】

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海のトリトン

寄稿題名:緑の髪の少年は、イルカに乗って大海原へ…
       アニメブームの原点中の原点

 『海のトリトン」は、』『機動戦士ガンダム』の富野喜幸(現・由悠季)監督と『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展プロデューサーが手塚治虫の原作をベースに世に送り出したTVアニメである。放映後もトリトンのことを語り続けたいという動きが、若者たちによるアニメファンクラブ結成となり、その動きがやがて70年代後半にヤマト・ガンダムを通じてアニメブームへとつながっていく。
 トリトンは、ポセイドン族の送り込む怪獣や怪人と戦うヒーローだ。しかし、それまでのヒーロー像とはかなり異なっていた。未知の世界へ旅立つことに怖れを持ち、ささいなことで感情を害し、自己中心的な発言をし、時に悩んで落ち込む。初めて知った同族の少女ピピに対してもその心が判らない。こういったトリトンの言動は、大人への入り口に立った思春期の本当の姿を映したもので、憂いを含んだ可愛い容姿とともに視聴者の心に深く残ったのである。
 当時こういった思春期特有の振幅の大きな心理をドラマに織り込んで描くことは、まだまだ挑戦的なことであった。劇画タッチで描かれた激しい画面、トリトンの心の揺れ動きと成長のドラマは、いま改めて見ても実に新鮮である。
 現在のアニメのひとつのルーツがここにある。君もトリトンといっしょに旅に出てみないか!

《キャプション類》
◆トリトンとピピは最初はお互いの考え方を認められず、激しくぶつかり合う。思春期の男女ならば直面する対立をリアルに描写していた。

◆ポセイドン族は巨大な怪獣や半獣半人の幹部たちなどを次々と送り込み、トリトンを抹殺しようとする。海中の戦いは、ファンタジックな美しさを見せてくれる。

◆海に向かって旅立つトリトンの姿は思春期の少年少女にときめきを与えてくれた。

◆トリトンは、戦いの中で障害にぶつかり、そのたび激しく悩む。それは自分中心に生きてきた少年少女たちが、大きな動きと流れをもった社会を垣間見たときにぶつかり、感じるものと同じであった。憂いを含んだトリトンの表情は多くのひとの心を動かしていった。

◆緑の髪を持つ少年トリトンは、13歳になったとき白いイルカのルカーによって、海没したアトランティス大陸のトリトン族の末裔であることを知らされる。トリトンはオリハルコンの短剣を手に続々と襲い来るポセイドン族と闘う。そしてもうひとりのトリトン族の生き残り、少女ピピと出会ったことで彼の運命はさらに大きく動いていく……。

◆海グモの牢獄に閉じ込められていたヘプタポーダは、ひたすら海の上の世界が見たいという願いに突き動かされてトリトンと戦った。だが、憧れの海上にあった激しい光は彼女を拒絶する(第20話)。引き裂かれた悲劇のヒロインとしてトリトンを代表するゲストキャラクターだ。

◆トリトン抹殺を指令するポセイドン像。当時ブーム絶頂だった仮面ライダーの影響で、子ども番組の悪の首領は正体不明のものが幹部を操るのがパターンとなっていた。トリトンと海の生物たちを苦しめる悪と思われていたこの神像は、最終回で大きな逆転劇を見せることになる。

■原作/手塚治虫■プロデューサー/西崎義展■演出/富野喜幸■作画監督/羽根章悦■美術監督/伊藤主計、牧野光成■音楽/鈴木宏昌■制作/朝日放送、アニメーションスタッフルーム
■トリトン/塩屋翼■ピピ/広川あけみ■ルカー/北浜晴子■ポセイドン/北川国彦
■1972年4月1日~9月30日ABC系放映

【初出:月刊アニメージュ(徳間書店)2001年10月号】

※DVD-BOX(現在入手難)が出たときの紹介記事です。雑誌なので写真にキャプションをつけて読ませるスタイルになっています。その後、劇場版のDVDも出ましたが、これは再編集の方法がだいぶ粗いものです。

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「20年目のザンボット3」単行本企画書

企画書(案)  氷川竜介
                                                     注:非公開資料

<ザンボット3とは何か?>

 時に1977年。
 後にアニメ雑誌の元祖となる「月刊OUT」から端を発した「宇宙戦艦ヤマト」は夏の劇場版公開をピークに大ブームを起こしていた。アニメそのものがブレイクし始めたのだ。
 青年層に「アニメファン」という意識が初めて生まれ、社会的にも認識されたこの年の秋。
 1本のロボットアニメが誕生した。
 「無敵超人ザンボット3」である。
 ヤマト以降、下請け作品ながら着実な品質を提供し、ファンの信頼を勝ち得ていたプロダクション、日本サンライズ(現サンライズ)。
 その元請け作品の第1作だ。
 名古屋テレビをキー局に、クローバーという玩具メーカーをスポンサーにした初の作品。それまでのロボットアニメに比較してマイナー色は強いが、その輝きは時を経ても褪せることがない。
 「ザンボット3」と聞いただけで、あの熱い時代の原点を想起し、涙を浮かべる。遠く来た道を振り返り、ふと立ち止まらせるものが、この作品にはある。
 一見、普通のロボットアニメに見えるこの作品が、なぜ20年の時を超えて訴えかけるものがあるのだろうか?

<機動戦士ガンダムへの道>

 総監督は富野由悠季。キャラクターデザインは安彦良和。
 その他後に「機動戦士ガンダム」を生み出すスタッフが数多く参加している。
 というか、「ザンボット3」「ダイターン3」と富野監督作品が続けて制作され、ビジネス的にも作品的にも手応えがあってこそ生まれたのが「ガンダム」なのだ。
 「ザンボット3」がなければ「ガンダム」以降の作品もまったく違ったものとなっていただろう。

<ザンボット3の特長>

 3つのメカが合体して巨大なロボットになり、敵の怪獣を倒す。
 それまでのヒーローロボットと何ら変わることない基本設定のこの作品は、それまでタブーとされていたいくつかのことに挑戦した。
 主人公側の正義にクエスチョンマークをつけたこと。
 巨大なメカが戦闘をすれば、街は焼け人間が死ぬ。
 戦闘に巻き込まれた地域は被災地になり、家族が離散する。
 「ザンボット3」では、それまであまりに記号的に扱われ無視されていたロボット戦闘の被害を逆手にとった。外敵・ガイゾックと戦う主人公たちが、戦闘の責任を問われ非難され、その逆境の中でも地球を守るために戦い続けなければならない、といった異常な、しかし現実感の強い事態を描き出した。
 敵の攻撃も、人間爆弾作戦から一気にテンションがアップ。焼け出された上に捕虜になった人々は背中に爆弾を埋め込まれ、被害を拡大させる。それどころか、主人公の友人たちまでがその犠牲になる。しかも、死の恐怖に絶叫し、助けを請うまま爆死する瞬間を真っ正面からとらえるという凄惨な光景、そこから目をそらさない真摯な演出に、成長ざかりのアニメファンたちは大きな衝撃と感銘を受けた。
 博士がいて基地があり、という基本型を継承した「神ファミリー」、家族で構成された主人公チーム。主人公・勝平の血路を開くために、一人また一人と犠牲になり、散って行く。極限状態の中で家族のあり方、その問いかけが痛烈に胸を打つ。
 最終回、主役メカまで破壊され、祖母を、父を、ともに戦った従兄弟たちを失う勝平。その前に現れた敵ガイゾックの本体は、冷厳な事実を告げる。
 地球に悪意が満ちた。だからガイゾックは滅ぼしに来たのだと。
 宇宙全体に取って害になるものを排除するコンピューター・ドール、それがガイゾックだった。
 自らの正義を、戦う意味すら喪失し、地上にロボットごと落下した勝平--その目覚めの感動的なシーンで物語は終わる。
 勝平の少年期特有の精神状態、心の震幅。出口のない焦燥感、果てしない喪失感、しかしそれと引き換えに手に入れたもの--少年との訣別。これもまた大きな見所だ。

<金田伊功の戦闘シーン>

 「ザンボット3」は低予算アニメで、作画の品質は全般にあまり芳しくない。
 その中でアニメファンの度肝を抜いたのが、後にスペシャル・エフェクトの第一人者としてアニメの戦闘シーン作画技法を塗り替える金田伊功の超絶的にパワフルな戦闘シーンだ。
 タメと解放のメリハリあるアクション、パースのきいた空間に、ほとばしる光線。異様にカッコ良いその作画は、大きな話題となった。

<すべてはここから始まった>

 以上、述べたように、20年間のアニメの歩みは「ザンボット3」から始まったといっても過言でない。
 20周年の今年、LD化で容易に再見のチャンスが来たタイミングで、作品そのものの鑑賞だけにとどまらず、ザンボット現象、ザンボットの位置づけ、ザンボットに燃えた日々の思い出などを副読本として振り返ることは、意味のあることと確信する。
                               以上
【未発表原稿:1997年2月執筆】

※太田出版に提出した単行本の企画書。この本を書いてからもうすぐ10年になるが、あらためて再読してみると、ここで書いてることが現在のすべての原点だとよくわかり、身が引き締まる。CD、DVDと関わることができたのも幸せだが、そこに留まらず、このときの自分に恥ずかしくないよう生きていきたいものだ。……という自分への「お札」(自戒)の意味もこめて、あえて非公開資料を掲載。

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日本沈没(TVシリーズ)

寄稿題名:必見!特撮抽出機能

 本作は1970年代に起きた終末ブームの産物である。同じ終末色の『宇宙戦艦ヤマト』の本放送に続いて夜8時から放映されていたのが思い出される。
 映画版『日本沈没』は全編鉛のような色彩に満ちた災害描写の特撮が非常に印象的な作品で、当時の中高校生へのインパクトは『ヤマト』と同じくらい大きいものがあった。その中で始まったTV版は……うーん、正直言って当時は怒ってたのを思い出した。
 原作と映画は「日本列島が海に没する」という大ウソを真摯に描いていた点がSFらしくて良かった。それに比べ、TV版はレッツビギン村野武範とヒロイン由美かおるという配役からしてどうも通俗的なところが気になって仕方がなかった。そして日本全国名所旧跡観光地ランドマークが毎週毎週沈む! という展開もガクッと来た。マントル対流はどうなったんだと(笑)。
 でも、改めて観るとこれで良かったと思う。日本人として刷り込まれている風景を週替わりで精緻なミニチュア化して破壊する映像は、今だからこそそれだけで価値が高い。なんてことも、DVD時代になってから言えること。このDVDソフトはプログラム機能が極めて優れているのである。メニューから「災害マップ」を選ぶと、日本列島の図にその巻ではどこで何が破壊されるかが整理されて出てくる。さらに「連続視聴」を選ぶと、特撮シーンだけを抜いてつないで全部観ることができるのだ! これではまるで『沈没ファイト』ではないか(笑)。邪道という意見もあるだろうが、そこだけを楽しみに1時間のドラマを観ていた身にとっては待望の機能である。嫌なら使わなければいいだけだし。
 というわけで、この「特撮抽出機能」があるがゆえに本DVDを強く推薦した次第である。

<CAP>
●清水の舞台は身をよじって倒壊し、金閣寺は静かに水流に没する。どこがどう破壊されるか特撮パワーが駆使される!

●異変をキャッチした深海潜水艇わだつみ。本作を代表するメカだ。

<コラム>
 東宝の製作だけあって本作の出演陣はなかなか濃い。主題歌の五木ひろしや鳳啓助+京唄子の他、仲谷昇、田中邦衛、根上淳、佐原健二、黒沢年男ら有名の俳優が目白押し。かつて同時間枠青春ドラマの教頭先生でおなじみ穂積隆信と柳生博がコンビで登場する回(第14話)もあって微笑ましい。

【初出:『アニメージュ魂』(徳間書店) 脱稿:2002.04.12】

<別バージョン>
※この原稿は珍しく長く書いたバージョンも保存してあった。こうやって長めに書いて縮めていくのがいつもの書き方なのだが、それにしてもこれは長い。途中で文字数変わったのかな? 内容ダブリ、未完はご容赦を。

 『宇宙戦艦ヤマト』の本放送に続いて同じチャンネル(関東では日本テレビ)、夜8時から放映されていたのが、このTV版『日本沈没』である。今でもこの2つの番組の間にあった頭痛薬のノーシンのCMをよく覚えている。映画版で丹波哲朗演じる首相が「ただちに門を開けて宮城内に避難民を入れてください!」って言うの。あ、知りませんか……。
 映画版『日本沈没』は全編鉛のような色彩に満ちた中でフラッシュが明滅する災害描写が非常に印象的な作品で、当時高校生の自分へのインパクトは『ヤマト』と同じくらい大きかった。そういう中で始まったTV版は……うーん、正直言って当時は怒ってたんだ。この年頃はマジメ過ぎたからなあ。
 原作と映画は「日本列島が海に没する」という大笑いされそうなウソを非常に真摯に描いていた。それに比べると、どうにも通俗的なところが気になって仕方がなかった。主人公の小野寺は同じ時間枠、かつてのレッツビギンだった村野武範、ヒロインの阿部玲子は由美かおるでこれが富豪の令嬢で最初は対立しているが……という臭いドラマを作ろうとする見え見えの設定からして何だかなあと。映画版と同じ田所博士の小林桂樹だけが頼みの綱と思ったら、いきなり地面に耳を当てて「来る!」と地震を予知するトンデモ博士になっているし。
 そして日本全国名所旧跡観光地おいでませのランドマークが毎週毎週スポットで沈む! という発想にもガクッと来た。山中盆地の京都にある建物が一点だけ海没(?)するわけないじゃんと。マントル対流はどうなったんだ(笑)。
 でも、改めて今観るとこれで良かったんだと思う。特に最終回や総集編で流れる、富士山やねぶた祭りや田園風景がフラッシュバックする、いかにもの「日本の風景百選」みたいな実景を観ると泣けちゃうもんね。なんか、今さらながらに日本人としてのDNAに刷り込まれているものがあるよね。それを週替わりで精緻なミニチュアを作って破壊することで、逆説的にその大事さを訴えようというのは、姿勢として正しい。
 なんてことも、DVD時代になっての機能がついたから言えることかも。このソフトはDVDとしてのプログラム機能が極めて優れている。メニューから「災害マップ」というところを選ぶと、日本列島の引き出し図解になる。そこに、その巻ではどこで何が破壊され、沈むかが整理されていて、セレクトすると本編のその特撮シーンに一気に飛べるのである。さらに優れているのは「連続視聴」を選ぶと、その巻の特撮だけを抜いてつないで全部観ることができる!
 これではまるで『沈没ファイト』ではないか(笑)。邪道だという意見もあるだろうが、まあしかし、そこだけを楽しみにドラマ(1時間番組なので非常に長い)を観ていた身にとっては嬉しい機能である。嫌なら使わなければいいわけだし、選択が増えるのは取りあえず良いことだと思うのだよ。
 というわけで、この機能があるがゆえに本ソフトを推薦した次第である。
 ちなみに、1巻には「庵野秀明と樋口真嗣が福田純監督と対談するコメンタリー」がついていて、ジャケットデザインも例の極太明朝が直角に曲がりまくっているし、復刻版のプラモデルがオマケについていたのも、今ならではの特典に力を入れている証拠ということか。

※なお、本ソフトは2006年の再映画化合わせでバラの再発売の他にBOXも発売された。

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2006年11月 8日 (水)

