新世紀王道秘伝書
巻之弐拾壱「夏への扉」暑い陽射しの少年期
■白い光のイントロダクション
少年は走る。
限りなく白に近い夏の陽光。
光線の中に溶けてしまいそうになりながら、少年は走る。
誕生の春と収穫の秋にはさまれた夏こそは、輝きに満ちた光のシーズン。暴力的なまでに射す光線と、うだるような熱気の中で、生命を燃やし、新しい形に脱皮する季節。
青春、思春期と、人生でもの思う季節には「春」が名付けられている。だが、春の終わりは夏のはじまりでもある。
少年たちの夏。未分化な性が加速する衝動の季節。
否定と肯定。論理と感情。生と死。男と女。一見、相反するものの中で、もがき苦しむ。
子供と大人の間に位置し、激しい振幅に揺られる少年たち。
決闘を止めようと、夏の始まりに戻ろうと、少年は走る。
それは、夏の終わりの出来事だった。
■ビデオアニメの先駆的作品
この作品は厳密にはビデオアニメではない。
家庭用ビデオ向けにアニメが製作されるようになったのは83年のこと。竹宮恵子原作のアニメ『夏への扉』は、先駆け的な作品だ。
81年8月、『悪魔と姫ぎみ』と併映にて公民館・ホールなどで公開された。既存配給網とは別に上映することを目的に製作されたオフシアター作品である。
1時間弱の中編であること、性表現や少年愛などテレビに乗せるには困難の感じられる企画であること。全国規模の劇場公開の興業に乗せるにはマイナーに過ぎること。そこに挑戦した作品と言える。
すなわち、この作品の成立条件は、初期のビデオアニメと同じ志に貫かれているのだ。完成した作品も、題名の通り、夏の熱気に満ちていて、観客を圧倒する。
では、その「夏」とはどのようなものだったのだろうか?
……18世紀の中頃、フランスのギナジウム(寄宿舎)で暮らす少年たちの中に、「合理党」を名乗る4名の少年たちがいた。リーダーの名はマリオン。彼は知的かつクールな性格で他の3人より、際だっていた。
少年たちのあこがれは、市長の娘レダニア。彼女は密かにマリオンを慕っていたが、マリオンの方は目もくれない。それが逆に女性たちのマリオン人気を加熱させるような有様だった。
夏休みに入ったある日、マリオンはレダニアにプロポーズをして争う生徒たちの仲裁に入った。おさまらない上級生ガブリエルと機関車の前に立ち、どちらが逃げずに我慢できるかチキン・ラン式の決闘をするマリオン。
マリオンは、ついに機関車を止めてまで決闘に勝利した。彼のどんなことにも動じない態度は、ますます評価をあげた。その列車から降り立つ一人の謎めいた婦人がいた。近くの別荘に来たというその女性……サラはやがてマリオンの運命を大きく変える。
■少年時代の揺れる心
作品の製作は東映動画、製作協力はマッドハウスだ。演出(監督)は虫プロ出身で70年代に『ジロがゆく』など数々の劇画を発表して話題を呼んだ真崎守。出崎統監督、りんたろう監督らと並び、漫画映画的なアニメーションと対極にある大胆な画面構成、色彩配置、ダイナミックな時間感覚に彩られた演出をする監督である。
少年期特有といえる心の振幅は、竹宮恵子による原作のエッセンスだ。真崎監督は、ガラスのように触れたら壊れそうな危うい少年らしい心のバランスを、フィルム上に定着させた。
冒頭、オープニングのタイトルバックは、母親の手紙を破るマリオンだ。彼の両親の仲は、すでに破局していた。母親は新しい伴侶を見つけ、バカンスに出かけたりしている。その有様が潔癖たろうとする少年マリオンにはどうにも我慢ならなかったのだ。
「合理党」を名乗り、理屈に拘泥するマリオンの葛藤の根は、ここにある。両親に求める理想像と現実のギャップが、マリオン自信の存在理由を危うくしていた。だからその均衡を合理主義に求めていたのである。
この乖離は、必然的にマリオンの異性観をも歪め、きしみをもたらす。マリオンを慕い、ラブレターを出してカフェで一人待つレダニア。だが純粋たろうとするマリオンは、自分の本心を認めきれず、つい傷つける言葉を発してしまう。平手打ちをするレダニア、そして雨の中を駆け出すマリオン。
彼にとって男女も愛もSEXも、規則にしか過ぎない。愛に絶望したマリオンの絶叫は、彼の心の中の混乱をよく表現している。
必要最小限の描写と映像でマリオンの心のもつれがよく表現されている。その純粋さは大きくゆさぶりをかけられることになる。
■受け止める愛の形
雨の中で倒れていたマリオンを助けたのは、サラだった。濡れた衣服を脱がされ、素裸で無防備な状態のマリオン。
