映画『デスノート』
映画『デスノート』(金子修介監督)を観ました。
特に原作の熱心なファンというわけではないこともあって、これはこれで良いんではないかと感じ、またいろいろなことを考えさせられました。
名前を書いただけで他人を死なせる、殺害の罪悪感なしに人を処分できるデスノートのパワーを得たものは、正しい行為だという信念を持ちつつも、その正しさを根拠にした害意を芽生えさせる。そんな物語です。いや、芽生えるというと、無から有ができるようにも聞こえる可能性が残りますね。害意は「個人を基準にした正しさ」を種にして肥大するという風に描かれているわけで、最初からそれは人の中にある「個の正しさ」と同じものなんだよという構造をもつお話なわけです。
その「オレ的正しさ」が、普通は他者や、他者の集積である社会とぶつかり、どこかでパワーの均衡が取れるわけなんですが、そのバランスが崩れたらどうなるかというお話でもある……。
まあ、フィクションなので「ああ、あいつはバカだね」で終わってもいいんですが、あんまり他人事ではない、今の社会につながってる感じがつきまとうので、映画が終わっても残るものがあります。たとえば「パワーを持つ」ということに関して言えば、匿名でネットに気ままに放言するということなども、本質的にはデスノートと同じパワーがあるわけです。
何度か匿名で誰かに「死」を掲示板で宣告することが問題になってますが、デスノートと違うのは「確実かそうでないか」という点だけでしょう。その言葉が他者に何らかの害や死につながる負の作用をもたらすという点では、本質は同じなんですよ。むしろ不確実だからということを隠れ蓑にして、「だから、そういう悪意を他者にぶつけてもいいんだ」という発想を招く分だけ、タチが悪いとも言える。実際、映画中のマスコミ(TV局)も、そうしたタチの悪さに隠れて公正中立を忘れてキラに加担したりしてるわけで。
人間は個としては愚かだし、だから衆としての叡智をもとうとしているのだと思います。でも、愚かな個の口にネットというスピーカーが装着されることもあり、携帯という個に寄りすぎのツールで個が肥大しすぎる時代、どうやって適正なバランスを取り戻すのかという、そんな寓話としても観られるのかなと。
前編は見逃していたのですが、割と短い時間差で前編・後編と続けて観ることができて、かえって良かった感じです。千円興行というからめ手にもヤラれてしまいました(笑)。頭の良い掟破りの作品だけに、上映中に一部をTVオンエアする、直前に前編をオンエアする、小屋にも廉価でかける、ともかく「あの手この手」で製作側が知恵を絞っているところに好感がもてました。
「デスノートという優良コンテンツがございまして」ではなく、「今はこれを観てほしい!」という熱意が感じられるのは良いことだし、結局そういうことから始めるしかない。さっき言ったような寓意と底がつながった熱意でもあるなら、なおのこと漫画よりも多くの人が観られる映画という媒体になることには意味があるのではないでしょうか。
何にせよ、「個としての正しさが拡大した害意」に対抗できるものは、「衆としての叡智」だけなのですから……。
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