劇場版『∀ガンダム』

寄稿題名:富野由悠季監督と『∀(ターンエー)ガンダム』

◆前代未聞のサイマル・ロードショー

 今回は2002年2月9日から劇場公開が予定されている『∀ガンダム I地球光/II月光蝶』と総監督の富野由悠季作品について述べよう。
『∀ガンダム』は1999年4月から1年間にわたって放映された全49話(総集編1話含む)の連続TVアニメーションである。今回の劇場映画は、TVシリーズの総集編をベースに2本の映画として再構築したもので、「サイマル・ロードショー」という公開方式が取られている。各2時間強2本だて公開にすると4時間半近くとなるため、日替わりで前編・後編を上映するという形式となったわけである。週2回出かけるのには一瞬ためらいが生じるが、完成した作品を見ると、この公開方式は意外に映画の作風にも合っているのではないかと思った。
 前編「地球光」は地球を舞台にした部分を中心にディアナとキエル、二人の入れ替わりを中心描いた優しい作風である。一方、後編「月光蝶」は主人公たちが月に出かけ地球へ戻る中で、主役メカ∀ガンダムと宿敵ターンXの激烈な戦闘が何ラウンドも行われ、ややハードな展開をとり、ラストシーンでまた優しい世界へ収斂していく構成をとっている。
 その好対照がセットになることで、全体がふくらんでいき、『∀ガンダム』の世界を非常に大きなものとして見せてくれる。だから、一気に4時間半通して観るよりは、前編で出来たイメージを見終わって1日か1週間か、頭の中でゆっくりと反芻した方が、その対照感がより心地よくなるのではないか、と感じたのである。
 それは『ガンダム』という題名がついてはいても、この作品が新しく優しいところに触ろうとした作品であるのと無関係ではない。

◆民話コンセプトを中心においたガンダム

 映画の前編「地球光」の冒頭、物語は衛星軌道から地球に向かうモビルスーツと、その中の三人の少年少女から始まる。彼らは月に住むムーンレィスで、地球降下作戦に先立って環境適応テストのために選ばれたのである。その一人、主人公ロランは鉱山主のハイム家に住み込み、運転手として働くことになった。そこアメリア大陸のイングレッサは、一見して産業革命時代に見える活気を秘めたオールド・ファッションなところであった。
 やがて2年が過ぎてロランが地元の成人式「宵越しの祭り」に参加して、いよいよ地域社会の一員となろうとした夜、月の軍隊ディアナ・カウンターが攻め入り、戦争が勃発してしまう。そして成人式のための神像ホワイトドールの中からは白いモビルスーツが出現して攻撃に自動的に反撃してしまった。
 ロランはこのモビルスーツ「∀ガンダム」の正式名称も知らないままパイロットとなり、月と地球の間にたって戦うことになる。
 この畳みかけるような展開の中で世界の成り立ちが手際よく紹介される。そして、月の女王ディアナが登場することで画面は引き締まり、一気に核心へと迫っていく。ディアナとハイム家の長女キエル、二人の外見がそっくりだったことから、ほんのいたずら心で入れ替わってしまうのである。だが、そのことが争いを繰り返す地球と月のそれぞれの立場の理解を深めていくことにつながっていく──。
 この導入で示されるように、主要人物の入れ替わりや月の女王の物語は日本では「とりかえばや物語」「かぐや姫」をはじめとする世界中のベーシックな民話的な要素が原案である。それが、ハイテク最先端を連想させるガンダムと一体となったところが、まず面白い。
 ここで重要なのは、名作とロボットアニメの合体した物語の組み立て方に、SF的な相対感覚の匂いがあることである。

◆富野監督の作品歴

 それをよく知るために、富野由悠季監督の作品歴に関して少し説明が必要だろう。
 富野監督は今でこそロボットアニメの第一人者のように言われているが、本来はもっと幅広く引き出しが多く、多彩なジャンルに対応可能な演出家である。それは、フリー演出家としてアニメ製作プロダクション各社で無数の作品に絵コンテを提供し、各話を演出した時期の仕込みがあるからだ。
 仮に「プロジェクトX」のような番組で『機動戦士ガンダム』の最初のTVシリーズ(1979年)のメイキングを作ったとすると、「そのとき富野はガンダムに全力投球した」などと言われてしまいそうだが、実際は掛け持ちをしていた。
 その作品とは高畑勲監督、宮崎駿場面設定(15話まで)の名作劇場『赤毛のアン』(日本アニメ)で、「とみの喜幸」名義で絵コンテを5本提供している。同時にガンダム・スタッフの大河原邦男、中村光毅もガンダムと掛け持ちをしていた『科学忍者隊ガッチャマンII』(竜の子プロの)でも1本だけ絵コンテを担当している。
 富野監督は出身から「虫プロ系」と分類されることが多いが、個人的には「富野アニメ」には、「竜の子+日本アニメ」の感触を強く感じる。竜の子プロ作品『科学忍者隊ガッチャマン』『新造人間キャシャーン』のような善悪を越えたSF的相対感覚と大胆な科学設定やネーミング、日本アニメ「名作劇場」シリーズの日常感覚に近しい人間模様の中から大きくドラマを生み出す作劇、これらが合わさって『ガンダム』に導入され、大衆に受け入れられた要因になったと考えるのである。

◆ガンダム世界の埋葬と全肯定

 ガンダムシリーズは、やがて作品自体を離れて、戦記もののテイストとモビルスーツのメカ感覚が突出して一人歩きを始めた。それがプラモデルの商品展開と結びついて作品を長寿命化に貢献する一方で、モビルスーツ設定や宇宙世紀年表を狭く深く掘り下げる、いわゆる蛸壺化的傾向も発生した。
 ワン・ジェネレーション20年という長い時間が経過して、もう一度富野監督に「ガンダム」が戻ってきたとき、富野監督はガンダムの原作者でもあるから、素知らぬ顔をして過去のシリーズを「無かったこと」にして新シリーズを立ち上げることもできたはずだ。
 しかし、その方法論を採れば、過去を「否定」することになってしまう。それはいかに原作者とはいえエゴの発動に他ならず、同時に新しいものをつくると言いながら過去に呪縛を受けたものとなってしまう危険性すらあったのではないか。
 そこで富野監督は、過去のすべてを「肯定」する道を採択した。アルファベットの原点「A」の上下をひっくり返した数学記号の「∀」をコードに採用し、「ターンエー」と読ませた上で過去の全ガンダムを埋葬しつつも肯定するという、大胆な方法論を編み出した。この辺がやはりただ者ではない部分を感じさせる。

◆ターンエー世界構築方法のSF性

 設定的には、地球規模で埋葬されたガンダムの遺産は「黒歴史」と呼ばれている。そして、一見して1900年代初頭に見えながらも実はそこは遠未来の世界であり、忌まわしいハイテクの産物はすべて月光蝶(大量のナノマシン)によって埋葬された。本当の超ハイテクである電気文明や発電芝、水素によるクリーンエネルギーは人びとは自然のものとして不思議に思わず日常で使いこんでいる。
 モビルスーツは発掘品として出土するが、登場人物たちはその本当の出自を知らないままだ。たとえば水中用モビルスーツであるにも関わらず、その性能とは無頓着に使いこなしている。
 そういったことの積み重ねが、「ガンダム世界」でありながらハイテク兵器を中心におかず、優しいふくよかな作風とすることにつながっている。そして、緑なす森や小麦やレンガの似合う、大らかにも感じられる拡がりのある世界と人間性の豊かさに、富野監督の名作劇場における経験が、大きく活かされている。
 この非常にねじれた世界そのものも充分にSF的であるが、面白いのは発想の方である。原点回帰でもあり、同時に違う形にも回帰したというまさしく「ターンエー」というコードの示す世界構築方法において、大きく視点を飛ばして相対化させるという発想は、それ自身が実にSFっぽいのである。
 この発想方法は、ガンダム世界に閉じただけのものではない。
 いま、誰もがこの時代を行き過ぎたものだと感じ始めている。コンビニエンス・ストアや携帯電話は確かに生活を便利にしたが、一方で人間から余裕や工夫を奪い、リストラの中で情が悲鳴を上げつつある。
 そんな時代だからこそ、『∀ガンダム』の描く世界と人、人と人の関係は魅力的に映るはずだ。同時に「∀的発想」も閉塞の打開になるのではないか。ネガティブに感じられるものでも否定せず肯定し、原点を確認しつつも大きくひっくり返す中から、そこに驚きの感覚を再発見することができる。
 後編「月光蝶」では、激しい戦闘場面の連続の後、ドラマはラスト数分間で物語の中でもすべてが静かに「∀」的に回帰していく。回帰しながらも、その中には別離があり、融和があり、人それぞれの選んだ道とその中でのささやかな幸福が点描され、そして主人公ロランとディアナの行く末が静かに描かれる。その中で、人を支える原点が、ひょっとしたらかいま見えるかもしれない。
 そんなことを考えながら、「∀的発想」に触発されてみるのは悪くない。
 行き過ぎたこの世の中だからこそ発見できる幸福とは、人の基本とは何なのか、大きな視点でターンエーしてみることも、今回の2本の映画で価値の高いことに違いない。

【初出:SFオンライン連載「氷川竜介のSFアニメのツボ 」第8回 脱稿2002.1.25】

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2006年11月 7日 (火)

千年女優(別冊宝島)

寄稿題名:千年という時を超えて…女優は自身の人生を反復する

 女性を主人公にしたアニメは多すぎるほどに製作されているが、主演女優に“老婆”を持って来た作品はほとんどないだろう。
 千代子という架空の大女優、その生涯を本人の回想でつづるという形式上、主役は隠遁した老女という形で登場する。だが、心配には及ばない。話はすぐさま女優を目指した少女期へと移り、そこから一大ロマンスが語られ始めるのだから。太平洋戦争へと進み思想統制がされていた時代の日本。女学生だった千代子は、運命の男性――“鍵の君”と出逢い、別れる。何の手がかりも持たぬ千代子は、映画女優になることで再会への“鍵”を握ろうとするのだが……。
 面白くなるのはそれ以後だ。あるタイミングをきっかけに、画面は千代子の「記憶」なのか、出演した「映画」のストーリーなのか、境目が曖昧になっていく。「虚実混淆」は過去何度となく繰り返されてきたモチーフだが、本作ではアニメーションならではのつなぎの技法が巧みでジャンプする感覚が実に刺激的、飛躍の混乱が快感に変わっていく。
 荒野を走る満州鉄道、火に包まれて落城間近い天守閣、地球滅亡を救うための宇宙船と、舞台や時間は何の関連もなく物語の進行とともにぶっとんでいく。だが、これだけ飛躍しているのに、画面にぐいぐい引きつけられるものがある。それは、ひたすら追い続ける千代子の“想い”が時空を超えてシームレスにつながっているからだ。しかも、随所に妙な繰り返しも多く、夢を見ているような感覚すら発生する。確かに人間の持つ記憶とは棒つなぎに構成されているわけではなく、印象深い瞬間と瞬間を飛躍してつないだ、この映画のようになっている。記憶の中で繰り返し思い出す愛おしい時間だけが、やがて自分の“人生”として醸成されていく……。
 千年という時をかける女優……その物語は、波瀾万丈の冒険の果てに、ちょっぴりマジメな考察もさせてくれるだろう。

【初出:別冊宝島 2004年1月脱稿】

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千年女優(パンフレット)

寄稿題名:人が走馬灯に見いだすもの

 映画を観る上での至上の快感とは、いったい何だろうか?
 私にとってそれは、「やられた!」とうまくだまされていたことに気づく瞬間だ。その仕掛けが単純な種明かしではなく、テーマ性のある言葉やイメージが積み重なってきて、頭の中で一瞬にして「そういうことか!」とまとまる場合が一番気持ちいい。それが、映画的エクスタシーではないかと思う。
 今敏監督の前作『パーフェクトブルー』はクライマックスに入る瞬間、この至上の快感を与えてくれたアニメ映画であった。そこには伏線が整合する快感と、「アイドルとはどんな存在か?」「アニメにおける虚実の役割」等、論文にした方が良いような問題提起が同居していた。それは「なぜこのような事件が起き得るのか」というドラマの動機ともピタリとはまり、加えて現代という時代の空気ともリンクした重層的な気持ちよさをともなっていた。その後展開される追っかけは、アニメならではの二重性を自覚的に行使して奔放に描かれ、戦慄した。なぜこの映画に対して「実写で撮った方が良い」という評が出たのか、私にはまったく理解できない。アニメがアニメらしさを利用したからこそ可能になった表現であり、そこに新しい可能性が見えたのだから……。
 この前作をふまえてつくられた本作『千年女優』は、このようなアニメらしさと「だまし」の快感を突きつめた映画である。それをひとことで言うならば、“走馬灯の映画”ではないかと思った。
 走馬灯は回り灯籠とも呼ばれ、中心にろうそくを置いて上昇気流の力で切り抜き絵のある内枠を回転させ、灯籠の外側に映り込む影絵の動きを楽しむものである。本作の主人公・藤原千代子が演じる様々な女性像のオンパレードは、その走馬灯の走り行く幻影のようにも見える。その中から、人ひとりの生き様というとてつもなく大きなものが浮き彫りになってくるところが、まず面白いと感じた。
 たった一度出会っただけの“鍵の君”に向かうひたむきな気持ち。それは、千代子の心の炎が立ち上らせた上昇気流のようなものだ。熱い空気の流れは、千代子の演じる役を回転させ、こめられた熱気は映画のスクリーンから放たれて、観客の心を震わせ共感させる。決して成就することがないからこそ持ち続けられる想いの熱。作中のインタビューアーも、現実の観客も、この「語り口」に思わず引き込まれ、千代子の心の奥深くへと入っていき、かいま見える情熱のゆらめきに、いつしか心を動かされていく。
 なぜ人は、走馬灯の影絵にひかれるのか。それは影絵自体に意味があるのではなく、生命のない影の動きに自分の生を重ね、そこに何か大事な意味を見いだせるからである。人間が死ぬ直前、一生の主要な出来事が“走馬灯のように”駆けめぐるというが、この言い方もそれを前提にしている。こういったことを「錯覚」と言い切って、だまされることを嫌うのは簡単だ。だが、人が生きる上で意味があるのは、本当に発生している事実ではなく、それをどう受け止め体験したか、感覚の方である。それには虚構も現実も関係ない。むしろ虚実の境界で渾然一体となった領域にこそ、人生の真実が見えることが多い。つまり「うまくだまされること」の方が理詰めで考えぬくよりも気持ちが良いし、ゴールが近いかもしれないのである。
 この映画では、虚構と現実がどんどん混ざり合っていく。事実ベースでは、千代子の身の上話はただ記憶が曖昧になった老人語りに過ぎない。だが、映像に展開された話の中身や雰囲気、こもった熱は実に若々しく、まさに千代子が若返ってもう一度体感しているかのように活写されている。つまり老若という年齢差の混濁が発端として置かれているのだ。続いて聞き手の客観と語り手の主観、その垣根も壊れたことが、ギャグ混じりで宣言される。こうしてだまされまいとガードの堅い観客の心理的なバリアーも突破され、千代子の名前が象徴する“千年を超える恋の想い”のエモーションの急流に巻き込まれていく。
 この映画的な“巻き込み”のための映像には、戦中・戦後から高度成長時代にかけて娯楽の王座にあった日本映画の“記憶”が重ねられている。映画を使って映画を語る、いわゆるメタな感覚が主題に整合して、そこが次なる「だまし」の面白さだ。本格的時代劇から忍者映画、怪獣映画と半世紀にわたる映画の歴史的面白さが、千代子の現実の恋の記憶と混交状態になって流れていく。パッチワークのように現実の出来事がスペクタクルにインサートされ、映画と現実を往還することは、一見連続性を疎外するようにも思えるが、逆にこの飛躍がモンタージュの妙味となって、映画的な味に昇華している。重層的な映像の奔流に散漫さを感じず飽きないのは、それが千代子の“鍵の君”への尽きぬ想いで一本に貫かれており、整列されているからだろう。
 では、この映画は一途な女性の想いの熱さを、かつてあった映画の黄金期に重ねて賛美的に描いた作品かというと、それだけではない。随所には明白なる破壊と死の臭いが対置され、これが映画に絶妙な味を加えているからだ。具体的には、地震や戦争、“鍵の君”を狙う“傷の男”といった存在である。そのネガティブさの最たるものは、冒頭の撮影所の取り壊しで、これは“映画の死”を暗示している。恋、情熱、生、未来といったポジティブなものを妨げ、隔てる負のイメージがあるからこそ、千代子のひたむきさがいっそう輝くという構図は、人生の総括を連想させて、やはり光と影で構成される走馬灯と本質的な同一性を想起させる。
 虚実、主客、生死の同質化と異化効果、そこから垣間見える人生の真実への訴求が、映画『千年女優』の特質であり、ユニークな点だということは、誰もが認めることであろう。しかし、もっと大事で優先してこだわりたいことは、こういった表現がアニメだからこそ可能になったということで、アニメの本質ともリンクしていることである。
 アニメとは、もともと1枚1枚静止して生命を持ち得ない「死んだ」絵を人の手で描いて「生きている」と「錯覚」させる芸術である。つまり「だましの快感」こそがアニメの本質なのである。生死が表裏一体の出自を持ち、だましを良しとする表現であるからこそ、矛盾する要素を同じ俎上に乗せることも可能になる。この矛盾の間を貫く「トンネル効果」的なところに、何か大きな実感を練り込むことが可能になる──それがアニメの面白さの在処で、可能性であると信じている。
 これはまさに『千年女優』の持ち味と一致しており、だからこそ本作はアニメらしい感覚にあふれて魅力的な、走馬灯のような映画と言えるのである。
 このように述べてくると、堅苦しい分析に基づいて観るべき映画ではないかとも思われてしまいそうだが、本当のところ、この映画の一番すごいところは、こんなややこしいことを、お茶目で元気で情熱的な女性の活躍に集約させ、エンターテインメントとして仕上げたことである。アニメの世界ではかなりの高齢ヒロイン(70代)藤原千代子のチャーミングさに惚れて、うっとりすること。これ、われわれにとっては長生きの秘薬とも言える、アニメのエッセンスなのである。