マリオンはうわごとでレダニアの名前を何度も呼んでいた。好きな相手にわざとつらく当たるような青さを微笑ましいと思うサラ。からかうように聞こえ、羞恥の心がさらにマリオンの心に反発を呼び、おびえ、絶叫し、サラを拒絶する。
自分の生も死も個人の権利で自由だと主張するマリオンに、サラは微笑みで返す。
生命は自分だけのものではない……。愛は何も奪わない。欲しいと思ったら受け取るだけ。キスひとつ、愛ひとつ。
サラの言葉の暖かさがマリオンの心の氷を溶かす。その場面が暖炉の前、という演出が秀逸である。サラはマリオンの額にそっと手をあて、涙をキスで受け止める。
やがてサラは着衣を一つずつ脱ぎ始める。アンダーウェア、さらに包まれていた柔らかく豊満な女性の裸身が次第に出てくるにつれ、マリオンの表情は素直な驚きに満たされていく。そして、二人はベッドの上でゆっくりとひとつになっていった。
めくるめく初体験シーンは、風景、イラストを交え長時間にわたって美しいスキャット、詩的なモノローグとともに、さまざまな表現で展開される。
その描写はここではあえて細かく説明しない。直接的な性描写とは違って、さまざまな映像に仮託されたひとつひとつの表現がマリオンの官能に結びつけられ、開放的な感動に結びついていく。
アニメーション・フィルムならではの初体験、これこそが本作品の白眉なのである。
■破局への変節点
マリオンはサラに助けられてから一週間、行方不明となっていた。
心配して訪ねてきたジャックとリンドにの前に現れたマリオンは、人が変わったようだった。
生まれて初めて自分以外の人間を好きになったマリオンは、父母のことも許し、自分を好きになれたとすら語る。ガキっぽくなったという仲間の批判をよそに、自信をつけたマリオンは人目もはばからず、白昼堂々サラと口づけを交わし、町中の噂になっていた。
マリオンの心情、この高揚感もまた理解しやすいものである。
愛を知らず心を閉ざしていた少年の心は、愛を手に入れたことで大人になった、なりきったと思いこむ。その証拠を求め、認知させようと浮かれれば浮かれるほど、周囲のことは眼中になくなり、新たな少年らしい自己中心的な行動を招くのである。
大人への階段を上り始めたが、大人になりきったわけでもない。それに気づかぬ無邪気さは、周囲とのバランスを大きく崩していく。
そして、ついに破局を招いてしまう。
馬小屋で自殺しようと薬を飲んだクロード。偶然通りかかったマリオンは衝撃の告白を聞いた。クロードはマリオンを密かに愛し、少年愛に悩んでいたということを。マリオンが熟女との肉欲に走ったことが、クロードを追いつめたのだろうか。激情に自制を失った彼はマリオンにのしかかっていく。
マリオンは反射的に暴力をふるってしまい、絶望したクロードはついに手首を切って自殺を完遂した。
一方、リンドはマリオンに決定的な差をつけようと、サラのパトロンであるグリューニー伯爵に密告をした。だが、伯爵はサラが愛を分かちあっただけだと知っており、紳士らしい態度で穏やかに対応した。その事実を知ったジャックは、リンドを卑怯者呼ばわりし、レダニアへのプロポーズを賭けて決闘を申し込んだ。
決闘を止めようと、懸命に夏の光の中を駆けるマリオン。それは物語の冒頭のシーンでもあり、様々な愛の終わりでもあった。『夏への扉』は、もの悲しい秋の風景で幕を閉じる。
■にがく苦しい青春の味
愛という字は「受」の中に「心」と書く。
愛は心を与えるものであって、押しつけるものではない。相手が心で受け止めなければ何にもならないからだ。
愛は判ろうと受け止めるものであって、求めるものではない。他人が自分に愛を与えてしかるべきだ、と考えるからこそ関係が悪化する。
サラはとまどい震えている少年に、そっと愛を示した。サラは何かを奪おうと誘惑したわけではなく、自分の心を差し出し、少年が受け止めるかどうかたずねただけだった。続く美しいラブシーンは、開いたマリオンの心が示す歓喜の表現だったのである。
一方、少年クロードから求愛を受けたマリオンは、必要以上の拒絶をしてしまった。マリオンはクロードを抱きしめられなかった自分を深く後悔した。サラの前にいてすべてを拒んでいた自分と、禁じられた少年への愛に震えていたクロードに本質的な差はないのに。
そこに気づいたマリオンは、一歩大人に近づいた。だが、それは少年から遠ざかることでもあった。結果、4人の少年は離ればなれになってしまった……。