【初出:映画『千年女優』劇場用パンフレット 2002年8月脱稿】

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千年女優(プレスシート)

寄稿題名:虚実をボーダレス化するアニメーション映画の魅力

 アニメーションの世界は基本的に「何でもあり」。それが大きな魅力だと思われている。だから、人間が千年という長い時を生き続けるという物語も可能……だが、この映画はそういうアプローチは取らなかった。
 この映画で登場する人物たちは、アニメアニメした魔法や超科学などという飛躍した設定とは無縁である。語り部となって活躍する主要人物──一途な想いを追い求めてきた老女優・藤原千代子と、その女優自身の生きた軌跡を追い求める中年男・立花源也の二人は、ごく普通の人間である。
 であるならば、この映画は現実臭くてエンターテインメントしていないか、映像と物語が渋いかというと、そんなことはない。充分にアニメらしい活発さと華、そして飛躍にあふれているのだ。この逆説的な部分が、まず大きな魅力として映像で描かれる。
 千代子が自分の過去を現実として語るにつれ、虚構と現実が同じ次元で描かれ始める。女優として出演した映画の内容がシームレスに想い出話に浸透し、観客の眼前に具体的な映像となって現れるのである。だが、これだけなら、単に千代子の記憶の曖昧さが混濁した映像をつくり出したということになってしまい、観客は乗れない。
 ところが、その空想と現実の映像には、映画中の聞き手までもが思わず参加してしまい、驚きを隠そうとしない。うまい「語り」に、思わず引き込まれた経験は誰にでもあるだろう。その現象を映像化しているわけだ。第三者が参加できるというトリックによって観客の方も参加が許された気になり、突拍子もない映像の内部へと自然にのめりこみ始める。ここが大事なところだ。語りの中で虚実が一体になるのに同期して、アニメと観客もボーダーレスになっていくわけだから。
 もうひとつ大事なことは、映像で描かれる空想世界が「映画」というキーワードに貫かれていることである。息をもつかせぬ波瀾万丈の冒険また冒険、活劇あり、ほろ苦い恋愛模様の中での緊張した心理描写ありと、半世紀以上にわたる映画の歴史的面白さが圧縮状態で語りの中に、たっぷりと詰まっている。
 映像はバラエティ・ショー的で連続性はないから散漫になる危険性もある。だが、実力派アニメスタッフの精緻なレイアウトとカメラワークは観客の目を引きつけ、忍者から満州の馬賊、怪獣退治の光線兵器まで臨場感たっぷりに描くアニメートが平面的なはずのセル画に強い説得力を与えて、気がそれる心配はない。そして怒濤の映画的スペクタクルは、千代子の「愛しの君」への尽きぬ想いで一本に貫かれており、この情感が山あり谷ありリズミカルに流れる映像の饗宴に、エンディングに向けて飛ぶ矢のような強烈な疾走感を与え、爽快感を覚えさせてくれる。
 このように、痛快な映画らしさアニメらしさを濃厚に参加体験できるのが、この作品の醍醐味である。
 では、なぜ映画『千年女優』は、このような描き方をしたのだろうか。
 この企画の出発点は、今監督の前作『パーフェクトブルー』みたいな「だまし絵」のような映画を、というリクエストだったという。「だます」こと──つまり「錯覚」とは実は悪いことではなく、人間にとって非常に気持ちの良いものを内包する大事なものである。そうでなければ、この世の中に手品(イリュージョン)や、小説、演劇、映画という芸能・芸術が存在する理由がなくなってしまう。
 ましてやアニメは止まった絵が動くという「錯覚」に全てを依存する表現様式である。もともと1コマは静止して生命を持ち得ない「死んだ」絵。それが「生きている」と錯覚を覚えたとき、この生死の間から何か大きな実感がわいてくる。この感覚こそが、アニメーションの面白さの源泉なのだ。
 この作品では、こうした映画やアニメ、ひいては人生の本質に対する一段上の考察が、フィクション自体が持つ面白さを使ってエンターテインメントとして描かれている。千代子の過ごした虚構と現実、過去と現在、アニメ映画の世界と観客の現実、ファンタジーとリアルなど、本来は対置されるべきものに対して、ぐいっとひねったような処理が施されているのが、その大きな現れである。そのねじれた構造の中で、虚実が逆転し混然となったところで、最終的には人間が持つ矛盾に充ちた面白さが浮き彫りになっていく。
 これはまさに、昨今のデジタル的なオール・オア・ナッシング的価値観に基づく足し算・引き算の機械的映像では出せない、人間的な魅力に充ちた「かけ算」の映画である。時には気持ちよくだまされたいと、いつも心の奥で願って映画を観に来るあらゆる観客に向けて、ボーダレスに開かれ参加を呼びかけるアニメーション──それが『千年女優』という映画なのである。

【初出:映画『千年女優』プレスシート 2002年5月脱稿】

※DVD商品についても参加しています。チャプター設定、普及版解説、BOX解説、インタビューなどを担当。

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ダーティペア

題名:命の危機よりまずデート!
  ダーティペア第5話「クリアドスのどっくんどっくん!」

●アニメ化されたダーティペア

 何か一本から魅力を探っていくこのコーナー。今回はヒロイン二人の活劇ということで後年への影響も強い『ダーティペア』を取り上げてみよう。
──銀河系全体に広く人類が進出した時代。星系間で起こるさまざまな事件を解決するため、世界福祉事業協会WWWA(スリーダブリューエイ)が組織された。そのトラブル・コンサルタント、ケイとユリのコードネームは“ラブリー・エンジェル”。……だが、ちまたでは誰もその名で呼ぶ者はいない。
 ケイとユリは優秀で、解決の確率は高い。だが、彼女たちが動けば、必ず事件は意図せずして予期せぬ方向へと進む。そして、恐ろしいカタストロフが待ち受けているのだ。だから、決まって呼ばれる悪名は“ダーティペア”。その名にもめげず、今日も二人の活動は続く……。
 原作小説は高千穂遙が『クラッシャージョウ』に続いて発表したスペースオペラだ。毎回事件や無理難題が二人のもとへ舞い込み、その解決プロセスがストーリーを転がしていくのが基本的な枠組みとなって、アニメにも踏襲されている。
 テレビ放映にあたっては、いくつか変更が加えられている。まずキャラクターデザインは『うる星やつら』等の人気アニメーター土器手司、コスチュームデザインは『GU-GUガンモ』等の漫画家、細野不二彦。お供のムギ(『宇宙船ビーグル号』に登場する架空の生物クァール)は精悍な黒豹っぽいイメージからフレンドリーなデブ猫に変更。スニーカーを履いたナンモも、テレビ用オリジナルのペットロボットとして追加された。ブラディカード等の血なまぐさい武器もなくなり、惑星壊滅といった大規模災害によるオチも抑制され、一種の「お茶の間モード」への変換がかけられている。

●ユリとケイの凸凹コンビ

 アニメ化の魅力は生の声でしゃべること。ケイは頓宮恭子、ユリは島津冴子と絶妙なキャスティングによるダーティペア(以後便宜上、悪名の方で呼ぶ)の会話は、それだけでも楽しいものだ。その反面、内容は辛辣だったり、任務遂行のためには周囲を巻き込んで被害を拡大させるようなところは、原作の持つ乾いた毒気を継承したようなところがあった。
 ショートカットとロングヘアのメリハリの効いた女性コンビのお色気アクションというキャラクター造型は、いわば「ダーティペアもの」とでも呼ぶべき定番の後継を、やがてたくさん産んでいくことになる。
 テレビ版の監督は、『THE IDEON 発動編』や『装甲騎兵ボトムズ』などでハードなアクション映像を見せてくれた滝沢敏文。初期数話は正直ちょっとノリをつかみ損ねているようなところがあった。「う~ん、こんなもんかな」と思っていた矢先に、出会ったのが、今回取り上げる第5話「クリアドスのどっくんどっくん!」(脚本/島田満、演出/加瀬充子)である。

●襲撃者に対応、アクションの前半戦

 まず、この回のサブタイトルはヘンである。なんだか微妙に語感が淫猥だ。考えすぎかもしれないと思ったら、2文字くらい伏せ字にしてみると、言いがかりではないことがわかるだろう(笑)。
 サブタイトルって大事。このイレギュラー感が、最後まで観客を引っ張るテンションの最初のトリガーになっている。実際、この回はイレギュラーだらけだ。まず、今回の発端は事件ありきではなく、ケイが引っかけた若い男の子と、“カフェ・フラミンゴの七番テーブルでデート”しにいくところから始まる。乗り込む宇宙船は任務用のラブリー・エンジェル号ではなく、レンタルシップ、コスチュームもトラコンの制服ではなく私服で、ムギも今回は不在だ。
 ユリは、無重力で文字どおり浮かれまくっているケイが面白くなくて、ちょっと重力をかけて意地悪をする。そのとき、突然ワープアウトし、悪意を放ちながらすれ違う謎の物体があった……飲み物をこぼし、服が汚れたというだけの理由でケイは寄港し、ホテルでシャワーを浴びて着替えようとする。この牽強付会な態度もすごいが、身分証を見せただけでうろたえる入国審査官というギャグもお約束ながらツカミとして嬉しい。
 だが、ここから今回の惨劇の幕があがる。町に出たユリは、先の殺意のビジョンを覚える。一方、ホテルに残ったケイの方は、これもお約束の「シャワーで鼻歌」をやった直後、パンティとブラをつけた瞬間に殺人マシーンに襲撃され、裸同然のまま反撃に移る。
 ここでともかく目の前の襲撃者に反撃に出るところが痺れる。周囲の迷惑を顧みず相手を倒そうとミッションに集中、救急車が走り回り被害が拡大する中で、道行くパトカーを奪取して襲撃者に反撃へと転じる手際の鮮やかさが、プロ意識的なものを強く感じさせ、カタルシスがあって良い。
 ユリの方にも無人戦闘機がレーザーで襲撃を仕掛けるが、ねらいを巧みに外しながら誘導するような攻撃が、さらなる大きなたくらみ、悪意の存在を予感させて、不安をかきたてる。いったいこの襲撃者の正体は……というヒキは、シリーズの1本というよりは、まるでスペシャルか映画のようで、実に緊迫する。

●にじみ出る悪意の正体、後半戦

 こういった派手なアクションに満ち満ちた前半に対して、後半は拉致された二人が、ゆったりと不気味さを保ち続ける悪意の本体に連行される静かなサスペンスが描かれて、好対照である。
 実は襲撃者の本体とは……放射性廃棄物や有害物質を滅却する処理施設だった。これを産み出した科学者クリアドスは、すでに一年半前に自殺。その後、事故が相次いだためにこの施設も破棄されたはずだった。だが、常用していた幻覚剤のルートを断たれ、摘発にあたったダーティペアを恨みに思ったクリアドスは、自ら死した後も彼女たちを襲撃するよう施設をプログラムしていたのだ。
 収容された二人は中枢部へと招かれる。宇宙船は小型戦闘機によって圧壊され、死が迫ろうとしていた……。
 ここで良いのは、クリアドスの顔も言葉も、意味あるものは一切が登場しないことだ。凡庸な作品だったら、ここでクリアドスの遺志(ホログラフとか声とか)とダーティペアを会話させ、対決を見せてしまうだろう。だが、クリアドスは彼女たちが死ぬことしか望んでいないし、犯人は死んでいるから翻意などはあり得ない。悪意とは、そのような解決の出口がないがゆえに悪意たり得るのだ。
 こういう視座、認識が、ドライでハードなSF風味を出して良い感じである。その恐怖と、女性二人の軽い会話のかけあいが同居しているのも魅力的だ。
 攻撃を受けたケイが漂流する中、ユリは心配して泣きそうな声をかける。そのときには反応しなかったくせに、「あ、いい男!」というと目を覚ましたりして……。こういう絶妙なるはずし方が、逆に場を盛り上げるスパイスになっている。

●緊迫感と女の子らしさが同居

 この極限状況で打つ起死回生の反撃も、ぎりぎりまであきらめない気持ちの中、その手があったかというもので、思わずヒザを打つ。
 ともかくこの回は、あまりに展開が早すぎるため、前後編かと思ってしまうほど凝縮された緊迫感のあるエピソードの流れに巻き込まれ、本放送では「この先どうなる?」感に画面の中へのめり込んでしまったことをよく記憶している。
──で、ここが最大のポイントなのだが、事件が解決した直後、ケイはふと我に返って“やっぱりデート”とユリを置き去りにして飛び出してしまうのであった。これにはひっくり返った。
 襲撃者、生命のピンチ、実体のない殺意といったハードきわまりないサスペンスと「でもすてきな男の子と早く会いたい」というソフトな女の子らしさが同居して同列に並び、ひとつになって描かれている──ああ、それがこのアニメの楽しいところなんだ、とわかってシリーズ全体が好きになるきっかけをつくってくれたラストシーンであった。
 ということで、今回のお勧めはこの一本。では、また。

●Check Point!

(1)女性らしい宇宙船内の過ごし方
コクピットで二人の女性はファッション雑誌を読み、音楽を大ボリュームで聴いて踊る。この光景には、宇宙=SF=マジメという図式を覆すものがあった。ケイの聞くCDのケースに注目。放映時はちょうどCD出始めの頃で、こういうケースに入っていたのだ。

(2)裸一貫で、トラブルに対処
殺人マシーンに襲撃されたケイは、裸同然のまま反撃に移る。女の子モードから一瞬にしてプロフェッショナルな戦闘モードになる切り替えが小気味良い。素っ裸に近い姿でアクションをしたため、太股に血がにじんだりするのも、痛々しくてリアルだ。

(3)逆転の鍵はナンモにあり
“虚無の墓場”と異名をとるクリアドス。妄執がメカに憑依して、というのも古典的だが、ケイとユリの対処は冷静だ。そっと自分のメモリーを差し出すナンモ……口がきけない分、この所作にけなげさを感じてぐっと来るし、クリアドスとの好対照も描かれている。

●放映データ
期間:1985年7月15日~1985年12月26日/日本テレビ系放映(全24話)/原作:高千穂遙/キャラクターデザイン:土器手司/メカニックデザイン:阿久津潤一(スタジオぬえ)/コスチュームデザイン:細野不二彦/監督:滝沢敏文、鹿島典夫(14話~)■声の出演:ケイ(頓宮恭子)ユリ(島津 冴子)

【初出:サンライズエイジ(芸文社)脱稿:2003.03.30】

※「氷川竜介のサンライズ一本勝負!」という題名の連載企画、第1回目でした。雑誌のVol.2が現在まで出てませんので、これのみです。『ダーティペア』が廉価でDVD-BOX化されるのを記念して再掲ということで。「サンライズエイジ」はマーケットプレイスなら入手可のようで、割といい値段がついてますね。

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2006年11月 6日 (月)

∀ガンダム

武家ギンガナム流人生大相談

 小生がギム・ギンガナムである!
 武門2千5百年の知恵で、
 どんな悩みも一発解決だ。
 武士に二言はない!

Q・太りすぎに悩んでいます。
 コクピット内でも、はちきれそうな身をもてあまし、月に降りるたび腹まわりの肉が重くてメキメキと腰の折れるような音がします。地球はさらに6倍の重力だそうですが、耐えていけるのでしょうか。このままでは狙っている下克上も、やすやすとは実現できそうになく、ぜひ良いアドバイスをお願いします(スエッソン・ステロさん・男)

A・ズバリ、健康食品だ!
 武士のたしなみ…。それは体型からはじまる。まずは、身だしなみが基本だ。
 健全な精神は健全な肉体に宿るとも言う。まずは、万難を排して、やせるべし!
 ムーンネット通販で、さっそく栄養価ゼロのダイエット食を買うのだ! 味がなくてイヤ? ならば、絶食あるのみ!
 武士は食わねど高楊枝だ!

Q・男のひとが信用できません。
 名誉市民をめざし身体を張って地球潜入した月の女です。ひとり目の男は自分の器を省みず猪突猛進して自滅しちゃいました。続いてノッポとデブのコンビに「やっておしまい!」と指示したら、スカポンタンな結果に…。いまつきあっているのも、トロそうな男なんです。このままで幸せになれるか、男性不信で悩んでいます(テテス・ハレさん・女)

A・ズバリ、別れて尼寺にいけ!
 なぜ比べる? なぜひとりの男と添いとげられない? 思っていることと、やっていることが違いすぎるのではないかな?
 ある男とつきあえば、違う男よりもここが不満に感じてしまう。その男に乗り換えてみれば、また別の男の方が良さそうだ…。
 ひょっとして、ずっと「ここがダメ」と、引き算で新しい男を査定してはいないか? それでは、いつまでたってもキリがない。自分の中に何もなければ、それは当然のことだ!
 この際、きっぱりと迷いを捨てるために出家して、自分の中に理想の男性像ができるまで、男との接触を断て!

Q・上司のプレッシャーに潰されそうです。
 自分は、額にそり込みのある若者です。ムーンレィスのために、忠義心も厚く仕え、2千年間続いた「槍の構え」「北斗の七つ星の陣」「イーマイナー作戦」「十字崩し」の演習も、次々とマスターして、武功をあげました。
 捕虜になった敵地からも無事に生還しました。なのに上司は成果を認めず、プレッシャーをかけて、重く私にのしかかってくるばかりです。このままでは毎日がつらく、やがては失神したまま潰されてしまいそうです。どうしたら良いでしょうか。どうか解決策をお授けください(ヤン・シッキネンさん・男)

A・ズバリ、逆に潰せ!
 上司・部下の関係の前に、まず考えることがある!
 潰されそうになるのは、ひとりの人間としての心の圧力に差があるからだ。潰されそうなら、押し返して逆に潰せ! 上の弱いところをついて逆に利用するくらいで、ちょうど良いのだ。
 きっと上司も下克上ぐらい考えてるぞ!

Q・仕事仲間が裏切りそうです。
 女性の上司が夢見がちで現実から遊離して困っていたので、仕事仲間と手を組み、遠ざけることに成功しました。だけど、秘密を共有する仲間は、何だかちがう野心を目ざめさせてしまったようです。毎夜、寝首をかかれるのではと大変に不安で、不眠に悩んでいます(アグリッパ・メンテナーさん・男)

A・ズバリ、気にするな!
 世の中には、いくら考えても気にしても、わからないものはわからない、という場合がある。これは仕方のないことだ。
 そういう場合は、考えすぎず、ただひたすらに結果を待てばよい!
 自然体で行け! 気にするな!

ギンガナム家・家訓

ひとつ、達人は達人を知る
ふたつ、武士のなさけ
みっつ、武士道とは死ぬことと
    見つけたり

【月刊アニメージュ(徳間書店)2000年4月号∀ガンダム付録】
※この付録はオンエア中だった『∀ガンダム』をいじって遊ぶための企画で、「∀ガンダムのツケひげ」の工作など、アイデアもずいぶん出しました。こーゆートバした発注はなぜかあまり来ないので(笑)、悪乗りしてやりましたが、スタッフにも好評だったようで、嬉しい限りです。
 その後、まさか富野由悠季監督自身がアニメージュで人生相談をするとは、夢にも思わなかったころの原稿でもあります。
 ギム・ギンガナムは、劇場版では後編『月光蝶』に出てくるムーンレィスの武家(?)のキャラです。人生相談はTV版準拠ですが……。

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2006年11月 5日 (日)

出崎統監督の印象

 出崎統監督には、ある記事(※)のインタビューでお会いした。それが本誌連載の「アニメ新世紀王道秘伝書」(徳間書店から単行本発売中)で第2部を出崎統編に決めたきっかけだった。
 インタビュー席上で言葉を次々と打ち出す出崎監督の熱い姿は、まさに出崎アニメそのものだった。私はまるで私たちだけの新作を観ているかのような歓喜と興奮にうち震えていた。とりわけ印象に残ったのが、出崎監督がフィルムをどうとらえているか、真摯に語る姿だった。
 雑踏で知己に声をかけられ再会するシーンがあったとして、一般には群衆のロングを先においてカットを割る。なぜそんな説明的な演出をするのか。こんな趣旨の疑問を、出崎監督は提示してきた。そんなときには、まず印象的な声が突然ざわめきの中から浮かび上がってきて(カクテルパーティー効果というやつね)、振り向くといきなり懐かしい友の顔の中心がどーんと大アップで見える(きっとフレームからもはみ出しているんだろうなあ)。それからふと気づいて周囲を意識すると(ああここで三回ストロボでトラックバックだな)、それは雑踏の中だった……。人間の生理は、このような認識をこそするはずだというのだ。
 これにはすっかりシビレてしまった。話を聴くだけで、鮮やかな映像、カット割りがまざまざと脳裏に浮かび上がっていった。心底、すごい演出家だと感じた。そして、出崎フィルムを特別なものとしているエッセンスが、五臓六腑に染み渡っていった。出崎監督という人間、生命、生理、哲学、なんでも良い。「生きている出崎そのもの」がフィルムという媒体をつかって直接語りかけてくるからこそ、観ている側も特別な「体験」として受け止められる……そういうことなんだな、と思った。アニメの気持ちよさが、またひとつわかったような気になれた。
 かつてアニメは、「絵に描かれたオブジェクトをどう動きで表現するか」という見えない枠内にとどまっていた。だが、出崎監督のこの話には「時間の流れの中で生理を重視し体感として練り上げていく」という、言われてみれば当たり前の認識が貫かれている。かつて出崎監督が劇場版『エースをねらえ!』のパンフレットで語っていた「アニメである前に映画でありたい」という意味が、一部なりともわかったような気がした。
 だから、感動さめやらぬうちに、連載で出崎アニメを自分の経験として語ることで追いかけてみたいと思ったのだ。実を言うと、まだまだもの足りない。次の機会をねらっていきたい。そんな熱気を持続させてくれるのも、出崎アニメ最大の魅力なのである。
 ところで出崎作品は『元祖天才バカボン』などギャグアニメもまた魅力的だが、なかなかビデオ化に恵まれないのが残念だ。この特集でも取り上げて欲しいなあ……。
【初出:月刊アニメージュ(徳間書店)2001年2月号 連載「出崎伝説」(小黒祐一郎)】

※『ガンバの冒険』LD-BOX用のインタビュー。小黒祐一郎氏と共同取材で、'99年ごろのはず。最初のDVD-BOXにも再録されたらしい(下記再発売分には未収録)。その後、『元祖天才バカボン』はDVD-BOX化されています。


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2006年11月 4日 (土)

おいら宇宙の探鉱夫

題名:「おいら宇宙の探鉱夫」真空に輝くプロの魂(前+後)
<新世紀王道秘伝書 巻之弐拾九、参拾>

■ジュブナイルSFとアニメ

 日本のアニメ活況にいたる歴史とSF文化には、切っても切れない縁がある。六〇年代以降、米ソの宇宙開発競争によって有人宇宙計画が実行された。宇宙時代と言われ、児童の世界でもSF的な色のついたものが隆盛となった。その世代が持ち上がるようにして青年となった七〇年代にSFアニメを支持した。そんな密接な関係にあるのだ。
 文学では児童向けのジャンルを「ジュブナイル」と呼ぶ。ことにSFの世界では、ジュブナイルの傑作はいくつもある。たとえばハインラインの「宇宙の戦士」(スターシップ・トルーパーズ)も、映画と違って原作は分類上ジュブナイルだ。国産SFではNHKの少年ドラマシリーズの原作となった筒井康隆の「時をかける少女」(タイムトラベラー)や眉村卓の「ねらわれた学園」が代表格である。
 なにもかもどん欲に吸収しようという少年期に向け発信された物語には、独特の風格がある。ジュブナイルSFには、科学と未知へのあこがれが純化し、凝縮しているのだ。本連載最後の作品は、そんなジュブナイルでSFな世界に挑戦したアニメ『おいら宇宙の探鉱夫』である。

■未来の宇宙開拓史

 題名は「炭坑」ではなく「探鉱」である。金属鉱脈などの資源を採掘すること。これはプロの宇宙探鉱者たちの物語なのだ。
『おいら宇宙の探坑夫』は、一九九四年から九五年にかけて全二巻で発表された。「スーパー・ハイ・クオリティー」と銘打ってケイエスエスから リリースされたビデオアニメ・シリーズのひとつである。『デビルマン妖鳥死麗濡編』(一九九〇年)の細やかな描写で注目された飯田馬之介が監督で、キャラクターデザインと作画監督は川元利浩。原作者には怪しげな外人名が記されているが、和訳してみればすぐ判るとおりアニメ用のオリジナル・ストーリーである。
……時はハレー彗星がふたたび巡り来る二〇六〇年代の未来。宇宙開発企業プラネット・キャッチャー・コーポレーション(PCC)は、小惑星トータチスを月軌道近くのラグランジェ・ポイントに置き、宇宙港や作業施設を設置して小惑星から鉱物資源を採掘し、地球に送る業務を行っていた。
 宇宙船ラクーンテールは、四年の歳月を費やしたハレー捕獲計画を終え、トータチスに帰還途上であった。南部牛若はトータチス生まれの少年だ。宇宙パイロットにあこがれる牛若は、同期の河原町フキともども検定試験を受けていた。フキが無事合格し、いよいよ牛若の出番だ。
 牛若の宇宙艇は、作業員の母由美子に見送られながら発進し、父・南部光三郎が乗るラクーンテールをかすめて課題消化に向かった。規定どおりチップを交換し、帰途についたとき、牛若の故郷トータチスでは大事故が発生していた。偶然接近してきた古い軍事衛星が彗星の影響で暴走、トータチスにミサイルを射出したのである。
 第1話「118,000ミリセコンドの悪夢」は、この軍事衛星が誤動作するときの時間、約2分のことを指している。ミサイルを受けたトータチスは大破し、周囲は大混乱となった。

■過酷な真空の環境

「おいら宇宙のパイロット」は東宝の特撮映画『妖星ゴラス』(一九六二年)の劇中挿入歌だ。地球はせまくなったが、宇宙はまだまだ広い。そんな宇宙開拓への前向きな夢とあこがれを織り込んだコーラス曲である。
 その歌の題にちなんだ本作品もまた そんな新天地・宇宙へのあこがれが息づいている。ただし、宇宙は真空の世界。ひとを拒み、傷つけ、少しの油断が死に直結する非情さにあふれている。
 本作品でまず話題になるのが、緻密な画面づくりである。ことに、ものの配置や動き、ふるまいが科学的にしっかりと考えられている。だからこそ宇宙空間に臨場感を感じる。特に優れているのが、光の描写と、無重力空間における慣性の描き方である。
 光に関しては、宇宙では光源(太陽またはライト)が一定で空気による拡散がないため、ハイコントラスト気味となる。場所によっては影が長くなったりもする。太陽の直射があたっている場所に出たときの主観的な反射のまぶしさ加減も、場面によってはしっかりと描かれているのだ。
 無重力に関しては、物理法則が徹底して貫かれている。いったん動き始めたものはその方向へ動き続ける。方向を変えたりするのはバーニアを噴射したときか、物体に別の力が加わったときである。
 宇宙ものを標榜していても、こういった基礎的な点をしっかりと意図的に描いている作品はなかなか少ない。かといって、この作品がくそリアリズムに徹しているかというと、そういうわけでもない。
 牛若やフキたち少年少女のキャラクターは実に漫画映画風である。表情の変化、リアクションなどリアルな芝居をやりつつ、顔面を崩したりするアニメ的飛躍、気持ち良さも兼ね備えている。このバランスが実に好感の持てる部分なのである。

■プロたちの生きる世界

 この作品に登場するトータチスのひとびとは、プロフェッショナルばかりである。リアルに描かれた宇宙空間。そこで鉱物資源を相手に生き抜いてきた歴史の中には、さまざまな事件があったと想像される。事実、オープニングでも隕石事故とおぼしき静止画が挿入されている。
 ミサイル事故が起きたとき、ラクーンテールは入港途中であった。爆発によって、急に相対位置が変化したため、ドックであやうく衝突事故が発生しそうになる。だが、光三郎船長はとっさの判断で危険を省みずに全力噴射を行い、回避に成功する。さらに発進動作を行い、進路を妨害するさまざまな物体を絶妙な操作ですり抜けて、緊急救助活動の提案すら行うのだった。トータチス側も、指揮をとる金部長、野田教官以下、パニックになることなく冷静に対応を行う。
 こういった描写を通じて伝わってくるのは、彼らが長い宇宙生活の結果として鍛え上げられた鋼鉄のプロ魂を持っているということだ。
 一瞬でも判断を誤ると確実に死につながる過酷な環境。それは、自分の死かもしれないし、かけがえのない仲間の死かもしれない。一挙手一投足に、生命に対する責任があるのだ。そして、そこまでして行動するだけの価値がある、という自負に満ちてあふれている。実に立派ではないか。
 その立派さ、輝かしいプロ意識を際だたせるものとして、宇宙のリアルな環境描写が正しく機能しているからこそ感動するのである。
 しかし、ただ単に宇宙開拓偉人伝のようなものであれば、この作品にアニメ的な魅力を感じることもなくなってしまうだろう。なぜこのように立派なひとびとが描かれているのか。アニメ的感動があるのか。それは主人公、牛若の少年らしい行動に関係がある。
 トータチスの事故により、帰還途中だった牛若の作業艇も大きな影響を受けた。機体は損傷し、推進剤の大半は失われてしまった。
 当然、検定中止となりかけるが、逆に大事故発生であれば再検定と合格のチャンスは二度とないかもしれないと、牛若はわざと連絡が取れないようにして、トータチスへ独力での帰還を決意した。少年らしい判断だった。