青春を表現するときに、「甘酸っぱい」という言葉がある。歓喜と苦渋と諦念と懊悩が入り交じった、振り返ると顔から火の出るほど恥ずかしい季節。だが、人生でこれほど大事な時期も他にない。本作品では現実の肉体を持たないアニメで肉感的、精神的なものを取り混ぜて描くことで、青春のエッセンスを昇華し、フィルムに定着できたとは言えまいか。
フランス語のナレーションで始まり、FINの字幕で終わりを告げる入魂の青春映画『夏への扉』。新世紀に向けて、暑い夏を謳歌するフィルムが、また回る。
(資料協力・藤津亮太)
☆ヒロイン・レダニア
町中の少年たちからプロポーズされる市長の娘レダニア。マリオンに寄せる秘めた想いはマリオン自身の本心とは裏腹に拒絶されてしまう。作中、少年たちによってレダニアは神話の「レダ」になぞらえられる。白鳥となって訪れたゼウスと交わりを持ったレダは、やがて二個の卵を生んだという。このたとえがマリオンに性を連想させ、物語の最後まで二人の心はすれ違ったままの悲劇を招くのだ。なお、原作ではレダニアは別のエンディングを迎えている。興味ある人は確認して欲しい。
☆川尻善昭・入魂の画面構成
本作品の画面構成(レイアウト)担当者は、後に『妖獣都市』『獣兵衛忍風帳』などを監督する川尻善昭、その人である。今でこそハードボイルド・バイオレンスな作風が定着しているが、かつては本作や『エースをねらえ!』『レディ・ジョージ』など少女マンガ原作のアニメも多数手がけていた。真崎守が絵コンテで決めた大胆かつ細心な構図を極めて緻密に重層化して実画面に展開、全編にスキのない映像空間を創出した。ここでは冒頭の決闘シーンの写真を並べてみた。深紅の花畑にモノクロームで描かれた背中合わせの二人の少年。殺し合いの緊迫感が、単純に見えて無駄のない構図で盛り上がる。止めようともどかしげに走るマリオン。やがてカウントダウンの時が来て、割って入ったマリオンは……という、時間的にも見事な流れを持ったレイアウトなのだ。
☆羽田健太郎の音楽世界
この作品では羽田健太郎、通称ハネケンの音楽が全編に拡がりと格調を与えている。ピアニストであるハネケンは、演奏者としても『サイボーグ009(新)』や『伝説巨神イデオン』『宇宙戦艦ヤマト(シリーズ)』など多くの作品に参加している。『宝島』でアニメの作曲を開始、やがて『超時空要塞マクロス』で大ヒットとなる。80年代前半アナログ時代末期はアニメ音楽のCD化に関して真空地帯になっていて、ハネケンの名アルバムの数々も未CD化のままである。特にこの『夏への扉』は81年の日本アカデミー音楽賞を受賞しているのに、いま簡単にCDで聴けないのは痛い。『ムーの白鯨』『科学救助隊テクノボイジャー』『怪奇!フランケンシュタイン』などとまとめ、「羽田健太郎の世界」としてCD化を切に希望する。
☆イラストによる心情描写
演出(監督)の真崎守は虫プロ時代に『佐武と市捕物控』などの作品で「もり・まさき」名義で貸本劇画の流れをくむ先鋭的な映像技法を展開した。70年代では、やはり時代を反映した劇画で活躍。この作品でも、マリオン初体験のエクスタシーをイラスト描写し、自らも筆をとって燃え立つ熱情を活写した。クロードがマリオンを襲うシーンでは、クロッキーの馬を動画で走らせ、激情を押さえられなくなる様子を代弁。セルアニメの限界を超えた映像をつくりだしていた。
DATA
原作/竹宮恵子 掲戟/「花とゆめコミックス」
プロデューサー/秋津ひろき(LDジャケットでは田宮武と表示) 製作担当/おおだ靖夫 設定/丸山正雄
脚本/辻 真先 演出/真崎 守 演出補佐/平田敏夫
画面設定/川尻善昭 作画監督/富沢和雄 美術監督/石川山子 撮影/相磯嘉雄、細田民男 編集/花井正明 音楽/羽田健太郎 製作/東映動画 製作協力/マッドハウス
■CAST
マリオン/水島 裕 ジャック/古谷 徹 レダニア/潘 恵子 クロード/三ツ矢雄二 リンド/古川登志夫 サラ・ヴィーダ/武藤礼子 グリューニー伯爵/柴田秀勝 ナレーション/井上真樹夫 ほか
編注:この回のイントロコラムには、こう書いてありました。
「レンタル店でもお目にかかれない作品の場合、どこまで書くかで、悩むこともしばしばです。家庭から映像を発注し様々な通信で配信するビデオ・オン・デマンドが実現したときこそ、本物の「アニメの古典」が誕生するのかも」
ところがサントラはなんとCD復刻され、この4月からの『地球へ…』のアニメリメイクをきっかけに、旧『地球へ…』ともどもDVD化されることになったのです。という喜びの一方で、6月2日に羽田健太郎さんが亡くなってしまいました。追悼の思いもこめつつ、再掲することにします。合掌。