■宇宙生まれの少年が見るものは…

 牛若は、唯一トータチスで生まれて育った少年である。幼いころから宇宙環境になじんできたし、そこでプロとして生活している父母や同僚の背中を見て育ってきた。当然、その考え方にも影響を受けている。だから、事故を否定的に、被害者的に考えないわけである。
 だが、もっと大事なことがある。恐らく牛若はプロとして立派な大人たちの中にあって、子供あつかい、マスコットあつかいされても来たのではないだろうか。試験に合格して、大人たちと対等なパイロットになれる、というのは彼にとっては全存在をかけたステージアップ、大人への仲間入りのチャンスなのである。
 大人たちを目標に、追いつこうとする。表面的には技量も判断力もある少年。それなのに、追い求めれば求めるほどに、少年らしさが浮き彫りとなる。あこがれと未熟さ、その相克……そして成長という構図は、作品世界全体のカナメとなっている部分である。この作品を正しいジュブナイルとしてとらえたくなる最大の要件でもある。
 推進剤は一回加速できる分しか残っていない。だが、トータチスの位置は目視とコンピュータで食い違いを見せている。
 帰還のための決断のときがきた。牛若はコンピュータのデータを信じて最後の加速をする牛若。だが、トータチスは爆発によって軌道が変わり、地球衝突へのコースを進みはじめていたのだ。
 ランデヴーポイントに達した牛若は、驚愕の事実を、そして決定的な誤判断を知った。
 「トータチスが、無いっ!」
 はたして牛若の取る行動はどうなっていくのだろうか(以下次号)。

■人力による苦難突破

 第2話「デストロイ&エクソダス」は、トータチスの奥深くで作動する謎の機械装置のカウントダウンで幕を開ける。コンピュータ計測を信じこんで帰還した牛若は、トータチスが移動してしまったことを知って、じたんだを踏んでいた。コンピュータはコンピュータに過ぎない。すでに推進剤を失った作業艇にあたる破片を見て、牛若は何かを期した。
 トータチス側でもコンピュータが停止。人力で燃料タンクを放出するという事態にまでいたっていた。牛若の母、由美子が燃料タンクを押し出すシーンに注目だ。野田とフキの協力を得て三人がかりで足をつかってけり出すのである。慣性があるため、最初はびくともしない。「こんなの出産に比べれば!」と力む母の言葉と同時に、タンクはやっと動き出す。その様子を見て、フキは「子どもか……」とふと感慨にふける。
 燃料タンクも動力が停止すればただの物体と化す物理法則と宇宙空間の非情さ……それをくつがえすのが、母親ならではの生命力あふれるパワーというところが、世界観をよく現している。加えてフキ、つまり「未来の母」の視線によって出来事が相対化され、つながりを見せるという、重層的な表現がワンダー感あふれて嬉しい。

■生身で飛び出す真空の宇宙

 周辺宙域に漂う様々な残骸に対し、アームを使って作用反作用の法則を利用し、トータチスにじりじりと肉迫する牛若。この方法では作業艇の損耗が激しく、減速もできない。
 牛若は決意した。手元には気密を確保するためのヘルメットすらないため、大きく息を吸って、作業艇を捨て素肌のまま真空の宇宙へと飛び出したのだ。一見無謀に見えるこの行動の結果もまた実にSFしている。真空で無重力という宇宙空間の特性をよく活かしたサスペンスに息が詰まりそうだ。飛び出した牛若の腕に一瞬シートベルトがからみつき、失敗すれば即、死につながる世界であることを想起させ、どきっとする。牛若は作業艇に立ち、力強く蹴ってトータチスに向かった。バランスを崩した宇宙艇は小惑星の地表に激突大破し、この決断がギリギリのものと示す。
 太陽の直射が強く牛若の顔に照りつける。牛若は一瞬気が遠くなりかけ、耳から吹き出た血が球体となってはじけ飛ぶ。通りかかった漂流物をキックし、やっとのことでエアロックにたどりつけば、また新たな試練が待っていた。自動装置が故障していたのだ。外部から緊急用のクランクを出し、手動で回転させることで必死にロックを開ける牛若。
 ここは空気のない宇宙を強調してサイレント映画にも似たコミカルな動きで描かれている。生身で真空の宇宙へ人間が出られるかは、昔から議論の分かれるところだ。有名な回答は、SF作家A・C・クラークによるもので、「短時間ならなんとか大丈夫」というもの。事故により生身で宇宙に飛び出す内容のSF短編小説があり、映画『2001年宇宙の旅』でもボウマン船長がスペースポッドからディスカバリー号に戻るときに類似の描写がある。『探鉱夫』は、それに準拠しているのだ。

■子どもと大人の間に…

 この後も牛若の受難と、それをものともしない威勢のよい行動は続く。空気のあるトータチス内部も大混乱となっており、そこで大王道パターンの「鉄骨綱渡りサーカス」を行う。アメリカ製アニメ『ポパイ』で建設中のビルに赤ちゃんが紛れ込んで危うくなると次の鉄骨が……という、アレにヒントを得たようなシチュエーションだ。牛若は『カリオストロの城』ルパン三世の小道具のようなワイヤーを使い、コナン走りをして、まるで70年代の宮崎アニメの主人公のごとき威勢の良い急ぎっぷりを見せてくれる。その最中に、牛若は第2話冒頭の謎のメカに遭遇するのである。ほとんど気にもとめずに……。
 『探鉱夫』の世界はシビアだ。結局、ここまでがんばっても牛若の努力は報われない。メインコンピュータのシステムダウンによって、検定結果が消失してしまったのだ。
 本来、牛若は自らに誇りをもって良い。時間ギリギリとなったのは、牛若が浮遊している作業員でまだ息があった怪我人を発見、医療ブロックへ搬入するのに回り道をしたからなのだ。もし見捨てていれば、検定は合格でもこの先宇宙で働いていく本当の資格を失っていたかもしれない。
 宇宙に出たとき太陽に焼け、半身が火膨れとなった牛若の凄惨な顔。その姿で母やフキに対面したとき、牛若は腹を立てる。恐らくは自分自身にだ。検定に合格しなかったのは動かぬ事実だ。この異常事態では再検定のチャンスもないだろう。こう考えた彼は、毛布をかぶってフテ寝をしてしまう。
「絶対、言い訳なんかするもんか!」牛若の少年らしい叫びが胸を打つ。この感情の動き……これこそが、本作品のジュブナイルたる要である。
 子どもには子どもなりの論理と行動原理がある。大人との境界にさしかかった子どもがいちばん嫌うのは、子ども扱いされることだ。牛若もそうなのだろう。
 彼は立派である。あれだけの困苦を乗り越え、しかも最初はミスしたとはいえ、クリティカルな点では的確な判断をくだして来ている。検定合格に必要とされるスキルという意味では、同期生の何倍もの能力を発揮している。それを主張して甘えようともせず、「結果が出なければ何もない」と厳しい自己判断をする。これは両親を含めた周囲の大人が持つプロ意識の影響なのである。それはトータチスの大人たちが取る幾多の細かい描写、言動を見ていればおのずとわかることだ。その背中を見て育ったからこその価値判断基準なわけだ。それは紛れもなく「プロ」のものなのである。

■未完の大作とゴールの予感

 第2話のBパート(後半)以降は、苦境に立った小惑星トータチスが本社と日本政府から見捨てられたらしいこと、大気圏突入まで迫る時間の中で脱出可能な人数には限界があることが、タイムサスペンスの前提として設定される。
 時間ぎりぎりまで小惑星をもとの軌道に戻すべきだというのが、長老たる安藤係長の発言だった。牛若の発見した異様なメカはいったい何なのか……? 果たしてトータチスのひとびとは生き延びられるのだろうか? 
 このパートをくだくだしく書くことは避けよう。全6巻予定のうちの第2巻で中断した作品である。説明しても、受けるストーリーなり映像が、幻の第3巻以降では意味がない。
 本パートにも見るべきところは多数ある。トータチスの責任者たる金部長は弱者から脱出させようと腐心する。その中には子どもの牛若も含まれ、反発を招いてしまった。だが、愛嬢を喪った後悔がそれを言わせているという金の真意が、墓参りの場面で判明し、牛若にもその想いは伝わる。なぜ娘が死んだかにも裏がある。宇宙空間で骨の老化を防ぐカルシウム錠剤に薬害、すなわち人為的なミスがあり、大勢の子どもが死亡するという事件があったのだ。
 牛若自身にも、別の立場があるとわかる。12歳の彼が、「トータチス生まれの最後の生き残り」であり、「会社が宇宙で生まれた子どものデータを欲しがった」ために特別に残された子どもで、ゆえに一部では「われらがモルモットくん」と扱われてもいることが、セリフの断片に埋め込まれているからだ。
 これらの入り組んだ事情を背景とした上で、牛若の背伸びしたい気持ちと行動、その天真爛漫たる振るまいがあるということが、この未完のフィルムからしっかりと伝わってくる。だからこそ、彼の行動と感情の起伏にも納得と共感を抱くことができるのだ。
 プロにあこがれ、プロ並みの判断と行動があるからといって、牛若を一人前の大人扱いはできないギャップが作品の底に流れている。微妙なバランスが、ジュブナイルSF『探鉱夫』の持ち味となっている。
 このギャップを牛若が認識し、克己するときが、作品の本来のゴールとして設定されていた地点なのだろう。そのプロセスは、ここまでの展開から、決して甘いものではないと容易に予想できる。あらゆる「乳離れ」が苦いものと引き替えにしているように。
 この作品の打ち切り後、アニメ雑誌やネットで、再開のラブコールが持ち上がっては消えていった。ビデオアニメの世界には、長い年月を経て作品の続きが出た事例もある。DVDで、復活のチャンスもあるだろう。私も自分にできることをしていきたい。直接の続編でなくとも良いではないか。精神さえ受け継がれれば。
 未完の作品を評価するのはどうか、という意見もある。だが、どんな作品だって最初は未完だ。自分が良いと思っていることを価値観として発信するのに、中途かどうかは関係ない。
 可能性はいつも未来に向かって開かれている。その可能性は、天から降ってわいてくるものではなく、過去を正しく吟味し、位置づけ、高い視線で未来を見つめなおすことでしか勝ち取れないものなのだ。過去、現在、未来は、バラバラの点ではなく、このようにひとつのベクトルで貫かれるべきものなのだ。
 現在できること、未来につながることはいくらでもある。それは絶望的なまでに人間の生存を否定する宇宙に誇りをもって生き抜くひとびとの姿からも学べることだ。
 これが、連載最後に未完の作品『おいら宇宙の探鉱夫』を選んだ理由なのである。

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Epiloge 果てしなき王道への挑戦

 王道はどのようにして切り拓かれるか。
 道は最初から「勝手にそこにあった」わけではなく、だれかが「ここを通ろう」と思い、万人に道と認められて、大勢が通った結果として「道になる」のである。
 アニメ作品の評価は、物理的な「道」ほどにはわかりやすくないだろう。手法だって確立していない。かといって、「また良い道ができないかな」とただ期待するのも、得策でない。ならば、できることとはいったい何なのだろうか。
 もし良い道だと思うのなら、通り続けることだ。そして、「何が良い道なのか」「どうして良い道だと思うのか」を万人が通れるように、コンセンサスに至れるように、言葉を探して、話を続けることが、通行人たる観客が個人の資格でつくせるベストなのである。それはだれにだってできることだ。
 この連載では「アニメはいかように観ても構わない」ということを提示するよう心がけた。一般的に「評論」という言葉が連想させる冷徹なる公平さは、あえて無視して、どれだけ自分の感覚、感動の原点に正直になれるかを目指した。
 それが楽しませてもらった観客としての精一杯の開拓行為だと信じて行動した。
 みんなも、もう一度、大きな声をあげてみないか。
 このインターネット時代、媒体はいくらでもある。
 もちろん、語るだけで不満があるなら、意を決して「自分の道はこれだ!」とアニメをつくる側に回ったって良いではないか。
 アニメのクリエイターたちだって、最初はみんな観客側にいたのだ。仕事についたときは、全員が新人だったのだ。
 才能がない? 
 よく考えて欲しい。才能とは何かをがむしゃらに行動する中でこそ発揮され、見いだされて形になったものしかないではないか。
 アニメの王道も、これから拓かれるものなのだ。まず行動ありき。「王道」にいたる究極の感動も、この開拓精神の果てに、結果として見つかるはずだ。私は確信する。
 新世紀に向けて、挑戦は続く。
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《以下はコラム》

●フキちゃん My Love

 本作品のヒロインは河原町フキ。古風な名前の似合う女の子だ。特徴あるヘアバンドを見て「あ! 空飛ぶゆうれい船だ」と思ったひとは、お友だちになりましょう。牛若から見ると、同期生のライバルでありお姉さんでもあるという、ビデオアニメでは珍しい役どころだ。合格したうれしさに思わず牛若に抱きつく屈託のなさが良い。白く枯れた地球の風景から宇宙を見上げる意味深なオープニングにも登場している。どんなあこがれを抱いてトータチスに来たのだろうか……。

●コクピット描写アラカルト

 本作品のSF的描写は細部のメカにいたるまで行き渡っている。キャラクターの川元利浩とメカの今掛勇という組み合わせは『カウボーイビバップ』の先駆けでもある。ここでは牛若が検定試験に使用する宇宙艇がらみの写真、特にコクピット関係を集めてみた。下部方向に開閉するハッチや、平面パネルに現れる内部図解は、実に「男の子ゴコロ」をくすぐるものだ。通信を自ら途絶させるための光コネクタの位置などもそれらしい。課題はバーチャル・リアリティ用ヘルメットを着装してマニュピレーターでLSIチップを交換するというもの。プリント板は実装密度があまりに低いし、交換するチップはDIPの汎用ロジックICで、障害が内部ではなく外部パッケージのクラックだったので、もとハード技術屋の筆者にとっては少々気になってしまった。

《DATA》

1994年11月11日発売、1995年1月27日発売(第2巻)

■STAFF
原作/フォースマン・ランチフィールド 企画/浅利義美・浅賀孝郎 脚本/早坂律子・飯田つとむ メカニックデザイン/今掛 勇・ムーチョス・メカヒノス メカニックデザイン協力/ゴンゾ メカニック作画監督/津野田勝敏 美術監督/谷口淳一 撮影監督/森下成一 録音演出/若林和弘 音楽/川井憲次 キャラクターデザイン・作画監督/川元利浩 監督/飯田馬之介 アニメーション制作/トライアングルスタッフ 製作/ケイエスエス

■CAST
河原町フキ&タコロー(日高のり子) 南部牛若(山口勝平) 南部光三郎(大塚明夫) 南部由美子(一城みゆ) 金部長(辻村真人) 安藤(京田尚子) 新川(上田祐司) 野田教官(土師孝也)

【初出:月刊アニメージュ(徳間書店)2000年9月号、10月号】

※初出時点ですでに永らく入手難状態の「幻の作品」でしたが、ようやく!!DVDで再リリースが決まりました。

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2006年11月 3日 (金)

大空魔竜ガイキング

題名:『大空魔竜ガイキング』 お得パッケージVOL.6をお勧め!

 1976年のロボットアニメ『大空魔竜ガイキング』のLDは、なぜかBOXではなく8話収録の二枚組みを基本としている。最終巻のVOL.6のみ4話収録だが、これは異様に効率の良いお楽しみパッケージだ。
 「ガイキング」と言えば、アクション派アニメーター金田伊功が初めて作画監督をして注目された作品である。第34話「猛烈!火車カッター」と最終回の第44話「壮烈!地球大決戦」の2本がソレである。このVOL.6では、第44話が見られるのはもちろん、2本の間にあたる第41話「ジャイアントカッター逆さ斬り」も収録されている。作画監督は野田卓雄。その分、金田はほとんど全カットの原画を描いている(作監回は、おおむね半パートの原画担当)。金田濃度とテンションが異様に高い割りに、意外に知名度が低い回なのだ。
 ハチローは、近所の悪ガキたちとケンカをしている最中に、暗黒ホラー軍団のメカを発見。子供たちは全員、拉致されてしまう。ハチローが大空魔竜の乗組員と知ったデスクロス騎士団スネイカーは、ほかの子供たちの命と引き換えに小型化した暗黒怪獣キングコブラを持ち込むようハチローに命じる。光子エネルギーを吸いとり、キングコブラは大空魔竜の腹を食い破って巨大化した……。
 ストーリー的には主人公側がよく使う「一寸法師作戦」の変形だ。「外側の攻撃にはいくら強くとも内側から攻撃すれば」という『スターウォーズ』でもやっていたアレである。ということで、話としては実にどうということはないのだが、メカアクションで語られることの多い金田作画の別の側面が堪能できるのがこの回の醍醐味だ。
 ハチローと悪ガキの少年の描写が金田の好きだった『ど根性ガエル』的な作画で、実に見ていて楽しそうで小気味良い。子供ならではの細かいリアクションを、ややオーバー気味にひろっており、銃を付きつけられたときの驚き、板ばさみにあって苦悩するハチローなど、表情も感情こもりまくり。もちろんパースも豪快につけられている。ハチローがコブラの入った箱を捨てようとするところなどは、表情と動きのタメの豪快が後の『サイボーグ009(新)』オープニングの岩を持ち上げる005みたいで、パワフルさに目を見はる。
 余談だが『戦え!イクサー1』『冥王計画ゼオライマー』の平野敏弘(現:俊貴)監督のアニメーターデビューはこの第42話、ガイキング長セルの清書なのだそうだ。
 第42話「ネス湖の大恐竜」も別の意味で凄い。本来は最終回から三本目のクライマックスのはずで、ブラックホールの影響で滅亡の最終段階となったゼーラ星はもボロボロ。ところが……「そこでダリウス大帝は非常事態を宣言し、打倒大空魔竜を果たすため、ネス湖の恐竜をサイボーグ化して密かにテストを続けていた。その名はネッシーQである!」(ナレーションより)大空魔竜のメンバーも半ば観光気分でネス湖にいってしまうという能天気なストーリー。誰でも「おいおい、それでいいのか」とツッコミたくなる。ちなみに『熱血ロボ ゲキ・ガンガー3』の最終回から3本前が「びっくり!ツチノコ大怪獣」なのは、これにちなんでのことなんだそうだ。
 第43話と第44話は最終回の前後編。しかしつなげて見ると、最終回の金田作画の異常さがやはり突出している。特に暗黒怪獣ドラゴンダーが雷鳴とともに出現するシーンがどちらにもあるのだが、金田の方は稲光が空間を引き裂くように暴れまくり、地面に突き刺さり、巨大な竜の大きさも画面からはみ出すように描いている。なんだかんだ言っても、最終回はやはりVOL.6の白眉だ。
 「ガイキング」は作品全体の統一感などそれほど気にせず、ある程度自由に作ってるところが、逆にいま見ると魅力である。作画ひとつ取っても、いろんなアニメーターの手がけた絵が渾然となっている。虫プロの流れをくむマッドハウスが参加し、杉野昭夫が原作にクレジットされているのは、キャラクター原案を手がけたからだろう(アニメーション・キャラクターは白土武)。杉野はオープニング・エンディングの作画、本編も第11話「泣くなハチロー」第18話「宇宙船ノアの箱舟」と2エピソードの作画監督を手がけている。特に第11話は出崎統の絵コンテによるもので、やたらと画面構成が渋い。サンシローがまるで矢吹丈みたいな表情(目を閉じて口元を曲げるようにして微笑む)をしたりして衝撃的だ。金田作画ももちろん良いのだが、もっと出崎・杉野コンビの「ガイキング」も見てみたかったなあ……。(敬称略)
【初出:不滅のスーパーロボット大全(二見書房)1998年9月) 】

※バラ売りLDの紹介となっていますが、DVDはBOXです。そちらにも解説を提供しています。『大空魔竜ガイキング』は音楽、挿入歌も傑作です。初出誌には故・富沢雅彦氏の傑作評論が掲載されており、BGM集(ANIMEX1200の方)も氏の構成。題名を頭1文字ずつ並べると「大空魔竜飢遺禁紅」になるという凝りようです。

●初出誌

●DVD-BOX

●CD

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長浜忠夫がもたらしたもの

題名:長浜忠夫がもたらしたもの --巨大ロボットアニメの飛翔--

◆長浜忠夫版ガンダム?

 時に1979年。富野監督による『機動戦士ガンダム』は、第1話からアニメファンの注目を集めていたものの、視聴率不振で玩具も売れず、途中から路線変更になった。Gアーマーなるパワーアップメカの登場や、モビルスーツの新型が続々投入されるようになったあたりである。
 この頃、アニメファンの間ではガンダムの行く末についてあらぬ噂が横行した。第26話で全員特攻して終わり、なんてのが典型だ。
 明らかによくできたガセネタの中に「第27話で総監督が交替して長浜忠夫になる」、というのがあった。大笑いしながら、富野さんじゃなくて長浜さんがやるとどうなるのかなぁ、とバカ話に興じたものだ。
 ――ギレンとドズルのザビ兄弟が物語の冒頭、自慢のモビルスーツを闘技場コロニーに出し、デギン公王を招いて御前試合をする。デザインはブッちゃんこと出渕裕だ。モビルスーツはそれぞれ飯塚昭三と緒方賢一の声で、「うわるっぐぐ!」「ぐわぁあぁ!」などと喚きながら戦闘開始。一体はやおら背中からトゲのついた鉄球を出して鎖で振り回し始める。もう一体の胸のシャッターが開くと、どう見ても胴体の厚みよりデカいミサイルが出現する。ミサイルは空中で爆発して針をまきちらし、相手は針ネズミのようになって倒れる。
 勝った方が、今週のガンダムの挑戦者だ。
 「敵モビルスーツ接近!」「よし、バリヤー展開!」
 ホワイトベースにサイレンが響けば、宇宙空間は緑色のオドロ雲渦巻く戦闘空になっている。挑戦者の敵モビルスーツは、ガンダムに向けてニードルミサイルを発射。ミサイルは破裂した後に何十本という巨大な針を放射し、グサグサとガンダムのコクピットを貫く。加えて1万ボルトの電撃がアムロを苦しめる。
 「どうわぁっ!!」白とピンクの2色トーンに塗り分けられたアムロが絶叫する。もちろん監督交代とともに主役声優は古谷徹から神谷明に交代しているのだ。
 「そ……そうだ。あのときの……。びぃむっさぁべるっ!ケン玉殺法!」アムロはカツ・レツ・キッカとケン玉で遊んだときのことをヒントに電撃をはねかえし、あらたなる刺客モビルスーツを退けるのだった。
 「今度も……つらい戦いだった……」疲れきったアムロの目に、夕陽のように差し込む太陽がまぶしい。
     ×  ×  ×
 これはもちろん悪い冗談だ。
 だが、こんなネガティブなイメージで長浜忠夫監督のことを捉えている人も多かったのは事実だ。ことに『ガンダム』本放送の頃、富野監督を持ち上げるあまり具体的な検証なしに、「長浜さんの演出はクサイ」「オーバー過ぎてギャグみたいだ」「ワンパターンで古い」と劣ったものと決め付け、低く評価する風潮は厳然としてあった。長浜監督が81年に志半ばで病死したため、巨大ロボットものの第一人者は富野監督というイメージができてしまったことも、過小評価に影響している。
 しかし、長浜監督が拓いたものがあってこその『ガンダム』という方が正確なのである。それが歴史的な認識というものだ。後から出たものの改良点、優位性をもって過去の作品を劣ったものと決めつけるのはおかしい。そもそも監督の演出に対して、優劣がつけられるほど我々は何を知っているというのだろうか?「監督の個性」を云々できるほど、監督が何をやっているか我々は把握しているのだろうか?
 『宇宙戦艦ヤマト』の劇場公開でアニメがムーブメントになろうとしていたとき、巨大ロボットアニメというフィールドで確かな「ものを創る」意識と意志を持ち、手ごたえを得ていた長浜忠夫。 本稿では、巨大ロボットアニメの勃興期に長浜監督の作品にかけた情熱の軌跡を追うことで、現在にいたる作品群のスタートラインを探り、「監督とは何か?」を考える手がかりを得てみたい。
 なお、東北新社や東映本社の製作で創映社サンライズスタジオが下請けで制作した作品を便宜上サンライズ作品と表記するが、映像作品の制作現場の主体という位置づけを重視してで他意はない。

◆サンライズ以前の長浜演出◆

 長浜監督は、60年代は横山光輝原作『伊賀の影丸』など人形劇の演出を担当し、東京ムービー(Aプロダクション)でアニメを手がけることになる。代表作は、もちろん『巨人の星』だ。梶原一騎・川崎のぼるの原作コミックは、日本を代表するヒット作だが、長浜忠夫演出のアニメ化はそのヒットに大きく貢献している。それは、原作コミックを読み返すと何となく物足りなさを感じることでも明白だ。
  アニメ版では大リーグボール1号のあたりから、長浜演出の真骨頂という雰囲気になってくる。テレビ放映が雑誌連載に追いつきそうになり、原作に忠実なとストーリー展開以外の要素で間を持たせる必要が生じていた。ロボットアニメに繋がる長浜演出の基礎は、その要請に応えるべく開発されたものではないだろうか。
 この時期の『巨人の星』は観客を飽きさせない創意工夫と実験であふれかえっていた。時間の流れを再構成し細かくカットを割ったり、魔球が出ると背景が異次元のようになるなど画面的にも様々な味つけをして盛り上げた。結果として登場人物の心理をじっくりとなめ回すように見せつけ、性格を掘り下げ「キャラを立てる」ことに成功、テレビアニメの新時代を築くことに成功したのだ。
 本作品の途中からトレスマシン導入により、劇画キャラクターを劇画タッチで描写することが可能になった。同時代の作品は荒々しい描線のものが多く劇画の時代を感じさsれるが、長浜監督の劇画演出はその先を行っていた。エリアル合成で目の中に実写の燃える炎を合成してしまうなどは序の口だ。「竜虎の対決」「真剣勝負」という比喩を本当にそのまんま絵にして、星や花形がいきなり竜虎や武士に変身して怪獣映画も顔負けのバトルや時代劇のような剣劇を始めてしまったりする。原作にもこういうイメージ処理はあるが、長浜によるアニメ版の迫力は稚拙にやればギャグになるものを迫力で押え込み、何倍にもパワーアップしていた。
 エンディングクレジットには脚本家と並んで「構成:長浜忠夫」と出ているが、これは長浜監督がオープニングにクレジットされている「演出」の他に原作の分解・再構築や、行間を読み、イメージを数十倍にふくらませるような場面の再構成を手がけていたと解釈できる。
 燃え立つような情念を放ちながら演出の現場に立っていた長浜監督の迫力はスタッフを引っ張り、画面に魂をこめていた。この長浜監督の情熱と方法論がロボットアニメに導入されたことで、何がもたらされたのだろうか。

◆勇者ライディーン

 長浜監督のロボットアニメ第1作は、75年の『勇者ライディーン』だ。『マジンガーZ』に始まる永井豪・東映動画路線でヒットした巨大ロボットアニメという新ジャンル。マンガ家に原作を頼らず虫プロの流れをくむアニメスタッフでその新天地に挑戦した作品だ。スタート当初の総監督は富野由悠季(当時:喜幸)だったが、諸般の事情で第三クールから長浜に交代した。
 長浜担当の1本目は、第27話「シャーキン悪魔のたたかい」。前半の敵幹部キャラクター・シャーキンは、仮面に包まれた美貌、クールな性格、独特の美学を持ち、美形キャラの元祖だった。そのシャーキン自らが巨大化し、戦いを挑む。前半の総決算を行い、後半戦への橋渡しとなる大事なエピソードだ。
 長浜監督は巨大シャーキンとライディーンの戦いに鼓の音を重ねたり、戦いに敗れたシャーキンが剣をつきたて割腹自殺するといった和風で大時代的な演出を行った。雨に打たれる好敵手の屍を前に「シャーキン、お前が味方だったらなぁ……」と、ひびき洸に切なく重く独白させた。
 さすが『巨人の星』の監督……と思わせるような長浜節は、この1本でもいかんなく発揮されていたわけである。
 後半の『ライディーン』の基本設定にはいくつか変更が加わった。大魔妖帝バラオの幹部が豪雷巨烈・激怒巨烈兄弟となって敵の内部にもライバル構造が盛り込まれた。化石獣は巨烈獣となり、作品の神秘性は薄れ、エピソードの中心は戦闘になった。特に長浜を監督に迎えてからの戦闘シーンはエスカレートの一途をたどっていった。毎回のようにライディーンの体は切り刻まれ、コクピットには針が突き刺さってスパークが走り、ひびき洸の絶叫がとどろきわたった。巨烈獣はさらに合体獣となり、ライディーンの苦しみも二倍以上になった。
 恐らく局やスポンサーの意向で「巨人の星みたいな迫力でロボット同士にドンパチさせてください」といった要請が長浜監督にはあったのではないだろうか。長浜監督のふところの深さを感じさせるのは、その要請に期待以上に応えた上で、さらに大きなドラマをロボットものの上に構築しようとした点だろう。引継ぎの雇われ監督という意識だったら、自己の作家性を過信するタイプだったら、前任者の作った設定は嫌うかもしれない。だが、長浜監督は前半に張られた伏線で主人公とその母の引き裂かれた肉親同士の情愛に注目した。これを軸に、ムー大陸の生き残り母レムリアがムートロンを解放するために時を超え、ひびき洸と巡り合うという最終回に向けての壮大なクライマックスを大河ドラマ的に仕掛けた。これも屈指の大河ドラマ『巨人の星』のアニメ化を経験した長浜監督ならではのことだろう。
 『巨人の星』から『ライディーン』に受け継がれた長浜節。その要素を整理すると、「ライバルキャラへの熱い視線」「対決に主眼を置いた派手な画面作り」「時代がかった大芝居」「大河ドラマ的構成」「引き裂かれた肉親間の情愛」といったものになるだろうか。

◆美形キャラのアピール--コン・バトラーV◆

 東映本社の発注でサンライズで制作された『超電磁ロボ  コン・バトラーV』、『超電磁マシーン  ボルテスV』、『闘将ダイモス』の3本が「長浜ドラマティカル・ロボットアニメ三部作」と呼ばれる。いずれも長浜忠夫が総監督として第1話から最終回まで携わり、ガルーダ・ハイネル・リヒテルといった市川治が声の本格的美形キャラとその悲劇のドラマを創出している。
 まず、『コン・バトラーV』から長浜監督の活躍を振り返ってみよう。
 安彦良和のキャラクター、特にこの時代アニメファンのアイドルだった南原ちづる、初めて完璧な5体合体を可能な超合金、巨大ロボットの王道パターン確立とヒット要素の多い作品だった。それをしっかりと支えていたのが、『ライディーン』で自信をつけた長浜演出である。
 第1話では、内閣総理大臣の任命書を持った5人の主人公たちが思い思いの方法で集結、どれい獣の攻撃に巻き込まれながら南原コネクションに急ぐ。その途上でキャラクターの性格・得意分野を自然な流れで見せ、基本設定はもちろん、出撃から初勝利に至る戦闘パターンまで、有無を言わさずグイグイと引き付けるように観客に納得させて楽しませる。これを設定期間ふくめて短期間にまとめあげた長浜監督の力技は今も語り種だ。
 この作品ではキャンベル星の前線司令官ガルーダが、主人公・葵豹馬に挑戦するライバル、すなわち後に言われる美形キャラとして人気を集めた。特に第25話「大将軍ガルーダの悲劇」は敵側のドラマ、ガルーダと侍女ミーアの悲恋にスポットを当てて、高いテンションのドラマでファンの胸を打ち、話題を呼んだ。ミーアはガルーダの心を慰めるための壁飾りのようなロボットだが、ガルーダを密かに思い慕っている。誇り高いガルーダの方はしょせんロボットとしか見ていない。ガルーダを守りたい一心で、ミーアはどれい獣に乗り無断出撃し、執念の攻撃でコンバトラーVを窮地に追い込む。だがいま一歩のところでコンバトラーの攻撃に敗れ、駆けつけたガルーダの手で修理工場に運び込まれる。そこでガルーダの見たものは自分と同じ形態の試作機だった。ガルーダもまたロボットであり、キャンベル星前線のオレアナにあざむかれていたのだ。
 この回は30分の大半が敵側の描写にさかれ、明らかに主役の座と作者の視点は逆転して敵側に移っている。主人公側の正義を貫き、玩具を売るための戦闘描写を中心にしなければならない巨大ロボットアニメで、この構成は画期的だった。それだけに失敗は許されなかったのだろう。結ばれぬ運命にあるからゆえのミーアの情念、それを受け止めないガルーダのプライド、それに逆襲され運命に翻弄されるガルーダの心理描写は凄絶であり、画面に吸い込まれる感すらあるほどだった。この回は放映されるや大きな反響を呼んだ。
 脚本の辻真先によるガルーダの基本設定とドラマは、『巨人の星』で飛雄馬を取り巻くライバル関係、特に二枚目の花形の大リーグボール1号打倒を華々しく描いた長浜監督にとって、相性が良かった。主役に対峙するライバル側のドラマとそれを貫く心理の動きは、演出家として存分に腕のふるい甲斐のあるものだったのだろう。
 玩具や無敵のヒーローを必要とする本来の視聴者に充分なアピールをした上で、それ以外の青年層・女性層という新たな観客層にもドラマを訴えかけることができる。決まった原作のない分だけ、そこに自由なオリジナルの発想を盛り込むことも可能だ。すべてはスタッフのやる気次第なのだ。精根こめれば、すべては作品に反映し、見る人は見て確実な反応を返してくれる。
 こんな手応えを長浜監督は得たのではないか。その認識は、長浜監督にとってもその後のアニメの方向性にも、大きな影響があったに違いない。
 ロボットアニメに新たな土壌と可能性を発見した長浜監督は、次の作品では自ら基本設定を考え出した。美形キャラに華を持たせるためのさらに悲劇的な設定を考案し、物語中で主役に匹敵するだけのポジションをになわせる。そして、その悲劇の人生を1本の大河ドラマに埋め込み、厚みを持たせ、作品のテーマを具現化する役回りとして美形キャラを積極的にフィーチャーしようと決意した。それが『ボルテスV』とプリンス・ハイネルだ。

◆長浜ロボットの頂点『ボルテスV』◆

 美形キャラを主眼においたとき、問題になったのは、美形キャラの所属する敵側の設定だった。
 それまでの作品では悪というものは一面的な価値観を持つ存在に過ぎなかった。例えば「地球を征服する」と言った場合にも、武力の行使そのもの以前にあるもの、なぜ征服しなければならないのかという理念や目的意識、いったい何をどうやって支配するのかという具体的な方法論は実にあいまいだった。主人公側の持つ秘密のエネルギーの争奪戦、あるいは単に主役ロボを打ち倒すことが世界制服の早道だと言うことで戦いを挑んでくる、といった強引な設定が長浜作品も含めて実に多かった。
 いったい敵とは何なのだろうか?同じ人類、あるいはそれに類するものであれば、種族民族があり、社会と文化があるはずだ。現実世界では、同じ人間同士であってもメンタリティの微妙な差異が軋轢になって戦争となる。ではその差とは何なのか?それを図式化して描くことで、この世の中に本当にある人為的な苦しみや災いの根元に迫れるのではないか。いま青年たちがアニメを見ているなら、そこまで踏み込んでこそ、見ごたえのある大河ドラマになろうし、この大テーマがあってこそ、美形キャラは作品を最後まで支える軸になる。
 長浜監督の思考はこうだったのではないだろうか。
 長浜監督が考え出したのは、「人間が同じ人間を差別することの是非」という大テーマを巨大ロボットもので訴えかけることだった。敵美形キャラという本命の主人公と、ヒーローロボットに搭乗する本来の主人公を兄弟に設定することで、「敵と味方にある差はいったい何なのか」ということを浮き彫りにできる。敵のボアザン星にも、はっきりした社会制度を持たせる。年少の視聴者をも引き込むため、作品は巨大ロボットアニメとしても成功しなければならない。そのためには、当初はコンVと同じ1話完結の普通の巨大ロボットアニメと見せかけ、バトルシーンもサービスいっぱいに描いておいて、やがては敵・味方相互に絡み合う大河ドラマ構成へと導いていく。
 長浜監督は、こんな大仕掛けに出た。

◆ボルテスの大河ドラマ◆

 ボアザン星は地球で言えば中世風の文化様式を持った惑星で、人類には角のある者とない者の二種類がいる。角のある者は貴族階級に所属し、角を誇りとし、角のない者を労奴として支配していた。ボアザン星人にとって、地球は角のない未開の民族惑星だ。貴族に支配されてこそ幸福になるという、支配者に共通のロジックを取って彼らはついに地球侵略に飛来した。
 ボアザン星の地球侵攻には、隠されたもう一つの意味があった。現皇帝ザンバジルは前皇帝を謀略によって失脚させ、いまの地位についた。彼にとって前皇帝の息子プリンス・ハイネルは王位継承権を持つ邪魔物なのだ。そこで辺境の地球へと遠征を命じ、ハイネルを戦死させようと企んだのだ。日本神話のヤマトタケルを彷彿とさせる物語だ。
 このボアザン側に渦巻く陰謀は、実は地球側にも重要な関係がある。
 主人公・剛三兄弟たちの父親はかねてよりボアザン星の侵攻を察知し、地球防衛軍・岡長官や浜口博士、妻・剛光代博士とボルテスVを建造していた……と、ここまではよくある設定だ。剛博士は行方不明となっており、光代は第2話で獣士に体当たりして死亡。中盤は、剛兄弟の父への慕情がドラマの軸になって展開する。
 その頂点が、第28話「父剛健太郎の秘密」だ。
 剛健太郎は皇帝ザンジバルが陥れた前皇帝ラ・ゴールその人だった。王位継承権を持ちながら、生まれながらにして角のない特異体質のラ・ゴール。聡明で繊細な彼は、角のある者がない者を差別するボアザンの考え方に疑念を抱いていた。そして即位した矢先にザンバジルの企みで角のないことが露見、王位を追われ、労奴に落とされた。残した子供が実はハイネルであり、助力者により地球に移住し、光代博士と結ばれた後に設けたのが剛三兄弟というわけだ。
 最終回、地球とボアザン星の労奴が手を結び、革命が起きる。ボアザンに燃え盛る戦火の中、ハイネルと剛健一は兄弟とも知らず、生身で剣と剣で決着をつけようと切り結ぶ。その中で、ハイネルは健一、健太郎をついに肉親と認めるものの、彼らと手を取り合おうとはしなかった。いや、できなかったのだ。生きざまを曲げるにはあまりにハイネルは純粋すぎた。彼はボアザン貴族の誇りを持ったまま炎の中に消えて行く。
 これが悲劇だからこそ、なぜこういうことが起きるのか、起こしてはいけない、という長浜監督のメッセージが直截に伝わるのだ。

◆ボルテスの反響◆

 長浜監督は、ボルテスの悲劇の大河ドラマが受け入れられることに絶対の自信を持っていた。その現れとして、第28話を「主役ロボットの登場しない回」として指定した。スポンサーの意向として、主役ロボットが敵メカと戦うことは毎回の約束ごとで、それに反することは大事件だった。長浜監督は周囲に作家としての主張を納得させ、ついに全体のテーマの核となるエピソード第28話を戦闘シーンなしの回想ドラマだけで描ききった。
 メッセージ色の強い第28話と最終回の放映に先立って、長浜監督は自腹を切って友人知己に自分の考えと、それぞれ放映を見て欲しい旨を記した葉書を印刷し、配布した。同じく自費で16ミリフィルムをプリントし、機会があれば積極的に出かけていって上映した。ビデオの普及していない時代だから、アニメ作家が自信の作品を見て欲しければそうするしかなかったのだ。アニメファンという層があるのかないのか、世間的にはまだまだ不明確な時期に、ここまでの自信と愛情と情熱を自分の作品にかけた監督は皆無だった。
 悲劇の美形キャラ・プリンスハイネルは、長浜監督の目論見どおり、女性ファンに人気爆発となった。
 もともと日本人は判官びいきと言われるが、長浜監督はハイネルをその好みにぴったりマッチするように描いた。
 ひたむきな情熱を包み隠す切れ長でクールなアイライン。考え方が純粋で誇り高く、側にいるカザリーンの慕情など寄せ付けない孤高さを持つ。両親と早くから別れて育ったため、こういう性格になったわけだが、戦いの間にふと見せる表情が母性本能をくすぐるのだろうか。
 アニメキャラクターに恋するというバーチャルな行為は、いまでこそ広く知られているが、1人のキャラがブレイクしたとまで言えるのはハイネルが最初ではないだろうか。ハイネルは立ち上がり始めた同人誌の中でも大人気となっていった。
 ちょうどこのころ「月刊OUT」が創刊された影響で、「受け」を主体にしたパロディ精神が「アニパロ」としてのジャンルを確立させるまでになった。二頭身のデフォルメキャラによるハイネルも大人気だった。
 作品に対する姿勢は真摯極まりない長浜監督だったが、同時にファンの遊び心が実によく判るひとでもあった。同人誌の動きもいたく喜び、ファンとの交流を楽しむようになっていった。長浜監督は、手紙魔としても知られ、毎朝5時に起床して、ファンレターに長文の返事を書いていたという。アニメの仕事だから、帰宅時間は不定期なはずなのに。長浜監督に手紙をもらい、アニメの感想だけでなく悩みごとや相談ごとを交わしていたファンは相当数に上る。人生の指針が変わり、ついにはプロのクリエイターになってしまった人もいる。デザイナーの出渕裕もその一人だ。
 長浜監督はファンからの声を大事にし、ファンの集いにもフィルムを抱えて積極的に出かけていった。よくそんな時間が……と思えるほど精力的に活動していた。
 長浜監督が確信を持って作品を世に送り出した。その情熱を受け止めるファンがいた。監督とファンと交流することで、また新しい場が生まれ、アニメの世界を広げていった。だからこそ、いまファンは安心して青年になってもアニメが見続けられる時代が来ているのではないだろうか。

◆監督の個性とは?◆

 長浜忠夫の監督としての個性、それは他の監督とは異なっている。アニメにおける監督という役職は、何をなすべき人なのか。監督の役目を一言でいうならば「作品の仕上がりに責任を持つ」。これに尽きる。逆に言えば、仕上がりに貢献する方法は人により変わるため、その人の得意とする方法でやって良い、ということだ。長浜監督の個性的な演出方法は、それを証明しているのではないか。
 他の監督の例をまず見てみよう。富野監督は、フィルムの仕上がりは絵コンテで決まると言っており、フィルムメイキング寄りの演出家と言えるのではないだろうか。これは富野監督が映像専門の大学出身であり、特にアニメ作家になろうとしたわけではないことが影響していると考えられる。宮崎駿監督の作品づくりは、描きたいことがまず完成画面のイメージとして出てきてしまう。最初にイメージボードがあって、これを平面的に並べ替えることでフィルムの流れを再構築する作業なしには映画が作れない。これは宮崎監督がアニメーター出身だから顕著なことかもしれない。
 では長浜監督はどうかと言えば、映像寄りのパートはコンテマンなりアニメーターを信頼してまかせるタイプだったのではないか。作品作りの姿勢としては、より包括的にフィルム全体、あるいはフィルム作りの現場全体の気持ち良いチームワークを見ていたと思われる。その雰囲気は熱気となってフィルムから立ち上るものだ。そして、作品そのものから感じられるタッチは、映像派というよりはむしろキャラクター演技派とでも呼ぶべきものではないだろうか。
 長浜監督は、人形劇の出身だ。完全な肉体を持ち得ない人形に魂を吹き込む。それは全身での演技と声の演技のマッチングが大事だ。どことなくオーバーアクション気味な長浜演出を連想させる。長浜自身が舞台に立つ役者出身だったのが作品づくりに影響していると見る説もある。「三日やったらやめられない」という役者。スポットライトを浴び、ホールに響く声で朗々たる台詞回しで自分の言葉で直接訴えかけ、観客の視線を一身に集め、自分の世界に引き込む。その様子というのは、大上段なテーマをテレビ画面から訴えかけた長浜作品とどこか通じるようなものがある。
 役者経験と関連したことで、長浜監督の演出というと必ず話題になるのが「監督自ら全部の役にアフレコをしてみる」という作業だ。アニメ制作は、オールラッシュと言って規定の尺になるよう完成した絵を全部編集してつないだ状態が節目になる。これに声優が録音スタジオでアフレコを行い、ダビング作業で効果音と音楽をつけて完成となる。長浜作品ではラッシュ時点で監督自ら台本を手に読み合わせチェックをするのだ。女性キャラクターの「エリカは……一矢さまを……お慕いもうしております……」などというセリフにも声色を使い、間を取り感情をたっぷり込めて読む。声優が実際にキャラクターに「入れる」かどうかをテストするのだ。それは見事なものだったという。
 ラッシュの段階で読み合わせに支障があると、すぐにリテイク。テレビアニメでは、アフレコに完成した絵が間に合わず、線撮り(原撮・動撮)・白味など尺を合わせたダミーが入っていることがある。長浜監督はそれを絶対に許さなかった。これは声優が完成画面から感じるエモーションに合わせて声の演技を決定し、魂を吹き込むのだから本来は当然のことなのだ。えてしてアニメの現場は絵描きが仕切っている関係で、「画作り」が優先されてしまうことから起きた弊害だ。
 本来フィルムとは映像と音が結ばれて完成するものだ。視聴者は、音も無意識のうちに重要な手がかりとしている。アニメーションにおいて、完成フィルムで「生」なものは音しかない。とりわけ生の人間が出るのは声の演技だけだ。よって、絵が生きるも死ぬも、音響次第なのだ。『コン・バトラーV』からエンディングの音響監督にも長浜忠夫がクレジットされるようになった。アフレコ時の熱のこもった演技指導、ダビング時にこれでもかこれでもかと音楽・効果音を厚くつける作業が高じて、音響にも責任を持つと宣言したことによる。これもまた「生命のないものに生命を吹き込む」というアニメーションの作り方の正当な手法なのではないだろうか。
 蛇足だが、長浜監督ご自身の声は『ボルテスV』の最終回、ボアザン星の守護神ゴードル像の役で聞けるので、興味ある方はレンタル店で探して欲しい。

◆ボルテス以後の展開◆

 ボルテスで青年層に向けての作品づくりに成功した長浜監督は、次の作品では主人公と敵側ヒロイン間の恋愛というテーマで。「ロミオとジュリエット・ロボット版」という触れ込みの作品を送り出した、それが『闘将ダイモス』だ。甘い恋愛ではなく苦難の道を乗り越えた果ての愛を確認するという真摯なテーマは、特に後半のヒロイン・エリカが寝返ったと思わせる展開で、よく表現されていた。美形キャラでありエリカの兄でもあるリヒテル提督もハイネル同様に人気を博していたが、ゲストキャラクターの親友アイザックとの関係が取りざたされるなど、後のヤオイ同人誌に連なる要素もこの作品で出始めている。
 長浜監督のまいた種は他の作品でも芽吹き始めた。アニメブームが起きつつあり、その芽は着実に伸びていった。その中でももっとも重要なのは富野監督作品である。
 富野が総監督に返り咲いた77年の『無敵超人ザンボット3』は、ボルテス後半と同時期の作品だ。『ライディーン』降板後も、富野は長浜監督のもとで、『コンV』『ボルテス』に、絵コンテマン・各話演出として参加している(主としてペンネーム)。『ボルテス』などは重要な第1話やオープニング・エンディングも富野の担当だ。長浜監督の作業と考え方を吸収する機会も多かったのではないだろうか。
 『ザンボット3』は初のサンライズ・オリジナル作品だ。ここで富野が取った方法論は、長浜監督の影響なしには語れない。全2クールの作品構成を、一貫したドラマとして流れを創ること、敵・味方の区別なく攻撃を受ければ焼け出される人々がいる、というリアルな認識。
 この考え方を押し進めた79年の『機動戦士ガンダム』は、冒頭で述べたようにアンチ長浜的作品ととらえられることが多いのだが、その実はさらに長浜監督の方法論をベースにして深化させた要素が導入されているのだ。敵を宇宙人でもマッドサイエンティストでもなく、スペースコロニーという新しい社会に属する同じ人間。考え方の差異が戦争状況を生んでいること。そして美形キャラをコアにしたシャアというキャラクターを導入したことだ。シャアを美形キャラとするには異論があるかもしれないが、もし『ガンダム』が「リアリティあふれる戦争もの」を主眼においた作品なら、なぜジオン建国者の息子で妹と生き別れ、などといった大時代的な美形キャラ的設定がされているのだろうか?
 今でこそガンプラブームの結果として、ガンダムの魅力はモビルスーツやリアルな世界観だということになっているが、もしシャアが美形キャラ的でなければ、興味をつなぐ視聴者も半減し、そのガンプラブームそのものがなかったかもしれない。
 『ガンダム』放映時、長浜監督は最後のロボットものになる『未来ロボ ダルタニアス』を手がけていた。『ダイモス』は、高年齢層向けにエスカレートしすぎたらしく、キー局変更にともなって低年齢層向けへの回帰が行われている。第二次大戦直後の闇市を連想させる征服後の日本で明るく生きる主人公は、長浜監督のもう一つのキャラクターの持ち味をよく出していた。『侍ジャイアンツ』の蛮場番のように、『ど根性ガエル』のヒロシのように、スイカのような口を大きく開け広げるのが似合う、明るくて悩みの少ない野生児だ。長浜監督というと、真剣に眉を吊り上げて絶叫するキャラと思い込んでしまいがちだが、こういう天衣無縫のキャラクターが、何ものにも縛られず大暴れする作品も得意中の得意なのである。
 『ダルタニアス』の仮面の敵キャラ・クロッペン将軍。声は市川治でありながら、もはや美形キャラではなかった。王位継承権というお家騒動の時代劇的味つけ、人間でありながら影武者とさげすまれるクローン、という長浜作品ならではの設定がされていたが、長浜監督は『ベルサイユのばら』を古巣の東京ムービー新社で演出するため途中降板している。クローン話の展開は、佐々木勝利監督になっても長浜の基本設定が生かされ見ごたえ充分だったが、あまり知られておらず評価もされていないのは残念だ。
  『ベルばら』という、大時代的で舞台的で芝居がかっていて、まるで長浜がアニメ版を監督するためにあったような作品も、途中で降板劇があり、出崎統に総監督の座を譲る。その後は『ずっこけナイト ドンデラマンチャ』の監修を経て、フランスとの合作アニメ『ユリシーズ31』を監督中、第1話の完成時に病気により惜しまれつつ急逝した。
 アニメが世界中にはばたいている現在、長浜監督が自分のもたらしたものの成果を見届けられないことは、何とも残念でならない。

 以上、かけ足で長浜監督の足跡をたどってきた。予想以上にボリュームが膨らんだものの、その業績の一部に触れただけで、長浜監督の大きさに改めて敬服するほかない。全貌をつかむには、また別の機会が必要だろう。長浜監督の活躍も当時、直接に触れていた立場では常識と思っていたが、いまや知る人ぞ知る、という状況になってしまったようである。
 どんな形でも良いから思いを巡らせて欲しいのだ。
 劣悪な環境と世間からの非難の視線をものともせず、いやそれをバネにして、自分の力を信じ、愛してくれる者のために情熱を傾けて作品を送り続けたひとのいることを。長浜監督もその一人だ。
 本稿が、その再評価の端緒になってもらえれば幸いである。

 [参考文献]「アニメ大好き!」(徳間書店 83年刊)
【初出:動画王Vol.1(キネマ旬報) 1996年】

<長浜忠夫 主要作品年表>

・伊賀の影丸1963年TBS
・オバケのQ太郎1965年東京ムービー
・巨人の星1968年東京ムービー
・珍豪ムチャ兵衛1971年東京ムービー
・オバケのQ太郎1971年東京ムービー
・ど根性ガエル1972年東京ムービー
・侍ジャイアンツ1972年東京ムービー
・勇者ライディーン1975年東北新社
・超電磁ロボ
 コン・バトラーV1976年東映
・超電磁マシーン
 ボルテスV1977年東映
・おれは鉄兵1977年日本アニメーション
・闘将ダイモス1978年東映
・未来ロボ ダルタニアス1979年東映
・ベルサイユのバラ1979年東京ムービー新社
・ずっこけナイト
 ドンデラマンチャ1980年国際映画社
・宇宙伝説ユリシーズ311980年東京ムービー新社
 (日本放映は1988年)

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2006年11月 2日 (木)

巨人の星

題名:21世紀に再見する「巨人の星」の強烈さ

 60年代後半から70年代前半のマンガ・アニメ作品の中で、『巨人の星』はひときわ輝く印象を残している。60年代の多くの作品を回想すると、おおむねキャラクターと設定が先に浮かぶのに対し、『巨人の星』では名場面やセリフが、具体的な情景として浮かぶ。そればかりか、回想は星飛雄馬の青春の挫折と栄光の振幅や、父・星一徹に代表される登場人物の厳しくも激しい人生観にまで及んでいく。そして主人公・星飛雄馬の半生は、貧しく未完成な中から夢に向けて、ひたむきだった時代の空気とセットで記憶されている。
 原作『巨人の星』は、「週刊少年マガジン」(講談社刊)1966年19号から連載が開始され、1971年3号まで5年にわたってマガジン百万部達成時代を支えた人気マンガだった。この5年は、少年たちにとって長い時間だった。連載開始時には『ウルトラQ』が放映中で、終了時には『仮面ライダー』がスタンバイしていたと言えば実感できるだろうか。「スポ根ブーム」が「怪獣ブーム」と入れ替わりであることはよく知られているが、「スポ根ブーム」とは事実上「巨人の星ブーム」だったわけだ。この期間は読売巨人軍の黄金時代とも同期している。川上哲治監督ひきいる当時の巨人軍が日本シリーズにおいて2年連続優勝(V2)してから、最高記録のV7まで到達する期間が、ちょうど連載時期と重なっているのである。
 『巨人の星』の挫折と栄光が表裏一体となったドラマは、当時の世相を反映したものだった。敗戦から20数年たって、高度成長時代を迎えたとはいえ、まだみんな貧しい時代だった。住居は星一家の住むような長屋でなかったとしても、同様に手狭なアパートや社宅で、生活は食べ物も衣類も質素、公務員かサラリーマン以外の職業は幻で、安定した生活に向けて子どもたちは勉強だけを強いられるのが普通だった。だから、当時のマンガは、未来世界やロボット、忍者、超人など非日常の夢を描くべきものとされていた。
 『巨人の星』は逆にドブ川や長屋といったリアルな日常世界を基調としながら、そこから大きく現実味のある夢が持てる、という構図をとっている。非日常性を指向した作品が、成長を必要とせず特殊能力を持ったキャラクターを主人公としたのに対し、星飛雄馬は物語の進行にあわせ、少年時代から高校、そしてプロ時代の青年期へと大きく成長する。飛雄馬の野球能力は特殊でヒーロー性を持っているが、それには激しい訓練と努力が必要であることが強調された。こういった点が、敗戦から復興という上り坂にあった世相とよくマッチしていたわけだ。
 飛雄馬は、大河ドラマの中で、成長にあわせて激しい感情の振幅見せる。野球への夢は父の夢の押しつけであり、その呪縛は幾度にもわたって飛雄馬を苦しめる。夢とは甘いものではなく、痛みや悩みと引き換えに自らの意志でかなえるものであること……。父親とは保護を求めるものではなく、乗り越えるべきものであること……。友情とはなれ合いではなく、競い高めあうものであること……。こういった人生への真剣な視座が物語の主軸に置かれていた。これが野球の勝負と一体となり、5年という長い連載期間を得たことで、単に強い弱いだけでない普遍性と厚みをもたらしたのである。
 では、これほど大きな原作を得たアニメ版とは、いったいどんな作品だったのだろうか。アニメ版は雑誌連載後2年が経過した1968年3月30日から、読売巨人軍に関係の深いよみうりテレビで放映がスタートし、原作連載終了から半年後の1971年9月18日に第181話で完結した。
 日本人が「巨人の星の記憶」として持っているものは、実はアニメ版の印象であることが多い。誰もが『巨人の星』と言えば思い出す「目の幅で流れる涙」や「目の中に炎」や「巨大にゆらめく夕陽」は、もちろん原作にもある表現だが、色と動きを加えたアニメ版で映像にパワーアップされて強く焼きついた印象ではないだろうか。
 エスカレートして再構築されたアニメ版映像の代表例としては、飛雄馬の「挫折と復活」を象徴した「炎の中に飛び込み何度でも再生する不死鳥」がある。この言葉は、極彩色に輝く美しい羽根をもった鳥が、熱風を感じるほどたぎるマグマの火山に突入するというきらびやかで迫力ある場面として映像化されていた。類似のシーンでは、「竜虎の対決」という故事成句的シーンを竜と虎を実際に画面に大暴れさせた事例を思い出す方も多いだろう。
 作画や演出が単にエスカレートするだけに留まらず、特殊撮影も積極的に採用されていた。たとえば、左門豊作がメモを取るときには、手帳と手が部分的に実写で挿入されたりするし、鋭くにらみつける目の光には、当時手間がかかるためテレビアニメではまだ少なかった透過光が使われ、背後の敵がどんどん大きくなるといった表現を合成で表現するなど、特別でリアルな撮影技法が画面の迫力をさらに飾りたてていった。
 こんな過剰なまで感動の名場面を激しく情熱的に演出したのは、今でいう総監督と同等のポジション(演出=チーフ・ディレクター)にあった長浜忠夫監督だった。長浜監督の陽性の資質と旺盛なサービス精神が、感動を盛り上げると同時にアニメの演出技法を進化させ、後の作品にも影響を与えていった。原作と同様に、アニメ版『巨人の星』が後の作品にもたらした影響も実に大きいのである。
 アニメが原作に追いつき始める2年目移行に、エスカレートしたアニメ表現は増加していき、完成に近づいていく。連載中の原作は、一週間にたった16ページ、アニメにすれば半パート分しか増えない。そこで、ボールを一投するときにも、攻守・敵味方の心理をたんねんに追って、状況や動作を細かくカット割りして、主観的な時間を引きのばした演出が多用されるようになった。結果として重厚で緊張感を持続させたシーンが、さらに観客を画面に引きずりこむことにつながった。やはりこの時期に鉛筆のかすれたタッチをセル画に転写可能な機械化工程も導入され、それまで平板だったアニメの画面に線の力で劇画的迫力を加えることがスタートし、画面の迫力は増す一方だった。
 迫力急増中のタイミングで満を持して登場した「大リーグボール」は、野球マンガの必殺技である「魔球」の決定版となった。飛雄馬が投球ポーズに入ってから結果が決まるまで、背景の色が変化して球場全体が異次元空間に包み込まれてしまい、ボールは現実の物質とは思えないほど変形しながら飛んでくる。この描写は、それだけで見せ場となるほどインパクトの強いものであった。この強烈な映像表現は野球シーンにとどまらず、ドラマの心理的葛藤も猛烈な迫力で彩り、飛雄馬たちの青春群像を余すところなく描きあげていったのである。
 『巨人の星』は、こういった過剰とも言える表現の記憶から、後年、パロディ・お笑いのネタに多く採用されるようにもなった。作品と表現が時代に密着しすぎたがために、時とともにギャップが激しくなり、ついに笑えるようになってしまったのだ。では、今ではもうお笑い的価値しか残っていないかというと、それは違うと思う。笑いの素材にすらなり得るということは、誰でもすぐわかる共通性があったということだし、ギャップがあるということは、心に残るインパクトがあったということなのだから。
 今こそ思い出すべき『巨人の星』の最重要ポイントは、この熱気の背後にあった親子を貫く感情の大きさではないだろうか。なぜならば、飛雄馬と同じ年齢の少年だった我々は、現在は当時の父・星一徹の年齢になっているからである。あの時、われわれの父の世代が、子の世代に何か理想を、熱い想いを残そうとした。いったいあれは何だったのか、なぜだったのだろうか……。ふと確認してみたくなるではないか。
 もちろん、『巨人の星』の主張をそのまま受け継ぐ必要はまったくない。時代は変わっているのだから。だが、21世紀の現在まで強烈な記憶が残り、肯定するにせよ否定するにせよ、生き様にまで何らかの影響を与えてしまう……そんな作品があったという事実を、伝わったものの強さを自覚し、まず再確認しよう。
 『巨人の星』並みに残っていく……それくらい強烈に次代へ継承させたくなる「俺たちならではのもの」があるのか。あるとすれば、いったい何なのか。そんなことを考えながら、21世紀に本作品を再見してみるのも、良いものではないだろうか。
【脱稿日2001.02.12/ワーナーDVD販促パンフ用原稿】

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 副次的に氷川竜介の旧原稿を再掲示するものです。長文のため、ブログを分けています。

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